夢を見ていた。夢の中で、俺は軽快に走っていた。
それは二年前の俺。中学二年生だった頃の大江空だ。
大きなダッフルバッグを肩に掛けて息を弾ませている俺を、まるで他人の視点から俯瞰するような光景。そんな夢が、頭の中に映し出されている。
けれども間違いなく、俺の記憶だ。
走っているのはよく見知った都心の駅。バスも新幹線も在来線も、地下鉄もタクシーも集まる大きな駅。
普段から人の数は計り知れないのに、時間帯は夜の七時頃だからだろうか、押し寄せる波のように人間の群が溢れ返っている。スーツ姿の人もいれば、遊んだ帰りらしき学生の姿もある。周りにひしめく飲食店は、どれも満席と一目でわかる。
地下鉄から飛び降りた俺は、そんな人混みの中を縫うようにして駆けていく。賑わう地下街から抜け出して、地上に建つおかしな形のモニュメントを横目で一瞥し、人が集る金だか銀だかの飾り時計を通り過ぎる。やがて駅を背にして大通りに出ると、そこで行われているストリートライブを快く思って聴きながら進む。
想像するのは、決まってサッカーフィールドだった。足下には躍動するボール。それを上手いことドリブルをしながら、往来の人々を相手に見立ててイメージトレーニング。
あの頃の俺は、そんなはた迷惑なことをしながら駅を全力疾走し、一度も立ち止まることなく大通りに出ると、ストリートライブの音楽がまるで観客の声援のように感じられて、口の端をニヤリと持ち上げて笑っていた。
俺は、そのストリートライブがお気に入りだった。
長身の二人組ギタリストの演奏する曲が、妙に俺の心を踊らせていた。揃ってフードを被っており、その下からわずかに覗く金髪と、身体に提げた黒と白のアコースティックギターが一際目立って注意を惹く。弾む視界の隅でギターの手元をとらえると、流れるようなピック捌きに驚いたものだった。走るのが楽しくなるような、自然と夢を抱きたくなるような、そんな生き生きとした美しくも荒々しい曲調が人気を集めていたらしく、周りには際立ってたくさんの観客が集まっていた。
そして、俺も密かなファンだったのだ。
そのライブが行われている日は、よりいっそうテンションが上がって、全力で駅から出てきたのに、そこからまた目一杯の力で走り出して目的地へ向かったものだった。
重い荷物もなんのその。肩に担いだバッグの中には、まさしく俺の夢が詰まっていると言ってよかった。
実際に入っていたのはジャージにユニフォーム、それにシューズやすね当てや、あとはドリンク、着替えなどといった他愛もないものだったが、それでも中学生の俺にとって、これらは間違いなく自分の夢の形そのものだった。
何を隠そう、俺は生粋のサッカー少年だったのだ。
目指した先は、駅近くの運動施設だ。そこではサッカーの練習が行われている。
だから俺は、朝練をして学校での授業を終え、そのあとのサッカー部の練習もこなすと、こうして毎日駅に降り立ち、また夜の練習へ向かうという希有な生活を続けていた。
大変だなんて、一度も思ったことはなかった。早起きも遅くまでの練習も、何の苦にもならなかった。
何しろ、俺はサッカーが大好きだったのだ。サッカーをしている時間が一番幸せだし、試合はもちろん、練習もこの上なく楽しかった。風邪を引いて学校の授業が辛くても、サッカーをするのは辛くなんてなかったし、ボールを蹴っていれば何もかも嫌なことは忘れられた。死んで葬られるときは、棺桶にサッカーボールを入れてほしいくらいに思っていた。もしかしたら自分は、サッカーをするために生まれてきたのではないかとすら感じていた。
思えばきっかけは、小学生の頃に父親が連れて行ってくれた試合観戦だった。幼稚園で初めて玉蹴り遊びを覚えた俺は、既にその頃にはサッカーに興味を示していたらしく、ならば是非と思ったのだろう。知り合いのつてでチケットを手に入れ、俺にプロの試合を見る機会を作ってくれたのだ。
そうして、生まれて初めて訪れたスタジアムはまるで夢の世界のようで、試合は始終、あますところなくこの俺を魅了した。
以来俺は、ただひたすらにサッカーばかりをして生きてきた。
小学校の休み時間には真っ先にサッカーボールをひっつかんでグラウンドを駆け回り、家では親にねだって手に入れたボールを、庭や公園で蹴り回した。テレビや本で知らない技術を学べば必死になってできるまで練習したし、サッカーだけは他の誰にも負けないという自負の念すらも持っていた。
その甲斐あってのことだろう。小学生の高学年になる頃には卓抜した実力を身につけ、俺は地域で名の知れた選手になっていた。中学校に上がるとすぐにサッカー部でレギュラーの資格をもらい受け、いきなり試合に出てみれば、あろうことか大活躍。すぐに学校ではエースなんて呼ばれたりして、メンバーに頼られれば必ず期待に応えるような、そんなチームの中心的存在になるべくしてなった。
