興奮と困惑が、頭の中で入り交じっていた。一人になった音楽準備室から帰宅する間、歩くたびに、ぐるぐる、ぐるぐる。家に帰って何をするにも、動くたびに、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ。ベッドに仰向けで倒れ込むと、バタッと勢いで思考がひっくり返る。眠ったら眠ったで、寝返りのたびに夢の中でかき回される。
今の俺の半分を占める、冷めやらぬ心の昂ぶり。
鳴海のギターは、俺の身体の芯まで響いた。まさか唯花のバラードをあんな風に、リズミカルで躍動的にアレンジするなんて、思ってもみなかった。音楽って、弾き方一つであんなにも変わるものなんだ。まるで、昔聴いたストリートライブのようにエネルギッシュな演奏だった。やはり鳴海は、あのころ駅にいたギタリストの一人に相違ない。
今日聴いた鳴海のギターが頭の中で反響し、俺の過去の記憶に触れる。サッカーをしていた頃、一番気に入っていたあの音楽に重なる。毎日が輝いていて、夢を追いかけていた時間を思い起こさせる。
だからこそ俺は、どうしてももう一度、その曲を聴きたくなってしまうのだ。
一方で、今の俺の残りの半分を占めるのは、この心をかき乱す不安。
唐突に俺の前から去った鳴海。ギターを弾いていたときの笑顔に反し、去り際、声を震わせ表情を失っていた鳴海。ただならぬ空気をまとっていた鳴海。
普段の彼女は、そんな姿など一切見せない完璧な女生徒だ。しかし今、俺は心のどこかで彼女に対し、優等生以外の印象を抱いている。考えるたび、彼女という存在がわからなくなる。
俺は結局、混ざり合う二つの気持ちを抱えたまま、翌日になって登校した。
もう一度鳴海と話がしたい。そう思うが、なかなか上手くタイミングが見出せない。昨日あんなことがあったからか、避けられているような雰囲気も感じてしまう。
そして放課後、十二分の尻込みを経たあとで、俺はようやく鳴海に声をかけた。
俺以外に誰もいなくなってしまった教室。そこへ、何かの用事を終えたらしき彼女が戻ってくる。
「鳴海」
「あ……大江君」
俺の姿に気づくと、彼女は一瞬だけバツの悪そうな表情を見せた。
「昨日は、その……ごめんなさい」
「いいよ。いいんだ。全然気にしてない」
「そっか……よかった」
俺が首を左右に振るのを見て、彼女は普段通り穏やかに微笑む。
「あ、あのさ――」
「ところで、大江君」
やがて俺が話を切り出そうとすると、しかしあちらも、それに被せるようにして口を開いた。そのまま自席へ戻って着席したが、こちらを振り向くことはなかった。
「部活動の、所属申請用紙の締め切りが、今週いっぱいなのだけれど」
「え? あ、あぁ」
「大江君は、まだ部活は決めていないの? あるいは同好会でもいいのだけれど」
「えっと……うん。まだ、決めてない」
部活動所属申請用紙。確かに、そんなものあった気がする。あれ、どこにしまったんだっけ。
一年生はこの時期、必ず一つ以上の部活動か同好会に所属しなければならない規則がある。正直、今聞かれるまで完全に失念していた。
「そろそろ決めた人も多いみたいよ。もうほとんどは提出してもらってるの。大江君は、ちゃんと考えてる?」
「そっか。鳴海に提出するんだったな」
「正確には、私がクラスのみんなの分を集めて、先生に提出するんだけどね。見学や仮入部はもうしてみた? 面倒でも、ちゃんとした方がいいわよ。もし迷っているのなら、なおさらね」
「うん……そうだな。申請用紙の件は、早めに何とかするよ。手間とらせて悪い」
「いいえ」
何とかする、とは言ったものの、さてどうだろう。今の俺に、本当にその気があるのかは自分でも疑わしかった。そんなことを気にするだけの隙間が、今の俺の中にあるとは思えない。
だって最近の俺は、もっぱら一つのことばかり考えている。無性に聴きたい曲があるのだ。
