この恋を殺しても、君だけは守りたかった。

 それから、河野由夏は千田莉子を認識しなくなった。今まではトイレに行くにも、どこへ行くにも千田莉子を伴い授業へ向かうのにも必ず一緒だったのに、今では皆千田莉子をいないように扱い、昼に誘うこともない。

 初め千田莉子は河野由夏に対して「無視しないでよ由夏しい」と話しかけたり、指でつついたりしていたけど、一度「マジでうざいんだけど」と言われてからはやめた。

 そして俯き申し訳なさそうに、黙ってついていくようになっていたけれど、河野由夏が「何かキモイのついてくるんだけど」と言ってからはそれすらせず、一人で行動をするようになった。

 そんな千田莉子を、自分のグループに入れようとする人間は一人もいない。

 男子は普通に素知らぬ顔。女子のカースト上位は河野由夏に睨まれたくない気持ちで、そして吹奏楽部とか、比較的このクラスでも真面目に属されていたり、上位の人間から地味だと馬鹿にされるリア充たちは千田莉子をもとから嫌っていたらしく、トイレで「ざまあじゃん」と言っていたのを聞いた。だから、千田莉子は基本的に声を発さなくなったといっていい。

 寺田は初め千田莉子の扱いについて「どうしたん?」「なになにどういうこと?」と首をかしげていたけど、理由を聞いたのかそれについて触れなくなり皆と同じになった。

 清水照道は、よくわからない。

 ただただ関わるのではなく、傍観し、様子を伺っているように思う。ただその件に関しての話題が触れそうになると、私にうざ絡みをすることで危機を脱しているようではあった。

 そうして、二週間が経過した。

 文化祭も明日に迫り、帰りのホームルームを目前にしてクラスでは団結だの、合唱コンクール優勝できるといいねと、そんな生ぬるい雰囲気が漂っているけど、その空気外れるように私は俯いているし、千田莉子もただじっと机でスマホをいじっている。

 やがて、安堂先生が教室に入ってきた。先生はちらりと千田莉子を見る。先生だって、千田莉子の今の状況を知っている。知ってるけれど何もしない。

 一度河野由夏に「どうしたの由夏ちゃん、喧嘩しちゃったの? 駄目よみんなと仲良くしないと」と言ったものの「じゃあ先生嫌いな人いないの? っていうか私みんなと仲良くしてますよ」と即座に言い返されてからは、何も言っていない。そして千田莉子に対して話しかけようか迷うそぶりは見せても、言葉をかける様子もなく、ただただ困って、助けてほしいという顔をして、黙ったままだ。

 似ているなと思う。安堂先生は今までの担任の先生に。

 一人ぼっちの学校を嫌がる生徒を助けるより、クラスの中心の人間の機嫌を伺うほうがずっと楽なんだろうと思う。そう思うけど、私も千田莉子を助けようとはあまり思えない。

 いじめられることが怖いし、千田莉子は「あんたがいじられればいいじゃん」と言った。何かしらの拍子で、また怪我が絶えず、私物を買い替えることが続いて、お母さんとお父さんが悲しそうにするのを見ていることはつらい。もうあんな目に絶対あいたくない。

 鞄に荷物を詰めながらホームルームが終わるのを待っていると、案外早く終わった。「明日の合唱コンクール頑張りましょう」という先生の言葉に、どことなく今大事なのは合唱コンクールじゃなくて、クラスのことを先生は考えるべきなんじゃと思ってしまう。でも、いつまでも教室に残っていて先生に話しかけられるのも嫌だ。教室にはもう、千田莉子と私、そして吹奏楽部へ行こうと楽器のケースを持つ吹奏楽部しかいない。

 立ち上がって、逃げるように教室を去っていくと、廊下の端のほうに河野由夏が見えた。何事もなく、何の滞りもなく千田莉子の不在すらわからないように、最初から知らなかったかのように歩いている。

 やっている側は、本当に相手がどう思っているかなんて、関係ない。

 きっとこのことが大事になって先生が怒ったとしても、奴らに芽生えるのは「面倒くさいことになった」「もっと上手くやれば良かった」という感情だけだ。実際小学校のころだって、中学校のころだって、先生がそいつらに謝罪を促して、謝ったんだから許してあげてと強要されて終わりだ。

 ちゃんと和解して、収まったよというのが欲しいだけだ。あっち側の人間は。

 でも、今の自分もこうして、ただ黙ってていいのだろうかという気持ちもある。先生に千田莉子について何か言うべきなんじゃないかと思う。でも、言えない。手紙を書いてみるのもいいかもしれないけど、それをどうやって渡すんだろうと思うと、またできない。やらない理由を探しているのかもしれない。

 ぽつりぽつり、落ちていくみたいに階段を降りていく。すると何か走るような音と共に肩を捕まれ無理やり後ろを向かせられた。

「うぁっ」

 落ちそうになり、後ろ手で慌てて手すりを掴む。後ろにいたのは千田莉子だ。心臓がばくばくと激しく動いているのが分かる。この間よりずっと鬼気迫るような表情で、私をにらみつけている。

「何なの。ハブられるべきはそっちなのに。私は、ちゃんと皆が盛り上がるよう頑張ったのに何でよ。ずっと、ずっとあんたいじったほうが楽しいって、こっちはずっと言ってるのに……!」

 千田莉子が、私の肩のセーターをぎりぎりと握りしめている。その殺気立つような空気に、内臓がしんと冷えていった。何かされて、怖い。これからいじめられるかという恐怖じゃなく、今まさに何か、殺されるんじゃないかと背筋が凍りついた。

「調子乗んな偽善者」

 千田莉子が、私のセーターを握りしめる力をより強いものにする。このまま突き落とされるんじゃないかと目を閉じると、「危ないよ。そんなところで」と、穏やかで、はっきりとした声がかかった。その声で千田莉子の動きが止まる。声のかかった方向を見ると萩白先輩が階段の踊り場からこちらを見下ろすように立っていた。そしてゆっくりとこちらに降りてくる。

「人と話をするときは、そんなセーターを掴んだり野蛮なふるまいをしてはいけない。ただでさえ階段だ。そもそもここは移動をする場であって、会話をする場所じゃないよ」

 そうして、千田莉子の手を私のセーターからどける。千田莉子は、ばつの悪そうな顔をして、階段を駆け下りるように去っていった。その姿を見て、萩白先輩は首をかしげる

「彼女はどうしたの? かなり物騒なことを言っていたけれど……良ければ相談にのるよ」

 その言葉に、説明をすべきか迷い、口をつぐむ。すると萩白先輩は私の肩をぽんと叩いた。

「うん、たまには私も人と帰ってみたい。良ければ一緒に帰ってくれないかな。出来れば人通りの少ない道がいいんだけど……どう?」

 萩白先輩の言葉に、考え込む。先輩は考えながら話をしたっていいんだよ。何なら筆談でも構わないしと頷いて歩いていく。私は少し迷った後、恐る恐る先輩の後をついていった。




「ごめんね、私は騒がしい通りが好きじゃないんだ。樋口さんはどう?」

 うす暗い日暮れの坂を、萩白先輩と共に下っていく。

 今まで私は帰るときに、同じ学校の人間が通る道より一本裏手の道を通っていた。たまにゲームをしながら通る生徒はいるけれど、あっちもこっちに関心を持たないし、持つことを嫌うそぶりさえ見せる。

 人のいない道は気楽だと思っていたけれど、萩白先輩が選んだ場所は、そこからさらに奥まった、下り坂のある道だった。住宅街が立ち並び、その隙間からは下の、駅前の通りが見える。清水照道に案内された団地もわずかながらに見えた。その団地を見ながら歩き、先輩の言葉に返事をしなければと口を開く。

「……わ、わ、わー、たしも、ひ、人が多い……み、道は……嫌い、です」

「私もだ。だからいつも、この道を降りて駅に向かっているんだ。上るときもそう。バスは使わず、この坂を上がる。そしてたまに、マスクを取る」

 先輩が私を見て、マスクを掴むそぶりをした。しぐさに驚いていると、先輩は静かに頷く。

「安堂先生が言っていたよ。萩白さんには理解者が必要だと思うの、この間樋口さんには説明したわ。樋口さんは静かないい子だし、きっと友達になれるはずだってね」

 その言葉にどう返事をしていいかわからず、俯く。すると先輩は私の肩をぽんと叩いた。

「だから、君が私が留年して、いわゆる先輩もどきであるという認識をしているであろうことも知ってる。だから気軽に私のことは萩白さん、そして敬語も使わなくていい。同じ学年だからね」

「……は、はー、萩白さん」

「うん。よろしく樋口さん」

 萩白先輩は私を見た。ように感じる。実際は、長い前髪にその視線は隠れ見えない。じっと先輩の目のあるであろう方向を見ていると、先輩は「ところで」と人差し指を立てる。

「さっきの女子生徒は、一体何? 私はあの子を何度か見たことがある。バレー部で明るくしているような子だったけど、まるで別人のようだった」

 萩白先輩は、静かに驚くように千田莉子について語る。私は説明を迷い、長くなってしまうと鞄からノートを取り出しあったことを書いていく。千田莉子の状況やその経緯について全て書き終えると、大体二ページが埋まった。萩白先輩はその紙を見て、考え込むようにすると「なるほどねえ」と呟く。

「きっと、その河野由夏さんは、清水くんのことが好きなのだろう。そして千田莉子さんはうっかりそれを言ってしまい、彼女の逆鱗に触れたと……きっかけがある分厄介だね」

 きっかけがあると、厄介? きっかけが無いほうが厄介じゃないのかと考えると、先輩はそれを察したらしい。「私も以前教室にいたとき、何度か見たことがあるんだけど」と前置きをした。

「たまに、本当に魔のさすように仲のいい人間に突然そういうことをする人間はいるんだよ。でも元から理由なんてないから、なんとなくもういいかとそれは止む。でも今回はきっかけがある。また大きなきっかけが無い限り流れは変わらないだろうし、それに安堂先生は、待つことをするか、千田莉子さんに原因を突き付けて、謝るよう言うか、まぁ、ろくなことはしないだろうね……」

「……わ、私は、ど、ど、どうすれば、いいのかな」

「まぁ、安堂先生が担任である以上は、八方ふさがりになるね。生徒同士で解決しろと学校側は思っているかもしれないけど、ただの喧嘩じゃない。一方的な暴力に近いもので、相手はもう話し合いが出来る状況でもない。明日は合唱コンクールだし、もしかしたらそこで流れが変わるかもしれない。様子見をすべきだと、私は思うよ」

 先輩の言葉に、納得する。確かに明日は合唱コンクールで、打ち上げをしようとかなんとか、河野由夏は企画していた。もしかしたら明日の合唱コンクールで優勝をして、クラスの団結みたいなうすら寒いムードで、千田莉子の状況は改善されるかもしれない。

