造り酒屋は蜜柑畑を縫うように走る坂の果ての、小高い丘の上にあった。
朝になると広縁に朝日が目一杯射し込んで、午後は陽が山の陰となって、海風で夏場は特に涼しくなる。
「優子、宿題終わらせてから遊びに行きんさい」
「はーい」
二階の屋根裏部屋は特に涼しかったので、郷原優子は早々と宿題を済ませると、自転車を駆って蜜柑畑の坂道を下り、集落に一つしかなかった小中学校のグラウンドを目指した。
「造り酒屋の優ちゃん」
といえばよく自転車を乗り回し、グラウンドで走り回ったりする活発な女の子として集落では知られている。
「フリフリでヒラヒラな恰好ばしよるけん、余計目立っとった」
呉の駅前にある手芸用品の店でレースを買って、和裁の得意であった祖母から習った裁縫で、ワンピースやブラウスの襟や袖口に片っ端からレースをつけて、遊びに行くのも日常茶飯事であった。
集落の小中学生は全部で四十人もいるかいないかで、その中で特に優子の服は少し変わっていたからか、
「郷原さんとこの優ちゃん、少し変わっとるけぇありゃ何かの病か何かじゃなかろうか」
などと言われ、さすがに思春期を迎え中学も受験生となると、寄り付いて遊ぶ者もほとんどいなかった。
生徒の間では、
──あれは中二病ぞ。
などと噂され、たまにではあるが椅子に画鋲を撒かれたり、鞄がゴミ箱に捨てられたりというのが起こるようになっていた。
しかし。
「郷原、一緒に帰らん?」
いつも誘ってくれたのは、造り酒屋の手前の駐在所に住む、警察官の息子の清平翔馬であった。
「うちといると、ショーマも一緒にいじめられるけぇ…」
消極的な優子に、
「おなごを守るんが男じゃ、そげなもん構わん」
気にすることなく並んで坂をのぼってゆく。
翔馬は警官の倅だけに正義感は強く、
「郷原の鞄ばゴミ箱に捨てよったん誰じゃ!」
などと食ってかかっては、取っ組み合いの喧嘩で顔に傷を作ったりもする。
優子はそれが胸が痛かったのか、
「もうやらんでえぇって…」
「何してや?! お前が言えんことを俺が言うちゃっとるんぞ?!」
翔馬は優子の肩を掴んだ。
「…俺が、郷原ば守っちゃるけぇ安心せぇ」
痛いぐらい真っ直ぐな眼差しで言われると、優子は何も言えなくなる。
小さい頃は同い年というぐらいで意識すらしていなかったのに、いつから気にするようになったのかは優子にも分からなかったらしい。
今は仕方なく並んで通学したり帰ったりしているが、
(出来るなら別々がえぇ)
けど、いざ一人の帰り道となると寂しくてたまらない。
これが何であるか、優子はよく分からない。
「…どうしたらえぇんじゃろか」
屋根裏部屋へ帰り着くと、ブレザーの制服姿のままぼんやりと考えることも増えた。
そうした週末、
「郷原、頼みがあるんじゃけど?」
電話の声の主は翔馬である。
「今度、ちょっと宮島まで届け物のあるけぇ、ついてきて欲しいんやけど」
「…一人で行かれんの?」
「ったく…郷原もカンが鈍いのぉ」
とりあえず約束だけは取り付けて電話を切った。
約束の日曜日、朝早くバスターミナルで待ち合わせた翔馬と優子は始発のバスでまず島と本土を結ぶ橋を渡って呉まで出て、呉線で広島駅まで出てから、宮島口を目指した。
優子は真っ青なワンピースにレースがついたお気に入りの一着を着て出てきた。
たまにレースを買いにぐらいしか来ない呉の街ですら混んでいるように見えるのに、まして広島は当時の優子にすれば大都会で、翔馬とはぐれたら二度と島に帰れないのではないかと、心細くなってきた。
「郷原とはぐれたら、俺が困るけぇ」
急に翔馬は優子の手を握った。
「…」
優子は言葉にならない言葉を探したまま、首まで真っ赤になるぐらい耳まで紅潮した。
それからは手をつないだまま、とうとう宮島口まで来てしまった。
桟橋まで歩いて、フェリーで宮島に渡ると外国人が数多いて優子は人酔いしそうになったが、翔馬とはぐれるのが怖くて手をつないだまま、土産物屋の角を曲がって奥まった、翔馬の親戚だという家まで届け物を無事に済ませた。
「せっかく来たけぇ、お参りだけでもしとく?」
優子が初めて意志をあらわした。
翔馬と優子は拝観料を払って、寝殿造の廻廊を巡ってから本殿で参拝し、札所でお守りを買った。
「な、交換しとかん?」
さっき優子はピンク、翔馬は青のお守りを買ったのだが、
「互いに持ち合いしとったら、互いに守ってくれそうじゃろ?」
翔馬の提案で、優子は青のお守りを渡された。
(ピンク良かったのに…)
内心が口から出かかったが、こんなところで喧嘩なんかして帰れなくなるのは困るので、優子は黙っていた。