「それより、鳴海に頼みがあるんだ」
机に向かって何やらペンを走らせている鳴海の背に、意を決して俺は問いかけた。
「どうしたの、改まって。ええ、私にできることだったら、力になるけど」
彼女は首だけで振り向き、俺を見る。
俺は彼女の視線に、自分のそれを重ねて告げる。
「鳴海のギターを聴きたいんだ」
そんな俺の言葉は、室内に明らかな沈黙をもたらした。
彼女は笑顔だが、しかし、何を言われたのか理解できないといったように硬直している。俺の頼みは、彼女の予想だにしないものだったのだと思う。
広がった静寂の中、やがて答えが返ってくる。同時に彼女は前を向いて作業に戻ってしまい、また表情が見えなくなった。
「えっと……それなら昨日、聴かせてあげたじゃない。途中までだったけれど、でも……あれで十分でしょう?」
「聴きたい曲があるんだ。鳴海が前に、ストリートライブでやっていた曲を……聴かせてほしい」
「――!」
鳴海は一瞬、ハッとしたように背筋を伸ばす。ペンを握る彼女の手は止まっていた。
再び辺りに沈黙が落ちる。さきほどよりもさらに長く深い、空気の張りつめた沈黙が。
「……どうして、大江君がそのことを知っているの?」
彼女は否定を返さない。代わりに、異様なほど平静を装ったような、まるで抑揚のない声で俺に問う。
「二年前くらい、だよな。実は俺もその頃、よく都心の駅にいたんだ。いい曲だったから気に入ってたし、だからこそ、意識して聴いてた」
「そうじゃなくて、どうしてストリートライブをしていたのが、私であることを知っているの? おかしいわ。顔、隠してたし、誰にも言ってないはずなんだけど……」
「聞いたんだ。前に向こうのクラスに転校してきた……鳴海と一緒に弾いていた、千種一華っていう女の子に」
俺は続けて、ここに至るまでの過程をかいつまんで鳴海に話した。
鳴海が音楽準備室で弾いていたギターを耳にして、既知感を覚えたこと。同じ場所で千種一華とたまたま知り合ったこと。駅前で千種を鳴海と取り違えて話しかけ、結果として千種がミュージシャンの唯花であり、鳴海と千種が昔ストリートライブをしていたギタリストであると知ったこと。そして俺は過去のストリートライブの曲が好きで、だからもう一度、聴きたいこと。
俺はゆっくりと、ありったけの想いで彼女に伝えた。思わず身を乗り出すほどに真剣に訴えた。
それでも、鳴海は一度もこちらを向くことはない。
「……ふぅん、あの子のことも知っているの。そうだったんだ」
あの子……千種のことか。随分と親しげな呼び方だ。鳴海が言うと、なおのこと特にそう聞こえる。
「じゃあもしかして、昨日あなたが私の用事を手伝って、私にギターを弾かせたのは……それを確認するためだったの?」
声とは裏腹に、かなり直接的な物言いだった。
ただ、なにぶん事実であるからして否定もできない。駄目押しの確認という意図があったのは本当だ。俺の無言は肯定を意味し、彼女もそれを感じ取ったらしい。
「ごめんなさい。そういうことなら、断らせて」
彼女は淡白に、そしてきっぱりと言い放つ。
あまりに付け入る余地のない即答に、俺はうろたえながら不完全な二の句を継いだ。
「え……そ、そう言わずに。頼むよ。もう一度聴いてみたいんだ。千種が言ってた。あの曲は二人で弾く曲なんだって。鳴海と一緒じゃないと弾けないって」
「そう。でも私、もう音楽はやめたの。ヴァイオリンだけじゃなくて、ギターもやめたのよ。中学三年生になったときに、もうやめたの。もしよかったら、あの子にもそう伝えてくれるかしら」
「やめたって……どうして……」
「別に、そろそろ遊んでいられないなって思ったからよ。去年は受験だったし、今年からはもう高校生だもの。授業はもちろん、生徒会や委員会のこともあるから、案外普段から忙しいのよね」