「それに、本当に助けたいと思う相手なら、やりたいのなら、迷わないはずだ。助けなきゃいけないと心が思う。どうしようかと思っているのは、後悔する証拠だよ」

 萩白先輩は大きく伸びをして、空を見上げる。私も揃えるように空を見上げた。すると先輩が「だから私も、そろそろ勇気を出さなきゃいけないんだけどね」と呟く。

 空の色は、徐々にオレンジ色が紺色に滲んで浸食されていくみたいで、私はその空を見上げながら、明日の合唱コンクールがましなものになればいいと思った。
「じゃあ今日は合唱コンクール本番ね! みんな今まできちんと練習してきたのだから、きっと努力は報われるはずよ!」

 合唱コンクール当日、図書館のホールの座席で、安堂先生がぱんと手を叩く。

 ホールの席順が歌う並びだったらどうしようと思っていたけれど、普通に出席番号順だった。

 いくつか開けた席に寺田が座っている以外は、周りは吹奏楽部の人間で喚いたり騒いだりもない。安堵していると、後ろのほうでは保護者が入場しはじめ、私のお父さんやお母さんも座り始めた。

 お母さんとお父さんは、今日の行事を楽しみにしていた。お父さんは普段本当に仕事が忙しく休めている気配がないのに、休みをもぎとったと喜んでいた。私が学校の行事に参加することは、やっぱりお母さんとお父さんにとって嬉しいことらしい。

 安堂先生は「じゃあトイレに行きたい人は行ってきて」と皆に声をかける。私の座席は一番端だし、座っていれば邪魔になる。別にトイレになんて行きたくないけど、お母さんやお父さんたちの手前、何か詰まっているような姿を見せたくはないし、立ち上がって出口のほうへと向かっていく。

 お父さんとお母さんは私に気づいて手を振ってきた。控えめに返しながらホールの外へ出ていくと、ホールの外も生徒や生徒の保護者で賑わっていた。三浜木宋太の出現に警戒しつつそのままトイレに行こうとすると、つんと背中をつつかれる。振り返ると、清水照道が特に表情も作らず立っていた。

「今日、無い日だから」

「……え」

「……ボランティア」

 単語だけ簡潔に言われた言葉の意味を徐々に理解していく。清水照道は「じゃ」と人の群れへと踵を返した。もしかして、私が思い出して吐いたりしないように単語だけ言ったということか。

「お、おい」

「ん?」

 呼びかけると、清水照道はすぐに振り返る。何か、言わなきゃいけない。お礼を。そう考えている間にも、奴はは自然なように私を待っている。そうして一言、言葉を何とか言おうとすると、「あ」と何かを見つけたような、軽い声が横から響いた。

 清水照道を、真っすぐと見る大学生くらいの、女の人。

 女の人は清水照道を見て驚くように見ている。清水照道も、驚くようにしている。そして女の人はゆっくりとこちらに顔を向け、さらに大きく目を見開いた。

「あ、あの時の」

 女の人は、清水照道を見た時の数倍私を見て驚き、唇を震わせている。その様子に清水照道は何かを理解したらしく、驚くこともなく平静な状態に戻った。意味も分からず私が混乱していると、女の人は私の手を掴み、ぎゅっと握りしめた。

「私、バスを待っているときに、去年の冬ごろ、えっと……すみませんちゃんと説明しますね。去年の冬ごろ、雨の日にバス待ってるとき、立ちくらみ起こしちゃって、それで荷物道路にまき散らして、でも私ふらふらしたままの時に、あなたに拾ってもらって……覚えてますか?」

 去年の、冬。確かに覚えがある。雨の中ペンケースやノートが散乱して、私は拾った。拾って、ありがとうと言われて「どういたしまして」が上手く言えず、逃げるように立ち去った記憶がある。そして、どうして一言すらまともに言えないのかと思った。その記憶が強い。

 頷くと女の人は嬉しそうに私の手をぎゅっぎゅと握る。何とか声を出したくて、でも出なくて困っていると、清水照道が「すいません、ちょっとトイレ行こうとしてるとこなんで」と割って入った。女の人は「あっごめんなさい」と私の手を離す。

「実は、私の弟がこの合唱コンクールに参加していて、見に来てるの。あなたのような子と仲良くなってもらえたらうれしいんだけど……。ああまた話を長くしちゃったわね。ごめんなさい。じゃあ」

 そう言って女の人は頭を下げた。私も頭を下げトイレに行こうとすると、女の人はつとむ、と遠くへ手を振る。すると遠くに寺田の姿が見えた。寺田は女の人を見て「姉ちゃん」と呟く。

 まずい。

 とっさにトイレへと逃げ込むように入る。中は列をなしていて、私が並ぶとすぐに二人、三人と並んだ。その様子にほっと安堵しながら、さっきの光景を思い返す。あの女の人は、寺田の姉……? 頭の中がこんがらがってきた。

 突然前に拾いものをした相手が出てきて、その人が寺田の姉で、そして寺田の姉は、清水照道を知っている?

 情報が多すぎてわからない。思えば、清水照道は転校当初、私を見て驚くような、睨むような変な目で見ていた。となると、寺田のお姉さん経由で、私は清水照道に会ったことが……、寺田のお姉さんと会ったのは、バス停だ。そのバスを、清水照道が利用していたりして、そこで会ったことがある、とか?

 考えながらトイレを済ませ、また自分の席へと戻っていく。遅れて戻ったから、座席はほぼほぼ埋まり端である私が空席でいる必要ももう無さそうだ。私は席に座り、ほどなくして始まったほかのクラスの合唱に耳を澄ませながら、以前清水照道と会った記憶を頭の中で探していた。




 案外、合唱コンクールはあっけなく終わった。

 順位の発表も終わり、先生が座席に座ったままでいいからと、簡単な諸注意の説明をしていく。けれど帰りに寄り道しないだとか、そういう話ばかりだ。明日は他の学年は文化祭の片付け、一年生はそれの手伝いをするらしい。

 どうして参加してない文化祭の片付けをしなきゃいけないんだと不満がそこかしこから飛んでいく。音読や朗読、指名をされるんじゃないかとひやひやすることよりもましだ。適当に話を聞きながら、千田莉子のほうを見る。

 結局合唱中も、舞台裏で待機をしている間も、河野由夏が千田莉子に話かけることはなかった。

 文化祭で劇的に、何かが変わるんじゃないかと期待したけれど、そうじゃなかったらしい。千田莉子については、好きか嫌いかでいえば嫌いだ。でも一人が仲間外れにされている状況は見ていていい気がしない。だからといって、助けようと行動は出来ないけど。

 でも、きっと千田莉子にとっては、私も、私のほかに千田莉子の状況を良しとしない人間がいたとしても、全員が敵に見えているんだろうと思う。

 昔、私はそうだった。今も、そうかもしれない。学校の人間は、全員敵。積極的に加害してこないやつらも、きっと手を出してこないだけで私の敵だと思っていたし、今も思っている。自分は、昔あんなにも憎んでいたそちら側に、今は片足を突っ込んでいるのかもしれない。そう思うと喉が詰まった。

 俯いていると「さよなら」という先生の号令の声の大きさにはっとして顔を上げる。気付くと生徒たちは皆帰るべく動き出していて、私も慌てて座席から去ろうとする生徒の邪魔にならないようにどいた。

 今日は、お父さんはこのまま仕事に行って、お母さんと帰る。お母さんは駅の裏手の喫茶店で待ち合わせをしようと昨日約束をした。

 さっさと帰ろうと図書館を出て、人の群れを外れるように人気のない道路を通っていく。普段の六時間授業よりも遅い時間に終わったせいか、あたりは日暮れを超えて街頭の光を強く感じるほどに暗くなっていた。気のせいか人の顔も街頭に近くならないとよく見えない。この調子じゃ別に遠回りせずとも大通りを通るだけでよかったと考えながら道を歩いていると、ぱっと後ろから腕を掴まれる。驚きで大きな声が出そうになると、ぱっと口元を塞がれた。

「危ないよ萌歌ちゃん。こんな暗い道通ってたら危ないやつにぱーって捕まって、そのうちぱーって連れ去られるかんな」

 清水照道はそう言って、すぐに私の口元から手を離す。どう考えても道端で人の口をふさぐお前のほうが危ないやつじゃないのか。睨みつけると奴はぽんぽんと私の頭を無遠慮に撫で、私の腕を引く。

「お母さんかお父さんと待ち合わせしてるっしょ。送ってく。暗いし、放っておいたら秒でキャリーケースとか詰められそうだし」

「……な、なんで、そーれを、し、し、知ってるんだ」

「照道くんの名推理。萌歌のママとパパは萌歌と仲良しだし、萌歌もママとパパが好き。こんな暗い時間に解散になって、ママパパだけほいほい萌歌残して帰宅なんて、考えにくいし」

 確かに、奴がそう考えるのは、自然かもしれない。お父さんとお母さんの私への態度を見ていれば、そう考えるほうが自然だ。納得していると奴は思い出すようにこちらに顔を向ける。

「萌歌のお父さん、新聞社に勤めてるんだってね。担当は基本事件系」

「そ、そ、それも、す、推理か」

「まぁ、そんなとこ? だから多分萌歌のお父さんが、俺の本当のご両親がいたいけな照道くんにあげたのはその名前だけ。あとは貧乏しんどすぎて二人仲良くあの世に行って、照道くんがその死体を発見して連絡したってことは、もう萌歌のお父さんは知ってるのかなあ」

「あ……」

「やっぱり、なんか萌歌の俺を見る目が変だと思ってたけど、俺についていろいろ知ってたわけか。名前検索でもした? それとも俺の事気になって、俺みたいに調べちゃったとか? 萌歌ちゃん隠し事下手すぎ。かわいー」

 清水照道の言葉にはっとした。今私は、奴にかまをかけられた。そして、引っかかってしまった。街灯がちょうど少ないところを歩いているため、奴の顔は見えない。じっと黙っていると奴は何かを知った被るような口調で笑いだす。

「あれ、もしかして萌歌ちゃん、同情しつつ俺のこともっと好きになっちゃったとか?」

「……す、す、好きになるわけないだろ! ……き、きーらいだ。……お、お、お前なんか」

「えぇ〜」

 言葉のわりに確認をされているように感じるのは何故だろう。

 というか今、いいように利用された気がする。私は奴に、奴の過去を知っているか聞かれ、そのあと私からは、踏み込ませようとしない。話をすり替えられた気さえしてくる。

「でもまぁ安心してよ。今はいいところの養子に貰われて、前と比べて超いい暮らししてるし。だから安心して嫁に来ていいよ」

 清水照道はけらけら笑う。また、この笑い方だ。何が楽しいのか、分からないような笑い方。前までこの笑い方を聞いていると、苛立った。でも今はもしかして、本当はこいつは、ものすごく傷ついて、どうしようもないくらい辛い中で生きてて、笑うしか出来ないから、笑っているのか。そんな風に思えてくる。

「お? 俺に同情しちゃってる感じ? 超騙されやすいじゃん! 駄目だって、そんなんだったらすぐ俺にさらわれて閉じ込められちゃうよ?」

 その笑い方に、声色に、胸がぎゅっとした。こいつは最低な人間で最悪のクズだ。だから、私は復讐をする。そう確かに決めたはずなのに、最近では全くこいつに復讐をしようとなんて思わない。馬鹿にされていることは続いている。それですら理由があるように思えてきてしまう。洗脳されてるのかもしれない。でも。

