帰宅し、夕飯をしっかり食べて、父よりも先に風呂を済ました。あとは午前〇時を待つだけ。しかし、どうして〇時なのだろう。こころに聞くのを忘れていた。
「ま、いっか」
その間、どうにも暇だったので、リビングでテレビでも見ることにする。ソファに座ると、そこでは母がドラマを見ていた。
「あらら。このドラマ、興味ないって言ってたじゃない」
母が驚いたように言った。
若いイケメン俳優と清純派女優が織りなす純愛ドラマ。不治の病に冒されたヒロインと、彼女を支える同級生の男の子という構図。結末はきっと、ヒロインが亡くなってしまう。彼女の死を受け、主人公は前を向いて生きていく。そんな物語。もっとも苦手なタイプのラブストーリーだった。
オチまで予想がついてしまい、涼香は口をゆがめた。
今日の放送は第三話。ヒロインの病が見つかり、主人公が決断を迫られる回だった。彼女から「別れよう」と切り出されている。立場は逆だが、どうにも自分の境遇と重なった。なんだか目が離せない。
それを母は薄目で見てきた。
「はっはーん。涼香もようやく恋に目覚めたのねぇ」
「はぁ?」
見当違いの邪推に呆れた。しかも、恋愛なら十六歳の頃から始めているし別れたばかりだ。いまさら「恋に目覚める」だなんて笑い話もいいところ。母には優也との交際を一切言ってないので、知らないのは当然だが。
涼香は渇いた笑いをこぼしたが、ふと思案した。
もしかすると、本気の恋をしていなかったんじゃないか。思えばそうだ。告白は優也からだったし、それに引っ張られるように彼を見つめていた。受け身でいて、さも自分は「モテている」と勘違いしていたのかもしれない。痛い女だ。こんなところで認識してしまうとは予想外だった。
「もう寝る」
涼香はイライラしながらクッションを母に押し付けた。
「え? 観ないの? このドラマ、原作小説がすっごい泣けるって言われてるのに」
「観ない。どうせ、ヒロインが死んじゃうし。そんな悲しい話見るくらいなら、私はハッピーエンドのラブコメがいい」
不幸な結末がわかっているドラマを視聴するほどの余裕はない。冷たく突っぱねると、母は盛大に嘆いた。
「あーあ、どうしてこんなに冷めてるのかなぁー。ときめきが足りなーい。て言うか、一緒にドラマが見たーい。感動を共有したいのにー」
鬱陶しいが、無下にはできなかった。リビングのドアで立ち止まっていると、風呂から上がった父とはちあわせた。この冷めた空気を、父は素早く察知する。
「どうしたの?」
「涼香がどうしてこんなに冷めてるのか、その考察をしていたところ」
母はクッションをぎゅっと抱きしめて父を見た。その膨れっ面に、父はタオルで頭を拭きながら苦笑する。そして、首をかしげて興味津々に聞いてきた。
「涼香は恋愛に興味ないのかな?」
デリカシーがない。涼香は無言で父の背中を叩いた。
「いたっ! おい、涼香!」
父は追い立てられるように逃げ、母の横に避難した。いらぬ敵が増えてしまい、涼香の機嫌は最高潮に悪くなる。しかめっ面を見せると、両親は悪びれるそぶりもなく、むしろ二人で娘を冷やかしてきた。
「パパとママはこんなに仲がいいのにねー」
そう言って、母は父の頭を拭いた。空気が甘くなる。その模様を涼香は半眼で睨んだ。
「それが原因なんでしょ。娘の前でいちゃつくな。ドン引きだから」
冷たく嘲笑を投げつけて階段をのぼる。両親はクスクス笑いあってるが、それすらも耳障りだ。部屋にこもる。
甘い空気は苦手だ。見てるこっちが恥ずかしくなる。無防備に鼻の下を伸ばして、相手を求めるのが堪らなくダサく見えて仕方がない。絶対にああはなりたくないし、やはり恋愛感情が尊くは思えなかった。優也のことが好きでも、結局は自分のポーズを優先している。
「……それがダメなのかな?」
素直に甘えられたらいいのに。越えてはいけないラインみたいなものがくすぶっているから始末が悪い。そうやって自己分析ができても、行動できなければ意味がない。堂々巡りの繰り返し。
不治の病も苦しいだろうが、大病を患ったことがないこちらとしては共感性に欠ける。だが、平坦に一定の甘さを保つのも難儀だ。いや、それよりもまずは目の前の失恋のほうがはるかに現実的だろう。恋愛のメカニズムを考えている場合ではない。
午前〇時を待つ。
人生で幸福だった瞬間を思い浮かべ、反回転する。そして、三度の深呼吸。そうすれば過去へのタイムリープが可能らしい。こころが言うには。
しかし、目の前にそびえるのはやはり壁であり、涼香はついこの前もあげたような笑いを天井にぽっかり浮かべた。
「はぁ……やっぱりあれは夢だったんだよ。いいか、涼香、あれは夢だ。現実を見ろ」
少しでも期待したのが恥ずかしい。壁にひたいを打ち付けて、涼香は目をつむった。ベッドに潜り込む。
「さぁ、寝よ寝よー」
明日は文化祭だ。明のクラスを冷やかして、郁音のラストライブを観る。それだけでも十分、青春を満喫したことになる。
もしも、未来の自分がこの過去を悔やんだとしても、そんなの知ったことじゃない。現実というのは鮮度が高いから、その時々の感情がリアルであって、後悔なんてものは遺物に過ぎない。ときを惜しんで嘆くのもまた一興。結局は目の前のことにしか目を向けられない。そういう風にできている。
涼香は寝返りを打って、静かにまどろんだ。
***
「……涼香ー? 涼香ってばー、早く起きなさーい」
水にうもれたように遠い声。それが母の呆れた声だと気がつくのに、数分を要した。
ガバっと勢いよく飛び起きる。寝てすぐ叩き起こされた気分だ。なんだか体が重い。肩を回してまぎらわせると、再び母の声が響いてきた。
「んもう、涼香ー? こころちゃんが迎えにきてるんだけどー! 早く支度しなさいよー」
階下から再び呼ばれ、涼香はすぐにスマートフォンを見た。
通知はない。時計の表示は十月二十五日。
「あー……ってことは、やっぱタイムリープ失敗、って感じ?」
非現実的な現象が一度ならず二度までも起きてしまっては説明がつかないし、ましてやタイムリープが頻出していては都合が良すぎる。昨夜の失敗が確実なものとなり、二度目の落胆を味わった。
しかし、こころからの連絡がないとは。タイムリープができていたにしろ、できていないにしろ、あのこころが翌朝までメッセージをよこさないのは不自然に思える。いや、どうだろう。答え合わせをしようと言い出したのはこころだから、律儀に約束を守っているだけなのかもしれない。
涼香はバタバタと制服に着替えた。シャツとスカートを身につけ、リボンの位置を鏡で見て、紺色のカーディガンに袖を通す。机の上に置いていたきれいなパンフレットをカバンに押しこみ、部屋を出る。階段を駆け下りると、エプロン姿の母が食卓で頬をふくらませていた。
「もー! 外でこころちゃん待ってるよ!」
「うーん」
慌てて玄関に向かい、ローファーに足を入れていると母が素っ頓狂な声を投げてきた。
「朝ごはんはー?」
「いらなーい。どうせ露店とかあるし、適当に食べる」
「そう? んじゃ、行ってらっしゃーい」
のんびりと見送られ、涼香は振り返りもせずに手だけを振った。玄関を飛び出すと、ふわふわの三つ編みが見える。
「ごめん、こころ」
「遅いぞー! おはよ、涼香!」
茶目っ気たっぷりに頰をふくらませ、こころは涼香の腕を引っ張った。
「まったくもう、高校生活〝初〟の文化祭ってときに寝坊なんてあり得ないんだから!」
詰め寄るこころの顔が近い。仰け反りながら、彼女の言葉を脳に浸透させると、思考が固まった。
――高校初の文化祭。
「涼香? おーい、涼香ー? 寝ぼけてんの? 顔洗って出直してらっしゃいよ!」
涼香は頭を抱えた。
にわかには信じられない。処理が追いつかず、どうにも勘ぐってしまう。昨日、さかさ時計の実行を提案したから、冗談を言っているだけかもしれない。
涼香は慌てて自分のカバンの中を探った。今朝、机の上に置いていたものを無意識につかんでカバンに入れていた。同時に、自分の爪を見る。こびりついて取れなかった黄色がどこにもない。
「涼香、だいじょうぶー?」
またもや二年前の文化祭の日に戻っているのだろう。
涼香は自分の頬をつまんだ。痛みはある。紛れもなく現実だった。
「やっぱ寝ぼけてるんじゃない? 引っ叩いたら目覚めるかもよ?」
そう言ってスナップをきかせて腕を振るうこころ。
涼香は全力で首を横に振った。
「いや! いい! 覚めたから!」
「そう? ならいいけどさー……涼香、実行委員なんだからもうちょっと気を引き締めてよね。心配で文化祭楽しめないじゃん」
不満な頰に、涼香は「えいっ」と人差し指を突き刺した。すると、こころが「ブフゥ」と風船がしぼんだような音を出した。感触もあるので、やはり夢ではなさそうだ。
桜の木が脇に並ぶ校門は、一段と派手に彩りが施されていた。カラフルなボックスを組み合わせたアーチ。板で切り取られた「第四十三回 青浪高校文化祭」の文字は実行委員会と美術部の共同制作だ。
目の前に広がる華やかな露店のテントが祭りの予感をふくらませる。その間をせわしなく走り回る生徒たち。巡回する先生たちもみな笑顔だ。
校門をジャンプするようにまたいでアーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体が高揚感に包まれていて、新しくも楽しい空気を感じた。なに一つ差異がない。
こころを見やれば、彼女はキラキラと目を輝かせている。好奇心旺盛なプードルが、ワクワクとドキドキの祭典にときめかないはずがない。
「ひゃぁー! お祭りだ! お祭りだね! あたし、高校の文化祭って初めてなんだよー! 楽しみだね!」
「うん。楽しみだね」
オウム返しのようにこころの言葉をそのまま返す。戸惑いは隠せなかった。
しかし、体のどこか奥底ではこころと同じ高揚が沸き立つ。この興奮はいつだって新鮮で、不思議と胸が高鳴る。
「あ、そういえばさー、知ってる?」
昇降口に入ってすぐ、こころがのんびりと言った。
「一組のアイスクリーム屋さん、発注ミスで生徒会のお世話になったんだって」
その思いがけない発言に、涼香は首をかしげた。
「え? どういうこと?」
一組は明のクラスだ。そして、一組は文化祭の中盤で窮地に追いやられる。それを助けたのはほかでもない、二組であって優也と涼香だ。
「なんか、もめたらしいよ。一組の、誰だったかな。寺坂くんの友達だったような」
「それって、杉野明?」
「そうそう。その子が発注ミスして、アイスが五百個も届いちゃったんだって! 現実でそんなミスしちゃうひと、いるとは思わなかったー」
あははと笑うこころの顔には、まるで他人事のような軽々しさがあった。しかし、よそのクラスの事情である。深刻に考えるほうが奇妙であって、こころが気にする問題ではない。
しかし、涼香は心臓の血管がドクンと跳ねるような違和感を覚えた。
明のミスが文化祭で露呈しない。ということは、明との過去がなかったことになる。最初から過去をなぞることができないが、これはこれで未来が変わることに期待が持てる。
ふわふわと甘く飾り付けた教室にはクラスメイト全員が集まっていた。
「おい、おせーぞ、実行委員!」
すぐにヤジを飛ばしたのは優也だった。鬱々とした空気はどこにもなく、彼も晴れやかな笑顔で涼香を迎え入れる。
この笑顔が見られるなら、気分もいくらか晴れるもので、涼香は自然と笑顔を返した。
「ごめんごめん。楽しみすぎて夜更かししちゃって」
「涼香ったら、寝坊したんだよー! 信じらんないでしょ!」
こころが横で責める。すると、教室はどっと笑いであふれた。その笑いをかいくぐり、優也が教壇にのぼる。そして、黒板を思い切り叩いた。
「はいはーい、静粛に! やっと全員そろったので、実行委員からお話がありまーす! はい、大楠!」
身構えてはいたが、いざ名指しされ、注目を浴びるとなると顔が勝手に熱くなる。
しかし、ここで尻込みしていてはまた同じ道をたどるだけ。涼香は意を決して壇上に上がった。
「えーっと……ここまで頑張れたのは、みんなのおかげです。ありがとうございました。文化祭、楽しみましょう」
ぎこちなく拙いながらもスピーチを終えると、クラス全員が手を叩いた。こころも嬉しそうに大仰な拍手を送っている。優也も柔らかく笑っていた。
「んじゃあ、次は俺! 大楠の言うとおり、みんなの協力でここまでこれました。いよいよ今日が本番です。ひとまず、楽しい文化祭にしましょう! 全力で楽しもうぜ! 以上!」
とたんに「おぉーっ!」と湧き上がる声援と拍手。はやし立てる賑やかな口笛。その歓声を二人で浴びる。
「大楠、ありがとな」
音に混ざるように、優也がボソボソと耳打ちした。気遅れする涼香は何も言えず、曖昧に笑うしかできない。
「はい! それじゃー、もうすぐ開会式始まるんで、外に出よう」
優也の声と同時に、スピーカーからチャイムが鳴り響いた。
『生徒会からのお知らせです。まだ教室に残っている生徒たちは、速やかにグラウンドへ集合してください』
教室が一気に慌ただしくなり、全員が廊下へ飛び出した。こころに続いて、その後ろを涼香も追いかける。
「大楠」
ふいに呼び止められ、涼香は振り返った。優也が固い表情で立ち止まっている。
「あの、後夜祭なんだけどさ」
さっきまでの威勢はどこへやら。二人きりになったとたん、彼は声を低めて真剣になる。
「……えーっと。やっぱ、なんでもない!」
優也がいま、何を考えているのかが手に取るようにわかる。廊下を見やると、こころの三つ編みが窓枠からはみ出していた。
こころの協力を得て、いま告白しようとしている。しかし、彼は勇気が出ずに口ごもっている。いつだってそうだ。優也は口が重いから、大事なことはすぐに出てこない。スポーツマンのくせに、肝心なところはかっこ悪い。
「寺坂」
涼香は真顔で彼に詰め寄った。そして、彼の胸を押すように拳をドンと突きつける。面食らう彼の足が後方へ下がる。
「文化祭、一緒に見てまわろ?」
明の件がないのなら、きっとこの文化祭は時間が余ってしまう。大きなハプニングを回避したのなら、それを逆手にとって優也の気持ちをこちらに向けて――未来を変える。
案の定、優也は口をあんぐり開けて、首を縦に振った。
「あぁ」
「午後の当番が終わったらだからね。逃げるなよ」
ビシッと人差し指を突きつけてみる。
「お前こそ」
指をパシッと払われた。優也は安堵しつつも、少しだけ悔しそうに口をすぼめていた。しかし、顔を見合わせると笑ってしまう。涼香も吹き出して笑った。
その時、外の賑わいに拍車がかかる。
『ただいまより――第四十三回――青浪高校文化祭を――開幕します!』
生徒会長の元気な声が窓を突き抜けた。
「うっわー! やべー! もう始まるじゃん!」
優也は慌てて廊下に出た。涼香もその後ろを追う。派手に装飾が施された無人の廊下をバタバタと足音を鳴らし、二人で駆け抜ける。
『それでは、みなさん、せーの!』
掛け声とともに色とりどりの風船が空へ放たれた。昇降口を飛び出すと、すでに風船は生徒たちの手から離れていく。花火が上がるような、空気を伝う音が高い空を沸かす。
「あーあ! 遅かったー」
優也が悔しそうに言った。その声がたくさんの拍手にかき消されていき、涼香は思わず笑った。
たちまち辺りは騒然となる。メイド服やきぐるみ、大きなマスコットキャラクターや手作りの衣装を見に付けた生徒、おそろいのTシャツを着たクラス、部活のユニフォーム姿でごった返した。
すると、グラウンド特設ステージで吹奏楽部の演奏が始まった。楽器が一斉に音を揃える。その大きな衝撃に、その場にいた生徒たちが歓声をあげた。中には踊りだす女子グループもいる。流行りの邦楽をアレンジした演奏だ。
「大楠」
流れる人混みの中で、二人は向き合って笑う。調子を取り戻した優也が親指を突き上げた。
「楽しくやろうぜ」
「おう!」
涼香も真似して親指を突き上げる。それを合図に、ふたりはその場からゆるゆると後ずさった。ひとの波が押し寄せ、優也の姿が見えなくなった。
「すーずーかー!」
ごった返す人波の中を、こころがかいくぐって走ってきた。三つ編みがわずかに崩れている。
「こころ、今日はもうなんにもしなくていいからね」
小さく言った言葉は、彼女の耳には届いていない。
「えー? なんてー?」
「なんでもない」