鳴海はさらりと、当たり前のようにそう答えた。まるで、昼食時に友人と昨夜のテレビの話でもするみたいな……そんなとるに足らない話にでも興じるかのように。
音楽をやめたこと。それは自分にとって、大したことではない些細なこと。言外に、彼女はそう告げている。
「でも……昨日は弾いてくれたじゃないか。それに前だって、弾いていただろう? あの部屋で」
「…………」
俺は食い下がるが、彼女はそれでも黙ったままだ。
無反応がもどかしくて、俺は力なく肩を落とす。
「……あんなに上手なのに、もったいないよ」
がらんとした室内に声が響いた。
彼女は静かに、何かをあやすような、あしらうような調子で呟く。
「……だから、お世辞はやめてよ」
まったく取り合ってくれない彼女の態度に、どうにも俺の心は焦れる。
世辞でこんなこと言うもんか。世辞で上手いとはやし立てる音楽を、俺はこんなにも聴きたいと願ったりしない。そもそも、俺は根っから世辞など言わない性格だ。自分でも不思議なくらい、鳴海と、そして千種の演奏を求めている。
「違うさ。本当に上手だって思ってるって、昨日も――」
「よく……そんなこと言えるわね」
しかし直後、俺の訴えは鳴海の言葉によって遮られた。
俺は驚いた。突然聞こえたその声が、とても鳴海のものとは思えなかったからだ。
普段の彼女の声と比べて、明らかに低く重い声。背を貫く緊張感を運ぶ冷たい声音。
俺は口を開いたままで静止していた。
無意識に感じる。彼女が冷えていくのがわかる。
そして彼女はここにきて、ようやく再び俺へと振り向く。その横顔には、いつもの華やかで上品な笑顔は見えず、氷のように空虚な瞳が浮かんでいた。
「あの子の……一華の……いえ、唯花のギターを実際に聴いたことのある人が、よくそんなこと言えるわね」
しらけて呆れたような表情だった。長い睫毛のかかった伏し目が、視界の端で俺をとらえて睨んでいる。
彼女は一呼吸、大きなため息をついて立ち上がると、手早く机上の片付けを始めた。
「大江君。申し訳ないけれど、やっぱりあなたの頼みは聞けそうにないわ」
すぐにノートやペンをしまい込み、鞄のチャックを閉じて出口まで歩いていく。揺れる長い黒髪が、窓からの赤い光を反射して俺の目を眩ます。
「それと、もうこの話はしないでもらえるかしら」
教室の外に一歩出て後ろ手に扉を閉めるとき、鳴海は背を向けたままで強く言った。
ガラリと耳障りな音が、俺と鳴海を素気なく隔てる。
俺は結局、最後まで何も言えず、動くことすらできずに固まっていた。
やがて少し前に感じた驚愕が、そして衝撃が、引いてまた押し寄せる波のようにぶり返す。
刺すような悪寒。息の詰まる緊迫。たまらなく凍てついたあの戦慄。
まるで別人のような鳴海の声と表情は、ただただこの脳裏にこびりつき、俺を明確に機能停止へと追い込んだ。
わからない。彼女がわからない。鳴海という存在がわからない。
笑っていない鳴海。穏やかでない鳴海。優しげでない鳴海。俺の知らない、そしておそらく皆も知らない、鳴海玲奈。そんな彼女を、今はっきりと見てしまった。
俺は初め、たまたま彼女のギターを聴いて、単にそれをもう一度聴きたいと思ったに過ぎなかった。
ちょっと一曲。
そんな軽い頼みのつもりで、誰にでも優しい彼女なら、容易く快諾してくれると思っていた。心に残るあの曲を、しかも唯花とのペアギターで聴かせてもらえるなんて、最高じゃないかと思っていた。
だが、それはとんだ思い違いで……思いの外に深いところまで、見てはいけないところまで覗き込んでしまった気分になる。
彼女のギターの上手さを知ったまではよかったが、その上ストリートライブのこと、千種一華との関係を知って、あんなにも冷え切った鳴海を見て……。
俺の頭で組み立てていた事の運びは、どうにもこうにも甘過ぎたらしく、重ね上げた積み木のようにあっけなく崩れた。