「萌歌……?」

 なんとなく、奴に掴まれている手を、握り返す。そうしないと、こいつがどっかに飛んでいくような、砂みたいに一気に崩れるような、そんな気がする。いっそどっかに吹き飛べとか、思わなくもないけど、今はこうしていたほうがいい気がする。奴は私が手を握るのを見て、試すみたいに握り返してきた。

「手、繋いでてくれんの?」

 どこか、安心するような、言い聞かせるような、そんな声だ。

「ほ、ほーねを、お、……折ろうとしてる」

「萌歌ちゃんなら、折ってもいいよ」

 鼻で笑うみたいに、清水照道は笑う。私はその皮肉めいたような笑い方が、限りなくこいつらしい気がして、なんとなくもう一度握る力を強めた。

 文化祭から次の日は本当にいつも通りだ。晴れ渡る空に、ぽつんと月が浮かぶ。そんな背景を背に四角い画面の中、キラキラした女子アナウンサーが軽快に、流れるように今日の天気を伝えている。

 ぼんやり眺めて朝食を食べていると、お父さんがエプロンをつけながら私の向かいの席に座って、みそ汁を飲み始めた。お父さんは、朝はお味噌汁しか飲まない。「ここ最近暑くなくなってきたな」と言いながら、お父さんは天気予報の最低気温にため息を吐く。その隣で私と同じようにトーストを食べていたお母さんが「秋物は出したけど、冬物も少しは出しておくべきかしら」と考え込むようにしていた。

 すると、下のほうにテロップが流れた。人身事故が発生したらしい。じっと流れるその文字を見つめていると、路線は私の使ってるものではなく、清水照道の使っている路線だった。

「萌歌、早く出たほうがいいんじゃないのか? この路線が潰れると、萌歌の学校行く線にながれてごった返すぞ」

 お父さんの言葉に、トーストをかじる速度を速める。人が多いのは嫌いだ。私は急いで隣にあったオレンジジュースを飲みこみトーストを流すようにすると、鞄を持って家を出た。




 お父さんの予想通り、私の使っている線路は混んでいた。朝起きて、少し経ったころまでは、いつも通りの朝だなんて考えていたけれど、いつも通りなんてものじゃない。ホームには既にどう並んでいるか先頭や最後尾が分からないくらい並んでいて、電車の中は降りていく人なんか全然いなくてぎゅうぎゅうに詰まっていて、工場で流されるベルトコンベアみたいに自分の意志では動けず無理やり動かされるように電車にのった。ただ幸いだったのは私の降りる駅、学校の最寄り駅がほかの路線とつながる駅で、大多数の人がそこで降りたから、私もその流れに沿うように降りることはできた。もしも私以外降りる人間がいないような駅であったなら、私は確実に降りれなかっただろう。




 ほっと胸を撫で下ろし、窮屈だった肩を伸ばすように歩いていると、相変わらずいつもどおりの住宅街が立ち並んでいるのが視界に入る。

 イヤホンを耳につけ音楽を聴いているふりをして、じゃりじゃり服がイヤホンのコードにこすれたり足を動かす音を聴きながら学校に向かって歩く。今日はいつもより人が少ない。私はなるべく人のいない道、人のいない時間を狙ってはいるけど、やっぱり同じことを考える人はいるわけで、周りに誰もいないことはさすがになかった。

 でも、今日は周りに人がいない。私の前をうっすら男子生徒が歩いているのが見えるだけだし、後ろも本を読みながら歩く女子生徒がいるだけだ。前はもう少し、周りに五人くらいはいた。

 やっぱり人身事故の影響なのだろうか。考えている間に学校にたどり着いた。靴を履き替え、階段を上り教室へと向かっていく。校舎はところどころ飾りつけされていたり、中途半端に片づけがされていたり、段ボール箱やガムテープが置いていたりと、どことなく別の世界に迷い込んだような、いつもと違う世界に感じた。

 私のクラスは荷物置き場として使用されていたらしく、特に段ボールを置かれていたり、飾られていたりはない。いつも通りの教室の姿を見ながら、前の席を警戒しつつ後ろのロッカー側から扉を開く。その瞬間、べちゃりと固形のような何かが、降るように飛んできた。

「樋口さん誕生日おめでとー!」

 嘲笑するような、声。

 たぶん、河野由夏や、千田莉子の声だ。とりまきたちもいる。視界がざらつき、何かに遮られて見えない。瞬きをするたびにごろごろと異物のようなものが入る気がして目が痛い。げらげらと笑い声が聞こえる。土や草のような鼻について、それなのか笑われているからなのか、頭がひどく熱くて、痛くて、気持ちが悪い。

「っていうか、泥団子懐かしくない? っていうかナスリココントロールやば。流石バレー部」

「へへ、由夏しいのがやばいじゃん。才能あるよ」

 河野由夏と、千田莉子。二人ははしゃぐように、「せーの」と息を合わせたような掛け声をすると、また土の匂いが強くなって頭や顔の質量が重くなる。手で頭をかばっても、すりぬけるように泥団子がかかった。

「何かさあ、照道と手え繋いで帰っちゃってたけど、あんたもしかして勘違いしてんじゃない?」

 河野由夏の言葉に、はっとした。あの帰り道、河野由夏がどこかにいた。そして標的を、千田莉子から河野由夏に変えたのか。

 呻くように後ずさると、千田莉子らしき声は「いえーいおめでとー!」と言って、今度は泥か何かを一気にかけてきた。苦しい。息ができない。何なんだ。突然、急に。一体何が起こってる。昨日まで、いやさっきまでいつも通りだったはずなのに。後ずさっているとどんと背中に何かがぶつかった。

「あ、てるみちおはよー! 今樋口さんにサプライズしてんの、今日誕生日だから! 机にケーキもあるんだよ」

 河野由夏の心底楽しむような声が聞こえる。嫌だ。もう嫌だ。ここから逃げたい。誰か、誰か助けてほしい。そう思っていると清水照道が「じゃあ俺もまざろっかなぁ!」と、ひと際おどけるように大声を出した。その声に、愕然とする。

 まるで、裏切られたみたいな、そんな想い。心の中がぐしゃぐしゃになって、冷えて、目頭がぎゅっと熱くなって、ただでさえべったりとした泥の匂いにつんとしていた鼻が痛くなる。奴は「サプライズならやっぱ撮影っしょ」と言って、スマホのカメラを起動させた音を出した。とっさに奴の声から離れようとすると肩を抱くように掴まれる。

「はーいじゃあ今日はクラスメイトのサプライズでーす! な、嬉しい? めっちゃ記念だよな?」

 そう言って、清水照道は何か言えとばかりに私の肩をゆする。私が首を横に振り逃げようとしても、離してくれない。

「で、今日のサプライズを企画したのはー?」

「チダリコと私でーすっ」

 けらけらと、河野由夏と千田莉子の笑う声が聞こえる。楽しそうに、まるで人を、人と思っていないような声だ。もう、嫌だ。一刻もこの場から離れたいのに、清水照道は私の肩をきつくきつく握りしめて動けない。

「で、記念すべき一投目は由夏しいで、次がチダリコ? で、その次はてーあげてっ!」

「はーい」

「おっけー」

 清水照道は、いちいち何発目に誰が投げたか、わざわざフルネームを繰り返す。そして「撮影者清水照道でーす。じゃあ最後にサプライズパーティー成功ってことで、みんなピース!」と声をかけた。周りの奴は、嬉しそうにはしゃいでいく。すると、動画撮影の終了を知らせるような電子音が鳴って、低く唸るように清水照道は「はい、いじめの証拠動画完成」とまるで抑揚のない声でつぶやいた。

「……てる、みち……?」

 河野由夏が呆然とするように奴の名前を呼ぶ。すると奴は「これ、アップするから、全部に」とつぶやいた。そしてスマホを操作するように動かした後、ため息を吐く。

「え、何言ってんの照道、冗談だよね」

「冗談じゃないから。ちゃんと動画サイトにも、全部アップしたよ今」

 清水照道は、まるで感情のない声で話す。河野由夏は「え、だって、そんなことしたら……て、照道だって映ってたよね?」と怯えるような声で呟いた。目をこすっていると、徐々に景色が開けてくる。そうして見えたのは、周囲が呆然と、覚えるようにこちらを見ている光景だった。その中で、ただ一人、千田莉子だけがこちらをにらむように見ている。清水照道はそんな千田莉子を指で指し示した。

「本当に、小学生ん時から、なーんも変わってないよなお前。自分がつまんねえ奴だから、いーっつも共通の敵決めて、そいつ虐めて友達を作ろうとする。で、自分の番になりそうだと思ったら、無理やり萌歌にしようってか」

 ぼそりと呟く清水照道の言葉に目を瞬く。状況を理解できないでいると、河野由夏が「何言ってんの照道、動画消してよ!」と叫ぶように言い放った。

「何で? お前らにとっては萌歌のバースデーサプライズなんだろ? ネットあげなきゃじゃん」

「何言ってるの……? さっきの動画、照道も映ってるよね? ねえ、絶対問題になるよ。今なら間に合うって、動画消して、ねえ!」

 そう言って、河野由夏は清水照道に手を伸ばす。しかし奴は思い切り自分のスマホを壁に叩き付けた。奴のスマホは画面はひび割れて、ランプのような部分がせわしなく点滅を繰り返し、やがて止まる。

「はは。もう電源つかないから無理だわ」

 奴は心底どうでもよさそうに笑うと、私の肩をそのまま掴み、自分のパーカーをかけどこかへ連れ去っていく。訳も分からない状態で奴に連れ去られていくと、奴は保健室の前で足を止めた。そのまま奴は扉を開くと、中にいた萩白さんが私たちを見て、息をのんだ。

「何だ、君たち……一体どうしたんだ?」

「すいません、萌歌泥かけられたんです。一緒に洗ってくれませんか?」

「それは別に構わないよ。……君、どこ行くんだ」

「俺はちょっと教室で、やることがあるんで。それと萌歌が今日、ずっとここにいれるよう萩白さんから保健室の先生にお願い出来ませんか?」

「……分かった」

 萩白さんが頷くと、清水照道は頭を下げ去っていく。私は訳が分からないまま、ただその場に立ち尽くしていた。
 水道の水とともに洗剤の泡が流れていく。私は目を洗った後、萩白さんの体操着を借りて、今日何があったかをぽつりぽつり話をしながら自分のブレザーとシャツを洗っていた。

 途中で保健室の先生が来たけれど、萩白さんが保健室から出て理由を話すと、先生は「今日は放課後までここにいてもいいからね」と言ってくれた。そうして、ブレザーとシャツを洗っている間に二時間目の授業が始まる時間になった。

