この恋を殺しても、君だけは守りたかった。

 夏休みが明けて、一週間が経った。

 音楽の授業は合唱コンクールの練習に代わり、ホームルームも練習だ。並び順は、最悪のままだ。練習のとき私は大抵最初に並んでいて、あとから河野由夏と千田莉子がやってくる。歌の練習を始めると大抵二人は私の頭上で会話をしていた。練習の時くらい黙っていればいいものを、私のことなんて放っておけばいいのに千田莉子はちょくちょく私に対して「声小さくない?」と河野由夏に指摘をする。河野由夏は「え? どうでもいいから全然聞いてないんだけどナスリコこういうのガチのタイプなの?」という話題を繰り返されている。

 とにかく放っておいてほしい。自分たちだけで楽しくしていればいいのに、どうしてあいつらは私を巻き込もうとするんだろう。

 うんざりとしながら、放課後の廊下を校舎から出ていこうとする流れに逆らって歩いていく。目指しているのは保健室だ。目的は萩白先輩に鍵を返すため。

 本当は始業式の放課後に渡すほうが良かったのかもしれないけど、先輩のあの様子を見て、一週間が過ぎた今日にした。すぐに保健室が見えてきたけど、扉には先生の不在を知らせるプレートがかかっていた。

 駄目もとで扉に手をかけても、開く気配はない。

 今日は、もういないのかもしれない。

 踵を返そうとすると、鍵が開かれる音が響く。振り返るとマスクをつけた萩白先輩が手招きするように手を振っている。促されるまま私は保健室に入った。

「どうしたの? 体調が悪い?」

「……こ、こ、れ」

 鍵を差し出すと、先輩は「ああ」とどこか複雑そうな表情で鍵を受け取った。

「ありがとう。今日は、恥ずかしいところを見せてしまったね」

「い、いや」

 返事をして、沈黙が訪れる。

 何か言ったほうがいいとは分かっているけど、何を言っていいかが分からない。そもそも、どういう言葉を話せばいいのかわからない。何も言えず、そして先輩も何も言わずただただお互い黙ってると、がしゃんと扉に何かがぶつかる音がした。先輩は目を見開き、私も急いで振り返ると清水照道が立っている。

「その子どこか悪いんですか?」

 血相を変えて、息を切らしている。なんでこいつはこんなに急いでいるんだ。萩白先輩も目を見開いている。首を横に振ると、先輩は「彼女は私の落とし物を届けに来てくれたんだよ」と説明をする。清水照道はほっと気の抜けたように「なんだ、そういう……」と息を吐いた。

「彼女は体調不良じゃない。安心しなよ」

 萩白先輩は少し笑い声を交えながら、私のそばに寄る。そして「良かったね、こんなに心配してくれる人がいて、大事にしたほうがいい」と私を見た。誤解をされていると否定する前に、清水照道は途端に「うん、俺のこと末永く大事にしてやって」とおどけだした。

「……じゃ、じゃあ。これで、か、帰ります」

「今日はありがとう」

 先輩に挨拶をしてから清水照道を放置し保健室を出ようとしたら、奴もついてきた。驚いたのが顔に出ていたのか、奴は「いや俺もおうち帰るから、照道くんも保健室から出してあげて」と私の肩を軽く叩く。保健室を出てからすぐに足を止めると、奴も足を止めた。

「帰んないの? 何今日残りとか?」

「ち違う」

「じゃあ帰ろ。もうこの間みたいに寄り道しまくったりしないし」

「きょ、今日は……予定が、ある」

「どんな?」

「……が、が、がっ、合唱の、とっ、図書館ホール、に、下見を」

「じゃあ俺も行く」

 清水照道は私の言葉に即答すると、私の肩を掴んでさっさと歩いていく。振り払おうにもさっき私の肩を叩いたような力じゃなく、強い力が込められていて振りほどけない。その力の強さに切迫したものを感じていると、流されるまま下駄箱に連れていかれる。

 ホールに向かうのは、合唱コンクール当日、緊張しておかしなことにならない為だ。歌うときは普通に歌えるけど、今は最悪の並び順。

 ただでさえ千田莉子が難癖をつけてくる。当日緊張して変な声が出たり、逆に全く出なくなったりしないように、せめて会場の雰囲気をさっと見て、会場だけには慣れておこうと考えたからだ。買い物をするわけじゃないし、図書館は静かにしなきゃいけない場所だから話をしてくる人間もいない。コンビニよりも行くハードルは低い。

 でも、それは一人で行くからだ。

 なんでこいつはついて来ようとしているんだ。今まで「樋口さんと帰りたいけどさそえなーい」なんてふざけたことをこいつは言い続けてきたけど、どうしてそれがよりによって今日なんだ?

 混乱している間に奴は勝手に私の上履きを履き替えさせてどんどん歩いていく。校舎にも、校門のほうにももう人はいない。私は奴に引っぱられるままに図書館まで歩かされていった。




 本がぎっしりと並ぶ棚に沿って人が立つ景色を横目に、清水照道の隣を歩く。

 結局奴は図書館に着くまで私の肩を放すことはなかった。流石に図書館の中で無理やり人を連行するのはよくないと思ったのか、図書館にたどり着くと奴は私を解放した。帰ってやろうと思えば察したのか瞬時に腕を掴まれたため、渋々一緒にいるけど、本当にこいつのことが良くわからない。

 人のことを壊れ物を扱うみたいに変な触り方をしたと思えば、こっちを無視するように強引に運ぼうとする。

 隣を歩く奴を睨むわけにもいかず、館内の寒いくらいの冷房に身震いしながらあたりを見回す。

 図書館の中は、司書さんや、ボランティアと書かれ腕章とエプロンを付けた人たち、そして図書館の利用客でそこそこ混んでいた。

「待てって、そっち男子トイレ。トイレ行きたいならこっち」

 黙々と進むと、清水照道が私の腕を引いた。無性に恥ずかしくなって、トイレの横にあったカレンダーを指さして睨むと「あ、俺勘違いしちゃった感じ?」とへらへらしてくる。

「つうかさ、合唱コンの次の日の一か月後って萌歌誕生日だよな。まじでめでたい。祝日になんねえかな」

「……な、なんだそれは」

 誕生日は、教室に貼っているカードを見たのだろう。でも、何でこいつは図書館の中について知っているんだ?

 思えば奴は、図書館に行くまで強引に私を連行した。私は一度も道を奴に伝えていない。

 六月に転校してきて地元の人間じゃないはずだ。でも前に、そうだ、前に清水照道が私をこうして連れまわした時、薄暗い、今にも潰れそうな団地みたいなところに連れていかれたことがあった。

 あの道はすごく奥まった道や入り組んだ道を通って、こいつに変な気を起こされて捨てていかれたら終わると思った道だ。

 転校してきたということは、引っ越しもしたわけで、何でこいつはあんな道を知っているんだ。こいつの最寄り駅は、学校の最寄り駅から七つくらい離れて、引っ越してきたから道を見回って知ったような場所でもないはずなのに。

 河野由夏たちと、一緒に行った?

 その可能性が一番高いはずなのに、どうしてもそう思えない。奴に腕を引かれるまま考えていると、いつの間にか図書館に併設されたホールの前まで来ていた。

「ほら、ここだよ。俺らが合唱で行くホール」

 清水照道が私の腕を掴んでないほうの指で指し示す。ホール自体は何も開催されてなくて、準備期間中の立て札が掲げられ入れないけれど、手前には案内図がある。そこには内部の写真が何枚か乗せられていて、一つ一つ視界に収めていく。

 広くて、明るい場所だ。学校の合唱で使うホールだから、もう少し体育館っぽい場所を想像していたのに。

 コンサートとか、舞台とかそういう言葉が似合うようなホールで、少し胃のあたりがぐるぐるする。それに隣のホールのスケジュールに書かれたスピーチコンテストの文字が見えて、喉が詰まった。

「冷房きつい? なんか下に飲みに行く? 休憩所あるみたいだし」

「こ、ここから、は、はーなれれば、……平気」

 清水照道は「おっけ」と呟いたあと、スケジュールの表を睨むように見る。そして私の腕を引き、場所を移すように図書館の奥へと入っていく。

 やっぱりこいつは、この図書館について知っているらしい。奴につられるままに進むと飲食可能な休憩所に出てきた。隣は古い新聞を保管する場所らしく、おじいさんやおばあさんが虫眼鏡を使ったり、分厚いレンズの眼鏡をかけながら新聞を見ていた。お父さんが手掛けた新聞も、あっちにあるのかもしれない。

 なんでもない景色を見て、段々と中学の記憶薄れていく、静かに息を吐いていると、清水照道は自販機にお金を入れお茶を買い、それを私に差し出してきた。

「ん。あったかいお茶」

「で、でも」

「いいから、萌歌ちゃん今日あんま水分取ってなかったし、最後に飲んだの昼の飯食うときくらいっしょ? 水分とっとけって」

 奴は私に押し付けるようにお茶を差し出してくる。というか何で私が最後に飲み物を飲んだことをこいつは把握しているんだ。

「なー、んで、飲み物、飲んでないって、し、し、知ってるんだ」

「萌歌ちゃんのことなら、何でも見てるから」

 清水照道の言葉に自然と眉間に皺が寄る。奴は「本当だよ」と付け足した。私は別に疑ってなんかない。なんでこいつに把握されなきゃいけないんだと思ってるだけだ。でも真面目に取り合ってるとこっちの気が変になりそうでお茶を受け取る

「お、お、お金」

「絶対受け取んないから。っていうかただのお茶だし」

 真剣な眼差しに委縮する。視線を彷徨わせながら私は頭を少し下げた。

「……あ、あ、ありがとう」

「どーいたしまして」

 清水照道は笑った後、懐からスマホを取り出し、「あいつらもう駅のほうか」とぼそりと呟いた。あいつらもう駅のほうかって何だ。こいつは誰の居場所を把握している? こいつに対して、知らないことが多すぎる。怪訝な顔で奴を見てると、奴はにやにやした顔で笑い始めた。

「なに萌歌ちゃん、俺のことじーっと見ちゃって。見とれてる?」

「そ、そーんなわけ、……な、ないだろ」

「何だ。てっきり俺のこと好きになっちゃったのかと思ったのに」

「……あ、ありえない」

「知ってる」

 清水照道は私の言葉に、なんだか突然真面目そうに、何かを全て知っていて、諦めるみたいな顔をして答えた。その表情が全然さっきまでと別人みたいで、時間が止まったような感覚に陥る。けれど奴はすぐまたテレビのチャンネルを切り替えるみたいに「なんちゃって〜」とおどけ始めた。

「ほら、俺のこと気にしてないで水分取んな? まだまだ熱中症は全盛期まっさかりなんだし、倒れでもしたら俺泣いちゃうからね?」

「た、た、倒れたのは……お、お前だろ」

「その節はどーも」

 奴は軽口を叩くようにして笑う。何となく、こいつ相手だと話をすることが、そこまで嫌な感じがしない。そう考えてはっとした。

 いや、それはこいつの存在が嫌すぎて、言葉に対しての嫌悪が紛れているだけだと思い直す。こいつにいつもさんざん馬鹿にされていることを忘れたのか。私は咳ばらいをして、やたらこっちを見て不思議がる奴から顔をそむけるようにして、奴から貰ったお茶を飲んだのだった。

「さーて、帰りますかっと」

 お茶を飲み終えた私は、伸びをする清水照道の後ろをついていく。図書館の中の込み具合は最初に入った時と同じだけど、貸出、そして返却コーナーは列を成していた。

 並んでいる列をぼんやり眺めていると、清水照道は「何か借りたい?」と私に揃えるように返却コーナーを見る。

「……ちち、違う。なー、並んでると、お、思って」

「あー、まぁ文化祭で出し物のネタ集めに借りに来てるやつが多いからじゃね? 時期的にほかの高校とか、それこそ中学も文化祭やるだろうし」

 確かに、奴の言う通り並んでいる列には高校生っぽい人間、中学生っぽい人間と、ところどころお年寄りたちに混ざって学生が並んでいる。納得しながら歩いていると、後ろから聞きなれない声で「樋口さん?」と声がかかった。

 前を歩く清水照道のほうが先に反応し、怪訝な顔をした。私も遅れるように振り返り、頭が真っ白になった。

「やっぱり樋口さんだ!」

 ボランティアスタッフのエプロンをかけ、何が楽しいのか、嬉しそうにかけよる男……三浜木宗太。奴を見た瞬間耳鳴りがした感覚がして、気が遠くなるような気がした。けれど奴の次の言葉が、私の意識を現実へと引き戻す。

「中学二年の時に樋口さんが転校して……だから大体二年ぶりくらいかな、久しぶり」

 息がし辛い。

 頭がふらふらする。清水照道は心配そうに、まるで支えるように私の腕を掴んだ。一方三浜木宗太はぺらぺらと、まるであの頃みたいに話をしだす。

「実は僕も、あれから転校をすることになっちゃったんだよ。なんでか知らないけどネットの人たちが僕のこと誤解してて、自分がスピーチコンテストで優勝するために樋口さんを利用したって言われてさ……本当ネットの奴らって最悪だよ。住所とかも出ちゃって、結局引っ越しすることになっちゃってさ……」

 ぶつぶつと、三浜木宗太は自身の近況について語る。あの後、こいつが転校したのは聞いた。

 スピーチコンテストがネットで中継されて、そこで、そこで奴は私について話をしたのだ。詳細に、執拗に、どういうことがあってこの場に来れなくなったかを。

 それについて、お父さんが明確に抗議をしていたから、その電話の音を聞いてそのことについては知っている。けれどネットで叩かれてたなんて知らなかった。

「それで僕さ、ちょっと外出るの辛い時期があって、最近ここで図書館のボランティアしてたんだけど……まさか僕と同じ痛みを抱えた樋口さんと会えるなんて思わなかったな」

 同じ……痛み?