俺が演奏を頼み込む過程で、きっと何かが、彼女の中のトリガーを引いた。彼女の中には、俺の知るいつもの優等生とは違う、もっと別の鳴海がいるのだ。そう、感じた。
今の俺の半分を占める、冷めやらぬ心の昂ぶり。
鳴海のギターは、俺の身体の芯まで響いた。まさか唯花のバラードをあんな風に、リズミカルで躍動的にアレンジするなんて、思ってもみなかった。音楽って、弾き方一つであんなにも変わるものなんだ。まるで、昔聴いたストリートライブのようにエネルギッシュな演奏だった。やはり鳴海は、あのころ駅にいたギタリストの一人に相違ない。
今日聴いた鳴海のギターが頭の中で反響し、俺の過去の記憶に触れる。サッカーをしていた頃、一番気に入っていたあの音楽に重なる。毎日が輝いていて、夢を追いかけていた時間を思い起こさせる。
だからこそ俺は、どうしてももう一度、その曲を聴きたくなってしまうのだ。
一方で、今の俺の残りの半分を占めるのは、この心をかき乱す不安。
唐突に俺の前から去った鳴海。ギターを弾いていたときの笑顔に反し、去り際、声を震わせ表情を失っていた鳴海。ただならぬ空気をまとっていた鳴海。
普段の彼女は、そんな姿など一切見せない完璧な女生徒だ。しかし今、俺は心のどこかで彼女に対し、優等生以外の印象を抱いている。考えるたび、彼女という存在がわからなくなる。
俺は結局、混ざり合う二つの気持ちを抱えたまま、翌日になって登校した。
もう一度鳴海と話がしたい。そう思うが、なかなか上手くタイミングが見出せない。昨日あんなことがあったからか、避けられているような雰囲気も感じてしまう。
そして放課後、十二分の尻込みを経たあとで、俺はようやく鳴海に声をかけた。
俺以外に誰もいなくなってしまった教室。そこへ、何かの用事を終えたらしき彼女が戻ってくる。
「鳴海」
「あ……大江君」
俺の姿に気づくと、彼女は一瞬だけバツの悪そうな表情を見せた。
「昨日は、その……ごめんなさい」
「いいよ。いいんだ。全然気にしてない」
「そっか……よかった」
俺が首を左右に振るのを見て、彼女は普段通り穏やかに微笑む。
「あ、あのさ――」
「ところで、大江君」
やがて俺が話を切り出そうとすると、しかしあちらも、それに被せるようにして口を開いた。そのまま自席へ戻って着席したが、こちらを振り向くことはなかった。
「部活動の、所属申請用紙の締め切りが、今週いっぱいなのだけれど」
「え? あ、あぁ」
「大江君は、まだ部活は決めていないの? あるいは同好会でもいいのだけれど」
「えっと……うん。まだ、決めてない」
部活動所属申請用紙。確かに、そんなものあった気がする。あれ、どこにしまったんだっけ。
一年生はこの時期、必ず一つ以上の部活動か同好会に所属しなければならない規則がある。正直、今聞かれるまで完全に失念していた。
「そろそろ決めた人も多いみたいよ。もうほとんどは提出してもらってるの。大江君は、ちゃんと考えてる?」
「そっか。鳴海に提出するんだったな」
「正確には、私がクラスのみんなの分を集めて、先生に提出するんだけどね。見学や仮入部はもうしてみた? 面倒でも、ちゃんとした方がいいわよ。もし迷っているのなら、なおさらね」
「うん……そうだな。申請用紙の件は、早めに何とかするよ。手間とらせて悪い」
「いいえ」
何とかする、とは言ったものの、さてどうだろう。今の俺に、本当にその気があるのかは自分でも疑わしかった。そんなことを気にするだけの隙間が、今の俺の中にあるとは思えない。
だって最近の俺は、もっぱら一つのことばかり考えている。無性に聴きたい曲があるのだ。
「それより、鳴海に頼みがあるんだ」
机に向かって何やらペンを走らせている鳴海の背に、意を決して俺は問いかけた。
「どうしたの、改まって。ええ、私にできることだったら、力になるけど」