 今頃清水照道がどうしているか教室がどうなっているかは、分からない。

 ただ安堂先生が保健室に来ないところから考えると、私は最初から学校に来ていないことになっているのかもしれない。

 明日から、どうしよう。

 考えなきゃいけないのに、ただどうしようと思うばかりで何も考えられない。隣では萩白さんが熱心に私のブレザーに洗剤をかけて洗っている。

 洗剤は、萩白さんが職員室から食洗器ようのものを借りてきたと言っていた。「泥の中にだって、油分がある場合があるし念のためね」と言っていたけれど、生地に土は十分すぎるくらいに浸透していて、まだまだ落ちる気配はない。

 清水照道が撮影したことについての話をしたとき、萩白さんは何か考え込んだ様子だった。そしてそれから、定期的にスマホを確認している。

 しばらく私のシャツを洗っていた萩白さんは、またスマホを取り出した。そして「やっぱり」と苦々しくつぶやく。萩白さんはスマホをこちらに掲げた。

「清水くんのアップした動画、すごい勢いで拡散されてるよ」

「……え」

 奴の、アップした動画、そう聞いて胃がずきりと傷んだ。あの動画には、私も映っている。あれを見たらお母さんやお父さんはどうなるんだろう。きっと悲しむに違いない。うつむくと、萩白さんは「これだけは、安心してほしい。君の顔は全く映っていないんだ」と続ける。

 どういう意味かと顔を上げると、萩白さんは私に「君にとって、嫌な記憶を思い出させるかもしれないけど、見る?」と問いかけてきた。頷くと撮影した動画が再生された。

 そこには、はしゃぐ清水照道、河野由夏、千田莉子、そしてその取り巻きの姿が映っている。

 私の姿は、首から下。顔は一切映っていない。

 一瞬髪の毛が少し映るくらいで、鼻も目も口も何もかもが映っていない。録音されている声とスカートで、かろうじて女子生徒だと予想ができるくらいで、この人物を私だと証明できる映像の根拠は何一つなかった。

 でも、それと反比例するみたいに、奴や河野由夏、千田莉子、そしてその取り巻きはその顔が詳細に映りこみ名前まで本人たちが発している。動画の再生回数を見ると、すでに何百と再生され、批判的なコメントや、住所や特定したなどのコメントが今なお更新され続けていた。

 なんだ、これ。

 ネットでは、河野由夏、千田莉子たちが、ボロ雑巾みたいに叩かれている。死ねばいい。殺したい。消えろ。そんな言葉を玉入れみたいに投げられている。それも、一人じゃない。何百とだ。清水照道も一緒に。

 あいつは、こうなることを予想して、動画をアップしたのか。動画には、私の顔は映っていない。あいつらだけ。あいつらと清水照道だけだ。これじゃあ、まるであいつは……。

 私が呆然としている間にも、目まぐるしく動画は再生され、コメントは更新されていく。萩白さんは「清水くんは自分もろとも、敵にして、君を助けようとしているのか……」と静かに視線を落としながらスマホをしまった。

「安堂先生には頼ることができない。もしかしたら彼は、君に何かあったとき、ターゲットにされた時、こうすることを決めていたのかもしれない」

「……で、で、でも、これじゃあ、あ、あ、あーいつは……」

「動画の中で、君の味方になるような人物が入り込んでしまえば、誰かが邪推を始める。それを警戒したんだろう。君が疑われることもあるかもしれない。だから、彼はおそらく……」

 萩白さんがいいかけた瞬間、がらりと保健室の扉が開いた。先頭は、安堂先生。そしてその後ろには校長先生と、学年主任の蔵井先生が焦ったような顔立ちで立っている。

 安堂先生は私のもとへと駆け寄り、「一体何があったの、樋口さん!」と心痛そうな面持ちで私の肩を掴んだ。

「……えっと、あ」

「朝から、樋口さんがいなくて家からも連絡は来ていないし心配していたら、動画が回ってるって聞いて、見せてもらったわ。あそこに映っているのは樋口さんだと由夏ちゃんから聞いたの。由夏ちゃんがいたずらで泥を投げたのがぶつかっちゃったんでしょう。それで誤解が、そうよ誤解で、でも辛かったわよね。それでとりあえず、樋口さんには今の状況を説明してほしくて」

 安堂先生は、まくしたてるように話をする。何かを言わなきゃいけないのに言葉が出ない。

「待ってください。先生、彼女は被害者ですし、河野由夏さんが泥を投げたのは加害する目的です」

「うん、萩白さんはちょっと静かにしていてもらえないかしら。後でお話は聞かせてね。でも今は、樋口さんに話をしているのよ?」

 安堂先生の言葉に、萩白先輩は何かを言おうとする。しかし胸を押さえ俯いた。安堂先生は私の肩を揺さぶるように「ねえ、大丈夫だからお話して?」と私の顔を覗き込む。私は言おうとしているのに、安堂先生は「なあに?」「ちゃんと言って」と「大丈夫だから」を繰り返して、何も言えない。すると蔵井先生が安堂先生の手を掴んだ。

「待ってください、安堂先生……。なあ君、もしかして、言葉がすぐに出てこなかったり、連続してしまったり……初めの言葉が伸びることで悩んでいるのではないか」

 蔵井先生の言葉に頷く。すると蔵井先生は「わかった」と、懐から紙とペンを取り出した。私に渡すと、「言い辛くなればこれを使って構わないから」と言って、安堂先生に向きなおる。

「安堂先生、彼女は吃音症です。あなたが責め立てたところで、言葉は出ない。彼女自身が言葉を出そうとしていても」

「……どういうこと、樋口さんが、吃音……?」

 安堂先生は信じられないものを見るように私を見た。そして酷く傷ついたような顔をする。

「どうして言ってくれなかったの? あなたが話ができないのなら、きちんとクラスに事情を説明していたのに。先生なんだか裏切られた気持ちだわ。とても悲しい……」

「だからでしょう」

 安堂先生の言葉に、蔵井先生が呟く。そして、私を見ながら先生は話をつづけた。

「きっと、安堂先生は自分のことについて話をしたら、クラスに説明をする。けれど、きっと説明し協力を仰いだところで周囲は受け入れてもらえない。彼女はそう思ったから、言わなかったんじゃないんですか。今だって安堂先生は、彼女の言葉を聞きもせず、言葉を遮り、自分の感情だけを述べている。今大切なのはあなたの遠回しな弁解でも保身でも感情でもなく、生徒全員のこれからです」

 蔵井先生がきっぱりとそう言うと、安堂先生は黙った。そして蔵井先生は再び私を見る。

「私や校長先生は、君を責めない。ただ君のいた状況にいなかったことで、何も知らないんだ。だから、君に当時の状況、そしてこれからどうしたいかを聞かなければいけない。悪いが協力してくれないか。ちょうど君のご両親も学校に呼んでいる。もし嫌なら君は今日早退をして、日を改めてもいいし、手紙を書いて送ってくれて構わない。君が選んでいい」

「……今。は、は、はーなし、ます」

「ありがとう。……萩白さん、よければ君も同席してくれないか。きっと一人で教師に囲まれるより、君がいてくれたほうが心強いだろう」

 蔵井先生の言葉に、萩白さんが頷く。私は萩白さんとともに校長室へと通された。




 そうして校長室に通され、「まず君以外の人間から聞いた今の状況から説明をしよう」と聞いた話は、私の考えていた言葉よりずっとずっと深刻だった。

 先生たちは動画が話題になっていることを朝のホームルームや、ほかのクラスの生徒から聞いたらしい。先生たちが職員室に戻ると職員室の電話が鳴りやまない状況になっていて、そして授業を受けていた河野由夏や千田莉子、そしてその取り巻きたちと清水照道から話を聞いたのだという。

 二人はいたずら半分と誕生日祝いのつもりで私に泥をかけふざけていたら、清水照道が勝手に動画を撮り始め、勝手にアップしたと話をした。安堂先生は「由夏ちゃんたちも、悪気があったわけじゃないのよ、きっと何か意地悪したいと思ったのよね、樋口さんと仲良くなりたくて」と言って、校長室から退席を促され、清水照道の周りの話になると、蔵井先生と校長先生、私と萩白さんだけで行われた。

 そして聞いたのは、清水照道は私を保健室に連れて行き、教室に戻った後、他の生徒いわく全員に向かって自分を脅して動画を消させようとしても意味がないと、淡々と私の席の泥の掃除をしてから、本当にいつも通り自分の席に座り、ぼーっと座っていたらしい。

 河野由夏がなんどお願いをしても、千田莉子が怒鳴っても、二人の様子を見かねた寺田が清水照道の胸倉を掴んでも、ただ淡々と無表情で、まるで周囲の人間などいないかのように振る舞ったらしい。先生に事情を聴かれると「あの動画が全てですよ。俺らずっと樋口さんと遊んでたんですけど、世間からすればいじめにあたるみたいっすね」と言ってのけ、「あとあと責められんの嫌なんで、もう出しておきますね」と、ポケットから予備のスマホを取り出して教師たちに、トークアプリの履歴を見せたという。

 そこにのっていたのは、私の悪口らしい。

 期間は、奴が転校してきて、五日を過ぎたあたり。私は入っていないクラスのグループで、私が気持ち悪い。声を発さない。不気味、幽霊みたいという言葉が並び、幽霊タッチゲームという、幽霊に物を投げてあたるかのゲームをしてみないかという提案がされていたと聞いた。提案者は、千田莉子。

 そして清水照道はそのスクリーンショットの画像を蔵井先生のアドレスに送ると、さっさと家に帰ったという。「どうせ俺ら停学か退学処分ですよね」と言い残して。実際、今日の夜の職員会議で処分が決定されると蔵井先生は私に言った。この騒動に関わった私以外を謹慎、停学処分にして、様子を見てさらに重い処分を下すか決めると。

 そうして、清水照道と会話をした先生たちは、最後に被害者とされる私に聞き取りをということで、保健室に来たのだと話をした。私は今日あったことを紙に書いた。学校に来たら、突然泥をかけられたこと。その場に河野由夏や千田莉子がいたこと。全てを説明している間に、私の両親が到着した。お母さんとお父さんもネットを見ていて、二人はすぐにあの動画が私だとわかったらしい。その後私は保健室に萩白先輩と一緒に戻り、先生と両親が話を終えるのを待っていた。
 時計を見ると、もう昼休みの時間はとうに過ぎて、五時間目が始まっている時間になっていた。自分のスマホから動画を開くと、動画は再生されるがまま。動画のタイトルは無題で、説明欄には拡散希望と記されている。これは、あいつが書いたはずだ。あいつは、私をずっと、助けようとしていたのかもしれない。

 思えば奴は、私を音読から遠ざけようとしたり、山でいなくなれば探しに来た。三浜木が近づいて来たら私をかばい、合唱コンクールの日は、三浜木がいないことをわざわざ伝えてきた。

 樋口さん大好きと、ふざけて笑うような行動さえ取らなければ、あいつはいつも私を助けようとして動いていた。あれさえなければ、私をつまんねえから面白くしてやろうというあの発言さえなければ、私は奴に心から感謝をしていただろう。