校舎へ戻って、お祭りムードの廊下を過ぎる。例えようのない愉快な気分。足は幾分軽やかだ。
教室のドアを開け放つと、スタンバイしているクラスメイトたちのはしゃいだ声が飛びこんでくる。陽気な圧迫感に怖気づくも、こころが後ろからポンと背中を押した。
「さぁ、文化祭だ!」
午前十時。最初のタイムリープとはまったく違うタイミングで、涼香のスマートフォンが鳴った。表示は「美作郁音」である。
最初の世界では午後のライブ後に連絡があったはずだ。怪訝に思い、涼香はすぐに電話に出た。
「どうしたの?」
『ごめんね、涼香。私、そっち行けそうにないわ』
スマートフォンの向こうで、郁音が申し訳なさそうに言った。
「え? ライブは午後からでしょ?」
『そうなんだけどさ……いま、現在進行形で超やばい非常事態発生中』
「いま、現在進行形で超やばい非常事態ってなによ」
あまりにも抽象的でわけがわからない。
一年二組のパンケーキ屋は一般解放された午前中は客足がピークだった。当番じゃない羽村やこころまでが裏でパンケーキを焼く作業に徹している。生徒会からの差し入れであるアイスに手を出せないほど忙しい。
そんなクラスの雰囲気を壊しかねない郁音の不在である。しかし、彼女のバンドは応援したい。
『とにかくごめん! この埋め合わせは必ず!』
「あ! ちょっと、郁ちゃん!」
引き止めるのも虚しく、ブツリと通話が切れた。
「大楠さーん」
後ろから羽村が声をかけてくる。不審めいた声に、涼香は慌てて反応した。
「はーい」
「さっきの誰?」
電話していたところを問い詰められる。さすが目ざとい。もとより、涼香への不満を抱いている彼女である。
涼香は素直に素早く言った。
「郁ちゃんだよ。ちょっと今日は戻れそうにないらしくって」
「えぇ? 嘘でしょー?」
悪いのはこちらじゃないのに、なぜか責められる。涼香は唇を噛んだ。やはり、こういうハプニングはクラスの雰囲気を悪くするものだ。
優也はいまはバスケ部の催しに顔を出している最中で、教室で涼香を助けてくれる人はいない。頼みの綱であるこころはフライパンとずっとにらめっこしている。そうこうしているうちに、羽村が詰め寄った。
「ねぇ、大楠さん。前から思ってたんだけど、美作さんに甘くない?」
涼香は目をそらした。
「えーっと……」
「同中なのは知ってるけどさ。みんなのスケジュールちゃんと考えてるのに、あの子だけ特別扱いはちょっとどうなの?」
「郁ちゃんは部活が忙しいからさ。そのぶん、私がやるし」
やんわりなだめすかそうと口走ると、羽村は不満ながらも頷いた。
ふいっと、きびすを返してしまい、パンケーキ班に帰っていく。
羽村が攻撃的な理由はわかっている。優也のことが好きだから、涼香への態度がきつい。輪をかけて当番じゃないのに働いている。彼女の気持ちを考えると、態度の意味もよくわかる。泣いていた彼女の姿が記憶に新しい。ここで有耶無耶にするのは良くない。
「羽村さん!」
思わず呼び止めた。ショートボブが驚いたように揺れる。
「ちょっと、話があるんだけど」
「えっ」
予想外のことに、羽村は眉を困らせた。
校舎の最上階、音楽室の前はひと通りが少なかった。その廊下で二人は対峙する。階下では三年生の模擬店が賑やかだ。
「この忙しいときになんの話? 告白でもするの?」
羽村は冗談めかして笑った。それに対して、涼香は顔に力を入れる。
「告白といえば告白なんだけど。いや、なにを勘違いしてるかはわかんないけどさ」
軽口を真面目に受け取っていては話がどんどんずれていきそうだ。「こほん」と咳払いし、改めて羽村と向き合った。
「今日、寺坂に告白しようと思うんだ」
静かに堂々と話す。しかし、心臓は脈拍が速くてせわしなかった。これを羽村に聞かれていないか不安になりながらも、彼女の苦々しい目を見つめる。
「へぇ。そっか。わざわざ報告どうも」
羽村は気だるそうにカーディガンのポケットに手をつっこんで、くるりと背を向けてしまった。
「あーあ。文化祭中に嫌なこと聞いちゃったぁ。それにしても、よくわかったね。私が寺坂のこと、好きだって」
「まぁ。私のこと、あんまり良くは思ってないみたいだし。はっきりさせとこうと思って」
「そこまで露骨な態度はとってなかったはずなんだけど。まぁ、大楠さんのこと、はっきり言って嫌いだし、嫌な言い方はしたかもしれないけどさ」
嫌い、とはっきり言われると、目のやり場に困った。はっきりしようと決めたのに、心に迷いが生じてしまう。
「でも、早めに言ってくれて助かったよ。私も、寺坂に告白するつもりだったから」
羽村は背中越しに敗北の笑いを上げた。
「いや、マジでさぁ、最初から負け戦だったわけで。寺坂は大楠さんのことが好きだってバレバレだし。最初から勝ち目がないもん」
なんとも返せない。ただ黙っているしか選択肢が見つからない。慰めの言葉も彼女を煽るだけだろう。涼香は後ろ手を組んで佇んでいた。羽村がちらりと振り返る。
「そんな顔しないでよ。もっとさぁ、こう、勝ち誇った顔でいてよ。でないと、大楠さんのこと悪者にできないでしょ」
「いや、それは勘弁して」
悪者にはなりたくない。他人に嫌われるのは怖い。憎まれているとわかっているクラスメイトと、あと二年も同じ教室で過ごすなんてゾッとする。
そんな涼香に、羽村は「ぶはっ」と吹き出した。
「冗談じゃん。なに真面目に考えてんの」
「だって……」
「あははは! おもしろいわー、大楠さん。とっつきにくいと思ってたけど、実は天然って感じ?」
羽村は腹を抱えて笑った。無防備で愉快な声が反響する。そんな彼女を見て、涼香はどうにも呆けたままで立ち尽くした。
「聞いてもいい?」
散々笑ったあと、羽村は喉を引きつらせながら言った。
「寺坂のどこが好き?」
「えっ」
そんな質問が飛んでくるとは思わず、涼香は身構えていた体をさらに強張らせた。
考える。優也の好きなところ……優しくて頼りになる。でも、それ以上に、彼のことを好きでいる原動力はなんだろう。難しい。言葉が出てこない。
「……自然な、ところ?」
ひねり出した答えは、自分でもしっくりくるものではなかった。
「なんていうか。絡みうざいし、めんどくさいやつなんだけど、でもたまに優しいし、面白いし。でも、それよりももっと別のところが好き、みたいな。うまく言えない」
一緒にいて安心する。でも、気が抜けない。世話を焼きたくなる。気持ちが勝手に動いてしまう。感情が動かされる。それを言葉に表すのは難しい。
羽村は「ふうん?」と不服そうな顔で首をかしげた。
「早速ノロケかー。ますます手が出せないわー」
「そんなつもりはないよ!?」
これでは逆効果じゃないか。焦って弁解するも、羽村はケラケラ笑って相手にしてくれない。
「それじゃあ、幸せになってよね。でないと、許さないから」
突きつけられた言葉は軽くも、涼香の胸にぐさりと突き刺さった。言葉が重い。
彼女も優也に焦がれて、玉砕覚悟でも告白しようと決めていた。それを最初に潰しておいて、果てには破局する。そんな未来を知ったとき、羽村はどんな顔をするんだろう。近い未来、彼女がなおも涼香を責めていたのは、複雑に絡んだ悔しさといらだちからくるものなのかもしれない。
「わかった。がんばる」
口の中が渇きそうなくらい、緊張がどっと押し寄せる。
そんな涼香の心境を知ってか知らずか、羽村はニッと歯を見せて笑った。
「期待してる」
涼香はやはり笑えなかった。
未来がわかっているから、彼女に釘を刺しただけに過ぎない。もしも、彼女がここで諦めずに優也へ告白していたらどうなっていたんだろう。結果はわかっていても、果たしてこれが彼女のためになるのだろうか。
最初はこころによって阻止された。次は涼香本人から阻止された。いつも潔く負けを認める羽村の気持ちを、いまさらになって深刻に受け止める。
――ずるくてごめん。
他人の犠牲なくしては青春時代の上書きもままならないらしい。
羽村が教室へ戻ろうと階段を降りていく。そのあとを追いかけようと一歩踏み出した瞬間、背後で大きな怒声がつんざいた。
「もういい! わかった。もういい。オレ、部活やめる」
音楽準備室から聞こえたそれは、二人の足を止めた。
「え、なに……?」
羽村に聞かれるも、涼香だってわかりようがない。首をかしげた。
「なんだろ?」
降りかけた階段をそろそろ戻ると、音楽準備室ではしんと静かな怒りが立ち込めていた。長身の男子と、小柄な男子が睨み合う。その間にはベースギターを持ってうろたえる郁音の姿が。
「郁ちゃん?」
思わず声をかけると、部員全員が鋭い眼光でこちらを見た。高身長のメガネ男子は、BreeZeのドラムを担当する若部雫。そして、小柄で丸い髪型の男子はBreeZeのギターボーカルであり、部長の伊佐木麟。どうやら二人が口喧嘩している最中だったらしい。そのただならぬ気迫に心臓が縮む。
「……ほらね。現在進行形で超やばい非常事態」
おどけるように言う郁音だが、そこには助けを求めるような節があった。
「喧嘩? 喧嘩なの?」
羽村もおろおろと言う。すると、三人が一斉に「違う!」と叫んだ。皮肉なことに息がぴったりである。これが喧嘩じゃなかったらなんだというのか。
羽村はすぐにスマートフォンを出した。
「通報しよう」
彼女の判断は正しいだろう。しかし、郁音が男子二人の間を割り、羽村のスマートフォンを抑えた。
「大丈夫だから! あぁ、ほら。雫、落ち着こうよ。麟も。もうすぐライブなのに、そんなんでどうするの」
なだめようとする彼女に、雫と麟の顔は暗い。じっとりと重たい空気をまとわせている。
涼香はおそるおそる聞いた。
「どうしたの?」
「簡単に言うと、雫の冗談を真に受けて、麟が激怒した。って感じ」
郁音はひっそりと耳打ちした。
「ライブ前だから、麟がトゲトゲしてるのね。そんな麟を茶化した雫が悪いっていうか……」
「俺のせいかよ」
ツーンと冷たい雫の目が郁音を責める。上から見下ろされると威圧的で怖い。涼香と羽村は無意識に互いの手を握った。
「やっぱ通報しよう……」
羽村がスマートフォンを構える。それを郁音がまた止めた。その応酬は無駄だと思う。
すると、麟がいらだたしげに息を吐いた。彼らからすれば涼香と羽村は闖入者だ。怒るのも無理はない。
「とにかく、オレが辞めればいいわけだろ。今日でBreeZeは解散だ。それでいい」
あまりにも投げやりな言葉だ。この態度に、雫が「はー?」と呆れた。こちらも鼻息が荒い。
「だから、なんでそういう発想になるわけ? お前のそういうとこがほんと合わねー。うざいし、暗いし、本気すぎてバカみてー」
「遊びでやってんじゃねぇんだよ。こっちは真剣なんだ。それをバカにしやがるお前の無神経なとこがムカつくんだよ」
「いい加減にしろ! どっちもどっち!」
いつの間にか郁音も参戦した。引き止める間もなく、彼女も感情を二人にぶつけていく。
「いつまで駄々こねてんの! 他人にまで迷惑かけないでよ! 文化祭なんだから、楽しんでやればいいじゃん!」
「そうだよ。私、BreeZeのライブ、楽しみにしてるんだよ」
涼香も横からこっそり応戦した。羽村が驚いてこちらを見ている。彼女だけでなく、メンバー全員の目も涼香に注がれた。
「えーっと。なにがあったかは知らないから、横からごちゃごちゃ言いたくないけどさ。もっと、気楽に構えてていいと思う。大丈夫だよ」
このバンドは成功する。絶対に。
確信めいた言葉に、三人は顔を見合わせた。
「なにを根拠にそんなこと」
麟が言う。彼は思ったよりも神経質な性格らしい。自信がなさそうな声に、涼香は呆れて笑った。
「根拠はない。三人の曲が好きってだけでしゃべってるから」
「涼香……あんた、私らのライブ、まだ観たことないでしょ」
今度は郁音が呆れた。痛い指摘に涼香は失笑に切り替えた。
「えーっと……まぁ、それくらい楽しみにしてるんだから。そんな顔で舞台に立ってほしくないってこと!」
慌ててごまかした割には、うまくまとまった気がする。
「いきなり現れてなにを言い出すんだよ、まったく」
雫が気を抜くように笑った。脱力気味に猫背になる。そんな彼の腹を郁音がパンチする。麟はまだ顔を赤くしていたが、熱はそろそろ引いてきたらしい。
「っていうか、いまさらなんだけど。お前、だれ?」
麟が怪訝に言う。すると、郁音が彼の頭を小突いて紹介した。
「私の友達。我が一年二組の文化祭実行委員だよ」
「へー」
「ついでに言うと、バスケ部一年の寺坂の彼女」
羽村が言う。振り返ると、彼女は意地悪そうに笑った。すると、意外にも雫が納得した。
「寺坂の彼女かー、なるほどなぁ」
「知り合い?」
「うん。あいつ、面倒見がいいからちょっと世話になったことがある」
麟の問いに、雫はあっさり答える。さきほどまで喧嘩していたとは思えないほど、あっさりと打ち解けていた。
「え? 待って? 涼香、いつの間に寺坂とつき合ってたの?」
納得していないのは郁音だった。喜びとも非難ともとれない、挙動不審になっている。
場を収めるつもりがいじられることになるとは思わず、涼香は勢いよく部室の扉を閉めた。
「いいからさっさと仲直りして!」
捨て台詞を吐くと、扉の向こうから三人の苦笑が聞こえた。
「大楠さんって、たまにああいう度胸あるよねぇ」
教室へ戻る途中、文句を飛ばす前に羽村が感心した。
「やっぱ、そういうところが寺坂を射止めたって感じ? だったら絶対に勝ち目ないわー」
「私、そんな大層な人間じゃないよ」
ややうんざりと言えば、彼女はつまらなさそうに鼻息を飛ばした。
「謙遜するなー。そういうの、人によってはウザったいから」
そう言って背中をポンと叩き、教室へ戻る。羽村は友人の元へ向かった。もうこちらに見向きしない。言われっぱなしなのは素直に腹が立つが、角は立てたくはない。
「涼香!」
こころが血相を変えて立ちふさがった。
「羽村さんとどこ行ってたの? なんか、嫌なこと言われてない? 大丈夫?」
「こころ、心配しすぎ。大丈夫だから。あの人とはちょっといろいろ決着つけたかったから」
思えば、こころも羽村に関しては裏で根回ししようと企んでいた。目を丸くして、なおも心配そうに涼香を見つめる。
「そうなの? なんかあったら言ってね?」
「大丈夫だってば。それより、こっちは大丈夫だった?」
客足は順調のようだが、当番がきちんと回っているか不安だ。そんなこちらの心情を覆すように、こころは明るげにVサインを見せた。
「こっちは問題なし! そろそろお昼だし、交代もスムーズにできそう」
「ありがとう」
「いえいえー」
褒められて無邪気に喜ぶ頭をポンポンと軽く叩くと、こころは「ふふふふ」と不気味な笑いを漏らした。すぐに手を引っ込める。
「あ、そうだ。せっかくだし、いまのうちにバスケ部に行ってきたら?」
こころが提案する。用意周到に文化祭のパンフレットを差し出してきた。
優也が所属するバスケ部は、校庭のバスケットゴールでフリースローゲームを主催している。バスケ部は毎年同じゲームを企画しているが、主に運営しているのは一、二年生だ。
「ほらほら、いまがチャンス! あとできっちり働いてもらうからー!」
「ちょっ、ちょっと! こころ!」
ぐいぐい背中を押され、呆気なく教室から締め出される。涼香は呆然と廊下を見つめた。
左右どちらも客引きでうごめく生徒の群れ。他校の制服もちらほらとうかがえる。その中へふらりと入り込み、とにかく校庭まで向かうことにした。
「いらっしゃいませー! 一組のアイスクリーム、いかがですかー」
「六組のきぐるみカフェ、いかがですかー? かわいいモフモフに触れ合えますよー!」
「水泳部、プールでウォーターショーやってまーす! 次の回は十二時からでーす! 整理券配ってまーす」
「校庭ステージでダンス部のパフォーマンスやります! ぜひきてください!」
「一年五組主催の数独王決定戦、間もなく再開でーす! どうぞご観覧くださーい!」
「漫研部誌『その夢は、誰の夢?』略して『ゆめだれ』ただいま完売しましたー! ありがとうございましたぁー!」
クラスだけでなく部活動も盛んに声を張り上げている。あちこちで笑い声が響いてきて、その楽しげな空気を吸い込めば鬱々とした気分は解消された。湧き上がるのはお祭り特有の浮遊感。どうしても目移りしてしまい、涼香は廊下のあちこちに張り出されているポスターを見た。