ゆくゆくはもちろん部長を担い、サッカーの名門私立高校に進学してもっともっと実力を付け、大学でも活躍し、いざ踏み込むはプロの世界――。
周囲からは口々にそうかき立てられ、また俺自身も心の片隅で、そんな未来を疑うことなく信じていた。年を重ねるごとに練習にも身が入り、自分の将来に待つべくして待っている夢を、十分に現実的なものとして追いかけることに、無二の快楽と充実を感じていた。
まさに、実に、全く以て、一片の濁りもない順風満帆の人生を送っていたと言えるだろう。
ああ、けれども、だ。
長い人生、そう都合よく追い風ばかりが初めから終わりまで続くわけもなく、それまで滞っていた向かい風が、あるときいっぺんにやってきた。
中学二年の冬のことだ。
部活動で他校と練習試合をしている最中、俺は事故で怪我をした。エースよろしくボールを保持してドリブルでゴールに迫り、シュートをしようと踏み込んだところで、相手のディフェンダーと接触したのだ。
勝敗を左右する緊迫した状況。練習試合と言えど、戦績は以後に行われる本試合にも影響する。ゆえに俺も相手も本気だった。その本気が裏目に出たということである。
正直、そのときのことは気が動転していてよく覚えていないけれど、端的に結論だけを述べれば、俺は左膝を負傷した。そしてそれは、俺が思っていたよりも重大な負傷だったようで、のちに医者からは、完治しない種類の怪我だと宣告を受けた。
「膝の骨が複雑に折れてしまっていて、たとえ繋がったとしても、どうしても違和感は残るだろう。その違和感を無視して動かせば、負担からまた怪我のリスクは増える他、当然パフォーマンスにも影響が出る。以前のように動かせることは、もうないかもしれないが、さしあたってしばらく――三、四年は様子を見た方がいい」
右利きの俺にとって、左足は大事な軸足だ。そこに大きなダメージを負ったままでは、到底まともなプレーは期待できないし、もちろんエースなんてものも務まらない。
周りの人から励ましの言葉はいくつももらったが、結果的に俺は、部ではレギュラーを外れることになり、さらに八割方決定していた私立高校へのスポーツ推薦の話も失ってしまった。
そりゃあそうだろう。左膝は重傷で、しばらくは練習どころか歩けすらしない。なおかつ医者の宣告通りならば、高校三年間は丸々、様子見という名のリハビリに費やすことになる。つまるところ学生生活という期間内に限定すれば、俺のサッカーの選手生命は絶たれたも同義ということだった。
ただ当時の俺は、そういうことを理解するのに、それはそれはたくさんの時間を要したものだった。何しろ俺にとっては、生まれて初めての挫折だったのだ。なまじさくさくと人生の栄光ロードを突き進んできたせいか、小さな失敗で躓いたこともなく、ゆえに上手な転び方も起き上がり方も知らなかった。情けなくも、なす術などあろうはずもなかったのだ。
怪我をしてすぐ、病院のベッドではひたすら時が過ぎるのに任せて惚け、この身に何が起こったのか、よくわかっていなかった。やがて学校に復帰した頃になって、ようやく自分の生活からサッカーが消えたことを実感し、悔しさと悲しさから涙を流した。そうして今更のように叫んで喚いて、しばらくは学校に行くことも放棄して、部屋から出ることもやめてとにかく泣いて……生きた心地のしない毎日を過ごした。
サッカーは、俺の生活の中心だ。俺という人間を支える柱であり、魂であり、生きる理由そのものだった。ボールを蹴ることが俺の意識の大半を構成していて、それを失うことは、存在意義の瓦解にも等しいものだった。そう言って、過言ではなかった。
怪我のあと、あまりに現実が受け入れられなかった俺は、ゆっくりと歩けるようになった段階で勝手に練習を始めたりなんかして、また左膝を悪くするという愚行まで働いて……心配はされたけれども、さすがの親も少しばかり呆れていて、医者からは他人とは思えないほどに大目玉を食らった。
そんなわけで、サッカーを失うことで生まれた膨大な空白の時間を目一杯、気持ちの整理と鎮静に費やし――もとい中学三年生という時間を洗いざらい注ぎ込んで夢を諦め、かつてのエースは放心のままに鉛筆を握って、普通に平凡な受験をし、周りの皆と肩を並べて地元の公立高校へ進学した。
ああ、そうだ。これは夢だ。夢なのだ。
間違いなく俺の過去に起こった、夢のような現実を想起する夢。
忘れもしない。忘れられるはずもない。俺が夢を失った頃の……悪夢だった。