 こいつは、今だってぺらぺら、ぺらぺら、つっかえることも、同じ言葉を繰り返すことも、言いたいことが言えなくてどうしようもなくなることもない。すらすら、思った通りの言葉をそのまま話をしている。それのどこが同じ痛みなんだ? こいつは、私と同じだと、本気で思っているのか?

「ねえ、よければこの後話をしない? 対談みたいな感じでさ。お互いの気持ちを話し合って……そうだな、それをネットにのせよう。吃音についての理解を、もっと周知させるべきなんだよ」

「……い、いや」

「ゆっくりでいいよ、緊張しないで」

「だ、だ、だか」

「早くしゃべらなくていいから」

 話がしたいのに、遮られて言葉が出せない。どんどん胸の奥が詰まって苦しくなる。嫌だ。眩暈が止まらない。こんなに苦しいのに、どうして目の前の三浜木宗太は笑顔で、余裕をもって、こちらを急かすように待っているんだ。

「……あ」

「頑張って樋口さん」

「いちいち遮ってんじゃねえよ」

 低い、地を這うようで、まったく抑揚のない声が頭上から発された。恐る恐る顔を上げると、清水照道が機械のレンズみたいな目で三浜木宗太を見ていた。

「ん? なに?」

「今萌歌話してんだろ、いちいち遮んじゃねえよ」

「何を言ってるの?」

「遮るなって言ってるんだけど。つうかさっきから何お前。頑張ってとかばっかじゃねえの?」

 清水照道に詰め寄られ、三浜木宗太は眉をひそめる。そしてあっと声を上げた。

「君、もしかして知らない? 樋口さんは吃音でね、僕らがちゃんとフォローして励ましてあげなきゃいけないんだよ?」

「は?」

 清水照道は能面のような顔で、感情のない、機械みたいな声で三浜木宗太を見た。

 全く表情がないのに、その力を込められた左手を見て、こいつは三浜木宗太を殺そうとしているんじゃないかとすら思えてくる。

「……お、お、おい」

 そんな清水照道の姿を見て、急激に不安になった。こちらを支えてくる腕をゆすると「大丈夫、萌歌に怖いことなんてしねえよ」とこちらを見ずに、独り言のように呟く。そして静かに三浜木宗太を睨んだ。

「悪いけど、萌歌と話がしたいなら俺のこと通してくんない。っていうか、もう顔も見せないでくんないかな」

「どうして樋口さんと話をするのに君を通さなきゃいけないんだ?」

「どう見てもお前と話す萌歌が苦しそうだからに決まってんだろ。行くぞ萌歌」

 そう言って、清水照道は私の肩を掴むと、また強引に連れていき、そのまま図書館を出た。三浜木宗太は「待ってくれ」と追いかけてくる。清水照道は舌打ちをしながら歩く足を止めない。そして「タクシーどこだよ」と苛立ちを抱えながら周りを見渡す。

「なぁ、樋口さん君は勇気を出すべきじゃないのか!?」

 振り返ると、三浜木宗太が大きな声を出した。図書館に行ったり、そこから出てきた人々がこちらを見る。

 その視線があの時と重なって、途端に体から力が抜けそうになった。清水照道はそんな私の肩を支え、不安げな声で私の名前を呼ぶ。大丈夫、そう言いたいのに声を出せば戻してしまいそうで口元を押さえた。

「吃音の君が! 頑張る姿を見せることで、前に出で話をすることで、勇気を与えることができると思うんだ。スピーチコンテストでは、君は吐いてしまったけれどそんな風に君を想う友達が出来たならきっと今なら出来るはずだ!」

「お前いい加減にしろよ。何かしたいならまずお前が先陣切ってやれ、萌歌は吃音だから特別な存在なのか、吃音だから頑張んなきゃいけねえのかよ。お前が……、お前のせいで萌歌は……、萌歌?」

 スピーチコンテスト。吐いてしまった。

 その単語が、合図だったかのように喉元から一気に胃液がせりあがる。そのまま地面に戻すと、清水照道は私の背中をさすり、周りの人間に図書館の人間を呼ぶよう伝えた。そして自分のパーカーを脱ぎ、吐いたところにかけると私に袋を渡してくる。

 されるがまま袋に吐いていると、三浜木宗太が近寄ってきた。頭が痛い。頭が痛くて仕方がない。ただただ戻していると、やがて三浜木宗太は去っていく。清水照道は、「大丈夫だから」「好きなだけ吐いていいから」と私の背中をさすり続けている。

 地面には、ぐちゃぐちゃになったパーカー。頭の中は、めまぐるしくあの時の光景がよみがえる。けれど、こいつの「大丈夫」という声で、だんだんと痛みが和らぐような気がしてきて、私はただただ背中をさすられていた。




 薄暗い夕焼けの下、図書館近くの公園のベンチに座る。隣には、清水照道がぐちゃぐちゃになったパーカーを入れた袋を持ち、ぼんやりと座っている。他には誰もいない。二人きりだ。

 あれから、清水照道経由で呼んだであろう司書さんたちが来てくれて、私は図書館の奥のバックヤードみたいなところで休んで、図書館の前を汚したことを謝った。

 司書さんたちは気にしないでと言ってくれたけど、掃除をするのは多分司書さんたちで、そのことを考えると気が重くなる。そして図書館を後にしようとして、清水照道が私の親を呼んで迎えに来て貰ったほうがいいと言って、私の代わりに電話をかけ、今は私の……たぶんお母さんが来るのを待っている。

 清水照道は、何も聞いてこない。ただ「大丈夫か」「気持ち悪い?」とは定期的に聞いてくるけど、三浜木宗太のことも、スピーチコンテストのことも、私が中学の頃転校した時についても、何も聞いてこない。

 今も、別に話をしなくてもいい空気だということはわかる。でも、なんとなく、言葉を出したくなって、口を開いた。

「……こ、こ、こー、殺すのかと、お、思った、あいつのこと」

「えっ、俺が? もしかして俺、カッとなるとすぐ手が出るタイプだと思われてんの?」

 私の言葉に清水照道が即座に反応する。そして無表情だった顔を、おどけたように変えた。頷くと、奴は唇を尖らせる。

「まぁ俺もさあ、なんであんな奴のせいで、ゲロ吐くまで萌歌が追い詰められなきゃいけねえのとは、思ったし、殺してえなとは思ったけど、しないからね。捕まったら閉じ込められて萌歌ちゃんのそばにいられなくなっちゃうしぃ~」

 そう言って、奴は足を伸ばす。そしてなんの気なしに、こちらに顔を向けた。

「萌歌ちゃんはさ、人のことマジで殺したいと思ったことある?」

「……は?」

「俺殺したいやつ片っ端からやっていったらさ、マジでキリないかんね。ほぼほぼクラス全員くらいの人数になっちゃう。だからしない」

「……く、く、くーそ、いきり」

「はは。元気になってくれた。よかった」

 けらけらと、清水照道は楽しそうに笑う。でもクラスで馬鹿な笑い方をしているけらけら笑いとはまた違ったように見えて、何となく、なんとなく、声を出そうと思った。

「……あ、あ。……ああ、あいつに……い、いーわれたんだ。おお、お母さんのこと……、おー、おおお父さんのこと、に、憎むなって、言われて」

 中学の頃、本当に、何のきっかけもなく私はあいつに「吃音のことで、お母さんとお父さんを憎んじゃ駄目だよ?」言われた。私は確かにどうしてこんな風に生まれてきたんだと、何で私だけと思った。

でも、憎しみを持つまではしてなかった。なのにあいつは、どんどん私はお母さんやお父さんを憎んでいるみたいに言ってきて、「君の頑張る姿に人は感動して、共感するんだ。特別な存在なんだよ」とか、どんどん、どんどん洗脳するみたいに言ってきた。それが気持ち悪くて、利用されてるみたいで、言いなりにされてるみたいで、気持ち悪かった。

「わ、わ、わたしは、……憎んでなんか、……ない。で、で、でも、……ど、……どーうしてこんな風に、う生まれてきたんだって、きき気持ちになる。……そ、それも、に、に憎むってことなのか」

「違う。絶対に」

 清水照道は、真っすぐと私を見た。そして念を押すように「絶対違う」と続ける。

「しんどい時、誰かのせいにしたくなる。理由がつけたくなる。周りのせいでも、自分のせいでも。でも、萌歌が苦しいのは、お母さんのせいでもお父さんのせいでも、萌歌自身のせいでもない。話の仕方が、違うだけで、特別扱いしたり文句言ったり、馬鹿にする奴がいるせいだ。そんな奴らが、あいつらが、全員死ねば……」

「萌歌!」

 呪うような清水照道の声に被さるようにお父さんの声が響く。声のする方向を見ると、お父さんが額に汗を流しながらこちらに駆けてきた。お父さんは「大丈夫か」と私に声をかけた。もう、吐き気は殆どない。頷くとお父さんは清水照道に目を向けた。

「えっと、清水くん、今日はありがとう……」

「いえ。あの、中学二年の時、樋口さんのクラスメイトだった男が来て、それで体調崩してて、もうどっか行ったみたいなんですけど……、しつこい感じだったって言うか……萌歌になんかさせようとしてて……俺が言うのもアレですけど、気をつけて欲しいというか、一応、報告です」

 清水照道の言葉に、お父さんの顔色が変わる。きっと帰ったら、詳しいことを話さなくちゃいけない。お父さんは清水照道に礼を言い、そして奴の持っているビニール袋に視線を落とした。

「もしかして、それは」

「あぁ、気にしないでください丁度洗うところだったんで」

「クリーニング代を」

「しないんで、いらないです。っていうか、樋口さん帰してやってください。そろそろ日も暗いし、結構吐いて、疲れてるだろうし。じゃあ俺はこれで」

 清水照道は、お父さんの話を切り上げるように頭を下げて去っていく。お父さんは奴を見送ってから、反対方向の、駅に向かって歩き出す。

私もお父さんの隣を追うように歩いていくと、お父さんは遠慮がちに「三浜木くんと会ったのか」と訪ねてきた。図書館のボランティアをしていたらしいことを伝えると、お父さんは静かに視線を落とす。

「……で、でーも」

「ん?」

「あ、あい……、し、しーみず、が、かか、……庇った、から」

 そう言うと、お父さんは驚いたような顔をした。そして「親御さんに、お礼を言わなきゃなあ。クッキーだけじゃなく」と呟く。

 クッキーは、夏休み明けに学校に持って行ったことにしていた。嘘をつく結果になってしまったけれど、でもきちんとあいつに食べさせたわけだし、あいつも美味しいとか、お世辞でも言っていたし。一応時差はあったけど美味しかったと報告はした。