「ゼリー屋、鈴カステラ屋、たこ焼き、からあげ、ポップコーン……あ、やばい、クレープ食べたい」
各クラスのポスターが張り出されている中、ひときわポップで異彩を放っていたのが二年三組のクレープ屋だった。
ふわふわの生クリームに、さつまいもと栗ペースト。いちごに抹茶、ガトーショコラまで盛りだくさん。これは行かなきゃダメだ。クレープが呼んでいる。同時に胃袋も訴える。一刻も早く食べなくては。満場一致で二年三組へ行くことが決定し、先に寄り道することにした。
***
「なるほど……お前がそんなに甘いものが好きだったなんて、知らなかったよ」
色とりどりの甘味の数々を、半ば恐ろしそうに見ながら優也が言った。
校庭のバスケットコートに向かったときにはすでに、校門広場の露店で食べ物を買いあさっていた。両手にはクレープが二種類。秋の味覚さつまいも&マロンと、抹茶いちごクリーム。手首にはりんご飴の袋をぶら下げ、キャラメルポップコーンに、鈴カステラの紙コップを小脇に抱えている。
そんなお祭りフルコースの涼香の手から、優也はポップコーンをつまんだ。すかさず「あー!」と非難の声を上げると、優也は不審に眉をひそめた。
「あれ? 俺のために買ってきてくれたんじゃないの?」
「違うし! これは私が食べるために買ってきたの!」
「マジかよ……それ全部食うのかよ。太るぞ」
「うっさい! 今日だけはいいんだよ!」
呆れる優也からスイーツを守る。しかし、両手がふさがっているから食べるのが難しい。バスケットコートの脇で、涼香は両手のクレープを交互に食べた。
「俺にもくれよ」
「あんた、甘いもの嫌いでしょ」
「今日だけはいいんだよ」
つっけんどんに言っても、優也は一歩も引かなかった。しぶしぶポップコーンを渡す。
「……んじゃ、はい」
しかし、優也は口を曲げて食べかけのクレープを指した。
「そっちがいい」
「はぁ? 食べかけなんですけど」
「別にいいし。ちょっとちょーだい」
逃げる間もなく、優也は抹茶いちごクリームにかぶりついた。
「あー! 私の抹茶いちご!」
クリームをペロリと舐めて得意げな優也。その顔を殴りたい。でも、それと同じくらい心臓がキュッと縮む。無意識に耳まで熱がこみ上げた。
いちいち意識していたら身が持たない。涼香は、彼が食べたクレープを無理やり口に押し込んだ。
「おーい、優也ー! サボるなよー!」
バスケットコートから声がする。その掠れ声は覚えがある。明がバスケットボールを地面に突きながら、こちらを見ていた。
「ん? なになに? 優也の彼女?」
涼香の姿を見るなり、明の顔が冷やかしたっぷりの笑顔になる。
「はぁー? 違いますけどー」
優也は照れ隠しに言った。そして、明のボールを奪う。
即興の一対一ゲームが始まった。大きな動きでドリブルし、明の手をかわす優也を目で追いかける。
バスケ部のフリースローゲームはおよそ盛況とは言えなかった。暇をもてあました当番の部員がこうしてボールで遊んでいる様子がちらほらうかがえる。
優也は楽しそうにボールを操った。前へせり出して、フェイント。交差するドリブル。するっと背中に向かってボールをはじかせ、それを捕まえて、ゴールにめがけて走る。走って、ステップを踏んで、カゴに放り投げる。外した。でも、すぐに取り返してシュート。ミドルシュートは、決まった。
「楽しそうー」
本気じゃない二人のバスケはじゃれ合っているようにしか見えない。こんなに仲がいいなんて知らなかった。なんだか明に嫉妬してしまいそう。涼香はクレープを頬張った。
明がボールを奪い、彼もまた優也の手をさらりとかわした。フェイントをかけ、ボールを大きく放つ。それを空中でキャッチし、彼は優也よりも早々とゴールを決めた。ゴール下へボールが落ちる。それを優也が拾いに走った。
そのころにはさつまいもクレープが食べ終わっており、涼香は思わず「ナイッシュー!」と声援を送った。すると、明が嬉しそうに近づいてきた。
「ところで、名前をまだ聞いてなかったんだけど」
「あぁ、そうだった」
すっかり忘れていたが、まだ彼とは初対面だった。アイスクリーム事件が解決しているいま、優也と付き合うまで明とは接点がない。
「大楠です。大楠涼香」
「大楠さんね。覚えた。よろしくー」
「よろしく。バスケ、うまいんだね」
彼の動きは優也よりも無駄がない。普段のふざけた様子からは想像もできない、そのギャップには試合観戦のたびに驚かされるものだ。軽いゲームでもそつなくこなすのが明のプレイスタイルなんだろう。
「寺坂よりシュッとしてるよね。見てて気持ちがいい」
素直に褒めると、彼はパッと目を輝かせた。
「うわ、超うれしー! 優也の彼女じゃなかったら、僕がつき合って欲しいところだったなー。ちくしょー」
「えっ」
涼香は思わず怯んだ。顔を引きつらせ、明をまじまじと見る。
「冗談でしょ?」
「んー? さぁ、それはどうでしょう」
明はにこやかに言った。照れるそぶりもなく、軽々しい。疑わしい彼の言動に、涼香は気まずくなって残りのクレープを食べた。
すると、タイミングよく優也がボールを小脇に抱えて混ざってくる。
「なんの話?」
「大楠さんって、かわいいなって話」
なおも明の調子は変わらない。いっぽう、優也は嫌そうに眉をしかめた。
「はぁ? お前の目、大丈夫か? 大楠のどこをどう見たらかわいいって思うんだよ。こいつ、中学んときから冷たくって、トゲトゲしかったんだから」
聞き捨てならない言葉だ。涼香は「はぁ!?」と声を張り上げ、優也の足を蹴った。
「そっちこそダル絡みしすぎなんですけど! しかも、バスケ馬鹿のくせに成績いいし!」
「努力してるんですー」
「あーもう! ムカつく! その顔やめてよ!」
ニヤニヤと笑う優也の足を蹴り続けるも、彼はフットワークが軽く、すぐにかわす。こっちはポップコーンが落ちないように必死で、それでもこの怒りを発散するには蹴りだけじゃ収まらない。
そんな応酬をしていると、明が盛大に吹き出した。
「あはははっ! 大楠さん、やばい。最高。かわいい」
「どこが!」
今度はこっちに矛先を変える。明は肩を震わせながら涼香をなだめた。
「まぁまぁまぁ。いまのは優也が悪いって。そりゃ怒るに決まってんじゃん。優しくしなよ」
「いまさら優しくされても気持ち悪い」
先に冷たく言うと、優也は不機嫌に片眉を上げた。彼は反論せずに黙って、こちらを見ている。涼香も居心地が悪くなり、ツーンとそっぽを向いた。
そんな二人に、明がのほほんと言う。
「二人とも、仲いいんだね」
「どこが!」
すかさず言ったのは優也だった。しかし、明はものともせずにケラケラ笑う。
「ツッコミのキレが二人とも同じだなぁ。うん、仲がいい証拠。熟年夫婦みたい」
「なに納得してんだよ」
「そうよ。こいつと一緒にしないで」
「はいはい、わかりました。あんまりからかうと、それこそ仲が悪くなりそうだしね。そこまでにしよっか」
元はといえば明が変なことを言うからだ。しかし、ここでさらに憤慨すれば空気が悪くなるのは明白だ。それは優也も感じているのか、ボールの溝をなぞっている。
「ね、大楠さん。フリースローしない?」
空気を変えようと明が柔らかに言った。それに対し、涼香はすぐに両手のスイーツを掲げた。
「手が塞がってるんですけど」
「それは優也に渡しちゃえよ。こいつ、腹減ってるみたいだし」
「えー……うーん……?」
「おい、明。俺が甘いの嫌いだって知ってるくせに」
すかさず優也が文句を言った。いっぽう、明は圧の強い笑みで「まぁまぁまぁ」となだめている。
涼香は言われるまま、優也の手にスイーツを押し付けた。反射的に受け取る優也だが、顔はふてくされたまま。すぐに彼から目をそらし、明のボールを受け取った。
「じゃあ、やる」
「ありがとうございまーす! 一回三〇〇円です!」
「お金とるの!?」
「当たり前じゃん。お客さんが来なくて困ってたんだよねー。うちの部を助けると思ってさ。ね?」
言われてみれば、無料でゲームができるはずもなく。涼香は悔しく歯噛みした。
「しょうがないなー」
ボールを受け取った手前、引きさがれるはずもなく。ゴールより少し遠い、スリーポイントラインよりも手前のフリースローラインまで誘導される。部員たちが「がんばれー」と声援を送ってくるので恥ずかしい。ギャラリーが少ないせいで、余計に目立ってしまう。
涼香はボールを地面にバウンドさせた。優也がやるのと同じように、くるっと回転させて地面に叩きつける。でも、うまくいかずにコロンと地面を転がるだけだった。もう余計なことはしないでおこう。
「大楠さん」
横で明が言う。
「なに?」
「優也のこと、あんまり責めないでやってね」
明の言葉の意味がわからず、涼香はボールを構えたままで固まった。背後をちらりと見る。スイーツを持たされた優也が、いまだに深刻そうな表情をしているので申し訳なく思えた。
もう一度、ボールを地面にバウンドさせる。今度は両手に収まった。ゆっくりと頭の上に掲げ、勢いよくボールを放つ。
ボードの上部に思い切り激突した。そこからゴールの輪へぶつかり、あっけなく地面へ落ちていく。
「はーい、残念でしたー!」
明の笑い声が地味に刺さる。がっくり肩を落とすと、優也が近づいてきた。スイーツを片手に収め、素っ気なく手を差し出された。
「三〇〇円」
涼香は悔しく肩を落として、スカートのポケットをあさった。緑色のうさぎ、通称「グリーンラビット」のコインケースを出し、きっちり三〇〇円を優也の手に落とす。と、その小銭を明がかすめ取った。
「優也、そろそろ交代だし、文化祭見てきたら? せっかくだし、大楠さんと一緒に」
それは他の部員に聞こえないほどに小さな声だった。優也がまたも顔をしかめる。その表情の意味を知っているかのように、明は忍び笑いながら優也になにかを押しつけた。
「がんばれよー」
「はぁ? 意味わかんねー」
とぼける優也だが、彼の耳が真っ赤に染まるのを涼香は見逃さなかった。自然と優也の足が動き、それに合わせて涼香もコートを出る。大量のスイーツは彼に預けたままだ。
「ねぇ、寺坂」
声をかけようとした、その時。
「あ、ついでに一組のアイスクリーム屋にもきてね!」
慌てた声が追いかける。すっかり台無しにしてくれる明に向かって、涼香と優也は同時に振り返った。
「ちゃっかりしてるなー」
呆れの言葉も同時に飛び出し、顔を見合わせて笑った。
人混みの中、前を歩く優也の背中を追いかけるのに必死だった。どちらもなにも言わない。どうにも気まずく、またどうして気まずいのかわからない。
「――なぁ」
唐突に優也が振り返り、立ち止まった。
「俺、からあげ食いたい」
いきなりの宣言に、涼香は首をかしげた。
「はぁ……買ってくれば?」
「手が塞がってんだよ」
「あ、そういうことね。はいはい」
そう言ってスイーツを引き取ろうと手を伸ばす。しかし、彼は渡そうとはしなかった。
「お前が買ってきて」
優也は顎でしゃくって露店を示す。
「使いっ走りですか」
ふてくされたように言ってみるも、優也は悪びれもせずに頷いた。
「早く行って来い」
「言い方がムカつく」
「……買ってきてください」
明らかな棒読みに、涼香はふくれっ面を見せ、鼻息荒くからあげの露店へ走った。
本当は険悪になりたくなかったのに、どうしても腹の虫がおさまらない。それは、やはり優也が明に言った「かわいくない」が尾を引いていた。
「どうせかわいくないですよーだ」
何度も言われたことなのに、胸がチクチク痛んでしょうがない。鬱陶しい痛みだ。こんな思いをするなら、いっそ恋愛なんてしなければよかった。優也への思いにふたをして、そのままでいればいい。仲がいいクラスメイトという立ち位置のほうが、ふられる未来を迎えるよりもはるかに優しくて楽しいはずだろう。
しかし、同時に羽村の顔を思い出した。そして、裏で手を回しているこころの顔も。あの二人を裏切って、今日を何事もなく終わらせてしまったら、逃げてしまったら、それこそ居場所がなくなってしまうかもしれない。恋愛も友情も同時に失うなんて、それこそ大惨事だ。
「大楠」
後ろから声をかけられる。同時に、膝の裏を攻撃される。かっくんと膝が曲がり、涼香は「わぁっ」と情けない声をあげた。
「なにすんの!」
振り向かずとも、誰の攻撃かは明らか。優也が威圧的にじっとりと見ていた。
「ぼさっとすんなよ。俺のからあげ、早く買え」
「わかってるよ! ちょっと待ってて!」
ポケットからグリーンラビットを出し、お金を露店の生徒に渡す。五個入りのからあげは五百円で販売しているようだ。
「ありがとうございまーす!」
元気がいい剣道部の女子マネージャーが愛想を振りまく。こんもりとしたからあげのカップを差し出された。
「はい、買いましたよ。五百円よこせ」
「うん。それはいいんだけどさ」
優也はまたも無愛想に顎でしゃくって、今度は中庭を示した。
「あっち行こう」
「はぁ?」
意図がわからないので、またしてもかわいくない声を出してしまう。しかし、優也は先を歩いて行ってしまった。スイーツが人質にとられているので、やはり追いかけるしかない。
「もう、なんなの……」
からあげが入った紙コップを持って中庭まで疾走する。その姿を他の生徒たちが不思議そうに見るわけでもなく、お祭りの空気は一層濃くなっていた。
中庭も例外じゃなく、生徒でごった返しているものの、ここにはベンチがあった。まさか、そこで二人並んで座るつもりだろうか。そんな予想は早くも裏切られ、彼は体育館裏の湿気た場所までさっさと歩いていく。
体育館のステージは熱狂的で、どうやらいまはBreeZeの演奏の真っ最中だった。
優也の謎行動を考えることに飽きてしまい、ぼんやり聞こえてくるドラムロールを聴きながら、涼香はあの三人を思い出していた。
――仲直りしたんだろうなぁ。よかったよかった。
それに比べて、こちらはと言えば。さっきから空気がおかしい。せっかく二人きりになったのに、うまく楽しめない。もやもやする。
「大楠」
体育館ステージの真裏に当たるその場所は、冷たいコンクリートの塊が置いてあった。隅にはボールかごが追いやられており、雨ざらしになったと思しき湿ったバスケットボールが転がっていた。
優也は安堵の息を吐いて、ようやく笑った。
「ここ、俺の秘密基地なんだよ」
「へぇぇ」
「練習抜けて、考えごとをするときに来てる」
「それ、サボってるだけじゃないの」
すかさず言うと、優也は吹き出して笑った。そのえくぼが憎めない。
「かもな。やっぱ、練習きついし。上下関係めんどくせぇし」
「そういうもんなんだ」
「そういうもんなの。結局、練習は先輩たち優先で、一年はマネージャーみたいな扱いでさ。ボールさわりたくてウズウズしてるのに、基礎練と筋トレばっかでつまんねぇ」
いつも楽しそうに部活をしている優也しか知らないものだから、その告白は思いがけないものだった。
「って、そんな話をしたかったわけじゃないんだ」
そう言って、彼はコンクリートの塊に腰を下ろした。ポップコーンと鈴カステラの紙コップを置いて、涼香に手招きする。
「横、座れよ」
「えっ」
「いや?」
「……いや、じゃ、ないけど」
ぎこちなく言って、涼香はそろそろと優也の横に座った。少しだけ隙間を開けて肩を並べる。
「さっきはごめん」
優也が静かに言った。
「嫌な言い方したよな。ほんとごめん。あんな風に言うつもりはなかったんだ。お前、まだ怒ってるよな」
「いや……そんな、全然。あんなの、いつものことじゃん」
しっとりと弱々しく言うものだから、心臓が爆音を鳴らすようにはじけた。驚いて喉がつまりそう。まともに優也の顔が見られなかった。それなのに、優也は顔をのぞきこんでくる。
「ほんとに怒ってない?」
「怒ってないってば」
「そっか。それならよかった」
まだ不安そうだが、優也はホッと息を吐いた。
「なんか、自分でも変だなぁって思ったよ。おかしいよなぁ。お前と明がしゃべってるだけで、もやもやしたっていうか。しかもあいつ、あんなあっさり『かわいい』とか言うし」
「えーっと、それって」
「うん。嫉妬。俺は明に嫉妬してる」
息が止まった。すぐに吹き返すも、思考回路が誤作動を起こしてしまう。ぼうっと優也の顔を見つめると、彼も自覚しているようで、目をそらしてしまった。
こういうとき、なんて言えばいいんだろう。
「……バスケ部期待のエースも、余裕がないことあるんですねー」