 もし、あれに何か意味があったら。

 そう考えていると、萩白さんは「ねえ、樋口さん」と私を見た。彼女のほうへ顔を向けると、彼女は俯き「ごめんね」と震える声で言った。

「え」

「安堂先生が、来たとき君をきちんと庇えなかった。だからごめん」

 萩白さんの言葉に頭を横に振る。萩白さんは私を助けようとしてくれた。謝る必要なんかない。でもその言葉すら伝えられなくて、歯がゆさを感じながら何度も頭を横に振る。

「いいんだ、私は、あの時勇気が出なかった。安堂先生を見たとき、正直足がすくんだよ。怖かった。あと一歩が、踏み出せなかった。ここから、立ち去りたいと思った」

 萩白さんは俯く。そして「安堂先生に、どうして私がこうなったかは、聞いた?」と私を見た。首を横に振ると、彼女はため息を吐くようにして視線を落とした。

「私は、放送部員なんだ。将来の夢がアナウンサーで、中学の頃は賞もとったりして。でも言われたんだ。去年安堂先生に、萩白さんは発声してるとき、個性的で素敵ね、って」

 俯き、何かを書くように、一つ一つ確かめるように話をしていく。そうして、きっとそれが原因で、最初のきっかけだったのだと直感的に分かった。

「先生の言葉に、皆が私の真似をしたよ。周りの人は笑ってて……楽しそうに、本当に、心から娯楽を得たかのように。そうして、私も笑って流せればよかったんだけど、私は笑われることが怖かった。嫌だった。笑えなかった。だから鏡の前で発声練習をしたり、親に見てもらって練習をした。でもあの光景が蘇るばかりで……結局喉を傷めて、そして、マスクをつけた」

 萩白さんは自分のマスクに手をあてた。そして、静かに顔を上げる。

「それまでマスクをつけたことがないわけじゃなかった。風邪を引いたり、次の日が大会の日はマスクをして寝てた。でもマスクをつけた日、今までずっと不安だったものが、穏やかになっていく錯覚を覚えた。……それからマスクをつけるようになった。風邪なんて引いてなくても、家に、カバンの中にマスクのストックがないと落ち着かない、家以外でマスクを外すことが怖くなって、コンビニで買い食いをすることすら、恐ろしくて控えるようになった」

 ある日出来ていたことが、出来なくなる。その気持ちは、少しだけわかる。昨日言えていた言葉が、うまく言えない。昨日言えなかった言葉が言えるようになることより、昨日言えた言葉が言えなくなる恐怖のほうが、いつだって強い。萩白さんは、私と似ている、そんな気がする。少なくとも、なんとなくだけで私の恐怖と萩白さんの恐怖は、同じ方向にある気がした。

「私はマスクを常につけるようになりました。マスクをつけている間は、本当にいつも通り、前のように何の苦痛もなく話をすることが出来る。でも、マスクがないと、どうしても声が出てくれない。耳をふさぎたくなって、どうしようもなくなる。だからマスクをつけてた。でも安堂先生に言われたんだ。あなたはいつもマスクをしている、英語の授業は朗読があるから発音もあるし、取ってほしいって……、困ったよ。朗読を、英語の発音をするためには、マスクが必須です。でも、授業に出ると、マスクを取れと言われる。だから、英語の授業に出なくなった。そして、安堂先生にどうして自分の授業に出ないのか、そんなに自分のことが嫌いかと、言われて、授業全部に出なくなれば、安堂先生は何も言ってこないと思って、私はここに、いるようになった」

 なんとなく、萩白さんの姿が、中学の時の私と重なった。私も、そんな風に言われたら、きっと授業に出られない。限定的になら話ができる萩白さんを、どうしても羨ましいと思ってしまう。でも、萩白さんは限定的にしか話が出来ない自分が苦痛なのだ。そんな私がかけられる言葉が、果たしてあるのだろうか。

 黙っていると、萩白さんは立ち上がる。そして、私に顔を向けた。

「だから、私はずっと、弱い。誰かのためならと思ったけど、結局弱いままだった。君は話すこと自体苦手なようだから、私はどこか、助けてあげなきゃと思うと同時に、優越感を抱いていたところだってあったんだ。自分より、話すことが辛い子がいるって、なのに、そんな醜い考えを持っていたのに、どうしても、逃げてしまった。だから、ごめん」

 萩白さんは、私の目の前で、頭を下げる。それを止めさせるように、その肩に手をのせた。

「に、にに、逃げても……いいと、お、お、おーもいます」

「え……」

「お、お、お母さんと、おー父さんが、い、言うので、わ、私に」

 きちんと言いたいのに、上手く言えない。すると先輩は「ありがとう」と静かに顔を上げる。

「いいお母さんと、お父さんだね」

 その言葉に、頷く。だから、私は二人に心配をかけたくない。ぎゅっと先輩の肩に乗せていないほうの手を握りしめると、保健室の扉を開く音がした。振り返ると、お父さんとお母さんが立っている。昨日までは楽しそうに、合唱コンクールが良かったと話をしていたのに今はひどく傷ついた顔だ。その顔を見ていると涙がこぼれる。二人は私に駆け寄り、そのまま抱きしめた。

「萌歌、もう大丈夫だよ」

「お母さんとお父さんがついてるわ」

 二人は、私をしっかりと抱きしめる。二人を心配させたくない。させたくないのに涙は止まらなくて、私は二人に抱きしめながらずっと泣いていた。




 それから、私はお父さんとお母さんと一緒に、学校の裏手の門から家に帰った。正門からじゃないのは、もしかしたら見物に来たり、マスコミの人が来るかもしれないとの蔵井先生の言葉からだ。先生たちとお母さん、お父さんが何の話をしたのかはわからない。けれど私は一週間ほど学校を休み、その欠席は学校都合として欠席とは処理されないという話になっていた。そして私は、お母さんとお父さんと家に帰り、テレビを見て愕然とした。

 テレビをつけ、流れていたのは夕方のニュース。けれどそこに、モザイク処理をされて清水照道の動画がのっていたのだ。

 声は、加工されている。名前を言っている場面には、別の音声が重ねられている。アナウンサーやキャスター、コメンテーターの人が苦々しい顔で、学校側の今後の対応や、被害者の処分について、話をしていた。

 お父さんは「そんなもの見なくていいよ」とすぐにテレビを消した。お母さんとお父さんに、清水照道について話をしようと思った。でも二人は、清水照道がこの件の主犯だと考えているらしい。今日はもう、ご飯を食べて寝たほうがいいと私に弁明する暇は与えられなかった。

 お父さんやお母さんは、今まで私が、清水照道に虐められていたのを隠していたと考えているようだった。現に「七月には傘を無くしていたでしょう」とお母さんに言われてしまった。その後すぐに清水照道に入れてもらったことを言おうとしても、お母さんとお父さんはこれからのことを話すばかりで、聞いてくれなかった。そうして、お風呂に入ることを促されて、私は部屋に入るよう言われた。

 お母さんとお父さんは、二人で話をするらしい。

 私は当然眠れず、ベッドに横たわりスマホを眺める。呟きサイトのトレンドにも上がっているらしく、皆があれこれと呟いている。一つ、批判的で、それでいて諦めも含むようなつぶやきが目に入った。

『どうせこうして名前と住所拡散しても、家庭裁判所で名前変更の申し立てして、引っ越しして終わりでしょ。こんだけの騒ぎになれば許可だって下りるし』

 どこにでもいるような、猫のアイコン。その言葉に、頭の中が真っ白になった。震える手でスマホを操作しながら、名前の変更について検索を始める。

 人間の、名前を変える。そんなことできるのかと調べると、確かに生きていくうえで困ってしまう名前の人が、名前を変更するために裁判所に言って、審査の末変えてもらうことはあるらしい。

 このまま、もしこのまま、事態が収まらなかったら。

 清水照道は、どうなる。名前を、変えるのか。

 奴は、自分の親について、貰ったのは名前くらいと言っていた。その名前を、変えるかもしれない。奴が照道という名前を気に入ってるかはわからない。でも、親を心の底から憎んでいるとか、自分の名前を嫌うような様子はなかった。

 動画サイトを見ると、動画は相変わらず拡散され続けている。この動画を投稿したのは、清水照道だ。あいつが消さない限り、この動画は消えない。それにこの動画が消えても、もうこの動画はいろんな場所に転載されているかもしれない。このままいけば、あいつは自分の名前を変えることになる。

「助けなきゃ」

 どうしよう。でも、どうやってすればいいのか分からない。動画のコメントを見ていると、瞬く間に更新される。死ねばいい、消えろ、うざい。全員死刑でいい。見ているだけで苦しくなる言葉たちに、目をそむけたくなる。

「あ」

 そのコメント欄の、上のほう。動画のサイトの、トップ画面のアイコン。そのアイコンを見て、ふととあることを思いつく。でも思いついた瞬間、本当に自分に出来るのかと不安に思った。

 目を閉じて、今までのことを思い出す。あいつが、ずぶ濡れになってまで、私に傘を差しだそうとしてきたところ。風邪をひいているのに、山を下りてきたところ。関係ないはずなのに、三浜木に本気で怒っていたところ。

 そして、お母さんとお父さんの悲しむ姿。萩白さんが、自分が弱いと俯く姿。

 みんな、私なんかの為に、頑張ってる。

 私も、私も自分で、やらなきゃいけないのかもしれない。

 私はぎゅっとこぶしを握り立ち上がると、椅子に座る。そしてノートを取り出してペンを握り、机に向かった。
 次の日、私はいつも通りの時間に目を覚ました。

 昨夜眠る前に私は萩白さんにメールで連絡を取った。昨日何かあったときにと萩白さんから連絡先の書かれたメモを渡されていて、それを見た。

 スマホを確認して返信が来ていないか確認すると、昨日したお願いを承諾する旨が書かれている。そのメールに返信をして、私は部屋を出た。

 パジャマのままリビングに向かうと、お母さんがエプロンを着て、トーストのお皿を二つお皿に並べている。お父さんの席にはお味噌汁。私は自分の席に座ってお母さんに挨拶をして、いただきますをしてからトーストに手を伸ばす。

 テレビには、今日の天気が伝えられていて、今度はニュースが始まった。今日のニュースが左側に並んでいくと、私の高校の名前と、動画の文字が並ぶ。お父さんは素早くテレビの電源を落とした。

 なんとなく、気まずい空気が流れる。

 お父さんが新聞をめくる音と、お母さんがトーストを手に取り、お皿のすれる音、私がトーストをかじった音だけが響く。お母さんとお父さんは何も言わない。けれどたぶん、私を転校させるべきという話や、私を通信制の高校に入学させようという話をしているのだろうと思う。

「ご……ごちそうさま」

 朝ご飯を食べ終わって、席から立ち上がる。二人は何も言わない。私はリビングを後にして、玄関で靴を取ってからまた自室へと戻る。そ部屋の扉を閉じ、窓を開けて庭に靴を並べてからカーテンを閉め、制服へと着替えた。

 私の部屋は、一階で、窓を開けば庭になっている。今までそのことに対して特に思うことはなかったけど、今日初めて良かったと思った。何故なら、ここからじゃないと、家から出られない。いつものようにリビングから出ていこうとしてしまえば、きっとお母さんに止められる。

