水道の水とともに洗剤の泡が流れていく。私は目を洗った後、萩白さんの体操着を借りて、今日何があったかをぽつりぽつり話をしながら自分のブレザーとシャツを洗っていた。

 途中で保健室の先生が来たけれど、萩白さんが保健室から出て理由を話すと、先生は「今日は放課後までここにいてもいいからね」と言ってくれた。そうして、ブレザーとシャツを洗っている間に二時間目の授業が始まる時間になった。

 今頃清水照道がどうしているか教室がどうなっているかは、分からない。

 ただ安堂先生が保健室に来ないところから考えると、私は最初から学校に来ていないことになっているのかもしれない。

 明日から、どうしよう。

 考えなきゃいけないのに、ただどうしようと思うばかりで何も考えられない。隣では萩白さんが熱心に私のブレザーに洗剤をかけて洗っている。

 洗剤は、萩白さんが職員室から食洗器ようのものを借りてきたと言っていた。「泥の中にだって、油分がある場合があるし念のためね」と言っていたけれど、生地に土は十分すぎるくらいに浸透していて、まだまだ落ちる気配はない。

 清水照道が撮影したことについての話をしたとき、萩白さんは何か考え込んだ様子だった。そしてそれから、定期的にスマホを確認している。

 しばらく私のシャツを洗っていた萩白さんは、またスマホを取り出した。そして「やっぱり」と苦々しくつぶやく。萩白さんはスマホをこちらに掲げた。

「清水くんのアップした動画、すごい勢いで拡散されてるよ」

「……え」

 奴の、アップした動画、そう聞いて胃がずきりと傷んだ。あの動画には、私も映っている。あれを見たらお母さんやお父さんはどうなるんだろう。きっと悲しむに違いない。うつむくと、萩白さんは「これだけは、安心してほしい。君の顔は全く映っていないんだ」と続ける。

 どういう意味かと顔を上げると、萩白さんは私に「君にとって、嫌な記憶を思い出させるかもしれないけど、見る?」と問いかけてきた。頷くと撮影した動画が再生された。

 そこには、はしゃぐ清水照道、河野由夏、千田莉子、そしてその取り巻きの姿が映っている。

 私の姿は、首から下。顔は一切映っていない。

 一瞬髪の毛が少し映るくらいで、鼻も目も口も何もかもが映っていない。録音されている声とスカートで、かろうじて女子生徒だと予想ができるくらいで、この人物を私だと証明できる映像の根拠は何一つなかった。

 でも、それと反比例するみたいに、奴や河野由夏、千田莉子、そしてその取り巻きはその顔が詳細に映りこみ名前まで本人たちが発している。動画の再生回数を見ると、すでに何百と再生され、批判的なコメントや、住所や特定したなどのコメントが今なお更新され続けていた。

 なんだ、これ。

 ネットでは、河野由夏、千田莉子たちが、ボロ雑巾みたいに叩かれている。死ねばいい。殺したい。消えろ。そんな言葉を玉入れみたいに投げられている。それも、一人じゃない。何百とだ。清水照道も一緒に。

 あいつは、こうなることを予想して、動画をアップしたのか。動画には、私の顔は映っていない。あいつらだけ。あいつらと清水照道だけだ。これじゃあ、まるであいつは……。

 私が呆然としている間にも、目まぐるしく動画は再生され、コメントは更新されていく。萩白さんは「清水くんは自分もろとも、敵にして、君を助けようとしているのか……」と静かに視線を落としながらスマホをしまった。

「安堂先生には頼ることができない。もしかしたら彼は、君に何かあったとき、ターゲットにされた時、こうすることを決めていたのかもしれない」

「……で、で、でも、これじゃあ、あ、あ、あーいつは……」

「動画の中で、君の味方になるような人物が入り込んでしまえば、誰かが邪推を始める。それを警戒したんだろう。君が疑われることもあるかもしれない。だから、彼はおそらく……」

 萩白さんがいいかけた瞬間、がらりと保健室の扉が開いた。先頭は、安堂先生。そしてその後ろには校長先生と、学年主任の蔵井先生が焦ったような顔立ちで立っている。

 安堂先生は私のもとへと駆け寄り、「一体何があったの、樋口さん!」と心痛そうな面持ちで私の肩を掴んだ。

「……えっと、あ」

「朝から、樋口さんがいなくて家からも連絡は来ていないし心配していたら、動画が回ってるって聞いて、見せてもらったわ。あそこに映っているのは樋口さんだと由夏ちゃんから聞いたの。由夏ちゃんがいたずらで泥を投げたのがぶつかっちゃったんでしょう。それで誤解が、そうよ誤解で、でも辛かったわよね。それでとりあえず、樋口さんには今の状況を説明してほしくて」

 安堂先生は、まくしたてるように話をする。何かを言わなきゃいけないのに言葉が出ない。

「待ってください。先生、彼女は被害者ですし、河野由夏さんが泥を投げたのは加害する目的です」

「うん、萩白さんはちょっと静かにしていてもらえないかしら。後でお話は聞かせてね。でも今は、樋口さんに話をしているのよ?」

 安堂先生の言葉に、萩白先輩は何かを言おうとする。しかし胸を押さえ俯いた。安堂先生は私の肩を揺さぶるように「ねえ、大丈夫だからお話して?」と私の顔を覗き込む。私は言おうとしているのに、安堂先生は「なあに?」「ちゃんと言って」と「大丈夫だから」を繰り返して、何も言えない。すると蔵井先生が安堂先生の手を掴んだ。

