午後の授業が終わり放課後になると、俺は校舎の中をさまよっていた。何となしにふらふらと歩いて、校舎三階の音楽室へとたどり着く。
本来、この音楽室はオーケストラ部が練習をする場所だが、あの部はかなり大所帯であるため、週に何回かは体育館を使って活動するそうだ。ゆえにここは、彼らのテリトリーでありながら、放課後にはこうしてもぬけの殻になることが多い。誰もこの部屋を訪れない空白の時間。俺はそんな時間を狙って、音楽室に踏み入っていた。
なぜ、音楽室なのか。
答えは、窓際に立って外を見下ろすとそこにある。
眼下に広がっているのはグラウンドだ。この音楽室の大きな窓から、綺麗に一望できるグラウンド。そこではサッカー部の練習が行われていた。
赤い陽の光を横薙ぎに受けながら、俺は窓ガラス越しに、白黒のボールと人の影を目で追いかける。
少人数だが和気藹々としていて楽しそうだ。一年生の仮入部者も何人かいて、中には孝文の姿も見受けられる。どうやら、今朝俺を誘った東山や日比野と一緒らしい。
しばらくの間、俺は無言でその光景を眺めていた。
「…………」
俺が音楽室にやってきたのは、サッカー部の練習風景を見るためだった。
自分がもうサッカーをできないことは既に受け入れたつもりでいるが、それでもたまに、こうして旧懐の想いに浸りたくなることがあるのだ。もしかしたら昼休みに孝文と話した中で、中学時代の記憶に触れたのが、きっかけになったのかもしれない。
音楽室は静かだった。その寂々たる空気は、窓の外から聞こえる活気付いた掛け声を、よりいっそう意識させる。夕焼けの中で音に溢れるグラウンドと、海の底のように音のないこの音楽室は、窓ガラス一枚を隔ててまるで別の世界みたいに思えた。
「……今更、何をしてるんだろうな。俺は」
口からそんな言葉が零れたのは、あまりの静けさに耐えられなかったからだろう。同時に左膝が、少しだけ疼く。
現実を受け入れて、半ば諦めてしまった俺はもう、あのグラウンドに立つことはないのかもしれない。無音を貫くこの世界は、あの賑やかな世界から弾き出されて空っぽになってしまった俺の心と、同調しているように思われてならなかった。
「いつまでもこんなんじゃ……駄目だよな」
サッカーとはもう決別した。苦しみも乗り越えて、前を向いたつもりでいる。
でも、懐かしさに捕らわれて前へ歩き出せないままでは、新たに何かを得ることはできないだろう。あの頃のように、夢中になって心躍ることには、もう二度と出会えない。
伏し目がちになり、踵を返す。単なる気晴らし目的の散歩のはずが、部屋の柱にかけられた時計を見やると、かなり時間が経過していた。
俺はそろそろ帰ろうと思い、部屋の出口に向かって歩く。
しかし、そのときだ。
ひたすら静寂だった空気の中に、何やら微かな音が流れていることに気づいた。耳を澄ますと、それは隣の部屋から聞こえてくる。隣は音楽準備室だ。
ゆっくりと一つ一つ確かめるような速度で、音が奏でられている。そうして連なるメロディに、俺は不思議な親しみを覚えた。
何だろう。俺がここへ来たときには、そんなもの聞こえていなかったはずだけれど。
そう思うと、足先は自然と音の方へ向かってしまう。この部屋と準備室を繋ぐ扉は施錠されておらず、ノブを捻るとすんなり開いた。
わずかに隙間を作って、そっと向こう側の様子を伺う。
瞬間、クリアになった音が耳に入り、埃の匂いが鼻をついた。そして俺がこの目に捉えたのは、逆光の中でギターの弦を弾く女の子の姿だった。
狭い部屋で一人だからか、短い制服のスカートなのに座って足を組んでいる。すらっとしていて、音を鳴らす度に長い髪先が優雅に揺れる。目を細めて見定めると、その容姿には見覚えがあった。
鳴海玲奈だ。
燃えるように赤く染まった部屋の真ん中で、鳴海は俯き気味に、大きなアコースティックギターを弾いていた。
彼女はどうやら、俺の存在に気づいていないようだった。音が乱れることはなく、ゆっくりと深く、リズムを刻む。
そんな彼女に、俺は魅入ってしまっていた。知らず知らずのうちに意識を吸い込まれ、光の中の彼女に、ただ釘付けになっていたのだ。
なぜならそれは、彼女のギターがあまりに繊麗で美しかったから。そして彼女の表情が、その凛とした音と相反するくらい、苦しくて辛そうだったから。
少しすると、やがて彼女は手を休め、消え入るような声で呟く。
「……今更、何だっていうのよ……」
まるで冬空の下で寒さに耐えるかのように身を縮め、彼女はギターを抱きしめた。唇はきつく閉じられて、長いまつげが瞳を覆う。埃が光を散らしただけかもしれないが、目元はわずかに、きらりと濡れているようにも見えた。
完成された名画のような光景だと思った。
俺はその光景を目の前にして、間違いなく陶酔し、深く深く飲み込まれた。神経伝達が完全に麻痺して、身体の制御を忘れていたのだ。
だから、意識を取り戻したときには、少しばかり遅かった。
不意にもたれかかっていた扉がギイッと鳴って、時の止まった空間に割り込んでしまった。
あっ……やべ!
