ギターを弾きたい。俺は、自分もギターを弾くべきだと思ったのだ。
 そして結論から言えば、千種は俺にギターを教えることを、渋々承諾してくれた。
 初めのうちは頼み込んでも
「嫌だよ。もう嫌だよ。私、人に教えるのとか絶対無理だし……下手にまた玲奈を誘いにいって、大嫌いって言われたくないもん」
 なんて具合でとりつく島もなかったが、鳴海はまだギターをやめていないはずだと何度も訴え頼み込むうち、千種が折れるのは比較的早かった。
「今度こそ上手くいく! そうしたらまた、鳴海とギターが弾けるんだ!」
 再三そう繰り返す俺の言葉に、半ば流されるようにして千種は頷いた。
 自分では嫌だと言っておきながら、もしかしたらというわずかな想いが捨てきれない。いつまでもその希望に縋ってしまうどうしようもない気持ちが、彼女からは見てとれる。この世の終わりのような絶望の表情の中に、鳴海の名を出すたびに混ざる頬の緩んだ淡い笑顔は、何とも絶妙な不気味さを孕んでいた。
 頭の中で鳴海と一緒の未来を想像して漏れ出る笑顔。
 千種が心の底から嬉しがっていることはわかるけれども、それを見るとなおのこと、こちらは彼女の甘さにつけ込んでいるという罪悪感を催してしまう。
 いや、実際にその通りなのだから言い訳などできはしないし、今更引き返すつもりだって別にないが……でも、やはり内心としては複雑だ。
 まるで千種は、何も知らない純真無垢な子供のよう。さらに言えば、鳴海という存在を盲信する子犬のようだ。
 聞けば千種は、学校を休んでいる間、ほとんど毎日、あの駅を訪れていたらしい。きっと鳴海との思い出に浸っていたのだろう。中には日に数時間もあの場所に立ち尽くしていたこともあったというが……駅前でそこまで直立待機って、どこぞの忠犬にでも張り合ったつもりか。
 ただやはり冷静に考えるなら、千種は俺の頼みを受けるべきではないだろう。なぜなら俺は一度、鳴海への接触に盛大にしくじり、派手に千種を巻き込んでいる。だから本来、千種は俺の提案など全力で拒否してしかるべきなのだ。俺だって今の立場でなかったなら、もっと人を疑うことを覚えるよう、彼女に言ったことだろう。
 それくらいに、彼女は危うく、そして甘い。
 とはいえ、とにもかくにも、俺にとって事が上手く運んだというのは事実だった。意気込みつつ週末を待ち、土曜日から千種の家に上がらせてもらって、ギターの練習を開始する。
 しかし本当の意味で甘いのは自分の方だったのではないかと、俺はそこで思い知ることになった。
 どうやら楽器の演奏というものは、おしなべて特に器用さを必要とするらしい。そして俺がサッカーで培った足の器用さは、塵ほどの役にも立たなかった。
 え? 何これ? 嘘でしょ? 難しすぎるでしょ? 本当にこれ、千種が使ってるのと同じ種類の楽器なの?
 これが俺の、記念すべき人生最初のギター演奏で心に抱いた感想だ。
 俺は練習のために彼女に借りたギター弾きながら、そのあまりの難しさに途方に暮れる。
「なんじゃこりゃあぁぁあぁ~……」
 貸してもらったのは、千種が今使っているギターの旧型モデルだ。形状はほとんど同じで、色まで一緒の黒いギター。しかもご丁寧にセットの黒いピックまでついている。装備としては申し分ないはずなのに、なぜこんなにも出る音が違うのかわからない。ギターって本当にこの弦から音が出ているのか? 実は真ん中の丸い穴の中に何かが入っていて、そこからちゃんとした音が出るはずだとか……そうだろ! 誰かそうだと言ってくれ!