それは二年前の俺。中学二年生だった頃の大江空だ。
大きなダッフルバッグを肩に掛けて息を弾ませている俺を、まるで他人の視点から俯瞰するような光景。そんな夢が、頭の中に映し出されている。
けれども間違いなく、俺の記憶だ。
走っているのはよく見知った都心の駅。バスも新幹線も在来線も、地下鉄もタクシーも集まる大きな駅。
普段から人の数は計り知れないのに、時間帯は夜の七時頃だからだろうか、押し寄せる波のように人間の群が溢れ返っている。スーツ姿の人もいれば、遊んだ帰りらしき学生の姿もある。周りにひしめく飲食店は、どれも満席と一目でわかる。
地下鉄から飛び降りた俺は、そんな人混みの中を縫うようにして駆けていく。賑わう地下街から抜け出して、地上に建つおかしな形のモニュメントを横目で一瞥し、人が集る金だか銀だかの飾り時計を通り過ぎる。やがて駅を背にして大通りに出ると、そこで行われているストリートライブを快く思って聴きながら進む。
想像するのは、決まってサッカーフィールドだった。足下には躍動するボール。それを上手いことドリブルをしながら、往来の人々を相手に見立ててイメージトレーニング。
あの頃の俺は、そんなはた迷惑なことをしながら駅を全力疾走し、一度も立ち止まることなく大通りに出ると、ストリートライブの音楽がまるで観客の声援のように感じられて、口の端をニヤリと持ち上げて笑っていた。
俺は、そのストリートライブがお気に入りだった。
長身の二人組ギタリストの演奏する曲が、妙に俺の心を踊らせていた。揃ってフードを被っており、その下からわずかに覗く金髪と、身体に提げた黒と白のアコースティックギターが一際目立って注意を惹く。弾む視界の隅でギターの手元をとらえると、流れるようなピック捌きに驚いたものだった。走るのが楽しくなるような、自然と夢を抱きたくなるような、そんな生き生きとした美しくも荒々しい曲調が人気を集めていたらしく、周りには際立ってたくさんの観客が集まっていた。
そして、俺も密かなファンだったのだ。
そのライブが行われている日は、よりいっそうテンションが上がって、全力で駅から出てきたのに、そこからまた目一杯の力で走り出して目的地へ向かったものだった。
重い荷物もなんのその。肩に担いだバッグの中には、まさしく俺の夢が詰まっていると言ってよかった。
実際に入っていたのはジャージにユニフォーム、それにシューズやすね当てや、あとはドリンク、着替えなどといった他愛もないものだったが、それでも中学生の俺にとって、これらは間違いなく自分の夢の形そのものだった。
何を隠そう、俺は生粋のサッカー少年だったのだ。
目指した先は、駅近くの運動施設だ。そこではサッカーの練習が行われている。
だから俺は、朝練をして学校での授業を終え、そのあとのサッカー部の練習もこなすと、こうして毎日駅に降り立ち、また夜の練習へ向かうという希有な生活を続けていた。
大変だなんて、一度も思ったことはなかった。早起きも遅くまでの練習も、何の苦にもならなかった。
何しろ、俺はサッカーが大好きだったのだ。サッカーをしている時間が一番幸せだし、試合はもちろん、練習もこの上なく楽しかった。風邪を引いて学校の授業が辛くても、サッカーをするのは辛くなんてなかったし、ボールを蹴っていれば何もかも嫌なことは忘れられた。死んで葬られるときは、棺桶にサッカーボールを入れてほしいくらいに思っていた。もしかしたら自分は、サッカーをするために生まれてきたのではないかとすら感じていた。
思えばきっかけは、小学生の頃に父親が連れて行ってくれた試合観戦だった。幼稚園で初めて玉蹴り遊びを覚えた俺は、既にその頃にはサッカーに興味を示していたらしく、ならば是非と思ったのだろう。知り合いのつてでチケットを手に入れ、俺にプロの試合を見る機会を作ってくれたのだ。
そうして、生まれて初めて訪れたスタジアムはまるで夢の世界のようで、試合は始終、あますところなくこの俺を魅了した。
以来俺は、ただひたすらにサッカーばかりをして生きてきた。
小学校の休み時間には真っ先にサッカーボールをひっつかんでグラウンドを駆け回り、家では親にねだって手に入れたボールを、庭や公園で蹴り回した。テレビや本で知らない技術を学べば必死になってできるまで練習したし、サッカーだけは他の誰にも負けないという自負の念すらも持っていた。
その甲斐あってのことだろう。小学生の高学年になる頃には卓抜した実力を身につけ、俺は地域で名の知れた選手になっていた。中学校に上がるとすぐにサッカー部でレギュラーの資格をもらい受け、いきなり試合に出てみれば、あろうことか大活躍。すぐに学校ではエースなんて呼ばれたりして、メンバーに頼られれば必ず期待に応えるような、そんなチームの中心的存在になるべくしてなった。