出てきた言葉のかわいげのなさが恨めしい。
「悪いかよ」
「悪くないけど。クソガキじゃん」
口はわざと悪ぶっていく。本当にかわいくない。照れ隠しの言葉をいますぐに撤回したい。それは叶わず、涼香はもう諦めた。
「私も、嫌なこと言ったよね……今朝はあんだけ楽しくやろうぜって意気込んでたくせに、ほんと、私たちダサいわー」
あはは、と渇いた笑いを空に放つ。カラリと晴れた青空は、枯れた桜の葉であまり見えない。
「実行委員なんて、らしくないことやってるよな」
「ほんとだよ。それもこれも、こころのせい。でしょ?」
確認するように言ってみると、優也はごまかすように苦笑した。
「バレてたか」
「バレてますよ。実行委員はこころの差し金で、あの子と裏で繋がってる。でしょ?」
「言い方に語弊がある。そんな悪どいことはしてないっつーの」
「今朝のアレもこころの指示でしょ。わかりやすい」
ため息を投げつけた。すると、優也はだらしなく肩を落とした。
「……マジで情けねぇな。告白だってままならないんだから」
その嘆きがくもっていく。優也は両手に顔を埋めて落ち込んだ。
「俺さ、こういうの初めてで、どうしたらいいかわかんなかったんだ。お前が他のやつに取られるのは嫌で、明に嫉妬してるのもすげぇ嫌なんだけど、でも、それでもなかなかうまく言えない」
それから彼は「かっこわりーな」と自嘲気味に笑った。
「右輪から持ちかけられたんだ。協力してあげるから、文化祭の日に告白しろって」
「それ、ほとんど脅しじゃん」
「いや、それに思わず乗ったから、俺は共犯みたいなもの。なんか、騙してるみたいでごめん」
「意気地なしの寺坂くんにはいい方法だったんじゃない?」
ついつい厳しく言うと、優也は黙り込んでしまった。すぐに明の言葉を思い出す。
――優也のこと、あんまり責めないでやってね。
そうだった。落ち着け。調子に乗るな。
言い聞かせて一拍置く。息を吸い込んで、吐く。舌に残った甘味を思い出しながら、涼香はぽつりと言った。
「――多分ね、後夜祭で、郁ちゃんのライブがあるんだけど」
「え? あぁ、うん」
思わぬ発言に戸惑う優也だが、それに構わず話を続ける。
「そのライブを一緒に観たいんだ。二人で」
「うん……え?」
「だから、一緒に観ようって言ってるの。私は、寺坂と一緒にいたい。そう言ってるの」
うまく伝わっているだろうか。いや、どうだろう。どうにも素直になれない口だから、遠回しになっている気がする。
優也はぽかんとしている。あぁ、やっぱり伝わってない。
涼香はイライラと頭上を見上げた。まったく、どうしてこうもお互いに不器用なんだろう。嫌になってくる。
「だから、私は寺坂のことが好きなの。そういう回りくどいことはしなくていいから、私と一緒にいてよ」
しんと音が止んだ。祭ばやしが遠い。味気ない場所なのに、ふわふわ甘い浮ついた空間になっていく。その色に染まるのもたまらなく恥ずかしくて、涼香は体をすぼめるように膝を胸に引き寄せた。
「……なんか言って」
気まずくて仕方がない。
すると、予想だにしない言葉が返ってきた。
「もう一回言って」
「はぁ? 聞いてなかったの?」
「いや、聞いてた。でも、もう一回聞きたい」
「甘えんな。今度はそっちから告白して」
つい乱暴に言うと、優也は照れ臭そうに笑った。
「――俺も、お前のことが好き」
観念したのか、彼もまたボソボソと言う。その言葉がくすぐったくて、心臓を掻きたくなる。耳が熱い。赤くなっている気がする。
「大楠」
「はい……」
「俺と付き合って」
声が近い。彼の息も。爽やかなあの薄荷と、クリームの甘い香りが鼻腔に届き、涼香はこくんと頷いた。
***
優也に強制的な告白を持ちかけた犯人は、教室でのんびりとパンケーキを焼いていた。
教室に戻ってくるなり、彼女はすぐに反応する。ふわふわの三つ編みを揺らし、忠犬よろしく駆け寄ってきた。
「おかえりー! あれ? 寺坂くんも一緒なの?」
釈然とせずも、人懐っこい笑顔で二人を出迎える。
「こころ、話があるんだけど」
涼香は深刻な顔で、こころを廊下に引きずり込んだ。バランスを崩しつつも笑顔を絶やすことはなく、こころはなにやら期待に満ちた目をした。
「どうしたの?」
「いろいろとはっきりしないといけないことがあるからね」
涼香はわずかに声のトーンを落とした。それを優也がなだめようと、涼香のカーディガンを引っ張るが、構わずビシッと人差し指を彼女の胸に突きつけた。
「こころの企みは全部お見通しだ」
「えへへ。なんのことかなー?」
鋭く言い放っても、こころは白々しく口の端を横に伸ばすだけだった。
「とぼけないで。あんたが寺坂に告白を仕向けたってことは、とっくにバレてるの」
「おい、大楠。その言い方はないだろ」
優也はこちらの友情を壊すまいと必死だった。おろおろする彼を振り切り、涼香はこころに詰め寄る。
いっぽう、こころもようやく笑顔を崩した。そして、責めるように優也を見る。
「……寺坂くん、ほんとダメなんだから。下手くそ」
「ごめん」
「寺坂は悪くないでしょ」
すぐにかばうと、優也は頭を掻いた。
「えーっと、じゃあなに? 涼香は怒ってるの? あたしが寺坂くんと涼香をつき合わせようとしてるの、そんなに嫌だった?」
どうにも悪びれない彼女の言い方に、涼香は呆れのため息を吐いた。
「まぁ、ちょっとは怒ってるんだけどさ。こういう、騙すようなことして」
「あー……なるほどね。そういう捉え方はしてなかった」
ようやく状況を把握したこころは、気まずそうに目を伏せた。そして、若干の不満を見せつつ優也を見る。
「ごめんね、寺坂くん。まさか、涼香に怒られるとは思わなかったよ。バカなことにつき合わせてごめんね」
「いや……」
優也は歯切れ悪く唸った。まったく、嘘がつけない性格というのは損だと思う。
涼香はたしなめるように優也の袖をつまんだ。こうなったらもうネタばらしをしよう。
「あのね、さっき寺坂に告白したの」
さらりと真顔で告げた。案の定、こころは間髪を容れずに目を驚かせた。
「へ?」
「だから、この話はもうおしまい。いろいろと気を使わせてごめんね」
目元を緩めて笑うと、こころは放心したように動かなくなった。ぼうっと目が虚ろだ。
「こころ? 大丈夫?」
慌てて目の前で手を振ると、こころはハッと我に返った。そして、唇をわなわな震わせた。次の瞬間には、涼香の首へ腕を回す。
「おめでとう!」
勢いよく飛び込まれ、涼香はバランスを崩した。壁に激突する。それを優也が助けようと手を伸ばしたが遅い。しかし、こころは気にもとめずに涼香をぎゅっと強く抱きしめた。
「やったぁ! 涼香、おめでとう!」
「あ、ありがと、こころ……」
「寺坂くんもおめでとう! やったね!」
すぐさま起き上がり、こころは優也の足を叩いた。その攻撃に優也は照れくさそうに受け取る。
「右輪のおかげだよ」
当事者よりも安心して喜ぶこころの目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。
***
濃い青空と、西に向かう夕陽の色がやけにきれいだった。青とオレンジの隙間に緑と黄色のグラデーションが滲み、さながら水をたっぷり含んだ水彩画のよう。
『さぁ、みなさんお待ちかね! 今年もきたぞ! 後夜祭の時間だーっ!』
開会式とは打って変わって、生徒会長のテンションが高い。グラウンドステージでは全校生徒が思い思いに集っている。涼香と優也は後列にいた。
祭りの終わりは名残惜しくて寂しい。まだ終わらないでほしいと願っても、時は止まらない。
次々と受賞者がステージに上がり、思い思いの謝辞を述べていく。中には涙ぐんでいる人もいる。それを冷やかすようにはしゃぐ人も。晴れやかな笑顔を見ていると、心があったかくなる。
隣に好きなひとがいるからだろうか。思いが通じ合ったこの手を、絶対に離したくない。
涼香はこっそりと優也の手のひらをくすぐった。それに応じるように、優也も涼香の手をつかむ。やがて、誰にも見えない場所で二人は強く手を結んだ。
「優也」
思わず名前で呼ぶと、彼は握った手を強張らせた。
「なに?」
「ずっと、一緒にいようね」
似合わないセリフだと思う。だから、優也も驚いた様子で、冷やかすように笑った。
「大楠もそんな風に言うんだなー」
「今日の私は一味違うのよ」
「うん。今日のお前は一番かわいい」
改まって言われると、今度はこちらの手に力が入る。
手のひらの熱がそのまま彼に伝わってしまうんじゃないかと不安になった。でも、いま彼の手を離したら、どんな未来が待っているかわからない。ここまで、なにひとつ順当じゃないから。
確実に未来が変わっていく。そんな予感がした。
『どうもー! 軽音楽部期待の新星、BreeZeでーす!』
いつの間にか、ステージには郁音が所属するバンドが登場していた。部長の麟が元気よく声を張り上げる。
『実はですね、午後のステージの前にバンド解散危機なんてことがありまして。でも、ある女の子に励まされました』
ギターを肩から下げて、堂々とスタンドマイクの前に立つ麟に、全員が歓声を上げる。ライトを浴びる郁音と雫も柔らかに笑っていた。
『オレたちのライブを楽しみにしてくれていたんです。本当にありがたい一言でした。そのおかげで解散は免れました! 本当にありがとう!』
涼香はクスクスと忍び笑った。それを優也が怪訝そうに見る。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
優也は知るよしもない。まさか、このバンドの解散危機を救ったのが涼香であることを。
『それじゃあ、初めてつくった曲を、いまから披露したいと思います! みんな、盛り上がっていきましょう! 聞いてください。〝パラドックスダンス〟』
「えっ?」
思わず声が飛び出した。場にそぐわない疑問符。優也は気づいてない。しかし、涼香は周囲を見渡して挙動不審だった。
――タイトルが違う。
しかし、彼らの曲は止まらない。激しく走るギターとドラムの音。それから、ドクンと心臓が跳ねるようなベース音がはじけた。三つの音が重なる。
『願いも祈りも望みもないこの時間 いつまで続く ループ ループ』
爆音の中で、突き刺さるような詞が駆け抜ける。
曲だけでなく、詞まで違う。いや、過去を変えたのだからそんな誤差くらいあるだろう。だって、ここまでなに一つ順当じゃないのだから。しかし、どうしてこんなに焦燥を煽るのだろう。
その時、麟の声が鋭く人波を掻き分けた。
『いま 粟立っただろう 矛盾の中で死んでいく』
――この選択は正しかった……?
脳内を占める自問に怯えているうちに、いつの間にか目の前が真っ暗になった。
視界が暗転する。
秋は甘くふくよかで、世界が色めいていた。冬は寒さから逃れようと、互いの距離が縮んだ。平凡に平穏に日常は過ぎていく。しかし、衝突というカップルにありがちな倦怠期が続き、気だるくて不穏な日と、優しくて甘い日が交互に訪れる。そんな生活。当たり前に続いた日常を繰り返す。
記憶のフィルムが急速に回転し、その終着点で景色はマーブルを描いた。知っている世界とはまるきり違う景色が浮かび上がる。観測地点がすべて真逆に切り替わっていく。
この選択は間違いじゃないだろう。そう信じたい。
「おい、涼香」
優也が声をかけるまで、意識は遠くにあった。目の前に立つ彼の威圧に驚く。
「うわ」
「プリント、真っ白じゃん。三年の大事な時期になにやってんだよ」
授業が終わったあとだった。黒板はすでに日直が授業内容を消し去っている。日付は十月二十日。デッドラインのその日。しかし、優也から別れを切り出される前兆は一切ない。
「勉強会、今日やるんだろ。右輪と。なにぼけーっとしてんだよ」
頭を小突かれる。涼香は顔を上げて、曖昧に笑った。いまだ、思考はふわふわとおぼつかない。
これには優也も不安な表情を浮かべた。
「どうした? 具合でも悪い?」
「ううん。大丈夫」
「お前は大丈夫じゃなくても、大丈夫って嘘つくからな。信用できねぇ」
辛辣な言い方がダイレクトに突き刺さる。涼香は顔をうつむけた。すると、憂鬱を感知する忠犬がすっ飛んできた。
「ちょっと、寺坂くん! 涼香をいじめないでよ!」
こころの噛みつきに、優也が大きくのけぞる。
「ひと聞き悪いな。いじめてねぇし」
「口悪いんだから、もうちょっと自重してよね! ねー、涼香」
「そうだよ。私だって傷つくことくらいあるんですからねー」
ようやく、いつもの調子でおどけてみせる。優也は呆れたように「はいはい」と言って、涼香のカバンを取った。
「じゃ、駅前のファミレスな。先に行ってるから。がんばって、実行委員」
「はーい。んじゃ、あとでねー」
優也が涼香の腕を引っ張る。そんなふたりをこころが大きく手を振って見送った。
***
優也との別れは回避できた。しかし記憶の矛盾はとくになく、ただ一年の文化祭だけが鮮明に色を変えている。些細だったはずの時間が極端にずれているので、脳内には記憶のフィルムが幾重にも並んでいるようだった。タイムリープの影響だろうか。過去改変の効果が目覚ましい。
涼香はひとり満足して、優也の背中を追いかけた。
「あ、優也」
「ん?」
「明は? 勉強会なら明も誘えばいいのに」
無邪気に聞いてみる。すると、優也の足がとたんに速くなった。
「あいつは絶対に誘わねぇ」
不機嫌たっぷりな低音が、わずかに怒りを見せる。それだけで、空気がピリリと窮屈になった。
青浪高校を出て、くぼ商店街を抜けた先に大きく横長の窪駅がある。ぼってりとした丸いモニュメントや人工的な街路樹がある公園、駅の外観にもシンプルな黒を取り入れている。駅前も黒を基調としたレンガ造りの店や、ご当地カラーに合わせたチェーン店までが勢揃い。その一角にあるファミリーレストランへ二人で向かった。ここは学生が勉強会でよく使うので、混雑しない時間帯は店側も快く迎えてくれる。
涼香と優也は店の中央のソファ席へ通された。店員にドリンクバーを注文し、優也が率先して飲み物を取りに行く。涼香はソファにもたれて、ぼんやりとその様子を眺めていた。
どうやら、彼はさっき見せた怒りが冷めているらしい。戻ってくると、早速カバンからプリントと問題集を出した。涼香もならい、解き損ねたプリントを引っ張り出す。
傍目には、二年も付き合っている恋人同士という空気は欠片もないだろう。「熟年夫婦」と揶揄されるのも慣れている。それくらい、二人の距離は自然なものだった。
しかし、問題を解くほどの集中力が続かなかった。頭はずっと、葬り去ったはずの過去を思い出している。優也と別れる世界はもう払拭できたというのに、どうにも違和感がある。そもそも、彼は大学の推薦入試を受けるはずだ。この時期にはすでに、一次試験まで突破している。
涼香は優也に持ってきてもらったジンジャーエールを飲んだ。とくに頼まないメニューを開いて閉じて、天井を仰ぐ。
「涼香ー、集中しろ」
彼は顔も上げずに注意してきた。その仕草が癪に障る。わざとシャープペンを転がして、彼の気を引いてみた。
「凉香」
「ふふっ」
「おい」
「ごめん」
顔を覆って笑いを堪える。
すると、優也が長く息を吐いた。問題集をパタンと閉じる音がし、涼香は指の隙間から様子をうかがった。
センター入試対策問題集の学校名に目が釘付けになる。地元の大学名である「美の里大学」という文字が書かれてあった。涼香が志望する大学だ。
それだけで、この世界の軸を悟った。彼は、夢を諦めている。
「ちょっと待って。優也、私と同じ大学に行くの?」
思わず聞くと、優也の手が止まった。顔を上げ、呆れたように涼香を見る。
「なんだよ、いまさら。それはもうとっくに決めたことだろ」
アイスコーヒーのストローを音を立てて飲む彼は、眉を不機嫌につり上げた。怯むわけにはいかず、涼香は前のめりになった。
「だって、バスケは? プロになるって言ってたじゃん。推薦は?」
「はぁ? 俺がプロになれるわけがないだろ。それに、明のほうが推薦に向いてたし」
「いやいや、でもさ」
「はい、この話は終わり」
会話の終了を宣言し、優也はグラスをテーブルに置いた。コトンと立てた音が機嫌の悪さを表している。
しぶしぶプリントに目を移すも、シャープペンを転がしてもてあそぶ。そんな涼香を無視し、優也は英語のプリントを引っ張り出した。淡々と文章問題をこなしていく。その手を見ながら、涼香はどんよりとひとりごちた。