「でも、海外で働いてるとか、母さんが言っていたっけ」

「…ん。い、忙しい……みー、たい」

「そうか……」

 お父さんは、考えこんだような様子を見せる。そしてはっとした様子でこちらに振り返った。

「なあ萌歌、清水くんの下の名前って、照道で合ってるか? 照らすに、道の」

 お父さんの言葉に頷くと、またお父さんは足を止め俯いてぽつりと「一家心中の」と呟く。そしてまたはっとして、歩き出した。

「ああ、悪かった萌歌、早く帰ろう」

「ん」

 お父さんは、平静を取り繕うように笑う。それに、まるでさっきの言葉なんて聞こえていなかったように、私も素知らぬ顔をする。お父さんの、さっき言った言葉。それは、間違いなく、一家心中という言葉だった。

 その言葉に、あいつが熱を出したとき、あいつが一人で早退すると、親なんて来ないとまるで最初から分かっているような口ぶりだったこと、そして、まるで物がない部屋に住んでいたこと、自分と違う名字のお墓に対して呟いていた言葉を思い出して、酷く胸騒ぎのような、心臓が別の生き物のように動いた気がした。

「今日夕飯食べられそうか。おかゆか……それともゼリーとか、アイスとか、果物の缶詰とかそういうのがいいか」

「あ、あるので、い……いい」

「そうか」

 お父さんの隣を、歩いていく。さっきまで赤くこちらを照らしていた日はすっかり暮れて、周りは沈んでいくようにその陰を色濃いものにしていた。
 次の日、私は普通に学校に行った。お父さんとお母さんは休んでもいいと言っていたけれど、吐いた原因は体調不良じゃないし、休んだ分のノートの問題だってある。

 いくら土砂降りの雨が降って、朝一番の授業が音楽で、合唱コンクールの練習があっても行かなきゃいけない。いつまたいじめが起きるのかも分からないし、今のうちに出席日数を稼いでおく必要がある。

 私は折り畳み傘を閉じながら、下駄箱で靴を履き替えた。

 夏休み前、傘が無くなってから折りたたみ傘に頼るようになった。家を出る前から雨が降っていてもだ。

 あれから雨の日、傘の泥棒が多発していると聞いて安堵したけれど、でも泥棒はいるわけで、そういった意味でも安心だ。

 あらかじめ持ってきたタオルで水気をふき取り、傘をビニール袋にしまっていると、寺田の笑い声が階段のほうから聞こえてきた。どうやら階段近くの自販機で飲み物を買っているらしい。寺田の声の合間に、清水照道の声も聞こえる。

 教室に行くのは、奴らが行った後にしよう。

 奴らが去っていくのを待ち、声がしなくなったところで階段の様子を伺うと寺田も清水照道の姿も見えなかった。安心して、けれど念のため顔をあげ上を見ると、上では手すりのほうで、ピースがぐにゃぐにゃ動いていた。

 続けるように「寺田階段上りながら飲めない系の人なん?」と清水照道の声がして、慌てて階段を上ろうとする足を止める。

 頭上のピースは、やがてこちらに手の平を向け、左右に揺れた後ひっこんだ。

 間違いない。あの狐は、清水照道が作ったものだ。

 一度上るか躊躇って、上る階段を変えようと踵を返す。体育館沿いの、さっきとは別の階段に移動し上る。階段には生徒は少なく、部活のジャージに身を包んだ生徒か教材を持った先生しか降りてこない。

 一家心中。

 お父さんは、あれ以降特に清水照道について聞いてこなかった。夕飯を食べてお風呂に入って、お風呂から出た私に体調は大丈夫か聞いてそれっきり。

 お母さんには清水照道が助けてくれたこと、そして三浜木宋太が接触してきたことだけを話していて、清水照道の家族や、呟いた言葉に関連するようなことは何一つ触れていなかった。

 昨日の晩、何となく清水照道について考えて、何で私がこんなにも奴の家族について考えなければいけないのだと馬鹿らしくなり、やめた。

 お父さんに聞くことも考えたけれど、お父さんの呟いたあの単語は、やっぱり気軽に聞けるものじゃなくて聞けない。

 なんだか、頭の中がもやもやと、そしてぐるぐるしてきた。ため息を吐いた私はポケットからスマホを取り出し、奴の名前とその単語を打ち込む。

 昨日は、何となく出来なかった。でも気のせいかもしれない。そんな恐ろしい目にあった奴が、階段で狐なんか作ったりしないだろう。

 階段の端に寄り、スマホの検索結果が表示されるのを待つ。通信制限にひっかからないように初めから速度を遅くしているのと、学校の電波が悪いのもあって画面はくるくる回る待機を知らせるアイコンが表示された。しばらく待っていると、ぱっとニュース検索のヒット画面が立ち並ぶ。

 その結果を見て、愕然とした。

 そこには、確かに奴が墓参りをしていたとき彫られていた文字と一致する名字と、照道という文字が並んでいる。

 一番最初に出たサイトをクリックすると、そこにはこの高校近くの、いや、前にあいつに連れられた公園の近くの団地で、夫婦が自殺で亡くなった記事が出てきた。若い夫婦が借金を繰り返し、貧しさを苦に、自殺をして、当時中学生だった息子で、十四歳の、照道という少年が、警察に連絡して発見されたと書かれている。

 団地の、ベランダの写真ものっている。確かにあいつがいい場所だと言っていた公園から見えた、団地だ。

 すっと体の奥が冷えるような、頭が冴えていくような感覚がする。あいつは、一体どういう気持ちで、私をあの場所に連れて行ったんだ。

 あいつは、何を考えているんだ。全く分からなくて、ただ食い入るように画面を見つめる。すると肩を叩かれ、はっとして振り返った。

「……え」

 そこにいたのは、千田莉子だ。バレー部のユニフォームを来て、いつものへらへら笑いは消えたように、じっと何かを悔しがるようにこちらを睨んでいる。その様子に狼狽えると、千田莉子は何かを呪うように呟いた。

「ちゃんと歌いなよ」

「……え」

「声、小さいから。もっと大きな声で歌いなよ。ただでさえ何にもしないんだから」

 畳みかけられる言葉に、反応ができない。

 なんでこいつはこんなに合唱にこだわっているんだ。というか、歌はそこまでつっかえないから声を出してはいる。いやな気持ちや恐怖より、疑問や清水照道に関する衝撃のほうが強くて戸惑っていると、千田莉子は「樋口さんがいじられてればいいじゃん」と憎々しいように私を見た。

 意味が分からない。けれどその私の表情が気に入らなかったのか「もういい」と言って去っていった。

 ……何なんだ。あいつは。

 樋口さんがいじられてればいいじゃんって、何だ。どういう意味だ一体。

 前までは、多分怖くて足が震えていただろうけど、今は清水照道に関する記憶が頭の中を巡って上手く考えられない。

 混乱しながら、私は教室へと向かっていった。




 教室に入ると、相変わらず河野由夏、寺田、清水照道がその取り巻きたちとともに会話をしていた。

 清水照道は、相変わらずだ。何も変わっていない。流行りの曲か何かを流しながらわいわい盛り上がっていて、朝から見ているだけで疲れる。

 標的にならないよう自分の席に座ると、寺田が「あ、そういえばさあ」と手を叩いた。

「昨日照道突然消えたけどどこ行ってたんだよ? 下駄箱で忘れもんしたって言って、俺らしばらく待ってたんだぞ、なぁ河野」

「そうだよー、その後も駅前にいるって送ったのに返ってこないし!」

「わりー、その後マジで腹筋われるレベルで腹やってさ、その後はバイト先の店長にぼこぼこにされてた」

 清水照道は「へへ」と笑いながら大嘘を吐き続ける。けれど河野由夏も寺田も疑うことなく、さらにはその嘘を笑い同調するようにして信じている。本当に、自然に嘘を吐いている。「いや夏休みん時に寝坊したんだけどすげえそれ掘り返してきてさあ」と奴は話を始めて、自分のペースに持って行った。

 夏休み前、清水照道は、河野由夏や寺田に取り入ったように思えた。でも今では、清水照道がクラスの中心にいて、寺田や河野由夏が引き寄せられているように思う。その様子を見ている分には、本当にただの明るくて、人を取り入るのがうまい人間だ。でも、その笑顔を見ていると、やけにニュースサイトに並べられた文字列がちらつく。

 あいつは今、どういう気持ちで笑っているんだろう。

 奴の様子を見ていると、ふいに「おっはよー」と千田莉子が空元気を出すように輪の中心へと入っていった。すると河野由夏は「声でかっ」と顔をしかめる。なんだかその様子に、夏休み前とは少し違うような、なんとなく見ているのがつらくなるような気持ちになった。河野由夏は「っていうか森っぽい匂いがする、何?」と千田莉子を見る。

「ああ、実はさぁ由夏しいが臭いってめっちゃ言ってくるから、スプレー変えたんだよね」

「そんなこと言ったっけ? 忘れちゃった。なんかさぁ、森……? ナスリコ来た瞬間森っぽい匂いしたから。え、何? って思って、ナスリコかぁ」

 河野由夏は千田莉子が取り出したスプレーを興味なさげに見る。そして「あ、やっぱりグリーンって書いてんね」と、放るように千田莉子にスプレーを返した。

「あ、ちょっと由夏しい放らないでよ、危ないって」

「ごめーん」

 河野由夏は千田莉子に興味をなくし、「で、なんだっけ」と清水照道や寺田、ほかの取り巻きたちに振り替えった。千田莉子は焦ったように外れた輪から入り直す。

 もしかして、千田莉子の言っていた「樋口さんがいじられてればいいじゃん」は、自分じゃなくて私がいじられていろと、そういうことなのかもしれない。

 私は何となく、胸騒ぎを覚えながら机に伏し、ホームルームが始まるのを待っていた。



 軽快なピアノの曲が流れ、それに合わせて声を出す。

一時間目は音楽の授業だ。ぷつぷつ穴が開いているように見える音楽室の茶色い壁に囲まれ、ピアノの横に合唱コンクールの順番で並び、先生と、そして音楽家の肖像画がかけられている壁を前にして歌を歌う。

 隣は千田莉子で、もう一方の隣は河野由夏。でも何か私に注目が向くたびに清水照道は私の隣がいいと、いっそ私をテノールに入れられないかと騒いで、河野由夏が笑い場が収まるというのが繰り返され今日もしてから歌の練習が始まった。

 歌の練習に入る前の時間は嫌いだけど、歌の練習中はそこまで苦痛じゃない。歌っている最中だけは左右の河野由夏と千田莉子がしゃべりださないし、千田莉子に声が小さいと絡まれない。そのことに安堵しながら歌を歌っていると、一回目の練習が終わった。音楽の先生が拍手をして、一つ一つパートごとに感想を出す。ぼんやりとその様子を眺めていると、また千田莉子が私の頭上で河野由夏とこそこそ会話を始めた。

「何かさ、声小さくない?」

「そう? 別に普通だったじゃん?」

 河野由夏がなんでもないように返事をする。実際私は、そこまで小さくないし、ましてや口パクでもないし、しかも河野由夏は肩がぎりぎり触れそうなくらい隣にいるのだ。聞こえないわけがない。でも千田莉子はまるで私にもっと声を出させたいようにして、執拗に食い下がる。

「私全然聞こえないんだけど」

「耳悪いんじゃない?」

 しつこいと、暗に匂わせるように河野由夏がため息を吐いたて、何かを思い出すように話を続ける。

「なに、樋口さんにそんな突っかかりたいわけ? もしかして照道のこと好きだから?」

 馬鹿にした、声。完全に千田莉子を格下に見ていないと出ない声色だった。千田莉子は焦ったのか俯いている私でも分かるくらいに首を横に振る。

「そんなわけないよ。由夏しいに協力するって言ったじゃん!」

「は?」

「そこ、私語は謹んで!」

 千田莉子の言葉に、河野由夏は明確に眉をつり上げた。先生が注意をする。二人が頭を下げると先生は総評を始めた。長い総評が終わり、またピアノの伴奏が始まり、歌を歌う。

 何となく、先ほど感じていた胸騒ぎが大きくなるような、そんな感覚がする。

 嫌な感じを覚えながら歌を終えると、席に着くよう先生が指示をした。いつも私の前を遮るか、後ろを遮るように河野由夏と千田莉子は会話をする。

 今日はどっちに行く気だと伺うと、河野由夏は千田莉子と会話をすることなく自分の席に戻っていく。千田莉子は、呆然とするようにしながら自分の席に戻る。私は、やけに広くなった自分の席までの道のりを、まるで足場が分からないような、違和感を覚えながら歩いて行った。
 それから、河野由夏は千田莉子を認識しなくなった。今まではトイレに行くにも、どこへ行くにも千田莉子を伴い授業へ向かうのにも必ず一緒だったのに、今では皆千田莉子をいないように扱い、昼に誘うこともない。