彼女は首だけで振り向き、俺を見る。
俺は彼女の視線に、自分のそれを重ねて告げる。
「鳴海のギターを聴きたいんだ」
そんな俺の言葉は、室内に明らかな沈黙をもたらした。
彼女は笑顔だが、しかし、何を言われたのか理解できないといったように硬直している。俺の頼みは、彼女の予想だにしないものだったのだと思う。
広がった静寂の中、やがて答えが返ってくる。同時に彼女は前を向いて作業に戻ってしまい、また表情が見えなくなった。
「えっと……それなら昨日、聴かせてあげたじゃない。途中までだったけれど、でも……あれで十分でしょう?」
「聴きたい曲があるんだ。鳴海が前に、ストリートライブでやっていた曲を……聴かせてほしい」
「――!」
鳴海は一瞬、ハッとしたように背筋を伸ばす。ペンを握る彼女の手は止まっていた。
再び辺りに沈黙が落ちる。さきほどよりもさらに長く深い、空気の張りつめた沈黙が。
「……どうして、大江君がそのことを知っているの?」
彼女は否定を返さない。代わりに、異様なほど平静を装ったような、まるで抑揚のない声で俺に問う。
「二年前くらい、だよな。実は俺もその頃、よく都心の駅にいたんだ。いい曲だったから気に入ってたし、だからこそ、意識して聴いてた」
「そうじゃなくて、どうしてストリートライブをしていたのが、私であることを知っているの? おかしいわ。顔、隠してたし、誰にも言ってないはずなんだけど……」
「聞いたんだ。前に向こうのクラスに転校してきた……鳴海と一緒に弾いていた、千種一華っていう女の子に」
俺は続けて、ここに至るまでの過程をかいつまんで鳴海に話した。
鳴海が音楽準備室で弾いていたギターを耳にして、既知感を覚えたこと。同じ場所で千種一華とたまたま知り合ったこと。駅前で千種を鳴海と取り違えて話しかけ、結果として千種がミュージシャンの唯花であり、鳴海と千種が昔ストリートライブをしていたギタリストであると知ったこと。そして俺は過去のストリートライブの曲が好きで、だからもう一度、聴きたいこと。
俺はゆっくりと、ありったけの想いで彼女に伝えた。思わず身を乗り出すほどに真剣に訴えた。
それでも、鳴海は一度もこちらを向くことはない。
「……ふぅん、あの子のことも知っているの。そうだったんだ」
あの子……千種のことか。随分と親しげな呼び方だ。鳴海が言うと、なおのこと特にそう聞こえる。
「じゃあもしかして、昨日あなたが私の用事を手伝って、私にギターを弾かせたのは……それを確認するためだったの?」
声とは裏腹に、かなり直接的な物言いだった。
ただ、なにぶん事実であるからして否定もできない。駄目押しの確認という意図があったのは本当だ。俺の無言は肯定を意味し、彼女もそれを感じ取ったらしい。
「ごめんなさい。そういうことなら、断らせて」
彼女は淡白に、そしてきっぱりと言い放つ。
あまりに付け入る余地のない即答に、俺はうろたえながら不完全な二の句を継いだ。
「え……そ、そう言わずに。頼むよ。もう一度聴いてみたいんだ。千種が言ってた。あの曲は二人で弾く曲なんだって。鳴海と一緒じゃないと弾けないって」
「そう。でも私、もう音楽はやめたの。ヴァイオリンだけじゃなくて、ギターもやめたのよ。中学三年生になったときに、もうやめたの。もしよかったら、あの子にもそう伝えてくれるかしら」
「やめたって……どうして……」
「別に、そろそろ遊んでいられないなって思ったからよ。去年は受験だったし、今年からはもう高校生だもの。授業はもちろん、生徒会や委員会のこともあるから、案外普段から忙しいのよね」
鳴海はさらりと、当たり前のようにそう答えた。まるで、昼食時に友人と昨夜のテレビの話でもするみたいな……そんなとるに足らない話にでも興じるかのように。