「待ってください、安堂先生……。なあ君、もしかして、言葉がすぐに出てこなかったり、連続してしまったり……初めの言葉が伸びることで悩んでいるのではないか」

 蔵井先生の言葉に頷く。すると蔵井先生は「わかった」と、懐から紙とペンを取り出した。私に渡すと、「言い辛くなればこれを使って構わないから」と言って、安堂先生に向きなおる。

「安堂先生、彼女は吃音症です。あなたが責め立てたところで、言葉は出ない。彼女自身が言葉を出そうとしていても」

「……どういうこと、樋口さんが、吃音……?」

 安堂先生は信じられないものを見るように私を見た。そして酷く傷ついたような顔をする。

「どうして言ってくれなかったの? あなたが話ができないのなら、きちんとクラスに事情を説明していたのに。先生なんだか裏切られた気持ちだわ。とても悲しい……」

「だからでしょう」

 安堂先生の言葉に、蔵井先生が呟く。そして、私を見ながら先生は話をつづけた。

「きっと、安堂先生は自分のことについて話をしたら、クラスに説明をする。けれど、きっと説明し協力を仰いだところで周囲は受け入れてもらえない。彼女はそう思ったから、言わなかったんじゃないんですか。今だって安堂先生は、彼女の言葉を聞きもせず、言葉を遮り、自分の感情だけを述べている。今大切なのはあなたの遠回しな弁解でも保身でも感情でもなく、生徒全員のこれからです」

 蔵井先生がきっぱりとそう言うと、安堂先生は黙った。そして蔵井先生は再び私を見る。

「私や校長先生は、君を責めない。ただ君のいた状況にいなかったことで、何も知らないんだ。だから、君に当時の状況、そしてこれからどうしたいかを聞かなければいけない。悪いが協力してくれないか。ちょうど君のご両親も学校に呼んでいる。もし嫌なら君は今日早退をして、日を改めてもいいし、手紙を書いて送ってくれて構わない。君が選んでいい」

「……今。は、は、はーなし、ます」

「ありがとう。……萩白さん、よければ君も同席してくれないか。きっと一人で教師に囲まれるより、君がいてくれたほうが心強いだろう」

 蔵井先生の言葉に、萩白さんが頷く。私は萩白さんとともに校長室へと通された。




 そうして校長室に通され、「まず君以外の人間から聞いた今の状況から説明をしよう」と聞いた話は、私の考えていた言葉よりずっとずっと深刻だった。

 先生たちは動画が話題になっていることを朝のホームルームや、ほかのクラスの生徒から聞いたらしい。先生たちが職員室に戻ると職員室の電話が鳴りやまない状況になっていて、そして授業を受けていた河野由夏や千田莉子、そしてその取り巻きたちと清水照道から話を聞いたのだという。

 二人はいたずら半分と誕生日祝いのつもりで私に泥をかけふざけていたら、清水照道が勝手に動画を撮り始め、勝手にアップしたと話をした。安堂先生は「由夏ちゃんたちも、悪気があったわけじゃないのよ、きっと何か意地悪したいと思ったのよね、樋口さんと仲良くなりたくて」と言って、校長室から退席を促され、清水照道の周りの話になると、蔵井先生と校長先生、私と萩白さんだけで行われた。

 そして聞いたのは、清水照道は私を保健室に連れて行き、教室に戻った後、他の生徒いわく全員に向かって自分を脅して動画を消させようとしても意味がないと、淡々と私の席の泥の掃除をしてから、本当にいつも通り自分の席に座り、ぼーっと座っていたらしい。

 河野由夏がなんどお願いをしても、千田莉子が怒鳴っても、二人の様子を見かねた寺田が清水照道の胸倉を掴んでも、ただ淡々と無表情で、まるで周囲の人間などいないかのように振る舞ったらしい。先生に事情を聴かれると「あの動画が全てですよ。俺らずっと樋口さんと遊んでたんですけど、世間からすればいじめにあたるみたいっすね」と言ってのけ、「あとあと責められんの嫌なんで、もう出しておきますね」と、ポケットから予備のスマホを取り出して教師たちに、トークアプリの履歴を見せたという。

 そこにのっていたのは、私の悪口らしい。

 期間は、奴が転校してきて、五日を過ぎたあたり。私は入っていないクラスのグループで、私が気持ち悪い。声を発さない。不気味、幽霊みたいという言葉が並び、幽霊タッチゲームという、幽霊に物を投げてあたるかのゲームをしてみないかという提案がされていたと聞いた。提案者は、千田莉子。

 そして清水照道はそのスクリーンショットの画像を蔵井先生のアドレスに送ると、さっさと家に帰ったという。「どうせ俺ら停学か退学処分ですよね」と言い残して。実際、今日の夜の職員会議で処分が決定されると蔵井先生は私に言った。この騒動に関わった私以外を謹慎、停学処分にして、様子を見てさらに重い処分を下すか決めると。

 そうして、清水照道と会話をした先生たちは、最後に被害者とされる私に聞き取りをということで、保健室に来たのだと話をした。私は今日あったことを紙に書いた。学校に来たら、突然泥をかけられたこと。その場に河野由夏や千田莉子がいたこと。全てを説明している間に、私の両親が到着した。お母さんとお父さんもネットを見ていて、二人はすぐにあの動画が私だとわかったらしい。その後私は保健室に萩白先輩と一緒に戻り、先生と両親が話を終えるのを待っていた。