いけないと思って、俺は咄嗟にノブを引く。できるだけ静かに扉を閉め、そしてひとまず、そこに背中を預けて座り込んだ。
一秒、二秒、息を止め――。
やがてせり上がってきた焦りを押し込め、溜息をつく暇もなく、すぐに腰を上げてそそくさと音楽室から立ち去った。
本来、この音楽室はオーケストラ部が練習をする場所だが、あの部はかなり大所帯であるため、週に何回かは体育館を使って活動するそうだ。ゆえにここは、彼らのテリトリーでありながら、放課後にはこうしてもぬけの殻になることが多い。誰もこの部屋を訪れない空白の時間。俺はそんな時間を狙って、音楽室に踏み入っていた。
なぜ、音楽室なのか。
答えは、窓際に立って外を見下ろすとそこにある。
眼下に広がっているのはグラウンドだ。この音楽室の大きな窓から、綺麗に一望できるグラウンド。そこではサッカー部の練習が行われていた。
赤い陽の光を横薙ぎに受けながら、俺は窓ガラス越しに、白黒のボールと人の影を目で追いかける。
少人数だが和気藹々としていて楽しそうだ。一年生の仮入部者も何人かいて、中には孝文の姿も見受けられる。どうやら、今朝俺を誘った東山や日比野と一緒らしい。
しばらくの間、俺は無言でその光景を眺めていた。
「…………」
俺が音楽室にやってきたのは、サッカー部の練習風景を見るためだった。
自分がもうサッカーをできないことは既に受け入れたつもりでいるが、それでもたまに、こうして旧懐の想いに浸りたくなることがあるのだ。もしかしたら昼休みに孝文と話した中で、中学時代の記憶に触れたのが、きっかけになったのかもしれない。
音楽室は静かだった。その寂々たる空気は、窓の外から聞こえる活気付いた掛け声を、よりいっそう意識させる。夕焼けの中で音に溢れるグラウンドと、海の底のように音のないこの音楽室は、窓ガラス一枚を隔ててまるで別の世界みたいに思えた。
「……今更、何をしてるんだろうな。俺は」
口からそんな言葉が零れたのは、あまりの静けさに耐えられなかったからだろう。同時に左膝が、少しだけ疼く。
現実を受け入れて、半ば諦めてしまった俺はもう、あのグラウンドに立つことはないのかもしれない。無音を貫くこの世界は、あの賑やかな世界から弾き出されて空っぽになってしまった俺の心と、同調しているように思われてならなかった。
「いつまでもこんなんじゃ……駄目だよな」
サッカーとはもう決別した。苦しみも乗り越えて、前を向いたつもりでいる。
でも、懐かしさに捕らわれて前へ歩き出せないままでは、新たに何かを得ることはできないだろう。あの頃のように、夢中になって心躍ることには、もう二度と出会えない。
伏し目がちになり、踵を返す。単なる気晴らし目的の散歩のはずが、部屋の柱にかけられた時計を見やると、かなり時間が経過していた。
俺はそろそろ帰ろうと思い、部屋の出口に向かって歩く。
しかし、そのときだ。
ひたすら静寂だった空気の中に、何やら微かな音が流れていることに気づいた。耳を澄ますと、それは隣の部屋から聞こえてくる。隣は音楽準備室だ。
ゆっくりと一つ一つ確かめるような速度で、音が奏でられている。そうして連なるメロディに、俺は不思議な親しみを覚えた。
何だろう。俺がここへ来たときには、そんなもの聞こえていなかったはずだけれど。
そう思うと、足先は自然と音の方へ向かってしまう。この部屋と準備室を繋ぐ扉は施錠されておらず、ノブを捻るとすんなり開いた。
わずかに隙間を作って、そっと向こう側の様子を伺う。
瞬間、クリアになった音が耳に入り、埃の匂いが鼻をついた。そして俺がこの目に捉えたのは、逆光の中でギターの弦を弾く女の子の姿だった。
狭い部屋で一人だからか、短い制服のスカートなのに座って足を組んでいる。すらっとしていて、音を鳴らす度に長い髪先が優雅に揺れる。目を細めて見定めると、その容姿には見覚えがあった。
鳴海玲奈だ。
燃えるように赤く染まった部屋の真ん中で、鳴海は俯き気味に、大きなアコースティックギターを弾いていた。
彼女はどうやら、俺の存在に気づいていないようだった。音が乱れることはなく、ゆっくりと深く、リズムを刻む。
そんな彼女に、俺は魅入ってしまっていた。知らず知らずのうちに意識を吸い込まれ、光の中の彼女に、ただ釘付けになっていたのだ。
なぜならそれは、彼女のギターがあまりに繊麗で美しかったから。そして彼女の表情が、その凛とした音と相反するくらい、苦しくて辛そうだったから。
少しすると、やがて彼女は手を休め、消え入るような声で呟く。
「……今更、何だっていうのよ……」
まるで冬空の下で寒さに耐えるかのように身を縮め、彼女はギターを抱きしめた。唇はきつく閉じられて、長いまつげが瞳を覆う。埃が光を散らしただけかもしれないが、目元はわずかに、きらりと濡れているようにも見えた。
完成された名画のような光景だと思った。
俺はその光景を目の前にして、間違いなく陶酔し、深く深く飲み込まれた。神経伝達が完全に麻痺して、身体の制御を忘れていたのだ。
だから、意識を取り戻したときには、少しばかり遅かった。
不意にもたれかかっていた扉がギイッと鳴って、時の止まった空間に割り込んでしまった。
あっ……やべ!
いけないと思って、俺は咄嗟にノブを引く。できるだけ静かに扉を閉め、そしてひとまず、そこに背中を預けて座り込んだ。
一秒、二秒、息を止め――。
やがてせり上がってきた焦りを押し込め、溜息をつく暇もなく、すぐに腰を上げてそそくさと音楽室から立ち去った。