「私が原因でやめちゃうの? バスケ、あんなに好きだったくせに」
「……しつこい」
「好きなことまで我慢することないでしょ。そりゃ、私のせいかもしれないけど」
「涼香」
「ひとりごとなんで、気にしないでくださーい」
ふてくされると、優也は観念したようにシャープペンを置いた。ソファにもたれ、涼香をじっと見つめる。
「好きなことよりも、涼香を優先したい。それが俺のいまの気持ちだから……言わせんな、バカ」
面と向かって言われると、顔に熱がこみ上げる。頬が紅潮し、それでも場にそぐわないと思ったので気持ちを鎮めることに専念した。
「そう、ですか」
「そうなんです。だから、もう二度と『私のせい』って言うなよ。次言ったら怒る」
「明と仲直りしてくれたら、二度と言わない」
「はぁ? それは絶対に嫌だ。意味わかんねぇよ」
滑り込みの言葉はあえなく却下された。あんまりしつこいと喧嘩になりそうだが、ここで折れるわけにもいかない。またもや、ひとりごとのようにつぶやいてみる。
「あーあ。やっぱり喧嘩してるんだ」
「恋愛と進学だけでも手一杯なのに、ほかのヤツのことなんて気にしてられねぇよ。俺は涼香さえいてくれればいい」
「うわぁ……」
こみ上げた熱が一気に冷めた。
なんだかダメな方向に向かっている気がする。ズルズルと関係を続ける方向に向かってはいないか。
いまは自覚がなくても、近い将来、どちらかに依存して深みにはまっていくかもしれない。どちらもうまくいかなくなり、社会に取り残されるのでは。優也が真剣に思ってくれるほど、その感情が重いものになっていく。
彼の足を引っ張ることはしたくない。それに、もし大学進学できたとして、ずっと一緒にいられるという保証はない。結局、いまの彼とは未来が見えない。
涼香は優也の問題集をかすめ取った。
「おい! 涼香、いい加減に、」
「明となにがあったの? 話して。でないと返さない」
真剣に眉をつり上げてみせたら、彼は目をそらした。気まずそうにアイスコーヒーを飲み干す。なにを言おうか考えていた。
「なにがって……ただ、喧嘩しただけ」
やがて出た答えはふてぶてしい。この期に及んではぐらかす気だ。
「ごまかすな!」
つい大声が出てしまい、涼香はすぐさま首をすくめた。優也が辺りを見回し、困ったように眉をハの字にする。しかし、ここまでしても頑として譲らない優也に対し、単純な怒りが湧いている。
一歩も引かない涼香に、優也はいやいやながら口を開いた。
「……本当のことを言ったら、引かれると思ったんだよ」
弱々しい声は、あの告白のシーンを想起させる。つり上げた眉が一気にストンと落ちてしまい、涼香は困った。優也の言葉が頼りなく続く。
「俺、お前のことで頭がいっぱいでさ、やっぱりいまだに不安なんだ」
「え?」
涼香は乗り出していた体をわずかに引っ込めた。優也はもごもごと口ごもってしまい、有耶無耶にしようとした。それを逃がすわけにはいかない。
「それで?」
「それで、明と仲良くしてるとこ見てたらさ、本当にムカつくわけ。だから、明を遠ざけたかった。実は、二年の冬から部活で揉めてたんだ。居づらくなって、部活も楽しくなくなって。だから〝変な噂〟が流れてるみたいだけど、推薦枠を取られて悔しいとかは思ってないよ。それだけあいつががんばってきたってことだし。俺はがんばってないし」
一息つく。そして、彼は悩ましげに眉間を揉んだ。
「あーもう、最悪。ほんとかっこわりぃな。俺、そんなにメンタル強くないからさ。結構、余裕がないんだ。でも、それをお前に知られたくなかったよ」
告白も手間取る不器用なひとだから、いまさらの発言だ。
正直に言えば、彼はかっこ悪い。でも、そんな弱みを許せる器量くらい持っていなければ、優也の彼女なんていう役は務まらないんだろう。
なんと返すのが最適解か。数学のように答えが決まっていたらいいのに、いくつもの分岐を考えては消す。黙り込んでしまうと、優也は渇いた笑いを漏らした。
「ドン引きだろ?」
「ううん」
「正直に言って」
「……まぁ」
喉を絞るように言えば、彼はさらに落胆した。
「だよな」
「でも、話してくれなきゃわからないよ。優也がつらいと、私もつらい」
彼の不安を取り除けたらいいのに。そうすれば、全部丸くおさまるはずだ。
思えば、最初のルートからそうだった。優也の不安が払拭されなければ、世界の軸が変わっても幸福な未来を描けない。
別れたら涼香がつらい。別れなければ優也がつらい。恋愛も進路も友情も、欲張るのはいけないのだろうか――
「そんな二人にケセラセラ! 心の助っ人こころちゃんの参上です!」
暗い空気を吹き飛ばすように、とぼけた声が二人の間に割り込んできた。
「辛気くさい顔しちゃって、嫌だなぁ。ダメだなぁ。よくないぞー」
涼香の横にカバンを放り投げ、こころはドリンクバーでメロンソーダを注いだ。緑色の炭酸がぽぽぽと泡立つ。ストローもなしで豪快に飲み干し、一息ついたこころが涼香の横に座り込んだ。
「右輪。お前、いつから聞いてたんだよ」
優也が不機嫌に聞く。秘めた悩みを他人に聞かれることに抵抗があるようだ。
「さっき来たばかりだよー」
怒った顔の優也に、こころは臆さない。指でフレームをつくり、その奥からニヒルに笑う。
「そしたら、涼香がかわいいこと言ってたからさぁ、『あ、やばーい! これは青春ドラマの定番じゃーん!』って勝手に盛り上がってたの」
「盛り上がるな」
「見せ物じゃないんだけど」
揃って文句を投げつけると、ようやくこころもたじろいだ。
「まぁまぁまぁ。悩める諸君には、救世主が必要でしょ? もうちょっと他人を信用してくれたっていいんじゃなーい?」
ふざけた言い方だから信用ができないというのがなぜわからない。しかし、相手にするだけ無駄だというのは優也も感じているようだ。
「とは言え、途中参加なものだから、ざっくりとしか聞いてないんだけど。要するに、あれかな? 杉野くんのこと? 恋と友情の間で揺れる、なーんていかにも青春ドラマのそれっぽい!」
「お前はどういう立ち位置なんだよ」
とうとう優也が苦笑する。そんな彼に向かって、こころは気取ったように指をぱちんと鳴らした。
「だから、助っ人だって言ってるでしょ! 二人が解決できないことをあたしが解決したげようと乗り出しているのがなんでわからないの」
「でも、相談したところで、こころになんのメリットがあるのよ」
涼香がそっけなく言えば、彼女は目を光らせた。キランと効果音が鳴ったような気がする。
「メリットはシャンプーのメーカーよ。友情に理屈や公式は不要。感情を優先させるべし。それがあたしの青春哲学!」
芝居がかった青くさいセリフだが、その力強さに気圧され、涼香と優也は耐えきれずに吹き出した。
こころは二杯目のメロンソーダを飲み干した。
「二人とも、自分だけで解決しようと思ってるでしょ。ダメダメ! そんなの、ただつらいだけだよ。そんなわけで、このあたしになんでも言ってみなさい」
ほらほら、と両手で誘う仕草をする。これを見て、優也はあからさまに嫌そうな顔をした。
「まぁ、無理して話すことはないし」
助け舟を出そうと涼香が口を挟むと、優也の眉が緩む。しかし、こころはしつこかった。
「言っとくけど、涼香だってそうなんだからね。ホウ・レン・ソウは社会の基本だよー」
「いやぁ……」
思い当たる節があり、すぐに目をそらした。
しかし、面と向かっての改まった相談は気恥ずかしい。自分の弱い部分を見せるのは、いまだにかっこ悪いものだと思っていた。キャラじゃない。でも、素直に相談することで解決することがあると思う。優也の悩みを聞いて、なんとかしたいと強く思った。
それは、こころも同じなんだろう。優也を誘惑するように指先を細かく動かしてふざけているが、心配していると思う。
「んもう、強情なんだから」
なびかない優也に根負けしたこころがソファにもたれかかる。そして、思い立ったようにメニュー表を手に取った。
「お腹空かない? あたし、お昼からなんにも食べてないよー……あ、目玉焼きハンバーグおいしそう!」
「がっつりいくな」
優也が苦笑いでつっこんだ。そんなこころにつられるように、彼もメニューを取る。
「んじゃ、俺はボロネーゼにする。あと、窯焼きピザも」
「がっつりいくな」
そう言いつつ、涼香もこころからメニューを渡されて悩む。
授業の合間にお菓子を食べていないようで、確かに空きっ腹だった。しかし、夕飯前だ。
「あ。私、冷麺がいい」
「そこはがっつりいこうよ!」
こころが不満げに天井を仰いだ。
「冷麺って、この時期あるの?」
優也が聞く。それに応えるように、涼香はメニューを掲げた。
「ほら、本格冷麺。麺がこんにゃくみたいなの。さっぱりしてておいしい。期間限定の塩レモン味」
銀色のボウル皿に盛られた冷麺を指すと、優也は困ったように笑った。
「季節外れだろ。お前の食生活、本当によくわかんねぇ」
「それについてはあたしも激しく同意だわ」
「ちょっと、二人ともひどい! まるで私が味音痴みたいじゃん!」
抗議すると、優也が呼び出しボタンを押した。「ピンポーン」とホール内に流れ、涼香はメニューで優也の頭を叩いた。
***
宣言通り三人はそれぞれ注文し、運ばれたものを前に目を輝かせた。こころは目玉焼きハンバーグを。優也はボロネーゼとピザを。涼香は冷麺を。
「でさ、話の続きなんだけど」
半熟の目玉焼きを割りながらこころが言う。鉄板の上にジュワッと鮮やかな黄身がとろけていく。そのままハンバーグステーキにナイフを入れると、泡立つ肉汁があふれ出した。ぱくんと口に入れ、彼女は至極満悦な表情で唸る。
「話って?」
ボロネーゼに粉チーズをふんだんにかけながら優也が聞く。涼香は黙々と割り箸で麺をほぐしていた。
「とぼけないでよねー。寺坂くんのお悩み相談に決まってるじゃない。あたしの見立ててでは、杉野くんと喧嘩して、それを涼香が心配してるってとこじゃない? 違う?」
「まぁ、そうなんだけど」
優也はフォークでボロネーゼをつついた。ミートソースと一緒に食べる。芳醇なひき肉とトマトの酸味を味わってしまうと、彼の口は滑りやすい。
「でも、いまさらじゃね? それに、俺のことはどうでもいいよ。お前らが気にすることじゃないし」
「あれー? 私には言うなって言っといて」
キムチを口に放り込みながら涼香はふてくされた。バツが悪くなる優也は、ピザにタバスコを豪快にかけ、薄い生地をつまんだ。
「でも、これは俺の問題だ。自信がないから、あいつのことを羨んでるだけ。それをお前らが解消してくれるわけじゃないだろ? 相談したところで解決しないだろうし」
「解決策を求めようとするからダメなのよ!」
こころがモゴモゴと言った。ハンバーグを「あむっ」と頬張り、さらに話を続けるが、何を言っているのかわからない。ゆっくり咀嚼し、ジュースを飲んで一息つく。
「そりゃ、解決するのは寺坂くん自身だよ。あたしたちの力なんてミジンコ程度しかないもん。でもね、一人で抱え込んであとあと後悔するほうがはるかに愚かなのよ」
「愚か……」
「そう! あのとき謝っておけばよかった、あのとき素直に自分の気持ちをぶつけたらよかった、あのときだれかに相談したら違う結果になってたかも、なんて言ってるうちにおじいちゃんになってしまうんだから!」
「急に時間が飛ぶなぁ」
突拍子もないこころの言葉には笑うしかない。優也も笑ってはいるが、なにやら思うところがあるようで、うつむき加減にピザを頬張った。黙ってしまうと、こころの調子がどんどん前のめりになる。
「いいじゃん、かっこ悪くてもさ。こうなったらとことん、ダサくいようよ。もう十分、かっこ悪いんだから」
「言い方がひどい」
さすがに優也がかわいそうだ。非難の目をこころに向けるも、彼女は毅然とハンバーグを食べながら続ける。
「でもさ、寺坂くんが思う『かっこいい』か『悪い』かは、自分の物差しに過ぎないでしょ。周りから見れば全然大したことはないんだよ。自分の気持ちを押し込めてまで体裁を守らなくていい。自分の痛みに鈍くなっていくと、他人の痛みにも気づかなくなっちゃう。そんな風になってほしくないよ」
そう言い放ち、ハンバーグをしっかりもぐもぐ食べる。しかし、彼女の言いたいことはまっすぐ届いた。漠然と奥深いものを感じる。
「うーん……そうだな」
優也もほだされている。
「でも、いまさら明とぶつかって、それこそ大きな溝ができたらどうしたらいいんだよ。卒業間際に大喧嘩とかしたくないんだけど」
「大喧嘩する前提なのがよくない」
思わず涼香が口を挟んだ。
「そうそう。まずは落ち着いて話し合おうっていう気持ちがないわけ? どうしてそんなに血の気が多いの」
こころも噛み付く。二人に責められ、優也は痛そうに顔をしかめた。
「大丈夫! もし、これで杉野くんが茶化してきたら、あたしが杉野くんをコテンパンにやっつけるから。ね、涼香」
急に同意を求められ、涼香は思わず頷いた。しかし、明をコテンパンにするつもりは毛頭ない。
逃げるようにスープすすると、こころが続けた。
「向こうがどう思ってるかは、いまの段階じゃわからないしね。それでも、あたしは無責任に言うよ。自分の気持ちと将来を間違えないで」
そこまで言われてしまえば、優也はともかく涼香も黙りこむしかなかった。こころの鋭さには恐れ入る。口はソースだらけなので、いまいち威厳はないのだが。
やがて、優也が長いため息を吐いた。
「はー……わかったよ。わかった、わかりました。明にきちんと話すよ。それでいいんだろ?」
釈然としないが、こころのおかげで優也のモヤモヤは解消されそうだ。
しかし、まだ気がかりなものがある。ここで暴露してもいいものか、涼香は麺をすすりながら悩んだ。
***
結局、優也の進路については言い出せず、注文した料理はからっぽになった。
涼香に至っては、塩味のスープまで全部飲み干している。さっぱりしていてくどくないので、口の中は爽やかだった。味のことはよくわからないが、ほのかにレモンの風味がきいていたと思う。
腹がふくれると勉強は後回しになってしまい、結局こころは問題集の一問も解かずにいた。
全員が会計し、外に出たときには空は焦げた茜色だった。
「ほんとに送ってかなくていいの?」
ファミレスを出るなり、優也が名残惜しそうに言う。しかし、彼の家は涼香やこころが住む商店街方面ではなく、逆方向の住宅街だ。
「いいよいいよ。どうせ、いまからこころの家に行くし」
「そう。んじゃ、気をつけて帰れよ」
優也は潔く引いてしまい、背を向けて群青の中へと姿を消した。遠ざかる彼の後ろ姿を見送り、こころの手をつかむ。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「お、奇遇だね。あたしも話したいことがあったの」
目をしばたたかせるも、こころはにこやかに言い、涼香の手を握り返した。
くぼ商店街への道は、傾いた陽の光が強く射し込む眩い筋だった。古着屋やスーパー、コンビニ、喫茶店を通り過ぎ、ミギワ堂古書店にたどり着く。今日もおんぼろの屋根から陽が漏れていた。
「おかえり、こころ」
「ただいま、おじいちゃん!」
こころが明るく応えるとと、レジ台に座っていた祖父が笑う。白い猫を抱いて立ち上がった。
「いまからお店、閉めるねー」
「まかせたよ」
そんなやり取りを棚からのぞき見ておく。こころの祖父がこちらにも屈託なく笑うので、涼香は愛想笑いを返した。
祖父が店の奥にある居間へ入るのを見届け、こころはレジ台にカバンを置いた。店先へ移動し、古本の棚を引っ張る。涼香も手伝い、店じまいを進めていく。
「いやあ、寺坂くんって豪快に見えて繊細なんだね」
こころが笑いながら言うので、涼香もつられて笑った。
「まあね。誰かさんに脅されないと告白もできない男だし」
「あいたた。それについてはもう時効でしょ」
二年前の告白大作戦は、こころにとっても痛い過去のようだ。しばらく笑い合いながら、二人は店の片づけをした。
「寺坂くんって真面目で優しいのに、自分のことはおざなりだよね。ほんと、危なっかしいよ」
「うん。そんなやつだからさ、私としてはこのままつき合っていくのがちょっと不安になっちゃって。だから、こころに相談しようと思ったの」
