午前中の授業という授業を全て頬杖任せの惰眠によってやり過ごすと、あっという間に昼休みにとなった。
 一緒に昼食をとる予定だった孝文がすぐに俺の机までやってきて、学食に行こうと提案する。普段彼は弁当を持参しているが、今日は学食で食べたくて、わざわざ持ってこなかったそうだ。
 俺は購買ばかり利用していて、実のところ学食についてはまだ見たこともなかったのだが、孝文の話ではとても充実しているらしい。
 それを聞いて興味も湧き、快諾して二人で向かう。
 訪れてみると、確かに彼の言葉通りだった。比較的大きくて設備も新しいこの高校に似つかわしい、スペースからメニューまで行き届いた学食だ。掃除がしっかりされていて、観葉植物なんか置かれており、景観への気遣いが感じられる。さらに新学期であることも手伝っているのか、隅から隅まで非常に盛況。
 メニューを選ぶ間、レジに並ぶ間、席を探す間、絶え間なく周りの生徒の話し声が耳に届いた。授業がどうだとか、部活がどうだとか、お気に入りのミュージシャンが最近不調だとか、駅前にできた新しい洋服の店が結構いいだとか。
 俺たちもそんな中で、テーブルに座り食事をしながら、他愛のない話をした。こういう場面では、いつも孝文は率先して話題を振ってくれるのだ。彼はとても色々なことを知っているので、雑談をするには事欠かない。俺に気を遣って、本来しやすいはずのサッカーの話題を持ち出さないようにしているのに、それでもネタは尽きないらしい。
 周りの話を聞いたためか、その日、彼が持ち出してきたのはこんな話だった。
「そういえば、ねえ知ってる? 唯花、新曲出すのやめちゃったんだってね」
「ああ、そういや、そんな噂聞いたな」
 唯花というのは、つい去年ばかりに登場し、瞬く間に流行した女性ミュージシャンの名前である。
 ソロでアコースティックギターを弾きながら歌うというスタイルの曲をいくつか出している。その中でも感傷的な雰囲気のバラードには出色の出来が多い。今をときめく注目の的だ。
 彼女の宣伝文句は、なんと「稀代の天才美少女ギタリスト」。そして実際に、その肩書きに相違ないギターの実力と美しい容姿を併せ持っている。聞くところによると、どうやら俺たちと同世代らしい。
 デビュー当初、名が広まる前は、若くして掲げられた広告があまりに大仰かつ安直なため、誰もが苦笑いを浮かべたものだったが、しかし、そんな印象はメディアに出始めて数日で払拭された。
 彼女の奏でる音は、明らかに他の音楽とは別格だったのだ。緻密で繊細な楽器捌き、そのスキルには天性の才能を感じずにはいられない。アコースティックギター一本で、無限にも近いほど多彩な音を響かせる。彼女の曲は、まさしく彼女にしか再現し得ない完成度を誇っていた。
 そして一方で、容姿は可愛らしくも儚げで、それがいっそう聴衆を魅了し幻惑する。華奢な体つきに淡い金に染めたショートヘアという、まるで妖精のような姿をしているところも人気を博した要因の一つだった。
 その音で、その姿で、彼女が悲恋を語れば聞き手は涙し、声援を送れば立ち上がる元気をもらう。そういう存在として、幅広い世代の人々から愛されている。
 しかし、そんな唯花はデビュー一周年を目前に控え、新曲のリリースをやめるらしいとの噂だった。これは今、世間ではかなりホットなニュースである。
「でもそれ、ちょっと前から言われてただろ?」
「改めて正式発表があったんだよ。最近、あんまり調子よくないみたいだし……スランプなのかな? なんか、一部では引退の噂まであるらしいんだけど」
「それはまた……本当なら随分と騒がれそうだな」
「だよねー。空もさ、唯花好きでしょ? 僕はちょっと心配かなー」
「まあ、確かに好きだけど」
 俺は目の前のAランチをパクパクと口に運びながら返答する。このペースだとすぐに胃の中に収まりそうだ。
 孝文のやつは味わっているのか、ゆっくりとだらだら食べている。
「……だけど、あの人の曲聞くと、どうしてもな」
 ただ、唯花の話をすると、俺の中には必ずと言っていいほど浮かんでしまう記憶があった。
「あー、えっと、あれでしょ。昔、駅前でやってた二人組の……だよね?」
 そう。俺が夜の駅前を夢追いながら走っていた頃、よく耳にしていたストリートライブ。フードを被った二人組のギタリストで、演奏が始まるとちょっとしたイベントみたいに人が足を止めて集まっていた、あのストリートライブだ。
 唯花とその二人組は、楽器の種類が同じこともあってか、本質的に曲の雰囲気が似ているのだ。だからこそ比べずにはいられない。そして俺個人としては、しおらしくて穏やかな唯花の曲より、凛々しくエネルギッシュなあの二人組の曲の方が好みだった。
 俺が頷いて見せると、孝文は微笑む。
「そうだね。それ、僕も少し聞いたことがあるよ。まあ、確かに空はあっちのが好きかもねー」
 ちなみにそのストリートライブは、最近ではもう行われていない。
 俺が中二の冬に膝を怪我して、しばらく駅前に行くことがない間に、いつしか終わってしまったらしい。明確に二人の解散を聞いたわけではないが、あるときパッタリと現れなくなったのだと、風の噂に耳にした。
 孝文はそのことには触れなかったが、でもおそらくは知っているだろう。彼がそこで話題を転換したので、何となくだがそう思えた。
 そうして雑談混じりの食事を終え、俺たちは初めての食堂に満足して教室へ戻った。