 初め千田莉子は河野由夏に対して「無視しないでよ由夏しい」と話しかけたり、指でつついたりしていたけど、一度「マジでうざいんだけど」と言われてからはやめた。

 そして俯き申し訳なさそうに、黙ってついていくようになっていたけれど、河野由夏が「何かキモイのついてくるんだけど」と言ってからはそれすらせず、一人で行動をするようになった。

 そんな千田莉子を、自分のグループに入れようとする人間は一人もいない。

 男子は普通に素知らぬ顔。女子のカースト上位は河野由夏に睨まれたくない気持ちで、そして吹奏楽部とか、比較的このクラスでも真面目に属されていたり、上位の人間から地味だと馬鹿にされるリア充たちは千田莉子をもとから嫌っていたらしく、トイレで「ざまあじゃん」と言っていたのを聞いた。だから、千田莉子は基本的に声を発さなくなったといっていい。

 寺田は初め千田莉子の扱いについて「どうしたん?」「なになにどういうこと?」と首をかしげていたけど、理由を聞いたのかそれについて触れなくなり皆と同じになった。

 清水照道は、よくわからない。

 ただただ関わるのではなく、傍観し、様子を伺っているように思う。ただその件に関しての話題が触れそうになると、私にうざ絡みをすることで危機を脱しているようではあった。

 そうして、二週間が経過した。

 文化祭も明日に迫り、帰りのホームルームを目前にしてクラスでは団結だの、合唱コンクール優勝できるといいねと、そんな生ぬるい雰囲気が漂っているけど、その空気外れるように私は俯いているし、千田莉子もただじっと机でスマホをいじっている。

 やがて、安堂先生が教室に入ってきた。先生はちらりと千田莉子を見る。先生だって、千田莉子の今の状況を知っている。知ってるけれど何もしない。

 一度河野由夏に「どうしたの由夏ちゃん、喧嘩しちゃったの? 駄目よみんなと仲良くしないと」と言ったものの「じゃあ先生嫌いな人いないの? っていうか私みんなと仲良くしてますよ」と即座に言い返されてからは、何も言っていない。そして千田莉子に対して話しかけようか迷うそぶりは見せても、言葉をかける様子もなく、ただただ困って、助けてほしいという顔をして、黙ったままだ。

 似ているなと思う。安堂先生は今までの担任の先生に。

 一人ぼっちの学校を嫌がる生徒を助けるより、クラスの中心の人間の機嫌を伺うほうがずっと楽なんだろうと思う。そう思うけど、私も千田莉子を助けようとはあまり思えない。

 いじめられることが怖いし、千田莉子は「あんたがいじられればいいじゃん」と言った。何かしらの拍子で、また怪我が絶えず、私物を買い替えることが続いて、お母さんとお父さんが悲しそうにするのを見ていることはつらい。もうあんな目に絶対あいたくない。

 鞄に荷物を詰めながらホームルームが終わるのを待っていると、案外早く終わった。「明日の合唱コンクール頑張りましょう」という先生の言葉に、どことなく今大事なのは合唱コンクールじゃなくて、クラスのことを先生は考えるべきなんじゃと思ってしまう。でも、いつまでも教室に残っていて先生に話しかけられるのも嫌だ。教室にはもう、千田莉子と私、そして吹奏楽部へ行こうと楽器のケースを持つ吹奏楽部しかいない。

 立ち上がって、逃げるように教室を去っていくと、廊下の端のほうに河野由夏が見えた。何事もなく、何の滞りもなく千田莉子の不在すらわからないように、最初から知らなかったかのように歩いている。

 やっている側は、本当に相手がどう思っているかなんて、関係ない。

 きっとこのことが大事になって先生が怒ったとしても、奴らに芽生えるのは「面倒くさいことになった」「もっと上手くやれば良かった」という感情だけだ。実際小学校のころだって、中学校のころだって、先生がそいつらに謝罪を促して、謝ったんだから許してあげてと強要されて終わりだ。

 ちゃんと和解して、収まったよというのが欲しいだけだ。あっち側の人間は。

 でも、今の自分もこうして、ただ黙ってていいのだろうかという気持ちもある。先生に千田莉子について何か言うべきなんじゃないかと思う。でも、言えない。手紙を書いてみるのもいいかもしれないけど、それをどうやって渡すんだろうと思うと、またできない。やらない理由を探しているのかもしれない。

 ぽつりぽつり、落ちていくみたいに階段を降りていく。すると何か走るような音と共に肩を捕まれ無理やり後ろを向かせられた。

「うぁっ」

 落ちそうになり、後ろ手で慌てて手すりを掴む。後ろにいたのは千田莉子だ。心臓がばくばくと激しく動いているのが分かる。この間よりずっと鬼気迫るような表情で、私をにらみつけている。

「何なの。ハブられるべきはそっちなのに。私は、ちゃんと皆が盛り上がるよう頑張ったのに何でよ。ずっと、ずっとあんたいじったほうが楽しいって、こっちはずっと言ってるのに……!」

 千田莉子が、私の肩のセーターをぎりぎりと握りしめている。その殺気立つような空気に、内臓がしんと冷えていった。何かされて、怖い。これからいじめられるかという恐怖じゃなく、今まさに何か、殺されるんじゃないかと背筋が凍りついた。

「調子乗んな偽善者」

 千田莉子が、私のセーターを握りしめる力をより強いものにする。このまま突き落とされるんじゃないかと目を閉じると、「危ないよ。そんなところで」と、穏やかで、はっきりとした声がかかった。その声で千田莉子の動きが止まる。声のかかった方向を見ると萩白先輩が階段の踊り場からこちらを見下ろすように立っていた。そしてゆっくりとこちらに降りてくる。

「人と話をするときは、そんなセーターを掴んだり野蛮なふるまいをしてはいけない。ただでさえ階段だ。そもそもここは移動をする場であって、会話をする場所じゃないよ」

 そうして、千田莉子の手を私のセーターからどける。千田莉子は、ばつの悪そうな顔をして、階段を駆け下りるように去っていった。その姿を見て、萩白先輩は首をかしげる

「彼女はどうしたの? かなり物騒なことを言っていたけれど……良ければ相談にのるよ」

 その言葉に、説明をすべきか迷い、口をつぐむ。すると萩白先輩は私の肩をぽんと叩いた。

「うん、たまには私も人と帰ってみたい。良ければ一緒に帰ってくれないかな。出来れば人通りの少ない道がいいんだけど……どう?」

 萩白先輩の言葉に、考え込む。先輩は考えながら話をしたっていいんだよ。何なら筆談でも構わないしと頷いて歩いていく。私は少し迷った後、恐る恐る先輩の後をついていった。




「ごめんね、私は騒がしい通りが好きじゃないんだ。樋口さんはどう?」

 うす暗い日暮れの坂を、萩白先輩と共に下っていく。

 今まで私は帰るときに、同じ学校の人間が通る道より一本裏手の道を通っていた。たまにゲームをしながら通る生徒はいるけれど、あっちもこっちに関心を持たないし、持つことを嫌うそぶりさえ見せる。

 人のいない道は気楽だと思っていたけれど、萩白先輩が選んだ場所は、そこからさらに奥まった、下り坂のある道だった。住宅街が立ち並び、その隙間からは下の、駅前の通りが見える。清水照道に案内された団地もわずかながらに見えた。その団地を見ながら歩き、先輩の言葉に返事をしなければと口を開く。

「……わ、わ、わー、たしも、ひ、人が多い……み、道は……嫌い、です」

「私もだ。だからいつも、この道を降りて駅に向かっているんだ。上るときもそう。バスは使わず、この坂を上がる。そしてたまに、マスクを取る」

 先輩が私を見て、マスクを掴むそぶりをした。しぐさに驚いていると、先輩は静かに頷く。

「安堂先生が言っていたよ。萩白さんには理解者が必要だと思うの、この間樋口さんには説明したわ。樋口さんは静かないい子だし、きっと友達になれるはずだってね」

 その言葉にどう返事をしていいかわからず、俯く。すると先輩は私の肩をぽんと叩いた。

「だから、君が私が留年して、いわゆる先輩もどきであるという認識をしているであろうことも知ってる。だから気軽に私のことは萩白さん、そして敬語も使わなくていい。同じ学年だからね」

「……は、はー、萩白さん」

「うん。よろしく樋口さん」

 萩白先輩は私を見た。ように感じる。実際は、長い前髪にその視線は隠れ見えない。じっと先輩の目のあるであろう方向を見ていると、先輩は「ところで」と人差し指を立てる。

「さっきの女子生徒は、一体何? 私はあの子を何度か見たことがある。バレー部で明るくしているような子だったけど、まるで別人のようだった」

 萩白先輩は、静かに驚くように千田莉子について語る。私は説明を迷い、長くなってしまうと鞄からノートを取り出しあったことを書いていく。千田莉子の状況やその経緯について全て書き終えると、大体二ページが埋まった。萩白先輩はその紙を見て、考え込むようにすると「なるほどねえ」と呟く。

「きっと、その河野由夏さんは、清水くんのことが好きなのだろう。そして千田莉子さんはうっかりそれを言ってしまい、彼女の逆鱗に触れたと……きっかけがある分厄介だね」

 きっかけがあると、厄介? きっかけが無いほうが厄介じゃないのかと考えると、先輩はそれを察したらしい。「私も以前教室にいたとき、何度か見たことがあるんだけど」と前置きをした。

「たまに、本当に魔のさすように仲のいい人間に突然そういうことをする人間はいるんだよ。でも元から理由なんてないから、なんとなくもういいかとそれは止む。でも今回はきっかけがある。また大きなきっかけが無い限り流れは変わらないだろうし、それに安堂先生は、待つことをするか、千田莉子さんに原因を突き付けて、謝るよう言うか、まぁ、ろくなことはしないだろうね……」

「……わ、私は、ど、ど、どうすれば、いいのかな」

「まぁ、安堂先生が担任である以上は、八方ふさがりになるね。生徒同士で解決しろと学校側は思っているかもしれないけど、ただの喧嘩じゃない。一方的な暴力に近いもので、相手はもう話し合いが出来る状況でもない。明日は合唱コンクールだし、もしかしたらそこで流れが変わるかもしれない。様子見をすべきだと、私は思うよ」

 先輩の言葉に、納得する。確かに明日は合唱コンクールで、打ち上げをしようとかなんとか、河野由夏は企画していた。もしかしたら明日の合唱コンクールで優勝をして、クラスの団結みたいなうすら寒いムードで、千田莉子の状況は改善されるかもしれない。

「それに、本当に助けたいと思う相手なら、やりたいのなら、迷わないはずだ。助けなきゃいけないと心が思う。どうしようかと思っているのは、後悔する証拠だよ」

 萩白先輩は大きく伸びをして、空を見上げる。私も揃えるように空を見上げた。すると先輩が「だから私も、そろそろ勇気を出さなきゃいけないんだけどね」と呟く。

 空の色は、徐々にオレンジ色が紺色に滲んで浸食されていくみたいで、私はその空を見上げながら、明日の合唱コンクールがましなものになればいいと思った。
「じゃあ今日は合唱コンクール本番ね! みんな今まできちんと練習してきたのだから、きっと努力は報われるはずよ!」

 合唱コンクール当日、図書館のホールの座席で、安堂先生がぱんと手を叩く。

 ホールの席順が歌う並びだったらどうしようと思っていたけれど、普通に出席番号順だった。

 いくつか開けた席に寺田が座っている以外は、周りは吹奏楽部の人間で喚いたり騒いだりもない。安堵していると、後ろのほうでは保護者が入場しはじめ、私のお父さんやお母さんも座り始めた。