「よし」

 私は、昨晩書いたノートを手に取り、何も入っていないカバンにそれだけを入れる。そして部屋のカーテンと窓を開き、庭から出て学校へと向かった。




 学校へ向かうと、すぐに視界に入ったのは、学校の表の門で取材をするように立つカメラマンや、リポーターたちだった。その周りを囲むように野次馬が立ち並んでいる。通る生徒に話しかけているけれど、生徒たちは無視をして振り切るように校門の中へと入っていく。

 決められているのか、取材の人たちは校門の中へと入っていかない。私も通る生徒に続くようにして、周りに紛れるように校門へと歩いていくと、リポーターらしきひとがこちらへ向かってきた。けれど前の生徒と同じように俯いて歩いていくと、取材の人たちは舌打ちをしながら苛立ったようにまた私の後ろを歩く生徒に声をかけていく。

 良かった。私だと、ばれていない。

 ばれたら最後、きっと校舎の中に入れてもらえないだろう。ほっと安堵しながらスマホで萩白さんへ校舎に到着したことを知らせるメールを打つ。すぐに返事が返ってきて、一階の渡り廊下に来るよう指示をされた。人目を避けながら渡り廊下を目指していると、さきに待っていたであろう萩白さんがこちらに向かってひっそりと手を振っていた。

「良かった、どうやら報道陣にはばれなかったようだね」

「……は、はい」

「よし、じゃあここから保健室に……と言いたいところなんだけど、安堂先生が私を訪ねてきそうなんだ。だから早速だけど、放送室に向かおう」

 そう言って、萩白さんは先導するように歩いていく。私も靴を脱いで持ち、萩白さんの後を追う。

 放送室は、一階にある。でも離れているといえど同じ階には職員室がある。誰にも見つからないよう祈っていると、すれ違うのは他の学年の先生や生徒ばかりで、誰も私や萩白さんを気に留めない。周りを警戒しながら歩いていくと、放送室の前にたどり着いた。

 萩白さんはポケットから鍵を取り出して、一度鍵を握りしめ意を決したようにその扉を開く。放送室には初めて入った。何やら機材がたくさん置かれていて、ここからどう放送をすべきか分からない。

 機材を眺めていると萩白さんが扉に鍵をかけ、つっかえをするようにほうきとガムテープで補強をした後、バリケードを作るように部屋の中の椅子や机を扉に並べ始めた。私も手伝い、やがて隙間なく机と椅子が並んだ。

 呼吸を整えていると、朝の予礼を知らせる鐘が鳴り響く。萩白さんは私に顔を向けた。

「せっかく報道陣がいることだし、予定より早いけれど今から始めるほうがいいかもしれない。職員会議は始まっているから先生はそろっているし、この時間になってまで来ない生徒は少数だろう。どうする?」

「……は、はーじめます」

「分かった。準備をしよう」萩白さんはそう言って、放送室のマイクの前に座ると、機材の準備を始める。丸いチューナーのようなものをいじって、いくつかボタンを押す。そうして調整をし終えると、機材から手を放した。

「こちらの準備は完了したよ」

 その言葉を聞き、私はポケットからスマホを取り出し、動画サイトの生放送の開始ボタンを押す。説明もタイトルも、昨日のうちに準備をしておいた。私は、今からここで、清水照道について、皆に発信する。あいつが、名前を失わないように。その名前で、生きることができるように。そのために、放送室で学校に放送をかけ皆に伝えようと考え、私は昨日萩白さんに協力を仰いだのだ。

「わ、わーたしも、だだ、だ、大丈夫です」

 前に、萩白さんから本当に助けたい相手は助けなきゃいけないと思う。行動出来ると言っていた。今ならその言葉の意味が分かる気がする。私はあいつを助けたい。助けなきゃいけないと、思っている。

 それがどんな感情からくるものなのか分からない。誰かに何かを話すことは怖い。今だって、逃げたい。でも、でも、私は奴を、助けたい。

「わかった」

 私の返事に萩白さんは頷き、前を、マイクを見据えボタンを押した。放送を知らせる音色が鳴る。萩白さんはそのメロディが止むと息を大きく吐いてから、マスクを取った。そして、真っすぐと前を向いて、姿勢をぴんと伸ばす。

「生徒の皆さん、そして先生方、校舎の外で取材をされている皆さまにお知らせします。今から、昨日公開された動画について、被害者と報道されている生徒から、皆さまにお伝えしたいことがあるということで、緊急放送を開始します。どうか、スマホをお持ちの方は録音をして、動画の拡散にご協力をお願いするとともに、どうか最後まで聞き、この件のこと、自分のこと、周りのこと、そしてこれからのことを、私たちと一緒に考えてくださればと、私は切に願います」

 萩白さんは言い終えて、マイクのスイッチを落としてから大きく息いた。そうして私の番に変わるように、立ち上がりこちらを見る。

「……これまでも、これからも、これほど緊張する放送はもうないだろうね」

「……あ、あ、ありがとう、えっと、ご、ごーざいました」

「ううん。私も、きっかけをくれてありがとう。君に頼られて、嬉しかった。私ですら信じられなかった私の勇気を、君は信じて頼ってくれた。本当にありがとう。」

 萩白さんはマスクをつけ、切り替えスイッチを指で指し示す。

「このスイッチを押すんだ。するとマイクのスイッチがオンに変わる」

 その言葉に頷き、席に座る。次は、私の番だ。

 私はノートを開いて、何度も深呼吸を繰り返す。そして、放送の切り替えスイッチをオンにした。
「……わ、わ、私は、……しーみず照道に、いいいじめられてないです」

 ぐっと、喉が詰まるのを堪えて、声を出す。やっぱり、全然出てこない。でも、言わなきゃいけない。手をぎゅっと握りしめて、つま先に力を込めながら言葉を出していく。 

「あああいつ……は、ろ、ろーく月に、……はは初めて、……あったとき、私を、良くわかんない……じっと見るように、み見てきて、しーらないのに、……、えっと、……なんだこいつと、お、お、思って。でも……その後。……歩いているとき、話しかけられて、こ、こ、こ、こ困ったとき、……あいつは、たー、……助けてくれて、で、で……伝言を、か、代わってくれた。そのあと……わ、私の、か、か……顔色が、悪いと、ほーけん室に、えっと、……連れて、……行って、……、あの、……そ、その後、でで、出てない……授業の、ノートを入れてきた。……、……さ、さ、差出人は、わーからないし、あいつに、……聞いてない、けど、じ、字は、ああ、あいつの、じー、字、だった」

 拳を握って、こするように膝をする。まだ、半分も言えてない。これからまだ、倍の量もあるのかと、足がすくむ。隣を見ると、萩白さんが力強く頷いた。頷き返して、私はまた、マイクに顔を向ける。

「そ、そ、……その後、と、とと、と、突然、あいつ、は、……わわ、私を好きだと、くーらす、の、……ま、前で言って……私を、かーらかうように、なった。……、……えっと、理由は、……よくわからない。くくクラスの、人間は……、そーれに、わ、わ、わ、笑って、……あいつの、せいで、私は、笑いものに、……さ、さ、されてきた。……でも、……、……な、な、夏休み、の、前、……あいつは、か、か、傘のない、わーたし、雨、のとき、か、か、傘を、差しだしてきて……、自分は、……ずぶ濡れになっていた。つ、つつつ突き飛ばしても、わーたし、を、か、……傘に、いーれてきて、……、こ、こ混乱した。……その後、……、えっと、……校外学習で、も、あああいつは、道が分からなくなった私を、か、かか雷が鳴って……あーらし、みたいに、なっているとき、……か、……風邪をひいているのに、……、……、ひ、一人で、探しにきた。……お礼にと、私の、おー母さんと、……おー父さんが、か、買ってきた、くく、く、クッキーを、おいしいと、……喜んで食べた」

 そうだ。あいつは私を助けようとしていた。ずっと、ずっと前から。声は震えるし、ちっとも出てこない。でもあいつのことを思い出していると、あいつに会いたい気持ちが出てきて、目頭がぎゅっと熱くなった。私は首を振って、またマイクに話を始める。

「……がっ、合唱コンクールの、……前は、私が、吐いたとき、……や、や、奴は、じ、じー分の、……パーカーで、ふ、ふふ、ふ、拭いた。わーたしの、ために、……怒って、わ、わ、私が、くくく暗い、道を、……一人で、帰ろうとすると、おーいかけてきた。……あ、あいつは、私をからかう。みんなの前で、……私を、好きだと言って、……笑いものにする。く、くー、くそ詰まんないから、お、面白くしてやると、かー、かーげで、言っているのも聞いた。えっと。……だから、は、は、腹が、立つ。し、……嫌だと思う。……でも、ああああいつは、……、あの、……私を、た、助けてくる。あいつは、め、め、めちゃくちゃだ」

 あいつは、めちゃくちゃだ。よく分からない。きっと色んなことを、私に隠してる。でも。

「……でも、……、……わ、私も、……あ、あいつに対して、思うことが、……め、め、めちゃくちゃだ」

 言ってから、息を吐いた。そして、また拳を握りしめ、膝をするようにして、また言葉を発する。

「あ、あーいつが、き、嫌いだ。私は。……でも、あ、あいつに、く、くーるしんで、ほしくないと、思う。……あいつが、……名前を取られるのが、い、いやだ。……でも、あ、あ、あ、あいつに、ふっ、……ふ、ふーくしゅう、してやるとも、……思わなくもない。ぐ、ぐ、ぐちゃぐちゃで、……、よ……よくわからない。ど、どーが、を、……撮ったの、も、……、……どうして、そ、そ、そ、そんなことを、しー、したのか、わ、わ分かりそうで、わわ、分からない。わーたしはあいつの、……き、……き、……気持ちを、知りたい」

 私は、多分あいつについて、何も知らない。あいつについて知っていることは多分だけど、あいつが知らせたいと思ったことだけだ。だから私は知りたい。知らなきゃいけない。

「だ、だ、だからあいつは、……あいつだけ、は。……し、し、清水、てーるみちを、……、……裁くのは、処分をするのは、わわ私がいい私がする。……私は、あいつが、な、な、何をしたいのか、……わーからない。あ、あいつのことを、なな何も知らない。……、だから、きちんと知って、知ってから、わ、……わ、私はあいつに、何をするのか……き、き、き決める。……、……だから、ネットの人は、あいつに、何かしようと、……し、しなくていい。わ、わー、私がする。……、私が話を聞いて、……私が、きき、……決める。だ、だから、てーれび、も、ね、ネット、も、な、な、な、何も、し、しーなくて、いい」

 だから、これ以上何もしないでほしい、祈りを込めて言ってから、私はマイクのスイッチに手を当てた。

「い、以上っ、……です」

 言い終えて、急いでマイクをオフにする。額にはどっと汗が噴き出ていて、背中には汗が伝い、手はびっしょりと汗で濡れいている。大きく息を吐いていると、途端にどんどんと扉をたたく音や、安堂先生がこちらにかける声が外から響いてきた。驚いていると萩白先輩は困ったように私の肩に触れる。

