金曜日、俺は一週間ぶりの学校へ出向いた。
 ただし時間は既に放課後。赤い夕陽に騒がしい校舎。こんな登校は何とも新鮮な経験だ。
 真っ先に自分の教室に足を運ぶと、学校祭の準備のためか、そこには多くの生徒が残っていた。今の時期は部活と学校祭の準備活動を個人で選択できるようになっている。
 窓際に孝文の姿を発見すると、こちらに気づいた彼はすぐに声をかけてきた。
「あっ! 空!」
「おう、孝文」
「えっと……もしかして、今来た?」
「ああ、もしかしなくても今来たぞ。さすがもうそろそろ登校しようと思ってな」
「……登校、ねぇ。でも、もう放課後だよ? こんな時間に登校するって、いったいどういう神経してるのさ。ていうかそれって登校したことにならなくない?」
「なるよ。なるなる。ちょっと遅くなっただけさ」
「ちょっとって……もう授業全部終わってるけど……」
 俺は今日も、朝から千種の家でギターの練習をしていた。お披露目直前ゆえ、より丹念に合わせたつもりだ。
 渋い顔をする千種を連れてここまで来て、今、彼女には廊下で待ってもらっている。
「それはそうと孝文。頼んだものは?」
「ああ、そうそう。それなんだけどさ。びっくりしたよ。いきなり昨日、空があんな電話してくるから」
「悪い悪い。でも、あったんだよな?」
「あったよ、あったけどさぁ。そんな軽々しく言わないでよー。突然白いギター貸してくれとか言われても、普通は用意できないよ? 大変だったんだからね、探すの」
 実は昨日、俺が千種の家から咄嗟の思いつきで電話をした相手は、孝文だった。
 その用件はまさしく彼の言う通り。千種の持っている黒いギターと同じモデルシリーズの白いギターを、俺に一日だけ貸してほしいというものだ。
 突然電話でそんなことを言い、しかもギターの形も色も指定となれば、もちろんそう簡単には見つからない。都合よく孝文が持っているなんてこともなくて、彼はわざわざ何人もの人に聞いて、ギターを探してくれたのだ。
 結果、サッカー部の友人の、大学生の兄が持っていたものを、どうにか貸してもらえるように手を回してくれた。何も考えずに駄目元で尋ねた俺としては、これ以上にない感謝と賞賛を彼に送って差し上げたい。
「ブラボー孝文! 愛してるぜ!」
「うわー、ちょっと受け取れない告白だね。それと、ちゃんと見返りはもらうからね」
 彼は笑いながらそう言って、教室の奥で机に座っている友人を呼んだ。
 見覚えのあるがたいのいい男子生徒が、傍にあったギターケースを抱えてやってくる。
「はい! ギターはこちらの東山君が貸してくれます! ま、正しくは東山君のお兄さんのものだけど」
 孝文がこれ見よがしにジャーンと効果音をつけて紹介する。
「よぉ大江。これ、兄貴のギターだ。ほとんど新品だぜ」
 東山はケースを少しだけ開けて中身を見せる。
「おー! すっげぇ! 真っ白だ! ピカピカだ!」
「半年前くらいに兄貴が買ったんだけど、すぐに弾かなくなっちまってさ。残念ながら、今じゃ押し入れの肥やしだわな」
 その純白のギターは、千種のギターとほとんど同じ形をしていた。聞けばこのモデルは確かに有名なそれのようで、普及率もそこそこだが、こんな身近に所持者がいた理由はもう一つあった。
 何を隠そう、これは千種の使用モデルであり、つまりは唯花の使用モデルなのだ。唯花の人気が全国的なものになった時期から、そこら中の楽器店で同モデルのタイアップをしているらしい。恐るべし唯花ブーム。
「本当に借りていいのか?」
「いいけど、あんまり長くは貸せないな。兄貴には半ば内緒でかっぱらってきたから」
「それは大丈夫だ。今日のうちに返せる」
「あと、朝倉からは、大江に何でも一つ頼み事ができるって聞いたんだけど」
「え?」
 東山のその言葉に、俺は少しだけ驚いた。まったく予想だにしていなかった発言だ。
 固まる俺を前に、東山は精悍な顔を綻ばせて先を続ける。
「っはは。そんなに身構えるなよ。今度、リフティング教えてくれないか。これも朝倉に聞いたんだけど、すげー技できるんだってな」
 数秒の間、俺は何を言われたのかわからなかった。