 お母さんとお父さんは、今日の行事を楽しみにしていた。お父さんは普段本当に仕事が忙しく休めている気配がないのに、休みをもぎとったと喜んでいた。私が学校の行事に参加することは、やっぱりお母さんとお父さんにとって嬉しいことらしい。

 安堂先生は「じゃあトイレに行きたい人は行ってきて」と皆に声をかける。私の座席は一番端だし、座っていれば邪魔になる。別にトイレになんて行きたくないけど、お母さんやお父さんたちの手前、何か詰まっているような姿を見せたくはないし、立ち上がって出口のほうへと向かっていく。

 お父さんとお母さんは私に気づいて手を振ってきた。控えめに返しながらホールの外へ出ていくと、ホールの外も生徒や生徒の保護者で賑わっていた。三浜木宋太の出現に警戒しつつそのままトイレに行こうとすると、つんと背中をつつかれる。振り返ると、清水照道が特に表情も作らず立っていた。

「今日、無い日だから」

「……え」

「……ボランティア」

 単語だけ簡潔に言われた言葉の意味を徐々に理解していく。清水照道は「じゃ」と人の群れへと踵を返した。もしかして、私が思い出して吐いたりしないように単語だけ言ったということか。

「お、おい」

「ん?」

 呼びかけると、清水照道はすぐに振り返る。何か、言わなきゃいけない。お礼を。そう考えている間にも、奴はは自然なように私を待っている。そうして一言、言葉を何とか言おうとすると、「あ」と何かを見つけたような、軽い声が横から響いた。

 清水照道を、真っすぐと見る大学生くらいの、女の人。

 女の人は清水照道を見て驚くように見ている。清水照道も、驚くようにしている。そして女の人はゆっくりとこちらに顔を向け、さらに大きく目を見開いた。

「あ、あの時の」

 女の人は、清水照道を見た時の数倍私を見て驚き、唇を震わせている。その様子に清水照道は何かを理解したらしく、驚くこともなく平静な状態に戻った。意味も分からず私が混乱していると、女の人は私の手を掴み、ぎゅっと握りしめた。

「私、バスを待っているときに、去年の冬ごろ、えっと……すみませんちゃんと説明しますね。去年の冬ごろ、雨の日にバス待ってるとき、立ちくらみ起こしちゃって、それで荷物道路にまき散らして、でも私ふらふらしたままの時に、あなたに拾ってもらって……覚えてますか?」

 去年の、冬。確かに覚えがある。雨の中ペンケースやノートが散乱して、私は拾った。拾って、ありがとうと言われて「どういたしまして」が上手く言えず、逃げるように立ち去った記憶がある。そして、どうして一言すらまともに言えないのかと思った。その記憶が強い。

 頷くと女の人は嬉しそうに私の手をぎゅっぎゅと握る。何とか声を出したくて、でも出なくて困っていると、清水照道が「すいません、ちょっとトイレ行こうとしてるとこなんで」と割って入った。女の人は「あっごめんなさい」と私の手を離す。

「実は、私の弟がこの合唱コンクールに参加していて、見に来てるの。あなたのような子と仲良くなってもらえたらうれしいんだけど……。ああまた話を長くしちゃったわね。ごめんなさい。じゃあ」

 そう言って女の人は頭を下げた。私も頭を下げトイレに行こうとすると、女の人はつとむ、と遠くへ手を振る。すると遠くに寺田の姿が見えた。寺田は女の人を見て「姉ちゃん」と呟く。

 まずい。

 とっさにトイレへと逃げ込むように入る。中は列をなしていて、私が並ぶとすぐに二人、三人と並んだ。その様子にほっと安堵しながら、さっきの光景を思い返す。あの女の人は、寺田の姉……? 頭の中がこんがらがってきた。

 突然前に拾いものをした相手が出てきて、その人が寺田の姉で、そして寺田の姉は、清水照道を知っている?

 情報が多すぎてわからない。思えば、清水照道は転校当初、私を見て驚くような、睨むような変な目で見ていた。となると、寺田のお姉さん経由で、私は清水照道に会ったことが……、寺田のお姉さんと会ったのは、バス停だ。そのバスを、清水照道が利用していたりして、そこで会ったことがある、とか?

 考えながらトイレを済ませ、また自分の席へと戻っていく。遅れて戻ったから、座席はほぼほぼ埋まり端である私が空席でいる必要ももう無さそうだ。私は席に座り、ほどなくして始まったほかのクラスの合唱に耳を澄ませながら、以前清水照道と会った記憶を頭の中で探していた。




 案外、合唱コンクールはあっけなく終わった。

 順位の発表も終わり、先生が座席に座ったままでいいからと、簡単な諸注意の説明をしていく。けれど帰りに寄り道しないだとか、そういう話ばかりだ。明日は他の学年は文化祭の片付け、一年生はそれの手伝いをするらしい。

 どうして参加してない文化祭の片付けをしなきゃいけないんだと不満がそこかしこから飛んでいく。音読や朗読、指名をされるんじゃないかとひやひやすることよりもましだ。適当に話を聞きながら、千田莉子のほうを見る。

 結局合唱中も、舞台裏で待機をしている間も、河野由夏が千田莉子に話かけることはなかった。

 文化祭で劇的に、何かが変わるんじゃないかと期待したけれど、そうじゃなかったらしい。千田莉子については、好きか嫌いかでいえば嫌いだ。でも一人が仲間外れにされている状況は見ていていい気がしない。だからといって、助けようと行動は出来ないけど。

 でも、きっと千田莉子にとっては、私も、私のほかに千田莉子の状況を良しとしない人間がいたとしても、全員が敵に見えているんだろうと思う。

 昔、私はそうだった。今も、そうかもしれない。学校の人間は、全員敵。積極的に加害してこないやつらも、きっと手を出してこないだけで私の敵だと思っていたし、今も思っている。自分は、昔あんなにも憎んでいたそちら側に、今は片足を突っ込んでいるのかもしれない。そう思うと喉が詰まった。

 俯いていると「さよなら」という先生の号令の声の大きさにはっとして顔を上げる。気付くと生徒たちは皆帰るべく動き出していて、私も慌てて座席から去ろうとする生徒の邪魔にならないようにどいた。

 今日は、お父さんはこのまま仕事に行って、お母さんと帰る。お母さんは駅の裏手の喫茶店で待ち合わせをしようと昨日約束をした。

 さっさと帰ろうと図書館を出て、人の群れを外れるように人気のない道路を通っていく。普段の六時間授業よりも遅い時間に終わったせいか、あたりは日暮れを超えて街頭の光を強く感じるほどに暗くなっていた。気のせいか人の顔も街頭に近くならないとよく見えない。この調子じゃ別に遠回りせずとも大通りを通るだけでよかったと考えながら道を歩いていると、ぱっと後ろから腕を掴まれる。驚きで大きな声が出そうになると、ぱっと口元を塞がれた。

「危ないよ萌歌ちゃん。こんな暗い道通ってたら危ないやつにぱーって捕まって、そのうちぱーって連れ去られるかんな」

 清水照道はそう言って、すぐに私の口元から手を離す。どう考えても道端で人の口をふさぐお前のほうが危ないやつじゃないのか。睨みつけると奴はぽんぽんと私の頭を無遠慮に撫で、私の腕を引く。

「お母さんかお父さんと待ち合わせしてるっしょ。送ってく。暗いし、放っておいたら秒でキャリーケースとか詰められそうだし」

「……な、なんで、そーれを、し、し、知ってるんだ」

「照道くんの名推理。萌歌のママとパパは萌歌と仲良しだし、萌歌もママとパパが好き。こんな暗い時間に解散になって、ママパパだけほいほい萌歌残して帰宅なんて、考えにくいし」

 確かに、奴がそう考えるのは、自然かもしれない。お父さんとお母さんの私への態度を見ていれば、そう考えるほうが自然だ。納得していると奴は思い出すようにこちらに顔を向ける。

「萌歌のお父さん、新聞社に勤めてるんだってね。担当は基本事件系」

「そ、そ、それも、す、推理か」

「まぁ、そんなとこ? だから多分萌歌のお父さんが、俺の本当のご両親がいたいけな照道くんにあげたのはその名前だけ。あとは貧乏しんどすぎて二人仲良くあの世に行って、照道くんがその死体を発見して連絡したってことは、もう萌歌のお父さんは知ってるのかなあ」

「あ……」

「やっぱり、なんか萌歌の俺を見る目が変だと思ってたけど、俺についていろいろ知ってたわけか。名前検索でもした? それとも俺の事気になって、俺みたいに調べちゃったとか? 萌歌ちゃん隠し事下手すぎ。かわいー」

 清水照道の言葉にはっとした。今私は、奴にかまをかけられた。そして、引っかかってしまった。街灯がちょうど少ないところを歩いているため、奴の顔は見えない。じっと黙っていると奴は何かを知った被るような口調で笑いだす。

「あれ、もしかして萌歌ちゃん、同情しつつ俺のこともっと好きになっちゃったとか?」

「……す、す、好きになるわけないだろ! ……き、きーらいだ。……お、お、お前なんか」

「えぇ〜」

 言葉のわりに確認をされているように感じるのは何故だろう。

 というか今、いいように利用された気がする。私は奴に、奴の過去を知っているか聞かれ、そのあと私からは、踏み込ませようとしない。話をすり替えられた気さえしてくる。

「でもまぁ安心してよ。今はいいところの養子に貰われて、前と比べて超いい暮らししてるし。だから安心して嫁に来ていいよ」

 清水照道はけらけら笑う。また、この笑い方だ。何が楽しいのか、分からないような笑い方。前までこの笑い方を聞いていると、苛立った。でも今はもしかして、本当はこいつは、ものすごく傷ついて、どうしようもないくらい辛い中で生きてて、笑うしか出来ないから、笑っているのか。そんな風に思えてくる。

「お? 俺に同情しちゃってる感じ? 超騙されやすいじゃん! 駄目だって、そんなんだったらすぐ俺にさらわれて閉じ込められちゃうよ?」

 その笑い方に、声色に、胸がぎゅっとした。こいつは最低な人間で最悪のクズだ。だから、私は復讐をする。そう確かに決めたはずなのに、最近では全くこいつに復讐をしようとなんて思わない。馬鹿にされていることは続いている。それですら理由があるように思えてきてしまう。洗脳されてるのかもしれない。でも。

「萌歌……?」

 なんとなく、奴に掴まれている手を、握り返す。そうしないと、こいつがどっかに飛んでいくような、砂みたいに一気に崩れるような、そんな気がする。いっそどっかに吹き飛べとか、思わなくもないけど、今はこうしていたほうがいい気がする。奴は私が手を握るのを見て、試すみたいに握り返してきた。

「手、繋いでてくれんの?」

 どこか、安心するような、言い聞かせるような、そんな声だ。

「ほ、ほーねを、お、……折ろうとしてる」

「萌歌ちゃんなら、折ってもいいよ」

 鼻で笑うみたいに、清水照道は笑う。私はその皮肉めいたような笑い方が、限りなくこいつらしい気がして、なんとなくもう一度握る力を強めた。

 文化祭から次の日は本当にいつも通りだ。晴れ渡る空に、ぽつんと月が浮かぶ。そんな背景を背に四角い画面の中、キラキラした女子アナウンサーが軽快に、流れるように今日の天気を伝えている。

 ぼんやり眺めて朝食を食べていると、お父さんがエプロンをつけながら私の向かいの席に座って、みそ汁を飲み始めた。お父さんは、朝はお味噌汁しか飲まない。「ここ最近暑くなくなってきたな」と言いながら、お父さんは天気予報の最低気温にため息を吐く。その隣で私と同じようにトーストを食べていたお母さんが「秋物は出したけど、冬物も少しは出しておくべきかしら」と考え込むようにしていた。

 すると、下のほうにテロップが流れた。人身事故が発生したらしい。じっと流れるその文字を見つめていると、路線は私の使ってるものではなく、清水照道の使っている路線だった。