「不安かぁ。それはわかるかも」
店の中に引っ張った棚に古い遮光カーテンを敷いて、こころはあっけらかんと言った。
「このままだと、寺坂くんがひとりになっちゃうよね。はぁ、困ったもんだね」
「そうなんだよ。このままだと、優也がダメになりそうで。そんなあいつを私が支えられるかって思ったら……」
こころみたいにきっぱり言えたら、どんなにいいだろう。説得もままならないのに、ただ単純に優也と明が仲直りすることだけを押しつけてしまう。それが果たして、優也のためか自分自身のためなのか、わからなくなる。
「涼香」
こころが声音を落とす。
「涼香は、寺坂くんと付き合ってて、楽しい?」
「えっ?」
思わぬ問いに、涼香は頬を引きつらせた。
「いまの涼香は苦しそうだよ。楽しいのにつらい、みたいな。寺坂くんと同じくらいグラグラしてる」
その言葉を受けて、涼香は迷った。
つらいのはその通りだが、優也との日々は願っていたことそのものだから苦じゃない。そのはず。楽しいに決まっている。過去や、他人の気持ちを犠牲にしてまで手に入れたかった現実なのだから。
「楽しいよ。優也と一緒にいられるのが、私にとって一番の願いだから」
思いをそのまま告げると、こころは口をすぼめた。だんだん納得したように何度も頷く。
「そっか。それなら心配いらないね」
彼女の声はさっぱりとしていた。
「まあ、寺坂くんを裏切って杉野くんとハッピーエンドを迎えるなんていうオチも、どんでん返しって感じでスリリングなんだけど」
「なにそれ。そんなめんどくさいことしたくないんですけどー」
青春にスリルを求めたくはない。悲しいラストシーンは苦手だ。それに、優也を裏切ってまで自分の幸せを優先したくはない。さらに言えば、明とつき合う気はまったくない。
一度にいろんなツッコミが思い浮かんだが、言葉が大渋滞を起こしたせいで喉が詰まった。
「だってね、寺坂くんが不安に思う気持ちもわかるのよ。言ってること、わかる?」
「わかんない」
「無自覚なのー? こりゃ、寺坂くんがかわいそうだわー」
こころは首を振って項垂れた。
「寺坂くんが一途すぎるっていうのもあるね。涼香が杉野くんと仲良くするだけで、嫉妬の炎がメラメラしてるの」
「はぁ……あー、なるほど。うーん」
ついさっきも優也に言われたことだ。こころにまで見抜かれてしまい、涼香は気まずく唾を飲んだ。
まったく、恋愛というのは煩わしい。ようやく自覚するものの、悪気がないので不満が募る。
そもそも明に対する認識は、良き友達というポジションだ。彼氏の親友であり、ときに相談相手として頼る。現に優也への誕生日プレゼントのアドバイザーとして一役買っている。都合がいいと言われても仕方ないが、結局はそのぬるさが心地いい。
「しっかし、涼香も彼氏の前ではかわいい子猫ちゃんになっちゃうのねー。いやぁ、感慨深いよ」
悩んでいると、空気をぶち壊された。それが彼女の照れ隠しだというのはわかっている。しかし、冷やかされてはたちまち恥ずかしさがこみ上げるもので、涼香はすぐさま声を上げた。
「やめてよ、その言い方」
「だってそうでしょー? 乙女じゃん! かわいいー!」
「やめてってば! それ、私に一番似合わないワードだし。寒気がする」
「似合わないことないでしょ。涼香って、どうしてそんなに『かわいい』が苦手なの?」
その問いは素朴なものだった。対し、涼香は「へ?」と面食らってしまう。目を開いて、視線を上にずらして考える。
「えーっと。なんでだっけ?」
「いやいや、聞いてるのこっちなんですけどー! なんか、そういうきっかけがあるんじゃないの?」
考えれば考えるほど謎が深まった。
どうして「かわいい」を遠ざけていたんだろう。身につけているものはシンプルなデザインのものだが、影ではうさぎ型のコインケースや甘いものを集めていたりする。それを他人にひけらかすことはしたくない。もちろん、優也にも。凛としたポニーテールのヘアスタイルも小学校二年生くらいから始めた。そのきっかけがどこかにあったはず。
はて。それがなんだったか、すぐには思い出せない。
「ちょっとちょっとー、自分のことじゃん。無頓着だなー」
こころの嘆きももっともだ。自分でも情けなく思う。しかし、どうにも自分のこととなると思考が止まってしまった。
「ま、いまは多様性の時代だし? 自分のスタイルを貫くのはかっこいいと思うよ。女らしく、かわいく、愛嬌命なんて考えも古いわけで」
「いやぁ、そんな大層な思想は持ってないよ。ただ、似合わないからって決めつけてるだけ、みたいな?」
なんとなく自分の心を見つめてみる。出した答えもあやふやで、こころが言うような芯の強さも持ち合わせていなかった。
「それに、こころが私の親友だから思うことであって、贔屓してるだけじゃない? かわいくないって、優也にもたまに言われるんだよ?」
女子の言う「かわいい」ほど信用できないものはない。これで言い返せまい。鼻で笑って高をくくっていると、こころはあっけらかんと言った。
「そりゃ、ふてぶてしくブスッとしてたら、かわいくないもん。涼香だって、あたしが『てめー、なんだこのやろー』って言い出したら、怖いって思うでしょ」
口調はさほど怖いものではなかったが、確かにいつもマイペースで無邪気なプードル女子が不良の口調で話し始めたら近寄りがたいと思う。
なんだかすんなり納得してしまった。目からウロコが落ちた気分だ。しかし、譲れないものもある。
「でも、いまさら自分を曲げるのは難しいよ」
からかわれたら突っぱねるし、やっぱりかわいいものをひけらかすのは抵抗がある。愛情や好意も隠したい。それなりに十八年間積み上げてきたものを崩してしまうのは、それこそもったいなく思えてしまう。
強情に食い下がっていると、こころはやけに大人びた微笑を向けた。
「ちょっとずつでいいじゃない。一年生のころに比べたら、涼香は結構丸くなったほうだよ。だから、寺坂くんも手放したくないって思うのよ」
「うわぁ……ぐうの音も出ない……降参する」
これ以上持ち上げられると、むず痒さで叫びたくなる。親友のあたたかい言葉は、それまでの固定概念を破壊するほどの威力があった。本当に油断ならない。
「あ、ねぇ、こころ」
恥ずかしいので、話をすり替えることにした。レジ台の中をのぞきこむ。あの小難しそうな本が見当たらない。
「今日はあの本、読まないの?」
「え? どの本?」
「ほら、さかさま? さかまき? ってタイトルの」
そこまで言うと、こころはすぐにひらめいた。
「『逆巻きの時空間』ね。あるよー」
レジの引き出しから本を出してくる。宇宙色のワームホールが描かれた黒い表紙。それをひったくると、こころの両目が丸く開いて驚いた。
「これ、貸して」
「え? うーん、いいけど……どうしたの?」
問いの答えがすぐには見つからない。しばらく考えるも、思考は楽をしようと諦める。
「秘密」
小説以外の本を読むと言ったら、教科書くらいだ。朝の読書タイムでしか本を開かないし、どちらかと言えば漫画が好きだ。古本なんてミギワ堂古書店でしか触れたことがない。
帰宅してすぐ、学習机に向かう。問題集よりも先に「逆巻きの時空間」を開いた。こころから借りた汚い古本は、挿絵が一切ない学問書だった。
「時間と空間の変化」「アインシュタインの相対性理論」「時間の遅れ、ウラシマ効果とは」「多世界解釈への解釈」「タイムパラドックスの穴」などなど興味は惹かれるものの読みこむには難しく、すぐに飽きてしまう。ざっと斜め読みし、すぐに本を閉じた。スマートフォンを取る。
手っ取り早く、インターネットで「タイムリープ」と調べる。すると、時間旅行を題材とした映画、小説、アニメなどが並んだ。スクロールしながら、視聴したことがある映画を思い出す。その中に、ミギワ堂古書店で読んでいた漫画も検索結果におどり出た。
タイムリープとは、通常の時間(現在)から過去や未来へ移動すること。タイムトラベルやタイムスリップなど、呼称や手段は様々だ。
時間遡行の装置(タイムマシン)を用いた方法、超常的な能力などが要因のもの。または、不測の事態によるもの、思いがけない事故などが要因のもの。
涼香の場合は後者に当てはまりそうだ。タイムリープは不特定多数の現象なのかもしれない。とは言え、これはどうも創作の世界に通じる舞台設定のようだが。
しかし、二回目の世界で、こころがタイムリープは「できる」と言っていた。思えば結局、あの答え合わせができていない。
「んー……」
涼香は「さかさ時計のおまじない」と検索してみた。すると、トップに長いタイトルの記事が出てきた。
『タイムリープが体験できる!? さかさ時計のおまじないの方法と条件』
「おぉ、本当にあった」
URLをタップすると、薄紫の背景にシンプルな白抜き文字が等間隔に記されていた。
【さかさ時計のおまじない方法】
①人生で一番幸福な瞬間を思い浮かべる
②北極星を軸に反回転する
③三回深呼吸をする
【さかさ時計のおまじない条件】
①必ずひとりで行うこと
②午前〇時に行うこと
③憂鬱であること
「あれ?」
ざっとスクロールしていくと、下にも細かな条件が記されていた。知らない情報がいまここで明らかになるとは思いもせず、しかし深く考えてみれば、こころからの情報を鵜呑みにしていたのが間違いだったと改める。
涼香は最後の文言をまじまじと見つめた。
「『憂鬱であること』ねぇ……」
——まぁ、条件は満たしていたわけだ。
あまりいい気分ではないが、すとんと腑に落ちる。
涼香はスマートフォンを置き、靴下のままでベッドに上がった。一度目も二度目もベッドの上でおまじないを試してみた。時間に差はあったものの、二回もタイムリープを経験しているので、やけに確信がある。
なんとなく目をつむり、幸福な瞬間を思い浮かべた。上書きした告白のシーンは、いまや三つのパターンがある。そのどれもが幸福そのもので、一番なんて選べない。
左足を軸にくるりと左へ回ってみる。北極星を調べるのを忘れていたが、家の中だから確かめようがない。全身が壁を向いたが、なんとなく目をつむったままでいる。
それから、三度の深呼吸。ゆっくり、息を吸って——吐いて。吸って、吐いて。もう一度吸って、吐き出す。
涼香はおそるおそる目を開けた。視界は白い壁だけ。急いでスマートフォンを見るも、時間が戻っている形跡はない。また、進んでいる節もない。
「まぁ、条件無視しちゃってるしなぁ……明日、朝起きて一年の文化祭に戻ってたら確定かな」
もし、戻っていたら優也の夢を応援したい。そのためには、彼に不安を与えないように振る舞うしかない。
まさか過去改変が他人の人生を変えてしまうなんて、思いもしなかった。些細なことだと軽く考えていたから、その重みがどんどんあとを追いかけてくる。
涼香はベッドに座りこんだ。
「私、とんでもないことをしてるかもしれない。いや、でも、それでも……」
それでも、優也と一緒にいたい。これは確実に、いまの気持ちだ。自覚した恋心をおいそれと手放したくはない。知ってしまった感覚を捨てきれない。それは、こころも明も応援してくれていた。優也もそうなるように望んでいる。この選択は正解ではないが、間違いではないと強く思う。
「涼香ー? 帰ってるのー? ご飯できてるんですけどー」
階下から母ののんびりした声が轟いた。
「はーい」
制服のリボンを取り、タンスの中からゆるいセーターとサルエルパンツを適当につかむ。窮屈なスカートとシャツを脱ぎ捨てて部屋を出た。ファミレスで冷麺を食べたはずなのに、腹の隙間はまだ空いているらしい。今日の夕飯はお好み焼きだ。
***
放課後の準備時間は十八時までと決まっている。現在、十七時三十分。気分転換なんかしている暇はなく、教室は明日の準備に追われていた。
廊下にはドタバタと走り回る一年生。妙な被り物を作ってはしゃいでいる二年生。三年生のフロアは人がまばらで、受験勉強の息抜きがてら、作業に勤しんでいる。
科学室からは小麦粉と砂糖の甘い匂いが漂い、家庭科室からはポップコーンの香ばしい音がはじけ、美術室からはなぜかトンカチを叩く音がガンガン鳴り響き、放送室からは機材が運び出されていた。階段を降りるたびに音が変わっていく。
涼香は羽村からのお願いで、生徒会室へ追加の材料費申請書を持っていこうと階段を上っていた。
文化祭前日ともなれば、準備がいよいよ終盤となったものの、優也は教室にいることが減っていた。かつては文化祭実行委員としてクラスを引っ張ってきたのに、見る影もなくよそよそしい。そんな彼を目の当たりにするのは、やはりつらいものがある。
結局、タイムリープはできなかった。そもそも条件が合わないから、できるわけがなく、涼香はなにもできないまま文化祭までの時間を過ごしていた。
タイムリープの相談は誰にもできない。非現実的な超常現象を突然に告白することは、涼香の中にあるありったけの勇気を振り絞っても形には到底及ばなかった。
「まぁ、こころだったら『タイムリープしたんだー』って言えば、すんなり信じてくれそうな気がするけど……」
「タイムリープ? なにそれ?」
背後から声をかけられる。振り返ると、そこにはピンと毛先がはねたショートヘアの女子生徒、郁音が階段を追い越していった。
「よう、涼香」
郁音はニカッと歯を見せて笑い、背負ったギターケースをかけ直して踊り場で涼香を待つ。追いかけると、彼女は楽しそうに言った。
「珍しいとこで会うね。あ、生徒会に行くの?」
「うん。羽村に頼まれてさ」
申請書をひらひら振って気だるく言う。
「あーね。二組は脱出ゲームだっけ? 大変そうだね」
「まーね。受験で大変なんだから、五組と六組みたいに合同にしたらいいのに」
「わかる。うちのクラスも、たこ焼き屋やるんだけどさ、ロシアンたこ焼きとか手間がかかるのなんのって」
「でも、郁ちゃんはバンドで忙しいんでしょ?」
「うん。結局、三年間バンド漬けだった。楽しいからいいんだけどね。でも、一度でもいいから、クラスの子たちとワイワイやってみたかったなーなんて」
それはなんだか贅沢な悩みだ。と言うのも、BreeZeはいまや校内の名物バンドとして人気を博している。
生徒会室への道すがら、涼香は冷やかしたっぷりに郁音のギターケースに触れた。
「なーんか、成功者の余裕って感じでうらやましいな」
「成功者? 私が?」
なんと、郁音は自覚がないらしい。そんな彼女の背中を軽く押すも、どうにも釈然としない顔を向けられた。
「だって、大人気じゃん。平凡な私なんかじゃ、絶対に手の届かない場所に行っちゃってさ、さみしいわー」
「ファン第一号だもんね」
郁音はくすぐったそうに笑った。
「涼香の言葉がなかったら、とっくに解散してたバンドだし。ありがたく思ってるよ」
「ほんとかなー? その割には恩恵があんまりない気がする」
ついふざけて言ってみると、郁音は肩をすくめた。
「じゃあ、その恩を返すとしましょうかね」
「え!? 冗談で言っただけなのに」
まさか本気で捉えられるとは思わなかった。そんな涼香の手を引っ張って、郁音はもうワンフロア駆け上がる。生徒会室は四階で、音楽室は五階。どうやら部室に向かっていることは明らかだった。
音楽準備室のドアを開ける。しかし、そこはからっぽで、他の二人がいない。
「ありゃ、私が一番乗りだったか……」
呆気にとられて笑う郁音。涼香は困惑しつつ、つられて笑った。
「せっかく生ライブしようと思ったのに」
「じゃあ、二人が来るまで待つよ」
ここまで来た手前、引き返すのは惜しい。
郁音は機嫌よく、涼香を部室に引っ張りこんだ。ギターケースを開き、自前の赤いシックなベースギターを出す。さっそくチューニングを始める郁音を見ていると、やっぱり彼女は成功者のように見えた。その考えが伝播したのか、弦をつまみながら郁音が言った。
「私から言わせてもらえば、涼香のほうが成功してると思うんだよね」
ヂィィィンと、軽い音。だんだんと重たくなって、胸を穿つようにグゥゥンと低くなる。
「私が? どういうこと?」
「だって、寺坂と仲良いじゃん。うちのクラスの杉野がさぁ、うらやましがってるんだよ。それくらい評判は聞いてるよ」
こんなところで、こちらの恋愛事情を聞かされるとは思わなかった。しかも、よりによって明の名前が出てくるとは。複雑な心境でいると、郁音の意地悪そうな笑い声が聞こえた。