 けれども、しばらくして孝文の方を見やると、したり顔の目が答えていた。『ま、それくらいはね』と。
 おそらくギターの貸与のために、彼が提案したことなのだろう。何となくそのやりとりを想像し、孝文ならやりそうだな、なんて自然と思った。
 俺は東山に笑顔を返す。
「ああ、いいぜ。安いもんだ」
 すると彼は嬉しそうに「よっしゃ!」と軽くガッツポーズをした。
 横では孝文がニヤついている。まったく、こいつもなかなか喰えないやつである。
「でもよ。今からそのギター使って何するんだ? 俺はてっきり、学校祭に出るつもりなのかと思ってたんだけど」
 俺がギターケースを受け取って肩に回すと、再び東山が問いかけてくる。
「学校祭?」
「ああ。今週、学校祭のステージでやる雄志発表の審査をやるって話だったろ?」
「へぇ、そうだったのか」
 何だそりゃ。全然記憶にない話だ。初耳も初耳。いや、もしかしたら俺が惚けていただけで、先週あたりに連絡があったのかもしれないけれど。
「へぇって……知らなかったのか。学校祭の最後にやる目玉のイベントだよ。まあその分、出場希望者も多くて競争率も高いし、審査もかなり厳しいらしいけどな」
「面白そうだな」
「だろ? だから俺は、てっきり大江もそのステージに出るんだと思ってたけど……でも、審査、今日の昼休みまでだったんだぞ。なのに今頃になって学校に来るから、いったい何なのかと思って……ほんとお前、そのギターで今から何するつもりなんだ?」
 心底不思議そうに尋ねる東山。
 確かに、他人から見たら今の俺は、何をしようとしているのかまったく想像もつかないだろう。ぶっちゃけ俺だって、ここまでしている自分が自分で信じられない。
 でも、これもなかなか不思議なもので、後悔も迷いも一切なかった。昔から俺は、一度走り始めたら、後先考えない性格だ。
 東山に対しては曖昧に言葉を濁し、けれどもはっきりとした意志を持って、俺は自らに言い聞かせるようにこう答えた。
「いや、まあ、ちょっとな。学校祭のステージじゃないけど、発表会みたいなもんだよ」
 そう、決してライブやショーではない。大きなステージでもなければ、待ち望んでくれる観客がいるわけでもない。
 でも、そんなの全然、関係ない。
 俺は今日、たった一人のために演奏をする。そのためにここまで、この日までやってきたのだ。だから俺にとっては、大事な大事な決戦の日。
 今から俺は、彼女のために――鳴海玲奈のためだけに、千種とギターを弾いてやるんだ。
 よくわからないという顔をしている東山に礼を言い、孝文に鳴海の居場所を聞いてから、俺は教室をあとにした。
 廊下で待たせていた千種を呼んで、急いで移動を開始する。彼女の手を取って廊下を行き、階段を上がる。ギターが重いのか、千種が途中で息を切らしたので、俺が二つまとめて担いで進む。膝の怪我さえなければ本当は走るのだが、大事なギターが壊れても困るので、早歩きでよしとしよう。
 弾く場所はもう既に決めてあった。
 たどり着いたのは校舎の一番上、屋上だ。学校祭が近いためか、いくらか装飾が施されていたり、用具がおいてあったりする。フェンス際に寄ると、この時期にしては冷たい風が吹き付ける。
「はぁ……はぁ……大江、何で歩いてるのに、そんなに速いの……」
 隣では、千種が膝に手をついて息を荒くしている。
 そこそこ背のある俺と比べて千種は極めて小柄なので、その歩幅は俺の半分くらいだろう。俺が早歩きで、結果オーライといったところだ。
 千種が復帰するのを待つ間に、俺はケースからギターを取り出し、音の調子を確認する。さすがにずっとほったらかしだっただけあって激しく音がズレていたので、千種のやっていたようにペグを回してチューニングした。
「ねぇ大江。こんなところに来て、どうすんの……」
「こっから鳴海に向けてギター弾くんだよ。さっき孝文に、鳴海の居場所を聞いたんだ。あいつ、今は講堂で委員会の仕事してて、もうすぐ戻ってくるらしい」
「孝文って誰……。ていうか、それなら講堂に行けばいいんじゃないの?」
「こっちの方がインパクトあんだろ? っと、噂をすればご登場だ」