 さらに、目の前には散逸した数枚の楽譜。二年前に千種と鳴海が駅前で演奏していた曲の中でも、俺が一番好きだった曲の楽譜だ。どうやら彼女たちのオリジナルらしく、二人が初めて書き上げた大切な曲だという。
「ぜんっぜんわかんねぇ~……」
 これまた内容は意味不明。
 音楽の授業で習ったことがあるから、楽譜くらいは俺にもわかるものと思っていた。だが実際に渡された楽譜を見てみたら、想像していたものとまったく違ったのだ。あのオタマジャクシみたいな音譜もあるにはあるが、ほとんどは数字の乗っている六本の線。手書きということを考慮しても、読めないのは俺の知識不足に問題がありそうだ。
「ちょっと大江、変な声ばっか出し過ぎ。そりゃそうだよ。初めてなのにこんなのできるわけないじゃん。やるならもっと簡単な曲じゃないと」
 広いリビングのフローリングにあぐらをかいて、俺と同じように千種は座る。薄手のパーカーにショートパンツというラフな格好。最近めっきり暑くなってきたからだろう。
 冷めた声で否定を飛ばす彼女に対し、俺は意気を込めて訴える。
「いや、だめだ! この曲がいい! 俺、この曲が一番好きだし! 鳴海が前に一人で弾いてたのもこの曲だった! だから、鳴海に聴かせるなら絶対この曲なんだ!」
 俺が思うに、たぶんこの曲が一番、鳴海の芯に届くはずだ。この曲以外には考えられない。
「だけど大江、本当にギター初めてなんでしょ? 触るのも初めてなんでしょ? 無理だよ。無理無理、絶対無理」
「おい、いっぺんに四回も無理って言うなよ」
「だって無理なんだもん」
 こいつ無理って何回言う気だ。
「……い、いや、でもさ。これ、パートが別れてるじゃないか。こっちの数字が少ない方なら、もしかしてなんとかなったりしないのか?」
 譜面を見る限り、この曲はギター二人用の曲なんだと思う。六本の線がギターの弦に対応しているのだとすると、数字が音符代わりのように見える。数字そのものに何の意味があるのかはわからないけれど、比較的少な目の方なら俺にも何とか……。
「そっちリードギターだよ。なんで難しい方やろうとすんの。この曲はどっちも難しいけど、それでもまだリズムのがマシなんだよ」
 しかし千種は呆れながら、俺が示した方とは違うパートを指でさした。
「だいたいさ。大江はどのくらいの時間かけて、これ練習するつもりなの」
 そして相変わらず、ぼそっと愛想ない声で尋ねてくる。
「え、えっと……いや、そりゃあじっくり練習したいけど……でも鳴海に聴かせるのもあんまり先延ばしにはしたくないし……一週間くらい?」
「馬鹿? 大江ってもしかして馬鹿? タブ譜も読めずにギターの持ち方から練習する人が、今から一週間でこの曲って……絶対無理だよ。できるわけないじゃん。そんなのできたらテレビ出れるよ」
 お願いだからもう無理って言わないで。
 しかも実際にテレビに出ていた千種に言われると、冗談ではなく本当に心に響く。せっかく鳴海を誘う良い方法を見つけたと思ったのに、悲しくも返す言葉が浮かばない。
 でも……それでも……。
「うっ……うっせーな! やってみなきゃわかんないだろ!」
 初めはサッカーもそうだった。一見無理だと思うことでも、まずはやってみることから始まるのだ。遠く見えないゴールだとしても、最初の一歩踏み出すことで、確かに道は拓かれる。
 一つの曲を二つのギターで演奏する場合、リードギターとリズムギターの二つのパートに分かれるらしい。前者が主旋律、後者が伴奏だと考えればいい。二つは比べようにも難しさの種類が違うらしいが、でも結局はどちらも難しく……そしてこの曲に限って言えば、リードの方がよりテクニカルだと、千種は言う。
 始終無理だと言い張る千種に対して俺はどうにか食い下がり、争いは最終的に、演奏箇所を限定することで決着した。今回鳴海に聴かせるのは、彼女たちの曲の、サビ部分だけとなった。この曲の一番盛り上がる部分。けれども同時に、一番難しい部分でもある。
 他に、正しい弦の押さえ方だとか、タブ譜という楽譜の読み方だとか、一通りまともな音を出すまでに必要なことを彼女に教わる。それを経てから、彼女は言った。
「んで、だから大江はリズム担当ね。とりあえずちょっとやってみるから、私の真似して」
 千種はギターを構えると、しれっと無表情で弾き始める。そのおっとりとした言動には似つかわしくない見事な動きで、リズムパートの弾き方を実演した。
 何というか、やはり目の前で見せられると、息を飲まずにはいられない。白い綺麗なピックが黒のギターの上で踊り、その周期的な動きが俺の意識を幻惑する。
「……すげぇ」
 無意識にそんな感想が、心の底から湧き上がってきた。吸い込まれるように魅入ってしまった。こんな演奏ができたらさぞ気持ちがいいだろうな。そう考えずにはいられなかった。
 俺は演奏を聴き終えてすぐ、言われた通りに真似ようとする。けれども当然、彼女のようにできるはずもなく……。
「違うよ。私の真似してって言ったじゃん」
「やってるよ! 超真似してるだろ! ほら!」
「えぇ……それで真似してるつもりなの? 全然見せたのと違うんだけど……」
 渋い顔をする千種の横で、俺はとにかくギターを弾いた。弾いて弾いて弾きまくった。