「お疲れさま。君と、一緒にこうして勇気を出せたことを喜びたいところだけど……、実は放送の途中から、外ではかなり騒ぎになっているんだ。とりあえずバリケードを解いたら、私たちはお咎めみたいなものは覚悟しなきゃいけないね」

「ま、……、ま、……巻き込んで、……ご、ご、ごめんなさい」

「気にしないで、私はこの先何があろうとも、今この瞬間のことを後悔なんてしない。今私は、本当に素晴らしく、清々しい気持ちなんだ」

 萩白さんは私に向かって手を差し出す。私はその手を握り、握手をする。そうして私たちは笑みを交わしてから、バリケードを外すために机へと手をかけたのだった。
 それからの出来事は、目まぐるしいものだった。

 萩白さんと一緒にバリケードを崩して扉を開くと、校長先生や、学年主任の蔵井先生、安堂先生、他の先生が集まるようにして扉の前に立っていた。

 ドアを開いて開口一番涙目だった安堂先生は私たちに向かって手を振りかぶり、瞬間的に平手打ちを覚悟したけどすぐに蔵井先生が止めて、「全ては、教師に頼れないと生徒に不信感を持たせた私たちが原因です」と呟き、静かに肩を落とした後蔵井先生は私たちをまた校長室へと連れて行った。

 そこで聞いた話は、私たちの行った生放送は、凄まじい勢いで視聴されたということだ。

 スマホを見てもいいといわれ確認すると、確かに呟きサイトの上位に生放送の文字があり、そこには私たちの行った生放送の内容に関して考えるような呟き、学校の責任に対して考える言葉、そして、私が吃音症で、吃音とはどんなことなのか、どういう困ったことがあるのかの説明など色んな言葉で溢れていた。

 ドラマみたいとか、中二病っぽいとか、どっかのテレビ局のやらせとかもあったけど、そういうのは少なくて、皆今後について考えるものばかりだった。

 校長先生が言うには、生徒たちは私たちのお願いの通り、私の言葉を動画に録音して、流したと言う。先生たちがやめろと言っても皆やめなかったそうだ。学校側は、当初昨日の清水照道含む他生徒を退学処分にして事態の沈静化を図ろうという話になっていたけど、私の話やこの生放送の影響力を考え、今夜また職員会議で話し合うといった。

 そして最後に私たちの処分について言われたけれど、一週間の自宅待機と、それが終わった後に放送室の掃除をすることだった。萩白さんに謝ると、「久しぶりに、ゆっくり今後について考えられるからいいよ」と言って笑った。

 そうして校長先生や蔵井先生と今後について話をしていると、お母さんとお父さんが来た。

 二人は複雑そうな顔をして、私にちゃんと話をさせなかったことについて謝った。私は、校長先生の目の前で出来れば転校したくないという旨を伝えた。

 この学校については、別に好きじゃない。でも、萩白さんがいるし、それに清水照道を放っておけない。あいつがこの学校にいるのなら、私も残ったほうがいいんじゃないかと考えた。萩白さんは「私も転校は考えていないから、安心して」と私に言い、両親は萩白さんを見て、私が友達を作っていたんだと、少し安堵したような、泣きそうな顔をしていた。

 それからは、お父さんの運転する車に萩白さんを乗せて、四人で家に帰った。報道の記者の人たちは、放送室からの放送がまだあるんじゃないかと校庭に入り込もうとするばかりで、誰にも見られずに済んだ。

 そうして萩白さんを送り届けてから家に帰ってきたわけだけど、テレビでは早速私たちの生放送が報道されていて、私が見ようとするとお父さんもお母さんも電源を消すことはしなかった。そこには、昨日まで清水照道に辛辣なコメントをしていたコメンテーターが手のひらを返したように奴を擁護するコメントをして、呟きサイトにも清水照道を擁護する声が圧倒的に増え、自分たちが住所を晒したりするよりも学校側や、教育委員会にきちんとした処罰を求めよう、これから、もっときちんと対応するように未然に防ぐことを求めるコメントが圧倒的に増えていた。

 スマホの画面を見ながら、ほっと安堵して画面の照明を落とす。私に対して偽善者ぶってるとか、加害者とされる奴らに脅されて言わされてるんじゃないかとか、私を疑うようなコメントも無いわけじゃない。でも、たぶんだけど昨日の夜よりずっと流れは変わってきているはずだ。

 時間は日も暮れかけている。お父さんは報道の仕方についてお願いすると言って会社に向かった。お母さんは何か美味しいご飯でも作ると言って台所で料理をしている。

 今日の出来事の緊張がまだ抜けず、私がぼーっと窓の外を見ていると不意に夕日を遮るように真っ黒な人影が現れた。

 突然のことに目を見開き、声も出さず息をのむ。

 驚きすぎて、声が全くでない。窓は開いていたか、鍵は閉めたか、じりじりと後ずさると、人影は「萌歌」と、ずっと聞いていなかったような、聞き覚えのある声を発した。

 清水、照道だ。

 そう認識した瞬間、溺れてもがくみたいに立ち上がって、窓を開く。奴は一度勢いのままこちらに入ってこようとした後、靴で部屋に押し入る前に靴を脱ぎ、後ろ手で窓を閉め、レースのカーテンも閉じた。

 昏い夕日が奴を照らして、その表情はまるで分らない。

「……、ど、どーうしたんだよ、と、と、と突然、……お前、じー、自宅、たた、待機のはずじゃ……」

「どうした……? どうしたは、萌歌のほうだろ……? 何だよ朝の放送……あんな……何で、何で……!」

 清水照道は苦し気に、呻くようにそう発した後、絶句するように言葉を失い片手で顔を覆う。そして、固くこぶしを握り締めるように、何かを決意するように、奴は顔を上げた。

「なあ、萌歌ちゃん。今からでも遅くない。遅くないから、訂正の動画出せよ。俺に脅されて……そうだ俺に脅されて、あの動画出したっていえば、しばらくはマスコミも来るだろうけど、今のままより絶対いい。萌歌が動画を、嫌なはずなのに話をしたことを無にするのは……、違う、でも、絶対そのほうが……、違う、違う、違う違う違う」

 まるで血を吐くように、奴は自分の首を掴んだ。そして「こんなこと言いたくない……」と震える声で呟く。

「……なあ、なんで、何で俺なんか助けたんだよ。俺のこといい人だと思っちゃったわけ? そんなの、錯覚だ。ああ、あれだ、ストックホルム症候群だ。そうしないと、そうじゃないと辛すぎて、萌歌は俺なんか助けてやらなきゃって錯覚しちゃったんだよな。そうだろ? なあ、そうだって言えよ。だって俺は、俺はこんなこと、望んでないのに……!」

 清水照道の声が、震えている。私は奴に近づき、震える肩を支えるように手を伸ばした。奴は私の手首を掴むと、ぎりぎり締め付ける。

「何で、何で俺なんかのために、萌歌が犠牲になんなきゃいけないんだよ……なんで萌歌ががんばるわけ……?」

「……お、お、お前は、……どーうして、そこまで、……私に、何かを……し、し、しようとするんだ」

「……それは」

 清水照道は顔を上げ、言おうとして口をつぐむ。私が「言え」と伝えると、奴は私の手首を握る手を離した。

「……寺田の姉が、萌歌に助けてもらったって、言ってただろ」

 その言葉に、合唱コンクールの日のことと、そして寺田のお姉さんが清水照道を見て驚いたことを思い出す。奴はそんな私の様子を見て、苦々しく口を開いた。

「あの場に、俺もいたんだよ」

「……え」

「俺の家族が、心中でいなくなった話はしただろ、それで、戸籍とか、俺の環境が変わったころ、萌歌を見たんだよ。寺田の姉、合唱コンクールの時は普通にしてたけど、あの日雨で、バスの車輪にはねた水ぶっかけられて、どろどろで、そん時ふらついて、誰も助けなかったし、俺もただ、見てるだけだった」

 確かにあの時、私以外に何かを拾ったりする人間はいなかった。私も最初誰か助ける人間がいるならば関わる気はなかった。でも、誰もいなかったから私はその人のもとへ向かった。何度もお礼を言うその人にろくな返事も出来なかったけど、あの時こいつはあの場にいて、だから寺田姉はこいつを見て驚いた顔をしていたのか。

「俺の前住んでたとこ、前萌歌のこと連れてった団地で、見れば分るけど死ぬほど貧乏なんだよ。……風呂なんか一週間に一回くらいしか入れないし……まともな飯なんか給食しかない。父親も母親も必死になって働いたけど……母親の母親が酒浸りっつうの? 死ぬほど借金作ってて。で、全然学も無いから遺産放棄してなくてさ。だから稼ぐ金全部もってかれて……で、二人が自殺して、俺は施設突っ込まれて、そしたらそこそこ金ある家に引き取られて……全部変わった。それまで溝鼠みたいに学校で俺のこと扱ってた連中は死ぬほど手のひら変えて、へらへら寄ってきてさ、マジ訳分んねえなって時に、萌歌のこと見たんだよ。溝鼠みたいなやつに、心配そうに駆け寄ってってさ、自分が汚れるのとか、全然気にしないで支えてやってて、俺は、ずっと見てた。綺麗だなって、初めて思った」

「そ、そ、そんなことで」

「そんなことじゃねえよ。コンクールの時すげえ感謝されてたじゃん。ああなる位、汚くて泥まみれだったんだって、皆目背けてたのに、萌歌だけ一生懸命助けようとしてた。萌歌しか、いなかったよ」

 清水照道は、私の頬に触れる。そして撫でた。

「で、それから、今年の春に、俺のこと引き取った、義母っつうの? そいつは死んだんだよ。もともと義父のほうは俺の事引き取るのに乗り気じゃないらしくて、それで進学校みたいなとこぶち込まれてたんだけど、保護者会がだるいって六月に県立に引っ越しっつうか、左遷みたいな? とりあえず、どっか見えないところにやっちゃいたかったっぽくて、で、萌歌に会った」

 私と、会った。その経緯の話について考え、はっとする。千田莉子に対して、こいつは変わらないと言っていた。誰かと仲良くなるために、人をいじめると。そしてこいつは、養子として引き取られる前に学校で酷い扱いを受けていたという。もしかして……。

「せ、せ、千田、莉子に、おー前は、……い、い、い、いじめられて、……そして、奴は、ここ今度は私を、いーじめようとしていた?」

「半分正解で、半分間違い。あいつは俺に関わろうとしてなかった。つうか全員俺のこと見て見ぬふりっつうの、露骨に避けてた。まぁ関わりたくねえレベルで俺は臭かったし汚いからな。引き取られてすぐ俺転校したから、あいつは俺のこと今でも分かってない。んで、あいつはずっと小学校中学校と、大人しくて自分に刃向かわない奴適当に選んで虐めて仲間作ってて……高校でも……、萌歌に同じことしようとしてた。何回逸らそうとしても、全然駄目で。でも、いじめは駄目だからやめましょうって言って、やめるような奴はそもそも人のこといじめないじゃん。だから、俺が河野に気に入られてんの、自分でも分ってたし、恋人ごっこ始めれば、いじりの対象にはなるだろうけど、ひでえいじめにはならねえと思って」