 俺は講堂と校舎を繋ぐ眼下のテラスを指で示す。鳴海はそこを、委員会のメンバーと一緒ににこやかに歩いてきていた。
「ほら千種、準備準備! 鳴海が校舎の下まで来たら、いつでも始められるようにしといてくれよ」
 フェンス際に低く屈んで身を隠し、ギターとピックを握りしめながら数秒待つ。高鳴る胸に上気する頬。きたるべき絶好のタイミングをやがて迎え、俺は勢いよく立ち上がる。
 大きく息を吸い、そして吐き出す。
「鳴海――――――!」
 俯角六十度、距離二十メートル。その先にいる、笑顔の仮面を付けた彼女――音楽などもうやめたのだと、そんな仮面を付けている彼女に向かって。
 テラスを歩いていた数人は、鳴海を含めて全員がこちらを見上げた。一年生から三年生まで男女様々。俺にとっては知らぬ顔ばかり。何だ何だとざわつきながら俺を見ている。
「頼む! そのまま聞いてくれ!」
 けれども、俺の目線の先のたった一人、鳴海だけはハッとした表情で固まっていた。
 よし、最初の掴みはオッケーだ。
「鳴海の言う通り、俺は、今はサッカーをしていない。もしかしたら、もうこの先ずっとできないかもしれない。俺はもう、サッカーで夢を追うことは、ないんだと思う。それを逃げたって、諦めたって言うのだとしても、俺には否定もできないよ」
 風にはためく制服がバタバタと鳴る。その音にかき消されないよう、俺はいっそう声を張る。
「でも、でもさ……だったら、だからこそ……俺はやっぱり、鳴海にギターを弾いてほしい! 鳴海には諦めてほしくない! 鳴海にはまだ、夢を見失ってほしくないんだ! だってお前は、まだ音楽をやめてなんかいない。そうだろ!? 戻ってこられるはずなんだよ。戻ってきたいって、思ってるはずなんだよ!」
 自分が心から入れ込んでいたもの。それをやめてしまったなんて、ただ口で言うのは簡単だ。でも、本当に未練なく清々しく、何の執着も強がりもなく切り捨てるのは、本人が思うよりも、ずっとずっと難しい。
 俺もそうだった。
 一度は離れたのだとしても、それでも完全に忘れるなんて、とても無理だ。その身体が、その心が、無視できないほどに覚えている。覚えてしまっている。
「鳴海のギターに価値がないなんて、そんなこと言わないでくれ! 俺はお前の演奏が聴きたい。あの演奏が好きだから、千種と、そして鳴海のギターが聴きたいんだ! もしかしたら最初は、ただ慰めのためだったのかもしれないけど……でも今は違う。わかったんだ。二人のギターが聴きたい理由。それは、俺が二人に憧れたからで……二人の夢と、それを追う姿と、許された可能性に、憧れたからなんだ! 俺が鳴海に声をかけたのは、二人の夢が、このまま消えてほしくなかったからだ!」
 たぶん俺は、無意識に色んな感情を彼女に重ねていたのだと思った。羨望とか共感とか、同情とか嫉妬とか……他にもきっと、もっと、たくさん。
「価値はある。お前の音楽に、価値はある! 俺はそう思う! それでも、誘う俺が口ばっかりで訴えても、説得力なんてまったくないよな。だだの身勝手な慰めに思われても、仕方ないよな。そんなんじゃ……全然だめだ」
 そこで俺は、肩に提げた白いギターを少し持ち上げ、掲げて見せる。
「だから……だからさ、俺も一緒にやることにしたんだ! 二人の夢を、一緒に追うことに決めたんだ! 俺はもう一度、ここから新しい夢を追う。千種と、そして鳴海と一緒に追う!」
 言い切って、俺は千種に合図を送る。
 強く叫ぶ。
「俺の決意を聴いてくれ!」
 そして思いっきり、弦を鳴らした。
 練習通り、入りは上々。
 未だに動きを見せない鳴海は、瞬きも忘れたように視線をこちらに向けている。その横では、訝しげだったり面白がっていたり、様々な様子の生徒が動き回って、真逆の光景が印象的だ。
 しかし俺が手元の方を気にしたとき、瞬間、鳴海の姿が視界から消える。彼女が今までいた場所には、ノートや筆箱、下敷きなんかが落ちているだけになった。
 目で追った先、ものすごい勢いで滑走するかのごとく校舎に飛び込んでいく鳴海。
 隣にいた生徒が、校舎に向かってその名を叫ぶ。
 おっと、もしかして逃げたか!?