「萌歌、早く出たほうがいいんじゃないのか? この路線が潰れると、萌歌の学校行く線にながれてごった返すぞ」

 お父さんの言葉に、トーストをかじる速度を速める。人が多いのは嫌いだ。私は急いで隣にあったオレンジジュースを飲みこみトーストを流すようにすると、鞄を持って家を出た。




 お父さんの予想通り、私の使っている線路は混んでいた。朝起きて、少し経ったころまでは、いつも通りの朝だなんて考えていたけれど、いつも通りなんてものじゃない。ホームには既にどう並んでいるか先頭や最後尾が分からないくらい並んでいて、電車の中は降りていく人なんか全然いなくてぎゅうぎゅうに詰まっていて、工場で流されるベルトコンベアみたいに自分の意志では動けず無理やり動かされるように電車にのった。ただ幸いだったのは私の降りる駅、学校の最寄り駅がほかの路線とつながる駅で、大多数の人がそこで降りたから、私もその流れに沿うように降りることはできた。もしも私以外降りる人間がいないような駅であったなら、私は確実に降りれなかっただろう。




 ほっと胸を撫で下ろし、窮屈だった肩を伸ばすように歩いていると、相変わらずいつもどおりの住宅街が立ち並んでいるのが視界に入る。

 イヤホンを耳につけ音楽を聴いているふりをして、じゃりじゃり服がイヤホンのコードにこすれたり足を動かす音を聴きながら学校に向かって歩く。今日はいつもより人が少ない。私はなるべく人のいない道、人のいない時間を狙ってはいるけど、やっぱり同じことを考える人はいるわけで、周りに誰もいないことはさすがになかった。

 でも、今日は周りに人がいない。私の前をうっすら男子生徒が歩いているのが見えるだけだし、後ろも本を読みながら歩く女子生徒がいるだけだ。前はもう少し、周りに五人くらいはいた。

 やっぱり人身事故の影響なのだろうか。考えている間に学校にたどり着いた。靴を履き替え、階段を上り教室へと向かっていく。校舎はところどころ飾りつけされていたり、中途半端に片づけがされていたり、段ボール箱やガムテープが置いていたりと、どことなく別の世界に迷い込んだような、いつもと違う世界に感じた。

 私のクラスは荷物置き場として使用されていたらしく、特に段ボールを置かれていたり、飾られていたりはない。いつも通りの教室の姿を見ながら、前の席を警戒しつつ後ろのロッカー側から扉を開く。その瞬間、べちゃりと固形のような何かが、降るように飛んできた。

「樋口さん誕生日おめでとー!」

 嘲笑するような、声。

 たぶん、河野由夏や、千田莉子の声だ。とりまきたちもいる。視界がざらつき、何かに遮られて見えない。瞬きをするたびにごろごろと異物のようなものが入る気がして目が痛い。げらげらと笑い声が聞こえる。土や草のような鼻について、それなのか笑われているからなのか、頭がひどく熱くて、痛くて、気持ちが悪い。

「っていうか、泥団子懐かしくない? っていうかナスリココントロールやば。流石バレー部」

「へへ、由夏しいのがやばいじゃん。才能あるよ」

 河野由夏と、千田莉子。二人ははしゃぐように、「せーの」と息を合わせたような掛け声をすると、また土の匂いが強くなって頭や顔の質量が重くなる。手で頭をかばっても、すりぬけるように泥団子がかかった。

「何かさあ、照道と手え繋いで帰っちゃってたけど、あんたもしかして勘違いしてんじゃない?」

 河野由夏の言葉に、はっとした。あの帰り道、河野由夏がどこかにいた。そして標的を、千田莉子から河野由夏に変えたのか。

 呻くように後ずさると、千田莉子らしき声は「いえーいおめでとー!」と言って、今度は泥か何かを一気にかけてきた。苦しい。息ができない。何なんだ。突然、急に。一体何が起こってる。昨日まで、いやさっきまでいつも通りだったはずなのに。後ずさっているとどんと背中に何かがぶつかった。

「あ、てるみちおはよー! 今樋口さんにサプライズしてんの、今日誕生日だから! 机にケーキもあるんだよ」

 河野由夏の心底楽しむような声が聞こえる。嫌だ。もう嫌だ。ここから逃げたい。誰か、誰か助けてほしい。そう思っていると清水照道が「じゃあ俺もまざろっかなぁ!」と、ひと際おどけるように大声を出した。その声に、愕然とする。

 まるで、裏切られたみたいな、そんな想い。心の中がぐしゃぐしゃになって、冷えて、目頭がぎゅっと熱くなって、ただでさえべったりとした泥の匂いにつんとしていた鼻が痛くなる。奴は「サプライズならやっぱ撮影っしょ」と言って、スマホのカメラを起動させた音を出した。とっさに奴の声から離れようとすると肩を抱くように掴まれる。

「はーいじゃあ今日はクラスメイトのサプライズでーす! な、嬉しい? めっちゃ記念だよな?」

 そう言って、清水照道は何か言えとばかりに私の肩をゆする。私が首を横に振り逃げようとしても、離してくれない。

「で、今日のサプライズを企画したのはー?」

「チダリコと私でーすっ」

 けらけらと、河野由夏と千田莉子の笑う声が聞こえる。楽しそうに、まるで人を、人と思っていないような声だ。もう、嫌だ。一刻もこの場から離れたいのに、清水照道は私の肩をきつくきつく握りしめて動けない。

「で、記念すべき一投目は由夏しいで、次がチダリコ? で、その次はてーあげてっ!」

「はーい」

「おっけー」

 清水照道は、いちいち何発目に誰が投げたか、わざわざフルネームを繰り返す。そして「撮影者清水照道でーす。じゃあ最後にサプライズパーティー成功ってことで、みんなピース!」と声をかけた。周りの奴は、嬉しそうにはしゃいでいく。すると、動画撮影の終了を知らせるような電子音が鳴って、低く唸るように清水照道は「はい、いじめの証拠動画完成」とまるで抑揚のない声でつぶやいた。

「……てる、みち……?」

 河野由夏が呆然とするように奴の名前を呼ぶ。すると奴は「これ、アップするから、全部に」とつぶやいた。そしてスマホを操作するように動かした後、ため息を吐く。

「え、何言ってんの照道、冗談だよね」

「冗談じゃないから。ちゃんと動画サイトにも、全部アップしたよ今」

 清水照道は、まるで感情のない声で話す。河野由夏は「え、だって、そんなことしたら……て、照道だって映ってたよね?」と怯えるような声で呟いた。目をこすっていると、徐々に景色が開けてくる。そうして見えたのは、周囲が呆然と、覚えるようにこちらを見ている光景だった。その中で、ただ一人、千田莉子だけがこちらをにらむように見ている。清水照道はそんな千田莉子を指で指し示した。

「本当に、小学生ん時から、なーんも変わってないよなお前。自分がつまんねえ奴だから、いーっつも共通の敵決めて、そいつ虐めて友達を作ろうとする。で、自分の番になりそうだと思ったら、無理やり萌歌にしようってか」

 ぼそりと呟く清水照道の言葉に目を瞬く。状況を理解できないでいると、河野由夏が「何言ってんの照道、動画消してよ!」と叫ぶように言い放った。

「何で? お前らにとっては萌歌のバースデーサプライズなんだろ? ネットあげなきゃじゃん」

「何言ってるの……? さっきの動画、照道も映ってるよね? ねえ、絶対問題になるよ。今なら間に合うって、動画消して、ねえ!」

 そう言って、河野由夏は清水照道に手を伸ばす。しかし奴は思い切り自分のスマホを壁に叩き付けた。奴のスマホは画面はひび割れて、ランプのような部分がせわしなく点滅を繰り返し、やがて止まる。

「はは。もう電源つかないから無理だわ」

 奴は心底どうでもよさそうに笑うと、私の肩をそのまま掴み、自分のパーカーをかけどこかへ連れ去っていく。訳も分からない状態で奴に連れ去られていくと、奴は保健室の前で足を止めた。そのまま奴は扉を開くと、中にいた萩白さんが私たちを見て、息をのんだ。

「何だ、君たち……一体どうしたんだ?」

「すいません、萌歌泥かけられたんです。一緒に洗ってくれませんか?」

「それは別に構わないよ。……君、どこ行くんだ」

「俺はちょっと教室で、やることがあるんで。それと萌歌が今日、ずっとここにいれるよう萩白さんから保健室の先生にお願い出来ませんか?」

「……分かった」

 萩白さんが頷くと、清水照道は頭を下げ去っていく。私は訳が分からないまま、ただその場に立ち尽くしていた。
 水道の水とともに洗剤の泡が流れていく。私は目を洗った後、萩白さんの体操着を借りて、今日何があったかをぽつりぽつり話をしながら自分のブレザーとシャツを洗っていた。

 途中で保健室の先生が来たけれど、萩白さんが保健室から出て理由を話すと、先生は「今日は放課後までここにいてもいいからね」と言ってくれた。そうして、ブレザーとシャツを洗っている間に二時間目の授業が始まる時間になった。

 今頃清水照道がどうしているか教室がどうなっているかは、分からない。

 ただ安堂先生が保健室に来ないところから考えると、私は最初から学校に来ていないことになっているのかもしれない。

 明日から、どうしよう。

 考えなきゃいけないのに、ただどうしようと思うばかりで何も考えられない。隣では萩白さんが熱心に私のブレザーに洗剤をかけて洗っている。

 洗剤は、萩白さんが職員室から食洗器ようのものを借りてきたと言っていた。「泥の中にだって、油分がある場合があるし念のためね」と言っていたけれど、生地に土は十分すぎるくらいに浸透していて、まだまだ落ちる気配はない。

 清水照道が撮影したことについての話をしたとき、萩白さんは何か考え込んだ様子だった。そしてそれから、定期的にスマホを確認している。

 しばらく私のシャツを洗っていた萩白さんは、またスマホを取り出した。そして「やっぱり」と苦々しくつぶやく。萩白さんはスマホをこちらに掲げた。

「清水くんのアップした動画、すごい勢いで拡散されてるよ」

「……え」

 奴の、アップした動画、そう聞いて胃がずきりと傷んだ。あの動画には、私も映っている。あれを見たらお母さんやお父さんはどうなるんだろう。きっと悲しむに違いない。うつむくと、萩白さんは「これだけは、安心してほしい。君の顔は全く映っていないんだ」と続ける。

 どういう意味かと顔を上げると、萩白さんは私に「君にとって、嫌な記憶を思い出させるかもしれないけど、見る?」と問いかけてきた。頷くと撮影した動画が再生された。

 そこには、はしゃぐ清水照道、河野由夏、千田莉子、そしてその取り巻きの姿が映っている。

 私の姿は、首から下。顔は一切映っていない。

 一瞬髪の毛が少し映るくらいで、鼻も目も口も何もかもが映っていない。録音されている声とスカートで、かろうじて女子生徒だと予想ができるくらいで、この人物を私だと証明できる映像の根拠は何一つなかった。

 でも、それと反比例するみたいに、奴や河野由夏、千田莉子、そしてその取り巻きはその顔が詳細に映りこみ名前まで本人たちが発している。動画の再生回数を見ると、すでに何百と再生され、批判的なコメントや、住所や特定したなどのコメントが今なお更新され続けていた。

 なんだ、これ。

 ネットでは、河野由夏、千田莉子たちが、ボロ雑巾みたいに叩かれている。死ねばいい。殺したい。消えろ。そんな言葉を玉入れみたいに投げられている。それも、一人じゃない。何百とだ。清水照道も一緒に。

 あいつは、こうなることを予想して、動画をアップしたのか。動画には、私の顔は映っていない。あいつらだけ。あいつらと清水照道だけだ。これじゃあ、まるであいつは……。

 私が呆然としている間にも、目まぐるしく動画は再生され、コメントは更新されていく。萩白さんは「清水くんは自分もろとも、敵にして、君を助けようとしているのか……」と静かに視線を落としながらスマホをしまった。

「安堂先生には頼ることができない。もしかしたら彼は、君に何かあったとき、ターゲットにされた時、こうすることを決めていたのかもしれない」

「……で、で、でも、これじゃあ、あ、あ、あーいつは……」

「動画の中で、君の味方になるような人物が入り込んでしまえば、誰かが邪推を始める。それを警戒したんだろう。君が疑われることもあるかもしれない。だから、彼はおそらく……」