 清水照道の言葉に、今までの疑問がすべて溶けていくようだった。

 こいつのやり方が、正しいか正しくないかはわからない。でも、こいつがどうして人のことを馬鹿にして、笑いものにしていたかの理由はわかった。そして、くそつまんねえから、面白くしてやろうという意図も。あれは、河野由夏や千田莉子が私をいじめて楽しもうとしていたのを、つまらない奴だからと言ったか何かしたのだろう。そして面白くしてやろうと言って、奴はごっこ遊びという名の見世物を始めたんだ。

 静かに奴の話を聞いていると、奴はまた、苦し気に拳を握りしめた。

「……でも、いじられるようにはさせてるわけでさ、俺は萌歌ちゃんのことが好きだから、まるで利用してるみてえだなとか、思うわけで」

「り、利用って、……なんだ」

「……すり替わってくんだよ。自分でもどんどん分かんなくなんの。これが萌歌を守る方法だって、俺が思い込もうとしてるだけで実際は違うんじゃないかって、本当は俺がただ萌歌に近づきたいだけで、ごっこ遊びしてるだけなんじゃねえの、って。ごっこ遊びでも、萌歌と一緒にいられるんだって、俺は、萌歌を笑いものにしてんのに。傷つけた。守りたいのに。それなのに、近づこうとして、何で俺生きてるんだろって、訳わかんなくなって……。でも、こうしていれば萌歌のこと守れるはずだって、教師に言ってちゃんと解決してもらえるわけねえし、言っても注意するって言って様子見するか、馬鹿みたいに注意だけしてそれで終わり、あいつらは注意された腹いせにもっと酷くする。なら意味なんてない。誰も何もしない。だから、俺が何とかする。でも、これしか出来ない。そう思ってたのに」

 力を籠めるように、奴は声を震わせる。そして何度も拳を握りしめ、膝を叩くようにして「萌歌を、守れなかった……!」と声を荒げた。

「守れない。萌歌のこと、さんざん傷つけて、守れなかった。だから……だったら! 手っ取り早く全部ぶっ壊して、俺が掌握してやろうと思って、それで、俺ごと全部、萌歌のこと傷つける奴全員、ぶっ壊して、消してやろうって、思ってたのに……!」

 清水照道が、顔を上げる。夕日の差し込む位置がずれていったことで、その表情が赤い夕焼けに照らされた。奴の瞳には、涙が伝い、悲しそうに、辛そうに、悔やむように強い瞳で私を見つめている。

「俺……多分どっかおかしいよ。萌歌が何思ってても、俺と一緒にいられるの嫌でも、俺のこと大嫌いでも、俺は一緒にいられて嬉しかった。性根が腐ってんだろうな……」

 そして、諦めるように、静かに終わりを告げるように、俯いた。その様子に、ただならぬ気配を感じて、奴の腕を掴む。

「お、お、お前は、こ、こーれから、ど、……どうするつもりだ」

「別に? どうもしないよ」

「い、家に、……ちゃんと、か、か、かーえるんだろうな」

「何、寂しくなっちゃった?」

 清水照道は、あたかもこちらがわがままを言っているかのように、困った顔をして笑っている。そんな笑顔は見ていたくなくて、こいつの今まで見てきたへらへらした顔の中で一番嫌で、止めさせるように奴の肩を掴んだ。

「こ、答えろ!」

 清水照道は、黙ったまま、何も言わない。言わないことが明確な答えだった。

 奴は自分の肩を掴む私の手を優しく取り上げると、踵を返そうとする。このままいけば、奴は窓の外へ、遠くへ行こうとする。私は反射的に奴の肩を正面を向かせるように掴むと、そのまま突き飛ばした。奴も、腕を引かれるとは予想をしても、突き飛ばされることは予想していなかったらしい。目を見開きながら私を見上げている。

「……か、か、かーってに、き、きき、決めるな……!」

 奴は、ただ私を見上げるばかりで、次の言葉を紡ごうとしない。だから私は勢いのままどうにでもなれと、こいつが生きてここにいるならどうにでもなれと興奮したまま声を出していく。

「お、お、おお、お前の! ……きっ、……気持ちなんて、しー、知るか! わ、わ、私には、かっ、かか、関係ない! 私が、ふ……復讐を、するんだ。私が! ……おおお前に、するんだ! お前じゃない!」

 怒鳴りつけるように、声を発する。近所に聞かれても、知らない。もう、こいつさえ生きていれば。

「だ、だー……だから! ……い、い、生きろ! わわ、私が、ふっ、復讐を、お、お、おお終えるまで!」

 言い終えて、何度も荒い呼吸を吐く。声が、台所のほうまで聞こえてきたらしい。お母さんが私の名を呼び、こちらへ向かってくる声が聞こえた。どうすればいいと清水照道のほうを向くと、奴は力を抜くように、私を見て、静かに泣いて、呆れるように、静かに笑っているような、子供みたいな顔をしていた。

「なな、なんだよ」

「……かわいそうだと思って」

「……は?」

「俺、萌歌のこと、一生好きだから。こんな奴に愛されて、可哀想だよ。萌歌は」

 清水照道は、まるでまぶしいものを見るように私を見た。なんだこいつと思って少し蹴ると奴は笑う。

 また蹴ると、お母さんの足音が響いてきた。その音にはっとする。まずい。こいつをどうにかしないと。清水照道を見ると立ち上がる様子は見えない。まずい。本当にまずい。私は焦りながらも、どこか清水照道の様子に安堵を覚え、複雑な気持ちになりながら奴に手を差し出す。

 清水照道はその手をじっと見つめてから、私の手を取った。
「お……おい。は、は、早くしろ、く、くーらくなるぞ」

 半ば息を吐きながら、まるで葉を纏っていない枯れたような木々の並ぶ道を通り、後ろでのろのろ歩く奴……清水照道の腕を引く。

 奴はスマホを私に向け、へらへらと何が楽しいんだか笑いながら私を撮っては「保存しよ」「後で一緒に見ような」などと世迷言を言っている。

 あれから、清水照道が動画を撮り、次の日私と萩白さんが生放送を行ってから、おおよそ二か月。私たちは今、普通に住宅街を歩けている。

 というのも、生放送が拡散されてから、顔写真や住所を晒したり、脅迫文のようなコメントが減った分、学校や教育委員会に処分を望む声が出たからだ。きちんと、処分して欲しい。再発防止に努めてほしいという声が。

 そんな声に応えるように学校と教育委員会がまず行ったことは、安堂先生を離職させたことだ。先生については、動画のことというより、萩白さんに行ったことが大きかった。さらに以前にも隠され、安堂先生が取り次いでいなかっただけで、先生の言動によって外出が困難になってしまったという生徒がいたらしい。

 そういうことが重なって、安堂先生は教職から去ることとなった。

 河野由夏と取り巻きたちは、停学処分から転校することとなり、千田莉子はこれまで小学校、中学校ともにいじめを先導する行動をとり続けていたことが明らかになって、これまでの被害者に怪我人が複数名いたことで、退学処分が下され、さらに定期的にカウンセリングを受けるよう指導されたらしい。

 そして、清水照道と言えば。

「待ってって、つうか萌歌歩くの早くない? 照道くんマジ驚きなんですけど」

 奴は、退学も、転校もしていない。ネットでは奴の行動をカルト的にヒーロー視する声と、それでもやったことは犯罪であると人を傷つける行為であったと糾弾する声が二分している。けれど否定的な意見も動画が投稿された時より勢いはなく、これからさきも徐々に緩やかになることだろう。

 でも、清水照道の家は、そうじゃなかった。奴の義父は、奴のことを勘当することにしたらしい。大学卒業までの金銭の保証とあの家を与える。だからもう会わない。近づかない。そして頼らないと一筆書けと言われ書いたのだと、奴はあの事件から大体一か月後くらいに「まぁ元々ほぼほぼ家政婦しかいないような感じだったし、手負いくらいの気持ちだっただろうから、あっちは丁度いいと思ってんじゃないの?」と、笑いながら言っていた。

 清水照道は、多かれ少なかれこうなっていたと言っていた。だから、英検もとって、なるべくすぐ自立出来て、一人で生きていけるよう考えていたのだと。

 そう聞いたとき、私はどうしようもない気持ちになった。なのに奴は、私を見て可愛いだの、いつでも一緒に住めるだの馬鹿なことを言い出して、ふざけるなと思った。

「は、は、はーぎしろさんと、……さ最近、い、い、一緒に、走るから、た、たーいりょく、つつ、つけるため」

 私は、萩白さんと一緒に学校に行くようになった。今は保健室で登校しているけれど、テストを受け、定期的に補修を受けることで進級が認められることになったらしい。萩白さんは二年からは、教室で授業を受けようと考えているそうだ。だから年が明けたら、徐々に教室に行く練習をするから手伝ってほしいと言われている。私は、絶対頑張ると約束をした。

 そしてクラスの連中は、意外にも私を受け入れようとしていた。中には生放送が感動したという人間や、友達に私と似たような人間がいて、一度会ってほしいと言ってくる奴もいた。寺田は渋い顔をしていたけど、ある時頬を腫らして学校に来てから、私に謝ってきた。どうやらお姉さんにやられたらしい。

 寺田の謝罪を受けるべきではない。放っておけと清水照道は言っていて、私も思うところもあって、とりあえず返事は保留にしている。一方清水照道はと言えば、はじめは腫れ物に触るような、怒らせてはいけないという雰囲気を作り出していたけれど、ほかのクラス、学年からは比較的受け入れられていて、クラスが変わればまた、奴への扱いも軟化されるように思う。

「来年さあ、絶対俺らと同じクラスだと思うんだよな」

「……え」

「だって俺のこと萌歌から離したら何するか分んないと思われてそうじゃん? 来年修学旅行とかあるし」

 にやにやと、奴はこちらを見てくる。睨み付けると「かわいー!」とべたべたくっついてきた。

「は、はーなれろ! ……く、クソ!」

「あー可愛い、顔真っ赤じゃーん」

「が、眼科に行け……」

「俺に眼鏡かけてほしいとかそういう相談? 萌歌ちゃんは眼鏡が好きなのかなー? 前に眼鏡の男が魔法の杖みたいなの持ってる本読んでたっしょ?」

「き、き、嫌いだ」

「眼鏡が?」

「お、おーまえがだ!」

 きつくきつく、奴のことを睨み付ける。すると奴は少しだけさみしそうな顔をして「俺はずっと好きだけどね」と呟く。その顔を見ていると、胸がぎゅっとした。何だかもやもやして、奴がただ投げ出すようにだらりと下げた手を、掴む。

「ん、どしたの萌歌ちゃん」

「……て、て、手首を折るだけだ」

「はは。したいならいくらでもしていいよ」

 清水照道の、偽りの感じない声色に、奴をまたきつく睨む。私は、こいつのこういうところが嫌いだ。奴の手を締め付けるように握りながら、夕焼けの道を歩く。私たちの前から伸びるような夕日は、ただただこちらを照らしていた。

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