 俺は聴かせる相手を見失いながらもギターの演奏に気を配る。動揺してミスが出ないように気をつける。
 どうするべきか迷った。
 演奏を中断して追いかけるか? でもどこに? 鳴海はどこへ行ったのだ?
 千種に尋ねようとして首をひねると、そこには演奏を続けるものの、何だか怯えた表情の彼女が立っていた。かと思うと、彼女はすぐに俺から離れるようにして後ずさる。
 すると、突如、屋上の入り口が開け放たれた。決して軽くない金属の扉。それが勢いよく、反対の壁に跳ね返るくらいに思いっきり。
 派手な音に驚いた俺がそちらを振り向くと、目の前には既に何かが迫っていて……何か――いや、ものすごい形相の鳴海の顔が、迫っていて。
 意識が追いつくよりも早く胸ぐらを捕まれ、右の頬に思い切り拳を当てられた。俺は盛大にふっ飛ばされ、フェンスの土台で背中を打つ。
「ふっざけんじゃないわよ!」
 鳴海の怒声が響き渡る。今までの彼女からは聞いたこともないような激しい声だった。
 こちらを見下ろす彼女はいつの間にか俺からギターを奪い取ったようで、片手にそれを携えている。
「あなた、全然なってないわ! 下手! 超下手! あり得ないくらい下手! ただ弦押さえて弾けばいいってもんじゃないのよ! しかもちょっと音ズレた弦もあるし、そんなんでよく、一華の横で弾けたものね! てんでトチ狂った身の程知らず! その曲のサビはね、こう弾くのよ!」
 彼女は鋭い目をしてそんな罵声を放つと、俺の目の前で構えて見せた。
 そのままギターを弾き始める。俺がさっきまで鳴海に向かって弾いていた曲だ。でも確かに、彼女が弾くとまるで違う。
 彼女はしばらく夢中で奏で、そしてやがて、ふと我に返ったようにその手を止める。荒く切れた息は戻っていない。焦点の外れた目で手元を見つめ、ギリッと奥歯を噛みしめる。
 俺は黙って彼女を見つめていた。色々と驚いていたのは事実だった。
 沈黙を経て、俺はようやく身体を起こし、口を開いた。
「いっつつ……。平手までは覚悟してたけど、まさか全力ノータイムのグーパンとは……」
「……はぁ、はぁ……当たり、前でしょ。こんなこと……こんな私が嫌がること、そうと知ってやったんだから。だいたいね、平手で済むと思ってる覚悟が甘いのよ。やるんなら、屋上から突き落とされるくらいの覚悟でやんなさいよ」
「ま、マジかよ……」
「マジよ。やるんなら、指ちぎれるくらい練習する覚悟でやんなさいよ」
 彼女は軽くせき込んだあとに息を整えると、改めて俺を見下ろし、キッと睨んだ。
「……悪い。これが俺の精一杯だった」
「白いギターで、一華の横で、あの曲を自慢げに演奏したら、まんまと私が釣れるとでも思ったのかしらね。ほんと、すっごい嫌がらせ。何? だったら私は、あなたの前でサッカーボールでも蹴ってあげたらいいのかしら?」
 嫌がらせ。そう、まさしくこれは嫌がらせだ。あるいは挑発と言ってもいい。どうだ、お前のポジションを奪ってやったぞ、と。
「ごめん。悪かった。でも、来てくれてよかった。俺は鳴海が来てくれて、とても嬉しい」
「はっ……そうよね! 上手いこと私を、誘き出せたんだもんね! 全部作戦通りだもんね!」
 吐き捨てるように鳴海は言う。怒った彼女は、予想に反して数段怖かった。視界の端の千種なんか、相当怖いのか、どんどん後ずさって離れていく。
 しかしそれ以外は、確かに概ね、俺の目論見通りだった。はは、ははは……ざまーみろ。
 鳴海は尻餅をついている俺に向かって、憎々しい表情とともに携えたギターを振りかぶった。