ゆくゆくはもちろん部長を担い、サッカーの名門私立高校に進学してもっともっと実力を付け、大学でも活躍し、いざ踏み込むはプロの世界――。
周囲からは口々にそうかき立てられ、また俺自身も心の片隅で、そんな未来を疑うことなく信じていた。年を重ねるごとに練習にも身が入り、自分の将来に待つべくして待っている夢を、十分に現実的なものとして追いかけることに、無二の快楽と充実を感じていた。
まさに、実に、全く以て、一片の濁りもない順風満帆の人生を送っていたと言えるだろう。
ああ、けれども、だ。
長い人生、そう都合よく追い風ばかりが初めから終わりまで続くわけもなく、それまで滞っていた向かい風が、あるときいっぺんにやってきた。
中学二年の冬のことだ。
部活動で他校と練習試合をしている最中、俺は事故で怪我をした。エースよろしくボールを保持してドリブルでゴールに迫り、シュートをしようと踏み込んだところで、相手のディフェンダーと接触したのだ。
勝敗を左右する緊迫した状況。練習試合と言えど、戦績は以後に行われる本試合にも影響する。ゆえに俺も相手も本気だった。その本気が裏目に出たということである。
正直、そのときのことは気が動転していてよく覚えていないけれど、端的に結論だけを述べれば、俺は左膝を負傷した。そしてそれは、俺が思っていたよりも重大な負傷だったようで、のちに医者からは、完治しない種類の怪我だと宣告を受けた。
「膝の骨が複雑に折れてしまっていて、たとえ繋がったとしても、どうしても違和感は残るだろう。その違和感を無視して動かせば、負担からまた怪我のリスクは増える他、当然パフォーマンスにも影響が出る。以前のように動かせることは、もうないかもしれないが、さしあたってしばらく――三、四年は様子を見た方がいい」
右利きの俺にとって、左足は大事な軸足だ。そこに大きなダメージを負ったままでは、到底まともなプレーは期待できないし、もちろんエースなんてものも務まらない。
周りの人から励ましの言葉はいくつももらったが、結果的に俺は、部ではレギュラーを外れることになり、さらに八割方決定していた私立高校へのスポーツ推薦の話も失ってしまった。
そりゃあそうだろう。左膝は重傷で、しばらくは練習どころか歩けすらしない。なおかつ医者の宣告通りならば、高校三年間は丸々、様子見という名のリハビリに費やすことになる。つまるところ学生生活という期間内に限定すれば、俺のサッカーの選手生命は絶たれたも同義ということだった。
ただ当時の俺は、そういうことを理解するのに、それはそれはたくさんの時間を要したものだった。何しろ俺にとっては、生まれて初めての挫折だったのだ。なまじさくさくと人生の栄光ロードを突き進んできたせいか、小さな失敗で躓いたこともなく、ゆえに上手な転び方も起き上がり方も知らなかった。情けなくも、なす術などあろうはずもなかったのだ。
怪我をしてすぐ、病院のベッドではひたすら時が過ぎるのに任せて惚け、この身に何が起こったのか、よくわかっていなかった。やがて学校に復帰した頃になって、ようやく自分の生活からサッカーが消えたことを実感し、悔しさと悲しさから涙を流した。そうして今更のように叫んで喚いて、しばらくは学校に行くことも放棄して、部屋から出ることもやめてとにかく泣いて……生きた心地のしない毎日を過ごした。
サッカーは、俺の生活の中心だ。俺という人間を支える柱であり、魂であり、生きる理由そのものだった。ボールを蹴ることが俺の意識の大半を構成していて、それを失うことは、存在意義の瓦解にも等しいものだった。そう言って、過言ではなかった。
怪我のあと、あまりに現実が受け入れられなかった俺は、ゆっくりと歩けるようになった段階で勝手に練習を始めたりなんかして、また左膝を悪くするという愚行まで働いて……心配はされたけれども、さすがの親も少しばかり呆れていて、医者からは他人とは思えないほどに大目玉を食らった。
そんなわけで、サッカーを失うことで生まれた膨大な空白の時間を目一杯、気持ちの整理と鎮静に費やし――もとい中学三年生という時間を洗いざらい注ぎ込んで夢を諦め、かつてのエースは放心のままに鉛筆を握って、普通に平凡な受験をし、周りの皆と肩を並べて地元の公立高校へ進学した。
ああ、そうだ。これは夢だ。夢なのだ。
間違いなく俺の過去に起こった、夢のような現実を想起する夢。
忘れもしない。忘れられるはずもない。俺が夢を失った頃の……悪夢だった。