「いやぁ、順調そうでよかったよ。彼氏とうまくいってて、クラスでも浮いてなくて、順調に青春やってる感じがうらやましい」
だんだんと郁音の声が低くなる。怪訝に思い、涼香は顔をあげた。郁音の伏し目がちな表情が、どこか大人びた憂いを持つ。ベースギターは安定してきたのに、比例するかのように彼女の顔は暗い。
「なんかあった?」
いくら鈍感な涼香でも、友達の表情を読むことはできる。
郁音は口の端を横に持ち上げて、無理に笑った。
「私、雫にふられちゃったんだよねー」
思いもよらない失恋話が飛び出し、すぐさま心が怯んだ。
「え……? え、待って、郁ちゃんって若部のことが好きだったの?」
まずはその確認から入らなくては話がわからない。
こちらの挙動不審を見て、郁音は「あ」と口をぽっかり開けて驚いた。
「そうそう、そうなんだよ。知らなかったよね」
「知らないよ。全然知らなかった!」
「うん。私もだれにも言ってなかったし。夏くらいにね、見ちゃったんだよ。雫が後輩の女の子と歩いてるの」
「うわー……」
なんと言えばいいかわからず、どうにも間抜けな相づちしかできない。それでも郁音は話してくれた。いや、話したがっているようだった。吐き出す場所がなくて、ずっと心に閉じ込めていたんだろう。あっけらかんとしているが、言葉の端々に寂しさを湛えている。
「ま、うちは部内恋愛禁止だから、どっちにしろ叶わぬ恋だったわけ。私の初恋、さよーならって感じで高校生活が終わるんだ」
「待ってよ。そんな重たい話聞かされたあとに、あの二人を交えて生バンド聴かされるの? 私、どういう顔して聴いたらいいのよ」
励ましの言葉なんて出てこず、おどけた調子になってしまう自分がたまらなく嫌だった。それでも郁音は絶えず笑ってくれる。
「正論だわ。ほんとごめん」
「そんなんで、よくここまで続けられたね」
「まーね。バンド自体は好きだし、雫にもバレてるし。もう過去の話だよ」
その割には、まだまだ傷は癒えていないようだ。
失恋の痛みは、涼香も身をもって経験している。だから、言葉を選んでしまう。そして、結局なにも言えずにいることを選ぶ。
そうこうしているうちに、郁音が自嘲気味に言った。
「なんで私もこんな話しちゃったんだろ。あ、もしかすると涼香が無神経に『成功者』って言ったからかな」
その言葉自体が無神経にも思えるが、涼香はなにも言わなかった。お互い様だ。
まったく、言葉というのは難しい。不用意に言うべきじゃなかったと反省するも、そうすると気軽に話をするのが怖くなってくる。途方もなく面倒に思え、きれいな言葉を考えることを早々に諦めた。
郁音も悪気があって言ったわけではない。彼女の口は粘着質なものはなく、どちらかというとサバサバしていた。その口が鋭く切りこんでくる。
「なんだっけ、タイムリープ? って言ってたよね」
「え? あ、あぁ、うん……いや、違う」
慌てて訂正しても遅い。いまや隙だらけの涼香を郁音は面白がっている。
「あれでしょ、過去に戻ったり未来に行ったりするやつ。そういうの、いいよね。過去に戻れたらつらい道をたどらないようにしたらいいし、未来を見ることができたら幸せルートだけをたどっていけばいい。早くタイムマシンが開発されたらいいのに」
過去に戻れたら、軌道修正する。それは自分にとって得な道。
未来に行けたら、危機回避する。それも自分にとって得な道。
過去に戻って軌道修正した自分の道は——思考に引っ張られかけ、涼香はすぐさま頭を振った。
正しい。そのはず。だって、いまこの場所は願ったとおりの現実なのだから。
「あーでも、ちょっとずるいかも」
郁音の考えはすぐに切り替わった。その早さに追いつけず、涼香は「え?」とまたも間抜けに聞き返す。
「だって、ほかのひとの人生まで狂わせちゃうかもしれないリスクがあるのに、自分だけ得な道を選ぶって、都合よすぎるよ」
郁音の言葉は悪気がない。いつだってそうだ。
でも、彼女の言葉を借りるなら、どこまでも無神経に思えた。そしてまた、自分の考えも無神経だと思えた。
「よー! 郁音! 練習しよーぜ!」
元気よく現れたのはBreeZeのリーダー、麟。その後ろから眠たそうな顔をした雫が顔をのぞかせた。
「あれ? お客さんがいる」
「おぉー! 大楠じゃん! 久しぶりー!」
麟の元気な声に驚いて、それまでの鬱がパーンとはじけ飛んだ。
「なになに? どうしたの? ってか、関係者以外立ち入り禁止ですけど?」
「え? そうなの? なんか、ごめん」
しかし、郁音が連れこんだのだ。謝る義理はなかった。
まじまじとこちらを物珍しげに見る二人の視線から逃げようと、涼香は郁音の方へ近寄った。しかし、郁音は反発するように背中を押してくる。
「涼香が恩返ししろって言うから、ちょっとだけ練習見せてやってくれない?」
なぜか、こちらがねだったような言い方だ。すぐに振り返ると、郁音はやはり面白がっているようで、意地悪に口の端をめくった。
「恩返し……あぁ、もしかして、バンド解散危機を救ったから?」
思い当たったのか雫が言う。すると、麟が合点したように手を打った。
「なるほど! バンド解散危機を救った女神様だからなぁ。それなら、しょうがないかー」
不遜に言いつつ、麟は嬉しげな表情を隠せない。雫もにっこり微笑んでいる。戸惑っていると、郁音がこっそりと耳打ちしてきた。
「この二人、実は涼香に会いたがってたんだよ」
「えっ、そうなの?」
意外な情報に驚く。郁音はやはり面白がるようにクスクスと笑った。その愉快な声が耳をくすぐる。
過去を変えたことは重罪かもしれない。でも、こうしてだれかの危機を救っている。まぎれもない事実だ。
「じゃあ、大楠のために一発どかーんと派手にやりますか」
麟は飛び跳ねるように部室へ入ると、さっそくギターケースから自前のエレキギターを取った。アンプを挿して音を合わせる。雫も無口ながら楽しそうで、カバンからスティックを取った。
「ほら、早くー」
郁音は準備万端だ。二人を急かす様子は、失恋の痛みなどどこにもない。そんな彼女を素直に尊敬した。
雫がようやくドラムの中に収まったと同時に、麟が気取った口調で言った。
「どうも、BreeZeです。二年前の解散危機を救った大楠さんに愛を込めて。新曲『ミント』を聞いてください」
瞬間、全員の顔が無になる。微細な気が満ちて数秒後、心臓を打つようなドラムが派手に音を奏でた。
三人の息が合う。三つの派手な音が震え、窓ガラスが軋んだ。
全身を震わす音の渦が、学校中に響かないはずがない。ぐるぐるとスピンするギターサウンド。リズミカルなドラム。ずっしりと重厚感のあるベースの三重奏が一度に溢れる。
すると、唐突に青筋を立てた男子生徒が引き戸を開け放った。
「急にライブやるなんて聞いてないぞ!」
音楽室の真下に位置する生徒会室から、生徒会長が肩をいからせて怒鳴りこんでくるのは明白である。会長の登場が、爽やかな爆音を止めた。
「あぁ、ごめんごめん。リハをやるって言うの忘れてた」
率先して会長をなだめるのは、意外にも雫だった。長身の彼が出向けば、誰でも気圧されてしまうようだった。
「ごめんねー、会長」
「練習するときは事前連絡! いつも言ってるだろ! 俺の頭痛がひどくなる!」
全員で申し訳なく会釈すると、会長は肩を落としてため息を吐いた。疲れた顔で帰っていく。
その様子をうかがいながら、雫が言った。ドアを閉める。
「……あいつも大変だよなぁ。文化祭の予算調整、溜まってるらしいぜ。文化祭、明日なのに」
「そうなんだ。大変だなー」
邪魔が入ったことに、麟は残念そうに頭を掻いた。
「それならしょうがないか」
郁音も肩にかけていたベースを外す。
「でも、一番楽しみにしてるのは会長なんだ。それくらい、俺たちは信頼されてんだよ。なぁ?」
得意げに言う麟。雫も肩を震わせて笑う。
二年前はいがみ合っていたこの二人が、すっかり仲良く肩を並べているものだから、涼香はたちまちくすぐったくなった。口元に手を当てて吹き出す。
このバンドはサービス精神が旺盛だ。そこまでのもてなしをしてくれなくても良かったのに。
「明日のライブ、楽しみにしとけ」
部室を出る間際、三人が涼香を見送ってくれた。自信に満ち溢れた麟を見ているとなんだか励まされる。渦巻くような彼のギターソロは確かに圧巻で、わずかな演奏でもエネルギーをもらえた。
「ありがとな、大楠。寺坂にもよろしく言っといて」
なんの前触れもなく、雫が穏やかに言う。青いピアスが光り、どことなく危なげなにおいを漂わす彼だが、懐の深さを知ると確かに郁音が惚れるのもわかる気がした。
「羽村ちゃんによろしくー」
郁音も手を振って見送ってくれる。それに応えて手を振り返し、涼香はポニーテールをひるがえした。
***
「ミーント、フレーバー振ればー……思い出す、切なく消えてしまう、ふふふんふふん」
今しがた聴いた、うろ覚えの曲を口ずさむと足取りはいくらか軽やかだった。頭痛と予算書に悩む生徒会長に二組の申請書を叩きつけ、悲鳴をあげる彼を笑いながら教室へ戻る。
手洗い場を横切った、その時だった。
「あれ? 大楠?」
背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。後ろにいるのが明だというのは、すぐにわかった。それまで自然と楽しかった足がピタリと静止する。
「明……」
やや絶望めいた声が出てしまった。
いま、ここで会うのはまずい。そんな涼香の顔色をうかがいつつ、明は人懐っこく寄ってきた。
「なんか機嫌がいいね。いいことあった?」
「あー……えーっと、BreeZeの演奏を聴いて……」
「あぁ、さっき聴こえてたね。もしかして、練習してるとこ見に行ったとか? あそこ、関係者以外立ち入り禁止なのに。いけないんだー」
優也と喧嘩している最中なのに、どうしてこのひとはこんなにすんなりとすり寄ってくるんだろう。前々から空気が読めないとは思っていたが、それならさりげないフォローはできないと思う。こちらの相談に応じたり、面倒な役回りを買って出ることも不得意なもの。
わざとだろうか。ないがしろにしている優也に対し、地味な仕返しをしているのだろうか。疑心がよぎり、涼香はすごすごと離れる。
「大楠? どうした?」
彼は手洗い場まで追い詰めてきた。逃げ場がない。
「明、あのさ」
「ん?」
「私、優也と付き合ってるんだよね」
「知ってるよ。なんだよ、改まって」
言葉の裏を読んでくれない。こちらの気まずさをどうしてもわかってくれない。気分がどんどん下がっていく。
「こうして明と会ってると、優也が誤解する」
「なんで? それならクラスの男子、全員がその対象じゃない? 僕だけがダメっていう理由がないでしょ。いままでだって、普通に話してたのに。変だよ」
今日の明はやけに強気だ。
「それは、そうだけど」
流されるな。
強く思っても、心はゆらゆらと危なっかしい。優也とこころに散々言われたことだから、かえって気まずい。それを明は察してくれない。
にっこりと優しく笑う顔が、なんだか怖い。優しくも厳しい圧を感じ、目をそらした。
「もしかして、優也に会うなって言われてる?」
「………」
「図星か。まぁ、そうかもしれないね……僕が大学の推薦枠をとったから、あいつは僕のことが気に入らないんだ」
「それは違う!」
感情が急いて、強く口走った。自分でも驚くほどの大声で、周りにいた生徒たちが振り向いた。その視線に、明も気にしたらしく、顔を引きつらせた。ようやく笑顔の仮面が崩れ、どことなく機嫌の悪さがうかがえる。
「……場所、変えよっか。ちょっと、話したいことがあるんだよ」
その提案には静かに乗るしかない。高揚はすでに冷めきっていた。
屋上へは生徒の立ち入りが禁止されている。しかし、いまは横断幕を用意する生徒会の出入りが激しいので、普段は施錠されているはずの扉はすんなり開いた。
濃い青空と、焼けるような西陽。青が強く、景色は見事なブルーモーメントを描いていた。だが、きれいな風景も寒風が吹けば寒々しく感じる。
「屋上、初めて来たなぁ。空がきれいだねー。ね、大楠」
「そうだね」
冷たい風を受けるせいで、いつもより口が重くなる。迷ってしまう。すると、明は心配そうな顔を向けた。
「寒い? 僕のカーディガン、使う?」
「ううん。いらない。って言うか、そういうことしないでよ」
「せっかく気遣ってるのに。ひとの厚意を無にするのはよくないよ」
明の態度も不自然だが、言動もさらに不可解を極める。
そういえば、彼は文化祭の前日に毎回、涼香の前に現れる。世界の軸が変わっても、必ず同じ場所で同じ言葉をかけてくる。示し合わせたかのように。
どういうことなんだろう。なにか意図があるのだろうか。でも、彼がタイムリープを知るはずがない。いや、いまはそんなことどうでもいい。
「ねぇ、明」
「なに?」
「優也と仲直りして」
この調子だと、優也はまだ明に話をしていないんだろう。問題を先延ばしにしている彼らの間に立つべきだ。そんな使命感が働き、涼香はまっすぐに明の目を見つめた。
明は笑顔のままで唸った。「うーん」と長く唸り、空を見上げる。言葉を考えているようだった。
「大楠のお願いでも、それだけは無理かも」
熟考の末、彼は観念するように肩をすくめた。
「どうして?」
「修復不可能ってやつだよ。僕と優也はそこまできてる。いくら説得されても、やっぱりお互いに許し合えるまでに及ばないんだ。きっかけは些細なことだったんだけど、実はもうずっとこの調子」
それは優也も言っていた。二年の冬からこじれていたと。それを放置していたのは、もちろん優也と明の責任だろうが、涼香も無関係とは言い切れない。すがるように見つめてみるも、明の決意は固かった。
「ちなみに、さっきは右輪にも説得されたよ。お前ら、そろってお節介だよね」
「そうかもね」
優也がと明が動かないのなら、こちらが動くしかない。こころと思考がシンクロしていることには驚いたが、あの親友のことだ。涼香よりも先回りしているのが目に浮かんで、呆れの息を吐いた。明も気を抜くように肩を落とす。
「僕は大楠と右輪みたいな熱い友情ってやつを持ってなかったんだ。純粋な親友じゃないよ。いいヤツのふりをしていただけ。結果、優也に邪険にされてるし」
「どういうこと?」
「僕が大楠のことを、いつまでたっても諦められないから」
思わぬ言葉に、涼香の時は止まった。目を見張る。その驚きを目の当たりにした明は、ゆるゆると目を伏せた。
「優也と大楠が喧嘩したとき、誕生日プレゼントを買うとき、遊びにいくとき、勉強会するとき。なんだかんだ、僕と右輪が二人の仲を取り持ってきた……ここに右輪がいなかったら、僕はすぐに優也を裏切ったと思う」
言いながら、彼はカーディガンのポケットから何かを取り出した。のど飴がコロンと手のひらに転がる。キシリトール配合の苦い薄荷味。優也が漂わせていたにおいのもと。
「僕、喉が強くないからさ、試合前に舐めてたんだよね。それに、薄荷味って爽やかだからさ。大楠に会う前に、優也に渡したりしてて」
声のトーンを落として言う明の背後で、ギターの音が聞こえた。「ミント」という名の歌が風に乗る。
「そこまで優也に協力しておいて、なにを言ってるの?」
明の意図がいまだに読めない。しかし、なんとなく嫌な予感がよぎる。いままさに優也の不安の原因が、紐解かれようとしているのではないか。
やがて、明は「くはっ」と笑った。さながら、追い詰められた犯人のような、黒幕じみた本性が表面化する。
「やっぱり、気づいてないか。まぁ、それもそうだよね。僕が大楠を好きになったとき、お前はもう優也のだったから」
寂しそうに、半ば非難めいた声音で言う彼の声は、掠れていてうまく聞き取れない。風とギターの音がうるさいから余計に。
息が詰まった。頭は混乱して、真っ白になっている。
「……嘘でしょ」
「その言い方はひどいよ。傷つくなぁ」
さっと血の気が引いた。夢なら覚めてほしいと祈ってしまいそうなくらい直視できない。それでも明の話は続き、耳は都合よく塞がらなかった。
「覚えてる? 二年前の文化祭。あのとき、初めて大楠に会って、一目惚れだったって言ったら信じてくれる?」
「信じない」
「……一目惚れだったんだよ。信じてよ」