 俺は咄嗟に顔を背けて目を瞑る。投げつけられると思ったのだ。
 けれども次に聞こえたのは、ギターが地面に弱々しく落ちる、コトンという小さな音。再び目を開けると、俯きながら両手で顔を覆った鳴海の姿が、そこにはあった。
「……どうして……どうしてよ。音楽なんて、もうやめたのに……やめたはずなのに……」
 さっきまでとは打って変わった、絞り出すような悲痛な声。嗚咽混じりで薄弱で、きっと彼女は、泣いていた。
「……知っていたの。やめたなんて言っておきながら、本当は未練がましく縋っていたこと。諦め切れていなかったこと。自分でも全部、わかってた。でも、それでも私は……嘘でも偽りでも強がりでも……私は音楽をやめたつもりだったのよ! いいじゃない! だって別に、誰にも咎められる筋合いなんてないはずよ!」
「ああ、それ自体は、他人がどうこう言えることじゃない。俺に口を出す権利なんてないよ。でも、でもさ……他の誰が咎めなくても、責めなくても……お前自身が、一番お前を許せてないよ。鳴海自身が、ずっと鳴海を、苦しめている」
 俺が言うと、鳴海は膝を折って地面に崩れた。
「全部諦めてしまえば、楽になると思ったのに……もうこれ以上、苦しむことはないと思ったのに……なのに……」
「いいや、違うよ鳴海。諦めたって、楽になんかならないんだ。本当はやりたいのにやめたって、やめたふりしたって……ただ辛いだけ。だって、鳴海がどれだけギターに本気だったかは……鳴海が一番、よくわかってるだろ」
 ああ、わかっていた。俺だってよく、わかっていた。どれだけ自分が、あのサッカーという競技に本気だったのか。どれだけの生きる意味を求めていたのか。委ねていたのか。
 そして、それを失う苦しみと、見限ることの悔しさを、痛いくらいにわかっている。
 だから俺はこんなことをした。彼女には、音楽を失ってほしくなかったから。
「……わかっているわよ。だって私は、諦めるなんて言っておきながら、本当は……本当はずっと、一華に嫉妬していたのだもの。ずっとずっと、一華みたいに、なりたかったんだものっ!」
 鳴海は拳で地面を叩く。やがてその瞳で――大粒の涙の滲む瞳で、俺を見る。
「でも、無理だった! 足掻いて藻掻いても、私は一華には追いつけなかった! どうせ私は、一華みたいになんてなれないの!」
 零れる透明な涙には、鳴海の苦しみが溶けているのだと、俺は思った。涙は雫となって次々と落ち、夕陽に照らされて光を放ち、そして最後には、地面に吸い込まれて消えていく。
「一華は私の憧れだった。大嫌いなんて大嘘よ。音楽が好き。一華が大好き。私が本当に大嫌いだったのは、一華に醜く嫉妬する気持ちが抑えられない、私自身なの。まだ一華と一緒に弾いていた頃、あるとき私は、ふとそれに気づいてしまって……このままじゃいつか、本当に音楽も一華も嫌いになる。心の底から嫌いになる。そんな自分が、私はどうしようもなく怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。こんな私は、きっと一華には相応しくない。傍にいてはいけないんだって、罪悪感が止まらなくて……だからもういっそ、私は一華から離れよう。もう全部、なかったことにしようって……そう思ったの」
 鳴海は自分の身体をかき抱くようにして震えている。