 そうして気づけばリビングに赤い光が射し込んできて、あっという間に外は暗くなってしまう。練習をしていると、一日過ぎるのがとても早く感じられた。何だかんだ言って、千種は一日中、俺の傍で練習に付き合ってくれたことになる。
 ただ、陽が落ちてからはさすがに近所迷惑だからと演奏をやめ、その日は仕方なく解散とした。
 千種宅から帰る間、俺は電車の中や歩くかたわら、懐かしさを伴う不思議な高揚感に満たされていた。その感覚が、眠る前まで心地よく後を引く。
 そうして明くる日曜日も、また彼女の家にやってきてギターを弾く。とにかくひたすら練習あるのみ。集中していると時間の経過は極めて早く、俺たちは昼食の時間も惜しんで弦を鳴らした。
 直近に期限を控えているこの状況で、暗くなったら音を出しての練習ができなくなるのはもどかしく、焦る気持ちがないとは言えない。サッカーみたく野外の練習というわけでもないのに……もっと言えば、サッカーならナイターライトで練習ができるのにと、歯痒い想いが胸をかすめる。
 やがて太陽は傾き、また沈でいく。
 その日の帰り際も、千種は玄関まで俺を見送ってくれた。
「音出せなくても、指だけでも練習しなよ。時間、全然ないんだからね」
「わかってるよ。明日は学校だから、練習は朝と休み時間と放課後だな。音楽室が使えるといいけど……ま、とにかくこの調子で頑張るぜ!」
 張り切って俺が答えると、しかし千種は途端に嫌そうな顔を見せた。露骨に表情を歪ませて下を向く。
「千種?」
「……」
 瞬間、もしかして……と俺は思った。
 別に、提案した練習スケジュールに不満があるわけではないのだろう。そうではない。
「……私、学校は行かない」
 やっぱり。
「お、おま……いや、もう十分休んだだろ?」
「やだよ。だって玲奈、まだ怒ってるし」
 千種は、ぼそぼそっと拗ねたように小さく零す。
 鳴海が怒ってるって……まあ確かに、あれは怒ってる内にはいるのかもしれないけど……。未だに俺は、彼女に避けられっぱなしでいるけど……。
「いやー、でもさ。千種はクラス離れてるし、別にそんなに関係ないんじゃ……」
 俺や鳴海のクラスと千種のクラスは、間にかなりの隔たりがある。校舎の構造上、普通に授業を受けている分には顔を合わせる機会がないのだ。以前は、千種の方がわざわざ鳴海のストーキングにきていただけの話。鳴海と同じ教室にいる俺と比べたら、千種なんてほとんど実害はないはずである。
 けれども千種は、めいっぱい深刻そうな顔で首を横に振る。
「でも……廊下でたまたますれ違ったら? そんで睨まれたら? 無視されたら? もし玲奈にそんなことされたら……私、今度こそほんとに死ぬ」
 死ぬって。
「ちょっ、待て千種」
「それに、前も離れてずっと見てたけど、やっぱり見てるだけだと我慢できない。玲奈の姿見たら私、今度は絶対触りたくなるもん。昔みたいに、抱きしめてほしくなるもん。我慢できなくなるんだもん!」
「え、えー……うーん……」
 ……何かこいつ、鳴海に対しては執念っていうか、執着っていうか……鬼気迫ってて、ちょっと怖いな。傾倒の度合いがとっくに友達の域を越えている気がするんだが……。
「さすがにそこまでいくと、鳴海が怒ってるかどうかはともかく、避けられるのは当然なんじゃ……」
 俺が思わず本音を言うと、千種の瞳に珠のような涙がぶわっと浮かんだ。
 あ……しまった。今のは失言だったか。
「……ぐすん。いいよ、もう。だから私は、学校には行かないの」
「けど、千種……」
「行かないったら行かないの!」
 ……こりゃだめっぽいな。
 学校では何とか俺一人で練習して、千種とは放課後にここで少しだけ……まあ、まだ聞きたいことはいっぱいあるし、二人で演奏するなら合わせたりもしないといけないんだろうけど……とにかく上手く予定を立てて……。
 いや、いやいや、冷静になれ! そんな悠長なこと言ってられないだろ!
 次の金曜には鳴海に演奏を聴かせたいから、その日にはどうにか千種も学校に連れ出すとして……だとしても明らかに練習量は足りないのだ。期限までのただでさえ少ない時間、最大限有効に活用してしかるべき。休日はまだ終日練習できてよかったけれど、学校に行くとなるとそうもいかないし、もっと無駄なくより効率的に…………ん? いや、待てよ?
 ……ちょっと待てよ?
「そうか! 行かなきゃいいんだ! なるほど! 千種お前、頭良い!」
「え?」
「俺も明日から学校休んで、そんでギターの練習する!」
「……え?」
 ぽかんとした顔の千種に向かって、俺は勢いのままに思いきり告げた。両手を伸ばし、彼女の肩を掴みながら、声高々に宣言する。
「そうだ、そうしよう! よし! つーわけで、明日も場所はここで頼む! 時間は朝から! これで練習時間、大幅アップだ!」
 途端に上がったテンションの中、俺は素晴らしい名案を見出したと思った。まるで、目の前の大きな難題に、まったく違う方向からの解決策を示したかのような、容易く卵を机上に立てたコロンブスのような、天地をひっくり返したコペルニクスのような……それくらいの発想の転換を、俺はやって見せた気がした。歴代の偉人に勝るとも劣らない天才的発想を今、咄嗟に打ち立ててやったのだ。
 けれども千種は、驚き見開いた瞳で俺を見つめ、数秒の沈黙ののちに冷めた声で呟いた。
「……大江ってやっぱり馬鹿だったんだ」