 萩白さんがいいかけた瞬間、がらりと保健室の扉が開いた。先頭は、安堂先生。そしてその後ろには校長先生と、学年主任の蔵井先生が焦ったような顔立ちで立っている。

 安堂先生は私のもとへと駆け寄り、「一体何があったの、樋口さん!」と心痛そうな面持ちで私の肩を掴んだ。

「……えっと、あ」

「朝から、樋口さんがいなくて家からも連絡は来ていないし心配していたら、動画が回ってるって聞いて、見せてもらったわ。あそこに映っているのは樋口さんだと由夏ちゃんから聞いたの。由夏ちゃんがいたずらで泥を投げたのがぶつかっちゃったんでしょう。それで誤解が、そうよ誤解で、でも辛かったわよね。それでとりあえず、樋口さんには今の状況を説明してほしくて」

 安堂先生は、まくしたてるように話をする。何かを言わなきゃいけないのに言葉が出ない。

「待ってください。先生、彼女は被害者ですし、河野由夏さんが泥を投げたのは加害する目的です」

「うん、萩白さんはちょっと静かにしていてもらえないかしら。後でお話は聞かせてね。でも今は、樋口さんに話をしているのよ?」

 安堂先生の言葉に、萩白先輩は何かを言おうとする。しかし胸を押さえ俯いた。安堂先生は私の肩を揺さぶるように「ねえ、大丈夫だからお話して?」と私の顔を覗き込む。私は言おうとしているのに、安堂先生は「なあに?」「ちゃんと言って」と「大丈夫だから」を繰り返して、何も言えない。すると蔵井先生が安堂先生の手を掴んだ。

「待ってください、安堂先生……。なあ君、もしかして、言葉がすぐに出てこなかったり、連続してしまったり……初めの言葉が伸びることで悩んでいるのではないか」

 蔵井先生の言葉に頷く。すると蔵井先生は「わかった」と、懐から紙とペンを取り出した。私に渡すと、「言い辛くなればこれを使って構わないから」と言って、安堂先生に向きなおる。

「安堂先生、彼女は吃音症です。あなたが責め立てたところで、言葉は出ない。彼女自身が言葉を出そうとしていても」

「……どういうこと、樋口さんが、吃音……?」

 安堂先生は信じられないものを見るように私を見た。そして酷く傷ついたような顔をする。

「どうして言ってくれなかったの? あなたが話ができないのなら、きちんとクラスに事情を説明していたのに。先生なんだか裏切られた気持ちだわ。とても悲しい……」

「だからでしょう」

 安堂先生の言葉に、蔵井先生が呟く。そして、私を見ながら先生は話をつづけた。

「きっと、安堂先生は自分のことについて話をしたら、クラスに説明をする。けれど、きっと説明し協力を仰いだところで周囲は受け入れてもらえない。彼女はそう思ったから、言わなかったんじゃないんですか。今だって安堂先生は、彼女の言葉を聞きもせず、言葉を遮り、自分の感情だけを述べている。今大切なのはあなたの遠回しな弁解でも保身でも感情でもなく、生徒全員のこれからです」

 蔵井先生がきっぱりとそう言うと、安堂先生は黙った。そして蔵井先生は再び私を見る。

「私や校長先生は、君を責めない。ただ君のいた状況にいなかったことで、何も知らないんだ。だから、君に当時の状況、そしてこれからどうしたいかを聞かなければいけない。悪いが協力してくれないか。ちょうど君のご両親も学校に呼んでいる。もし嫌なら君は今日早退をして、日を改めてもいいし、手紙を書いて送ってくれて構わない。君が選んでいい」

「……今。は、は、はーなし、ます」

「ありがとう。……萩白さん、よければ君も同席してくれないか。きっと一人で教師に囲まれるより、君がいてくれたほうが心強いだろう」

 蔵井先生の言葉に、萩白さんが頷く。私は萩白さんとともに校長室へと通された。




 そうして校長室に通され、「まず君以外の人間から聞いた今の状況から説明をしよう」と聞いた話は、私の考えていた言葉よりずっとずっと深刻だった。

 先生たちは動画が話題になっていることを朝のホームルームや、ほかのクラスの生徒から聞いたらしい。先生たちが職員室に戻ると職員室の電話が鳴りやまない状況になっていて、そして授業を受けていた河野由夏や千田莉子、そしてその取り巻きたちと清水照道から話を聞いたのだという。

 二人はいたずら半分と誕生日祝いのつもりで私に泥をかけふざけていたら、清水照道が勝手に動画を撮り始め、勝手にアップしたと話をした。安堂先生は「由夏ちゃんたちも、悪気があったわけじゃないのよ、きっと何か意地悪したいと思ったのよね、樋口さんと仲良くなりたくて」と言って、校長室から退席を促され、清水照道の周りの話になると、蔵井先生と校長先生、私と萩白さんだけで行われた。

 そして聞いたのは、清水照道は私を保健室に連れて行き、教室に戻った後、他の生徒いわく全員に向かって自分を脅して動画を消させようとしても意味がないと、淡々と私の席の泥の掃除をしてから、本当にいつも通り自分の席に座り、ぼーっと座っていたらしい。

 河野由夏がなんどお願いをしても、千田莉子が怒鳴っても、二人の様子を見かねた寺田が清水照道の胸倉を掴んでも、ただ淡々と無表情で、まるで周囲の人間などいないかのように振る舞ったらしい。先生に事情を聴かれると「あの動画が全てですよ。俺らずっと樋口さんと遊んでたんですけど、世間からすればいじめにあたるみたいっすね」と言ってのけ、「あとあと責められんの嫌なんで、もう出しておきますね」と、ポケットから予備のスマホを取り出して教師たちに、トークアプリの履歴を見せたという。

 そこにのっていたのは、私の悪口らしい。

 期間は、奴が転校してきて、五日を過ぎたあたり。私は入っていないクラスのグループで、私が気持ち悪い。声を発さない。不気味、幽霊みたいという言葉が並び、幽霊タッチゲームという、幽霊に物を投げてあたるかのゲームをしてみないかという提案がされていたと聞いた。提案者は、千田莉子。

 そして清水照道はそのスクリーンショットの画像を蔵井先生のアドレスに送ると、さっさと家に帰ったという。「どうせ俺ら停学か退学処分ですよね」と言い残して。実際、今日の夜の職員会議で処分が決定されると蔵井先生は私に言った。この騒動に関わった私以外を謹慎、停学処分にして、様子を見てさらに重い処分を下すか決めると。

 そうして、清水照道と会話をした先生たちは、最後に被害者とされる私に聞き取りをということで、保健室に来たのだと話をした。私は今日あったことを紙に書いた。学校に来たら、突然泥をかけられたこと。その場に河野由夏や千田莉子がいたこと。全てを説明している間に、私の両親が到着した。お母さんとお父さんもネットを見ていて、二人はすぐにあの動画が私だとわかったらしい。その後私は保健室に萩白先輩と一緒に戻り、先生と両親が話を終えるのを待っていた。
 時計を見ると、もう昼休みの時間はとうに過ぎて、五時間目が始まっている時間になっていた。自分のスマホから動画を開くと、動画は再生されるがまま。動画のタイトルは無題で、説明欄には拡散希望と記されている。これは、あいつが書いたはずだ。あいつは、私をずっと、助けようとしていたのかもしれない。

 思えば奴は、私を音読から遠ざけようとしたり、山でいなくなれば探しに来た。三浜木が近づいて来たら私をかばい、合唱コンクールの日は、三浜木がいないことをわざわざ伝えてきた。

 樋口さん大好きと、ふざけて笑うような行動さえ取らなければ、あいつはいつも私を助けようとして動いていた。あれさえなければ、私をつまんねえから面白くしてやろうというあの発言さえなければ、私は奴に心から感謝をしていただろう。

 もし、あれに何か意味があったら。

 そう考えていると、萩白さんは「ねえ、樋口さん」と私を見た。彼女のほうへ顔を向けると、彼女は俯き「ごめんね」と震える声で言った。

「え」

「安堂先生が、来たとき君をきちんと庇えなかった。だからごめん」

 萩白さんの言葉に頭を横に振る。萩白さんは私を助けようとしてくれた。謝る必要なんかない。でもその言葉すら伝えられなくて、歯がゆさを感じながら何度も頭を横に振る。

「いいんだ、私は、あの時勇気が出なかった。安堂先生を見たとき、正直足がすくんだよ。怖かった。あと一歩が、踏み出せなかった。ここから、立ち去りたいと思った」

 萩白さんは俯く。そして「安堂先生に、どうして私がこうなったかは、聞いた?」と私を見た。首を横に振ると、彼女はため息を吐くようにして視線を落とした。

「私は、放送部員なんだ。将来の夢がアナウンサーで、中学の頃は賞もとったりして。でも言われたんだ。去年安堂先生に、萩白さんは発声してるとき、個性的で素敵ね、って」

 俯き、何かを書くように、一つ一つ確かめるように話をしていく。そうして、きっとそれが原因で、最初のきっかけだったのだと直感的に分かった。

「先生の言葉に、皆が私の真似をしたよ。周りの人は笑ってて……楽しそうに、本当に、心から娯楽を得たかのように。そうして、私も笑って流せればよかったんだけど、私は笑われることが怖かった。嫌だった。笑えなかった。だから鏡の前で発声練習をしたり、親に見てもらって練習をした。でもあの光景が蘇るばかりで……結局喉を傷めて、そして、マスクをつけた」

 萩白さんは自分のマスクに手をあてた。そして、静かに顔を上げる。

「それまでマスクをつけたことがないわけじゃなかった。風邪を引いたり、次の日が大会の日はマスクをして寝てた。でもマスクをつけた日、今までずっと不安だったものが、穏やかになっていく錯覚を覚えた。……それからマスクをつけるようになった。風邪なんて引いてなくても、家に、カバンの中にマスクのストックがないと落ち着かない、家以外でマスクを外すことが怖くなって、コンビニで買い食いをすることすら、恐ろしくて控えるようになった」

 ある日出来ていたことが、出来なくなる。その気持ちは、少しだけわかる。昨日言えていた言葉が、うまく言えない。昨日言えなかった言葉が言えるようになることより、昨日言えた言葉が言えなくなる恐怖のほうが、いつだって強い。萩白さんは、私と似ている、そんな気がする。少なくとも、なんとなくだけで私の恐怖と萩白さんの恐怖は、同じ方向にある気がした。

「私はマスクを常につけるようになりました。マスクをつけている間は、本当にいつも通り、前のように何の苦痛もなく話をすることが出来る。でも、マスクがないと、どうしても声が出てくれない。耳をふさぎたくなって、どうしようもなくなる。だからマスクをつけてた。でも安堂先生に言われたんだ。あなたはいつもマスクをしている、英語の授業は朗読があるから発音もあるし、取ってほしいって……、困ったよ。朗読を、英語の発音をするためには、マスクが必須です。でも、授業に出ると、マスクを取れと言われる。だから、英語の授業に出なくなった。そして、安堂先生にどうして自分の授業に出ないのか、そんなに自分のことが嫌いかと、言われて、授業全部に出なくなれば、安堂先生は何も言ってこないと思って、私はここに、いるようになった」

 なんとなく、萩白さんの姿が、中学の時の私と重なった。私も、そんな風に言われたら、きっと授業に出られない。限定的になら話ができる萩白さんを、どうしても羨ましいと思ってしまう。でも、萩白さんは限定的にしか話が出来ない自分が苦痛なのだ。そんな私がかけられる言葉が、果たしてあるのだろうか。

 黙っていると、萩白さんは立ち上がる。そして、私に顔を向けた。

「だから、私はずっと、弱い。誰かのためならと思ったけど、結局弱いままだった。君は話すこと自体苦手なようだから、私はどこか、助けてあげなきゃと思うと同時に、優越感を抱いていたところだってあったんだ。自分より、話すことが辛い子がいるって、なのに、そんな醜い考えを持っていたのに、どうしても、逃げてしまった。だから、ごめん」