せいいっぱいの悪あがきをしようと、彼は必死に笑っていた。痛々しくて見てられない。それに、切なげな表情を見ても信用できはしなかった。愛情よりも不確かなものが、この世に存在するとも思えない。ありえない。だって、かわいくない女の子なのに、これでは都合がよすぎる。
「ひとを好きになるのに理由はいらないと思うよ。多少の好みはあるかもしれないけど、僕の場合は言葉も理由もいらなかった。大楠のことが好きになってしまった。でも、それが一パーセントの望みもないことは決まっていた。そしたらさ、僕はどうにもひねくれた考えをひらめいたんだよ」
彼は少し言葉を切った。
そのたびに、胸が張り裂けそうに痛む。緊張で全身が軋んでいる。顔はきっと険しくて、明を睨んでいるんだろう。それでも彼はとつとつと続けた。
「優也の一番の親友でいて、大楠の相談相手になる。絶好のポジションだろ。お前に無条件に会いたいがために、僕はずっと優也を利用してたんだよ」
「………」
聞きたくなかった。でも、予想ができてしまった。そうじゃなきゃ、彼がずっと気にかけてくれるはずがない。そして、機をうかがっていたことも。優也と別れた直後を狙って優しく声をかけようとしていた卑怯者を、どう責めようかなんてすぐには思いつかない。
「……種明かししたら、罵倒してくれると思ったのに。調子が狂うな」
明は背を折り曲げ、脱力して膝に手をついた。枯れた笑いが漏れてくる。いまにももろく崩れてしまいそうなほど、弱っている彼に冷たく罵る言葉なんて見つかるはずがない。
「どうしていま、急にそんなことを」
喘ぐように言うと、彼は顔を見せずにすぐさま返した。
「いろいろと事情はあるんだけどさ。それを抜きにしても、いま言っておかないとダメだと思った」
「だからなんで?」
「このタイミングを逃したら、僕はもう一生、大楠に告白できないから」
彼の気持ちと同じく不確かで曖昧な答えだった。そんなことを言われても納得できるわけがない。涼香は腕を抱いて寒さに耐えた。
あんなに爽やかで心地よかった歌が、いまは寒々しくて寂しい。
明はまだ顔を上げてくれない。どんな顔をしているかわからないから、責めることも慰めることもできない。
「じゃあ、このことを優也は……」
「知らない。でも、感づいてる。それで僕を避けてるんだ。警戒してるんだろうね。だから、あいつとはもう仲直りできないんだよ」
淡い期待はもろく崩れ去った。そして、優也に無神経な言葉をかけたことを悔やんだ。明を傷つけてきたことを恨んだ。様々な黒い感情が渦巻き、風に煽られたら倒れてしまいそうだった。それは明も同じなのかもしれない。そして、優也も。
その瞬間、脳が冴える。明の言動は、はじまりの文化祭で明らかだった。繰り返した過去の中で、決定的な分岐があるとすれば、明を助けたか否か。彼を文化祭で助けていたら、ここまでこじれることはなかっただろう。
やはり、過去を変えることは重罪だった。
「もう一つ言うと、僕は明日の文化祭でお前に告白するつもりだった。区切りをつけたくて。そんなの、僕の勝手な自己満でしかないんだけど、聞いてほしかったんだ」
「それなのに、いま言うんだ」
「仲直りしてくれって言われて、はいわかりましたって言えるほど簡単なものじゃないからね。ずっと近くで片思いして、絶対に実らないっていう生き地獄みたいな状況に、そろそろ耐えられなくて」
たしかに、ここまでくれば修復は望めないんだろう。わかっていても、すぐには受け入れられることではなく、涼香はその場に立ち尽くすだけ。
明はゆっくりと顔を上げた。涙を滲ませて、悲しそうに笑う。
「好きだったよ、ずっと。あんなやつより、僕を見てほしい。それはいまも思ってる」
「………」
「これを言ってしまうと、もう友達には戻れないよね……でも、もう疲れたんだ。だから悪いけど、優也と一緒に悪者になって」
一方的な八つ当たりだ。でも、そんな明を責めることはできない。おそらく優也も。それほどに無神経なことをしてきた。無自覚に明を傷つけてきた。どんなに願っても、いつの間にか狂った友情は修復できない。
涼香はうなずくこともできず、呆然としていた。答えなんて出てくるはずがなく、いまだに彼の思いを拒否している。いつまでも口を開けないでいると、明が諦めた。脇をすり抜けるように、屋上の出口へと向かう。
そして、彼はふと、ドアの前で立ち止まった。
「——告白したきっかけはね、ほかにもあるんだ」
静かな声の中に火花が散った。呆れにも似たため息と乱暴な声が同時に出てくる。振り返ると、明がドアノブを回した。
「……これでいいんだろ? 右輪」
開いたドアの向こうには、ふわふわの三つ編みが唇を噛んで立ち尽くしていた。
「どうして……」
なぜ、こころがここにいるのか理解ができない。放心状態の頭は使い物にならず、拙く問いかけてしまった。
こころはバツが悪そうに涼香を見やるが、答える気はなく、まっすぐに明を見上げた。その目には軽蔑の色がある。いままで見たことがないほどによどんだ目をしていた。
「ねぇ、杉野くん。どうして涼香が悪者になるの? おかしいよね?」
詰問する彼女に、明は押し黙った。その隙を突こうと、こころはさらに鋭く詰め寄る。
「だって、杉野くんがどう思ってたか、涼香は知りようがないんだよ。それなのに、勝手に感情を押しつけてる。ひどいよ」
「こころ! そんな言い方しないで」
思わず駆け寄って間に入るも、明とこころは互いに冷めた表情を突き合わせており、その空気を緩和させるほどの威力はなかった。
「大楠に告白して、ふられろって言ってきたお前がそれを言うの?」
衝撃的な発言が明の口から繰り出された。こころの目が怯む。
「い、言い方ってものがあるよ。涼香のことが好きなら、優しく身を引くくらいの誠意を見せてよ」
「僕はそこまで大人じゃない」
「ちょっと、二人とも! 話が見えないんだけど」
聞き捨てならない言葉の数々につい口を挟んだ。いったい、二人の間でなにが起きているんだろう。止めに入るも、彼らの熱は冷めやらない。
「右輪ってさ、本当にお節介だよね。大楠のためなら手段を選ばないって感じ」
明の声には嘲笑が混ざっていた。その冷たさに身震いする。こころも同じようで、勢いがだんだん縮小していった。
彼の言い分が正しいのなら、こころはまたしても涼香の恋愛ごとに首を突っ込んで、あれこれと手を回していたということになる。そこまでの推察ができるようになって、涼香はおそるおそる口を開いた。
「こころ、本当なの? なんでそんなことを」
「涼香のためだよ。それ以外に理由はない」
こころはすぐに口走った。だが、その説明では涼香はおろか明だって納得はしない。
「大楠のためなら、他人を傷つけてもいいんだ?」
「そういうつもりはない、けど」
「でも、こうして聞き耳立てて監視してるんだろ。大楠のためだなんて言っておきながら、結局は自分が都合のいいように操作してる。言っとくけど、お前に言われて告白したわけじゃないから。勘違いするなよ」
普段、穏やかな彼にしては随分と荒っぽく、怒気を含んだ言い方だった。その口調に怯え、涼香もこころも肩を震わせた。こころの怯えようは尋常じゃなく、足元がぐらついている。
それを認めてしまえば、明も諦めてため息を吐いた。こころを押しのけて校舎に戻る。すれ違いざま、彼は嫌味ったらしく言った。
「もういい。あとは右輪のシナリオに任せる」
「明!」
たまらずたしなめるも、明の潤んだ目が涼香を責めた。
「これで僕のこと、嫌いになっただろ?」
返す言葉が見つからない。目を伏せると、彼はもう答えを待たずに階段を下りていった。
同時に、こころがその場でしゃがみこむ。そんな彼女を、涼香はゆっくりと見下ろした。
「……説明して」
声を震わせて唸ると、こころは気を抜くように頬を緩めて見上げた。
***
濃い青の上に灰色の雲が伸びやかに線を描く。細い横縞の空模様が遠く彼方にあり、なんだか心まで遠のくように思えた。
青は悲しい色だ。寂しさを増長させる。ギュルギュルと渦巻くギターサウンドのように腹の底が疼く。
いらだちとも切なさとも違う、むしろスゥッと透き通っていた。胸に隙間風が通るような。のど飴の薄荷味のような。風で肺が沁みるような。そんな冷感だ。
くぼ商店街への道のりが長く、電線をたどりながらこころと歩いた。学校を出てからずっと互いに黙ったままだ。
老舗文具店、仏具店、古着屋といった年季の入った茶色の外観が並ぶ中、古風で錆びついたミギワ堂古書店が現れる。
「ただいま、おじいちゃん」
帰ってくるなり奥のレジカウンターへ声をかけるこころ。すると、白猫の爪を切っていた祖父がメガネ越しにこちらを見た。
「おかえり」
柔和なしわがほころぶ。それから、涼香の顔色をうかがうように、猫の前足を持った。
「涼香ちゃんも、おかえり」
「た、ただいま……?」
反射的に言うと、こころの祖父はにっこり微笑んだ。
「おじいちゃん、あとはあたしがお店しめるからー」
いつものようにレジ台へカバンを置き、祖父を追い立てる。「ぶにゃん」と猫の不満そうな鳴き声が遠ざかった。
沈黙。古い蛍光灯が何度か点滅した。
「……涼香」
じゅうぶんに空気が冷めると、ようやくこころの口が寂しく言った。
「ごめんね」
この空気の重さがいたたまれない。涼香は古く黄ばんだ天井を見上げた。
「まずは、どうしてこんなことをしたのか、それを教えてよ」
明の気持ちを踏みにじってまで、涼香と優也の交際を応援し続けていたその真意を知りたい。いや、答えはわかりきっている。
「私のためにってさ。そんな重いことを、なんでこころがやらなきゃいけないの?」
彼女が黙るから、言葉と疑問がどんどんあふれた。歯止めが効かなくなる前に話してほしい。しかし、涼香の口はこころの沈黙を追い詰める。
「私が危なっかしいから? そんなに私のことを怪しんでたの? それとも、私が相談したから? こころにこの先のことを不安だって言ったから?」
——もしも、私のせいでこんなことになったのなら。
それも、過去を変えてしまったせいで人間関係にゆがみが生じたのかもしれない。タイムパラドックスというやつだろうか。
矛盾と言えば、全員が抱えている問題でもある。明も、優也も、涼香も。こころだけを責める権利なんかない。
黙るこころを見ているうちに、ますます気が重くなった。自問自答で頭の中がうるさくなる。
「全部、私のせい?」
「それは違う!」
突如、鋭い否定が店の中を駆け抜けた。
驚きで目をしばたたかせると、こころは歯を食いしばり、顔をうつむけた。レジ台に水たまりができる。ぼたぼたと涙が落ち、たちまち彼女は肩を震わせてしゃくりあげた。
「違うの……こんなつもりじゃなかった。涼香がダメにならないように、寺坂くんとうまくいくように、それだけを考えてたの。でも、結果的に、こんな……あたし、杉野くんのこと、傷つけちゃった。バカなこと、しちゃった」
息を飲んだ。こころの涙を間近で見ると、なにも考えられなくなった。
こころがこの選択をしなければいけなかった世界をつくりだしたのは涼香自身だ。その罪悪感が一気に全身を駆けめぐる。
「一年のときに涼香に怒られて、それで懲りたはずなのに。でも、涼香が困ってるなら、あたしはなにを犠牲にしてでも助けたいって思ってるから。だから、全然見えてなかった」
あはは、と場にそぐわない笑いが涙とともに落ちる。
「こころ」
なんて言えばいいんだろう。最適解なんかどこにもない。それなら、いっそ愚鈍なままでいてしまおうか。そんなずるい考えを働かせ、涼香は努めて優しく言った。
「私、やっぱりどうしてもわからないよ。こころがどうして私のことを助けてくれるのか、全然わかんない」
こころの厚意は重い。彼女がそこまでする理由がわからない。
優也に告白するよう仕向け、今日は明の気持ちをないがしろにして傷つけた。涼香に対する優しさと平等じゃない。
こころは鼻をすすり、呆れて笑った。
「あたしもバカだけど、涼香も相当のバカよね」
「鈍感思考ですから」
「ほんとそれ。鈍感すぎて、心配だよ。本当に」
こころは涙を袖で拭い、息を整えた。すっかりまつげが濡れてしまい、涙の粒が残っていた。そして、わざと抑揚のない声で静かに語り出す。
「あたしはね、小さいころに両親が離婚して、それからずっと寂しいんだ」
涼香は思わず、店の奥にある居間を盗み見た。祖父の姿は一切見えない。それになぜか安堵する。こころもゆっくり慎重に言った。
「胸にぽっかり穴が空いたみたいでさ。それは喪失感っていうのね。ひとは失ったものがあると、そのぶん強くなれるんだって。そんな話をずっと信じてたんだけど、いつまで経っても塞がらないの。悲しいことはそのまま残り続けてる」
喪失感という言葉が、やけにしっくりきた。こころのこれまでに比べたら、失恋や友情の亀裂なんか些細なものだろう。同等だと思ったら厚かましい。
「でもね、それ以上に悲しいことはないのも事実で、自分の中のキャパシティが広くなったわけ。つらくても前に進まなきゃいけないから……それなら、あたしはなにかを生きがいにする必要があった。つらさや弱さを振り切れるほどの楽しいことを見つけなきゃいけなかった。それでね、二年前に見つけたのよ」
こころは柔らかに微笑んだ。涙に濡れた笑顔は、春の陽だまりのようにあたたかい。
「涼香があたしに話しかけてくれたから。それだけで救われた」
その瞬間、涼香は記憶の海に潜りこんだ。
制服が馴染まない春のこと。中学時代の知り合いが何人かいるものの、教室の浮ついた空気が肌に合わないからベランダに出た。ここでばったり出くわしたのがこころだった。一人でしんみりと窓を眺める彼女に、ただ気まぐれに声をかけた。それが始まり。
「そんなこと、あったね」
「あ、忘れてたんでしょー? 涼香って、ほんとそういうとこあるからー」
冷やかしの言葉を投げつけられる。こころも恥ずかしいらしく、照れ隠しに「いひひ」と奇妙な笑い声をあげた。
「まぁ、でも、あたしも自分で言うまで思い返しもしなかった。それくらい、毎日が楽しいの。涼香が困ってるなら助けたい。それがヒートアップしちゃって、余計なことばかりしちゃって。寺坂くんと杉野くんのことで涼香が悩む姿を見てられなくて……なにやってんだろうね、あたし」
しんみりと寂しさをにじませるから、それに合わせて押し黙る。もう何度も言葉を思いついては打ち消している。
「でもまぁ、それがあたしの本性ってやつなのかな。自分でも見えなかったもの。他人を傷つけてまでも、目の前のひとを守ろうとしちゃう、ヒーロー気取りで浅はかで矛盾だらけで、子どもっぽくて。なにが青春哲学よ。バカみたい」
「それを言うなら、私もそうだよ。全然、自分のことがわからない。見えてない」
いつでもどこか迷いがあったのは、喪失を体感したからなんだろう。
こころの秘密を知ったいま、涼香も激情に駆られた。自分の奥底に秘めていた、自分でも見えていなかったものが急に蘇る。
「この間、聞いてきたでしょ。どうして『かわいい』が苦手なのかって。それを思い出したよ」
こころに比べたらやはり、はるかに小さなものであって、同等に並べるのがおこがましい。それでも、彼女が言うキャパシティというものの大きさに個人差があるのなら、この古傷が基準だろう。
「私ね、小学生のころ、同級生の女の子に言われたんだ。『大楠さんにピンク色は似合わない』って。かわいいものが似合わないって。ただのやっかみなんだろうけど、それでも、そこから私は、自分のことが苦手になった」
女の子の代名詞みたいなフリルやピンクが好きだった。いまでもファンシーなぬいぐるみのコインケースを隠し持っている。甘いものが好きで、一年生の文化祭でつくったパンケーキ屋は自分の中に秘めていた『かわいいもの』の寄せ集めだった。
似合わないと決めつけて、否定されない自分でいることがかっこいいと奢っていた。閉じ込めて隠しても、無意識に羨望していた。そうしてねじれたら、戻れなくなった。彼氏ができても、どこか冷めた不感症でいつづけた。
だから、うまくいかないんだろう。甘えた逃避癖を抱えて、気づこうともしないで流されるまま大人になろうとしている。つらい現実も乗り越えられなくて、過去にすがっている。強がってるだけで、弱さを認めない。
そんな自己分析を終えると、目尻が少しだけ湿った。
「気づけただけでも立派だよ」
こころの声に熱が入る。それを直視したら、涙がこぼれそうで慌てて天井を見上げた。