二月の札幌での入試を終えて帰って来てすぐのバレンタインの日、優子は生まれて初めて手作りチョコレートを翔馬に渡した。
「少しいびつじゃけど…」
「優子の気持ちにいびつも何もあるか」
そういった翔馬の武骨な優しさが、優子は男らしく感じられたらしい。
翔馬は初めて、優子の好きなものを認めてくれた。
「…恋って、こげな感じなんじゃね」
優子は屋根裏部屋で小さくつぶやいた。
バレンタインの夜、翔馬は優子の屋根裏部屋の窓の下まで来ると、
「…OK」
優子は物音をたてないように抜け出した。
「一応、ゴムだけは持ってきたよ」
二人は前に夜景を眺めた蜜柑畑の中へ入ると、
「…会えなくなる前に、ね」
翔馬と優子は、中学生らしからぬキスを交わしたあと、互いの初めてを捧げあった。
「…優子、大丈夫?」
「大丈夫」
優子は翔馬がこんな時でも優しいとは思わなかったらしく、初めてのはずなのに興奮してしまった。
「…ありがと」
二人はしばらく抱き合ったまま、星を眺めていたが、寒くなってきたのを頃合いにそれぞれ帰途についた。
三月、他所より少し早く咲く桜を見捨てるように、優子と翔馬は島からバスで呉駅へ出た。
呉からは空港までバスが出ていて、優子は午後のフライトで新千歳まで行く。
「ここで、とりあえずお別れかぁ」
翔馬は広島から新幹線なので、呉線へ乗る。
「LINE交換しとこ?」
優子に言われ、二人はLINEのIDを交わした。
「…うちの純潔ば奪ったんじゃけ、責任取りんさいよ」
優子は小さく囁いた。
「お、おぅ…」
翔馬は面食らったが、
「さよならはうちは言わんよ」
「…またな、優子」
優子が乗った空港行のバスを、小さく消えるまで見送ると、翔馬は切符とリュックを手に、呉駅の改札へと消えていった。
名前負け、という言葉がある。
名前になまじ威力があると、中身が伴っていないような雰囲気にすらなってしまうことがあって、たまにそれで本人が迷惑をこうむる場合さえあった。
龍造寺翔子は、
「書きづらいわバランス取りづらいわ、龍造寺って何でこんなんつけたんやろか」
口を極めてボヤき倒した。
が。
世の中、悪いことばかりではない。
転勤族の子だが名前はインパクトがあるから、覚えてもらうに困ることがない。
転校するたびに自己紹介で挨拶をすると、
「まさか芸名じゃないよね?」
などと訊いてくる者すらある。
「一般人でなんで芸名使わなあかんねんな」
関西弁で親しみやすいキャラクターは、そこで活きてきた。
「翔子って関西なんだ?」
「生まれたのはね」
確かに生まれたのは大阪の吹田で、この時期までは父親も関西圏での転勤であったから、ほとんど引っ越すこともなく、一時少し奈良にいたぐらいである。
ところが。
「翔子、次の転勤は札幌や」
受験で志望校を決めなくてはならない時期に父親から言われたので、
「いや…うち関西残りたい」
無理もない。
今の中学校も二回目の転校で、ようやく馴染んだばかりではないか。
「オトンだけ単身赴任でけへんの?」
「支店長で社宅やし、それには家族同居が条件やし…」
「大人の都合で受験生振り回さんといて!」
翔子にすれば、また志望校を選び直す手間がある。
さらに選び直せば試験対策も変わるので、かんたんな話ではないのである。
そんなとき、進路指導の教師が持ってきたのは薄紫色の封筒である。
「ライラック女学院高等部、ここなら通信制もあるし、何より大阪でも入試をするらしいから」
なるほど大阪で試験を受けて、合格する頃には札幌へ引っ越しているから良いだろう──というのである。
「しかも学費が安い」
そもそもアメリカのキリスト教系の団体が大正時代に作った学校で、ほとんどが寄付金と学費で賄われている。
パンフレットを見たら、ダークグレーのセーラー服で可愛い。
「…頑張ってみる」
多少は、前向きにとらえられたようである。
運良く合格した翔子は、三月の半ば過ぎに関空から渡道した。
新千歳空港は、空気がまだ寒い。
「ベンチコート入れといて良かったわぁ」
バスで札幌が近づいてくると、まだ路肩には雪もある。
「…わぁ、ホンマに来たわ北海道」
不安と期待の入り交じった夜の国道から、時計台の角を曲がる頃には、疲れてウトウトと半分眠っていた。
ライラック女学院には越境入学組のための学生寮もある。
しかし翔子は両親と引っ越してきたので、新札幌のマンションから電車で通うこととなった。
「電車一本は楽やわー」
翔子は敢えて関西弁のまま直さない。
「なんか関西弁やと痴漢も寄って来んしえぇねん」
事実、入学式の帰りに触られたのだが、
「あんた三分触ったから諭吉三枚、三万円もらうで!」
腕を掴んで声を張り上げ、その場で現金を要求したら、次の日から誰も電車内で翔子の隣に来なくなった。
「北海道の男、チョロいな。あんなん関西で言うたら札束渡されて触られ放題やわ」
翔子には少し危なっかしい面もある。