「……一華、ごめんね。信じてもらえないかもしれないけど、私にとってあなたは、とても大事な、音楽そのものだったのよ。大事だから、何よりも大事だから、誰も触れられないようガラスケースの中にしまっておく。それと同じなの。誰も一華に触れてほしくない。誰も彼も、私でさえも、一華には触れてはいけないの。だって私がこれ以上一華に触れてしまったら、真っ白で美しい一華を汚してしまう。どす黒く歪んだ私の手が、一華を汚してしまうから……」
 静かに紡がれる鳴海の言葉は、ところどころ掠れながらゆっくりと空気を伝う。
 それを離れて耳にしていた千種は、よろよろと不安げな足取りで歩き始めた。
「玲奈……」
「耐えられるわけないじゃない。私の大事な一華が、目指した一華が、憧れた一華が……私のせいで消えてしまう。そんなの絶対、許されない。たとえ一華に嫌われたとしても、一緒にいられなくなったとしても……それでも私は、一華のことを、嫌いになんてなりたくなかった。一華の持つ才能を、可能性を……駄目にしてしまいたくなかったの」
 鳴海の言葉が終わるやいなや、千種は突然、駆け出した。鳴海に駆け寄り、夢中でその胸の中に飛び込んで強く叫ぶ。
「違う! 違うよ玲奈! 才能とか、可能性とか……私はそんなものよりも、玲奈と一緒にいることの方が、ずっとずっと大事だった! 玲奈の傍にいたいんだ! 一緒にいたいんだ! それに、もし……私はそんな風には思わないけどもし仮に、玲奈の手が汚れているのだとしても、それでも……私は玲奈になら、汚されたってよかったんだよ!」
 見ると、千種もぼろぼろと泣いていた。
「玲奈の隣にいられるなら、私はなんにもいらないの。他の何を差し出してもいい。玲奈が……玲奈だけが、いてくれさえすればよかったの。ギターだって、玲奈が嫌がるならやめようと思った。でも、玲奈がギターを弾く私を好きでいてくれるなら、私は玲奈のために、弾き続けるよ。ずっとずっと弾き続けるよ」
「一華……あぁ、一華……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「うわあぁん! 玲奈、玲奈ぁ!」
 鳴海と千種は、それから二人で抱き合って泣いた。涙を流し、互いの涙が互いを濡らし、それ以上言葉にならない気持ちを確かめ合う。そんな風にして、ただただ泣いた。
 赤く染まる広い空の中、屋上を乾いた風が吹き抜けていく。横薙ぎの光。重なる影。一つになって、長く伸びる。
 俺はそっと口を開く。
「……なかったことになんて、ならないよ。全部、何一つだって、なかったことになんてならないんだ。鳴海の弾いてきた音楽も、千種と過ごしてきた記憶も……嫉妬も憎しみも、羨望も喜びもなくならない」
 千種を胸に抱きしめる鳴海は、溢れ出る涙を拭うこともせずに顔を上げて、俺を見た。
「大江、君……」
「いいじゃないか。俺はさ、そんな鳴海のギターが好きだよ。だからもう一度、千種と一緒に弾いてくれ。できるなら今度は、俺も一緒に」
 そして鳴海は、繰り返し頷いた。
「……ええ、弾くわ。私も弾く。ありがとう、大江君……ありがとう」
 泣きじゃくる鳴海の表情は、不格好に歪んだ笑顔だった。でも、その笑顔は俺が今まで見てきた完璧で隙のない笑顔よりも、いっそう美しくて心地良い。作り物の仮面のような笑顔ではない、心からの本音。本物の笑顔だった。
 俺はそんな鳴海を見られたことが嬉しくて、それでフッと力が抜けて、仰向けに倒れた。地面が背中から熱を奪っていく。ひんやりとして気持ちがいい。それから大の字に開いた腕の先で、拳を握ってガッツポーズ。
 思わず引き上がった頬に伝った一粒の雫は、傍で泣く彼女たちに感化されて出た涙かもしれなかった。