 萩白さんは、私の目の前で、頭を下げる。それを止めさせるように、その肩に手をのせた。

「に、にに、逃げても……いいと、お、お、おーもいます」

「え……」

「お、お、お母さんと、おー父さんが、い、言うので、わ、私に」

 きちんと言いたいのに、上手く言えない。すると先輩は「ありがとう」と静かに顔を上げる。

「いいお母さんと、お父さんだね」

 その言葉に、頷く。だから、私は二人に心配をかけたくない。ぎゅっと先輩の肩に乗せていないほうの手を握りしめると、保健室の扉を開く音がした。振り返ると、お父さんとお母さんが立っている。昨日までは楽しそうに、合唱コンクールが良かったと話をしていたのに今はひどく傷ついた顔だ。その顔を見ていると涙がこぼれる。二人は私に駆け寄り、そのまま抱きしめた。

「萌歌、もう大丈夫だよ」

「お母さんとお父さんがついてるわ」

 二人は、私をしっかりと抱きしめる。二人を心配させたくない。させたくないのに涙は止まらなくて、私は二人に抱きしめながらずっと泣いていた。




 それから、私はお父さんとお母さんと一緒に、学校の裏手の門から家に帰った。正門からじゃないのは、もしかしたら見物に来たり、マスコミの人が来るかもしれないとの蔵井先生の言葉からだ。先生たちとお母さん、お父さんが何の話をしたのかはわからない。けれど私は一週間ほど学校を休み、その欠席は学校都合として欠席とは処理されないという話になっていた。そして私は、お母さんとお父さんと家に帰り、テレビを見て愕然とした。

 テレビをつけ、流れていたのは夕方のニュース。けれどそこに、モザイク処理をされて清水照道の動画がのっていたのだ。

 声は、加工されている。名前を言っている場面には、別の音声が重ねられている。アナウンサーやキャスター、コメンテーターの人が苦々しい顔で、学校側の今後の対応や、被害者の処分について、話をしていた。

 お父さんは「そんなもの見なくていいよ」とすぐにテレビを消した。お母さんとお父さんに、清水照道について話をしようと思った。でも二人は、清水照道がこの件の主犯だと考えているらしい。今日はもう、ご飯を食べて寝たほうがいいと私に弁明する暇は与えられなかった。

 お父さんやお母さんは、今まで私が、清水照道に虐められていたのを隠していたと考えているようだった。現に「七月には傘を無くしていたでしょう」とお母さんに言われてしまった。その後すぐに清水照道に入れてもらったことを言おうとしても、お母さんとお父さんはこれからのことを話すばかりで、聞いてくれなかった。そうして、お風呂に入ることを促されて、私は部屋に入るよう言われた。

 お母さんとお父さんは、二人で話をするらしい。

 私は当然眠れず、ベッドに横たわりスマホを眺める。呟きサイトのトレンドにも上がっているらしく、皆があれこれと呟いている。一つ、批判的で、それでいて諦めも含むようなつぶやきが目に入った。

『どうせこうして名前と住所拡散しても、家庭裁判所で名前変更の申し立てして、引っ越しして終わりでしょ。こんだけの騒ぎになれば許可だって下りるし』

 どこにでもいるような、猫のアイコン。その言葉に、頭の中が真っ白になった。震える手でスマホを操作しながら、名前の変更について検索を始める。

 人間の、名前を変える。そんなことできるのかと調べると、確かに生きていくうえで困ってしまう名前の人が、名前を変更するために裁判所に言って、審査の末変えてもらうことはあるらしい。

 このまま、もしこのまま、事態が収まらなかったら。

 清水照道は、どうなる。名前を、変えるのか。

 奴は、自分の親について、貰ったのは名前くらいと言っていた。その名前を、変えるかもしれない。奴が照道という名前を気に入ってるかはわからない。でも、親を心の底から憎んでいるとか、自分の名前を嫌うような様子はなかった。

 動画サイトを見ると、動画は相変わらず拡散され続けている。この動画を投稿したのは、清水照道だ。あいつが消さない限り、この動画は消えない。それにこの動画が消えても、もうこの動画はいろんな場所に転載されているかもしれない。このままいけば、あいつは自分の名前を変えることになる。

「助けなきゃ」

 どうしよう。でも、どうやってすればいいのか分からない。動画のコメントを見ていると、瞬く間に更新される。死ねばいい、消えろ、うざい。全員死刑でいい。見ているだけで苦しくなる言葉たちに、目をそむけたくなる。

「あ」

 そのコメント欄の、上のほう。動画のサイトの、トップ画面のアイコン。そのアイコンを見て、ふととあることを思いつく。でも思いついた瞬間、本当に自分に出来るのかと不安に思った。

 目を閉じて、今までのことを思い出す。あいつが、ずぶ濡れになってまで、私に傘を差しだそうとしてきたところ。風邪をひいているのに、山を下りてきたところ。関係ないはずなのに、三浜木に本気で怒っていたところ。

 そして、お母さんとお父さんの悲しむ姿。萩白さんが、自分が弱いと俯く姿。

 みんな、私なんかの為に、頑張ってる。

 私も、私も自分で、やらなきゃいけないのかもしれない。

 私はぎゅっとこぶしを握り立ち上がると、椅子に座る。そしてノートを取り出してペンを握り、机に向かった。
 次の日、私はいつも通りの時間に目を覚ました。

 昨夜眠る前に私は萩白さんにメールで連絡を取った。昨日何かあったときにと萩白さんから連絡先の書かれたメモを渡されていて、それを見た。

 スマホを確認して返信が来ていないか確認すると、昨日したお願いを承諾する旨が書かれている。そのメールに返信をして、私は部屋を出た。

 パジャマのままリビングに向かうと、お母さんがエプロンを着て、トーストのお皿を二つお皿に並べている。お父さんの席にはお味噌汁。私は自分の席に座ってお母さんに挨拶をして、いただきますをしてからトーストに手を伸ばす。

 テレビには、今日の天気が伝えられていて、今度はニュースが始まった。今日のニュースが左側に並んでいくと、私の高校の名前と、動画の文字が並ぶ。お父さんは素早くテレビの電源を落とした。

 なんとなく、気まずい空気が流れる。

 お父さんが新聞をめくる音と、お母さんがトーストを手に取り、お皿のすれる音、私がトーストをかじった音だけが響く。お母さんとお父さんは何も言わない。けれどたぶん、私を転校させるべきという話や、私を通信制の高校に入学させようという話をしているのだろうと思う。

「ご……ごちそうさま」

 朝ご飯を食べ終わって、席から立ち上がる。二人は何も言わない。私はリビングを後にして、玄関で靴を取ってからまた自室へと戻る。そ部屋の扉を閉じ、窓を開けて庭に靴を並べてからカーテンを閉め、制服へと着替えた。

 私の部屋は、一階で、窓を開けば庭になっている。今までそのことに対して特に思うことはなかったけど、今日初めて良かったと思った。何故なら、ここからじゃないと、家から出られない。いつものようにリビングから出ていこうとしてしまえば、きっとお母さんに止められる。

「よし」

 私は、昨晩書いたノートを手に取り、何も入っていないカバンにそれだけを入れる。そして部屋のカーテンと窓を開き、庭から出て学校へと向かった。




 学校へ向かうと、すぐに視界に入ったのは、学校の表の門で取材をするように立つカメラマンや、リポーターたちだった。その周りを囲むように野次馬が立ち並んでいる。通る生徒に話しかけているけれど、生徒たちは無視をして振り切るように校門の中へと入っていく。

 決められているのか、取材の人たちは校門の中へと入っていかない。私も通る生徒に続くようにして、周りに紛れるように校門へと歩いていくと、リポーターらしきひとがこちらへ向かってきた。けれど前の生徒と同じように俯いて歩いていくと、取材の人たちは舌打ちをしながら苛立ったようにまた私の後ろを歩く生徒に声をかけていく。

 良かった。私だと、ばれていない。

 ばれたら最後、きっと校舎の中に入れてもらえないだろう。ほっと安堵しながらスマホで萩白さんへ校舎に到着したことを知らせるメールを打つ。すぐに返事が返ってきて、一階の渡り廊下に来るよう指示をされた。人目を避けながら渡り廊下を目指していると、さきに待っていたであろう萩白さんがこちらに向かってひっそりと手を振っていた。

「良かった、どうやら報道陣にはばれなかったようだね」

「……は、はい」

「よし、じゃあここから保健室に……と言いたいところなんだけど、安堂先生が私を訪ねてきそうなんだ。だから早速だけど、放送室に向かおう」

 そう言って、萩白さんは先導するように歩いていく。私も靴を脱いで持ち、萩白さんの後を追う。

 放送室は、一階にある。でも離れているといえど同じ階には職員室がある。誰にも見つからないよう祈っていると、すれ違うのは他の学年の先生や生徒ばかりで、誰も私や萩白さんを気に留めない。周りを警戒しながら歩いていくと、放送室の前にたどり着いた。

 萩白さんはポケットから鍵を取り出して、一度鍵を握りしめ意を決したようにその扉を開く。放送室には初めて入った。何やら機材がたくさん置かれていて、ここからどう放送をすべきか分からない。

 機材を眺めていると萩白さんが扉に鍵をかけ、つっかえをするようにほうきとガムテープで補強をした後、バリケードを作るように部屋の中の椅子や机を扉に並べ始めた。私も手伝い、やがて隙間なく机と椅子が並んだ。

 呼吸を整えていると、朝の予礼を知らせる鐘が鳴り響く。萩白さんは私に顔を向けた。

「せっかく報道陣がいることだし、予定より早いけれど今から始めるほうがいいかもしれない。職員会議は始まっているから先生はそろっているし、この時間になってまで来ない生徒は少数だろう。どうする?」

「……は、はーじめます」

「分かった。準備をしよう」萩白さんはそう言って、放送室のマイクの前に座ると、機材の準備を始める。丸いチューナーのようなものをいじって、いくつかボタンを押す。そうして調整をし終えると、機材から手を放した。

「こちらの準備は完了したよ」

 その言葉を聞き、私はポケットからスマホを取り出し、動画サイトの生放送の開始ボタンを押す。説明もタイトルも、昨日のうちに準備をしておいた。私は、今からここで、清水照道について、皆に発信する。あいつが、名前を失わないように。その名前で、生きることができるように。そのために、放送室で学校に放送をかけ皆に伝えようと考え、私は昨日萩白さんに協力を仰いだのだ。

「わ、わーたしも、だだ、だ、大丈夫です」

 前に、萩白さんから本当に助けたい相手は助けなきゃいけないと思う。行動出来ると言っていた。今ならその言葉の意味が分かる気がする。私はあいつを助けたい。助けなきゃいけないと、思っている。

 それがどんな感情からくるものなのか分からない。誰かに何かを話すことは怖い。今だって、逃げたい。でも、でも、私は奴を、助けたい。

「わかった」

 私の返事に萩白さんは頷き、前を、マイクを見据えボタンを押した。放送を知らせる音色が鳴る。萩白さんはそのメロディが止むと息を大きく吐いてから、マスクを取った。そして、真っすぐと前を向いて、姿勢をぴんと伸ばす。

「生徒の皆さん、そして先生方、校舎の外で取材をされている皆さまにお知らせします。今から、昨日公開された動画について、被害者と報道されている生徒から、皆さまにお伝えしたいことがあるということで、緊急放送を開始します。どうか、スマホをお持ちの方は録音をして、動画の拡散にご協力をお願いするとともに、どうか最後まで聞き、この件のこと、自分のこと、周りのこと、そしてこれからのことを、私たちと一緒に考えてくださればと、私は切に願います」

 萩白さんは言い終えて、マイクのスイッチを落としてから大きく息いた。そうして私の番に変わるように、立ち上がりこちらを見る。

「……これまでも、これからも、これほど緊張する放送はもうないだろうね」

「……あ、あ、ありがとう、えっと、ご、ごーざいました」

「ううん。私も、きっかけをくれてありがとう。君に頼られて、嬉しかった。私ですら信じられなかった私の勇気を、君は信じて頼ってくれた。本当にありがとう。」

 萩白さんはマスクをつけ、切り替えスイッチを指で指し示す。

「このスイッチを押すんだ。するとマイクのスイッチがオンに変わる」

 その言葉に頷き、席に座る。次は、私の番だ。

 私はノートを開いて、何度も深呼吸を繰り返す。そして、放送の切り替えスイッチをオンにした。