音楽をやめたこと。それは自分にとって、大したことではない些細なこと。言外に、彼女はそう告げている。
「でも……昨日は弾いてくれたじゃないか。それに前だって、弾いていただろう? あの部屋で」
「…………」
俺は食い下がるが、彼女はそれでも黙ったままだ。
無反応がもどかしくて、俺は力なく肩を落とす。
「……あんなに上手なのに、もったいないよ」
がらんとした室内に声が響いた。
彼女は静かに、何かをあやすような、あしらうような調子で呟く。
「……だから、お世辞はやめてよ」
まったく取り合ってくれない彼女の態度に、どうにも俺の心は焦れる。
世辞でこんなこと言うもんか。世辞で上手いとはやし立てる音楽を、俺はこんなにも聴きたいと願ったりしない。そもそも、俺は根っから世辞など言わない性格だ。自分でも不思議なくらい、鳴海と、そして千種の演奏を求めている。
「違うさ。本当に上手だって思ってるって、昨日も――」
「よく……そんなこと言えるわね」
しかし直後、俺の訴えは鳴海の言葉によって遮られた。
俺は驚いた。突然聞こえたその声が、とても鳴海のものとは思えなかったからだ。
普段の彼女の声と比べて、明らかに低く重い声。背を貫く緊張感を運ぶ冷たい声音。
俺は口を開いたままで静止していた。
無意識に感じる。彼女が冷えていくのがわかる。
そして彼女はここにきて、ようやく再び俺へと振り向く。その横顔には、いつもの華やかで上品な笑顔は見えず、氷のように空虚な瞳が浮かんでいた。
「あの子の……一華の……いえ、唯花のギターを実際に聴いたことのある人が、よくそんなこと言えるわね」
しらけて呆れたような表情だった。長い睫毛のかかった伏し目が、視界の端で俺をとらえて睨んでいる。
彼女は一呼吸、大きなため息をついて立ち上がると、手早く机上の片付けを始めた。
「大江君。申し訳ないけれど、やっぱりあなたの頼みは聞けそうにないわ」
すぐにノートやペンをしまい込み、鞄のチャックを閉じて出口まで歩いていく。揺れる長い黒髪が、窓からの赤い光を反射して俺の目を眩ます。
「それと、もうこの話はしないでもらえるかしら」
教室の外に一歩出て後ろ手に扉を閉めるとき、鳴海は背を向けたままで強く言った。
ガラリと耳障りな音が、俺と鳴海を素気なく隔てる。
俺は結局、最後まで何も言えず、動くことすらできずに固まっていた。
やがて少し前に感じた驚愕が、そして衝撃が、引いてまた押し寄せる波のようにぶり返す。
刺すような悪寒。息の詰まる緊迫。たまらなく凍てついたあの戦慄。
まるで別人のような鳴海の声と表情は、ただただこの脳裏にこびりつき、俺を明確に機能停止へと追い込んだ。
わからない。彼女がわからない。鳴海という存在がわからない。
笑っていない鳴海。穏やかでない鳴海。優しげでない鳴海。俺の知らない、そしておそらく皆も知らない、鳴海玲奈。そんな彼女を、今はっきりと見てしまった。
俺は初め、たまたま彼女のギターを聴いて、単にそれをもう一度聴きたいと思ったに過ぎなかった。
ちょっと一曲。
そんな軽い頼みのつもりで、誰にでも優しい彼女なら、容易く快諾してくれると思っていた。心に残るあの曲を、しかも唯花とのペアギターで聴かせてもらえるなんて、最高じゃないかと思っていた。
だが、それはとんだ思い違いで……思いの外に深いところまで、見てはいけないところまで覗き込んでしまった気分になる。
彼女のギターの上手さを知ったまではよかったが、その上ストリートライブのこと、千種一華との関係を知って、あんなにも冷え切った鳴海を見て……。
俺の頭で組み立てていた事の運びは、どうにもこうにも甘過ぎたらしく、重ね上げた積み木のようにあっけなく崩れた。
俺が演奏を頼み込む過程で、きっと何かが、彼女の中のトリガーを引いた。彼女の中には、俺の知るいつもの優等生とは違う、もっと別の鳴海がいるのだ。そう、感じた。