それから、河野由夏は千田莉子を認識しなくなった。今まではトイレに行くにも、どこへ行くにも千田莉子を伴い授業へ向かうのにも必ず一緒だったのに、今では皆千田莉子をいないように扱い、昼に誘うこともない。
初め千田莉子は河野由夏に対して「無視しないでよ由夏しい」と話しかけたり、指でつついたりしていたけど、一度「マジでうざいんだけど」と言われてからはやめた。
そして俯き申し訳なさそうに、黙ってついていくようになっていたけれど、河野由夏が「何かキモイのついてくるんだけど」と言ってからはそれすらせず、一人で行動をするようになった。
そんな千田莉子を、自分のグループに入れようとする人間は一人もいない。
男子は普通に素知らぬ顔。女子のカースト上位は河野由夏に睨まれたくない気持ちで、そして吹奏楽部とか、比較的このクラスでも真面目に属されていたり、上位の人間から地味だと馬鹿にされるリア充たちは千田莉子をもとから嫌っていたらしく、トイレで「ざまあじゃん」と言っていたのを聞いた。だから、千田莉子は基本的に声を発さなくなったといっていい。
寺田は初め千田莉子の扱いについて「どうしたん?」「なになにどういうこと?」と首をかしげていたけど、理由を聞いたのかそれについて触れなくなり皆と同じになった。
清水照道は、よくわからない。
ただただ関わるのではなく、傍観し、様子を伺っているように思う。ただその件に関しての話題が触れそうになると、私にうざ絡みをすることで危機を脱しているようではあった。
そうして、二週間が経過した。
文化祭も明日に迫り、帰りのホームルームを目前にしてクラスでは団結だの、合唱コンクール優勝できるといいねと、そんな生ぬるい雰囲気が漂っているけど、その空気外れるように私は俯いているし、千田莉子もただじっと机でスマホをいじっている。
やがて、安堂先生が教室に入ってきた。先生はちらりと千田莉子を見る。先生だって、千田莉子の今の状況を知っている。知ってるけれど何もしない。
一度河野由夏に「どうしたの由夏ちゃん、喧嘩しちゃったの? 駄目よみんなと仲良くしないと」と言ったものの「じゃあ先生嫌いな人いないの? っていうか私みんなと仲良くしてますよ」と即座に言い返されてからは、何も言っていない。そして千田莉子に対して話しかけようか迷うそぶりは見せても、言葉をかける様子もなく、ただただ困って、助けてほしいという顔をして、黙ったままだ。
似ているなと思う。安堂先生は今までの担任の先生に。
一人ぼっちの学校を嫌がる生徒を助けるより、クラスの中心の人間の機嫌を伺うほうがずっと楽なんだろうと思う。そう思うけど、私も千田莉子を助けようとはあまり思えない。
いじめられることが怖いし、千田莉子は「あんたがいじられればいいじゃん」と言った。何かしらの拍子で、また怪我が絶えず、私物を買い替えることが続いて、お母さんとお父さんが悲しそうにするのを見ていることはつらい。もうあんな目に絶対あいたくない。
鞄に荷物を詰めながらホームルームが終わるのを待っていると、案外早く終わった。「明日の合唱コンクール頑張りましょう」という先生の言葉に、どことなく今大事なのは合唱コンクールじゃなくて、クラスのことを先生は考えるべきなんじゃと思ってしまう。でも、いつまでも教室に残っていて先生に話しかけられるのも嫌だ。教室にはもう、千田莉子と私、そして吹奏楽部へ行こうと楽器のケースを持つ吹奏楽部しかいない。
立ち上がって、逃げるように教室を去っていくと、廊下の端のほうに河野由夏が見えた。何事もなく、何の滞りもなく千田莉子の不在すらわからないように、最初から知らなかったかのように歩いている。
やっている側は、本当に相手がどう思っているかなんて、関係ない。
きっとこのことが大事になって先生が怒ったとしても、奴らに芽生えるのは「面倒くさいことになった」「もっと上手くやれば良かった」という感情だけだ。実際小学校のころだって、中学校のころだって、先生がそいつらに謝罪を促して、謝ったんだから許してあげてと強要されて終わりだ。
ちゃんと和解して、収まったよというのが欲しいだけだ。あっち側の人間は。
でも、今の自分もこうして、ただ黙ってていいのだろうかという気持ちもある。先生に千田莉子について何か言うべきなんじゃないかと思う。でも、言えない。手紙を書いてみるのもいいかもしれないけど、それをどうやって渡すんだろうと思うと、またできない。やらない理由を探しているのかもしれない。
ぽつりぽつり、落ちていくみたいに階段を降りていく。すると何か走るような音と共に肩を捕まれ無理やり後ろを向かせられた。
「うぁっ」
落ちそうになり、後ろ手で慌てて手すりを掴む。後ろにいたのは千田莉子だ。心臓がばくばくと激しく動いているのが分かる。この間よりずっと鬼気迫るような表情で、私をにらみつけている。
「何なの。ハブられるべきはそっちなのに。私は、ちゃんと皆が盛り上がるよう頑張ったのに何でよ。ずっと、ずっとあんたいじったほうが楽しいって、こっちはずっと言ってるのに……!」
千田莉子が、私の肩のセーターをぎりぎりと握りしめている。その殺気立つような空気に、内臓がしんと冷えていった。何かされて、怖い。これからいじめられるかという恐怖じゃなく、今まさに何か、殺されるんじゃないかと背筋が凍りついた。
「調子乗んな偽善者」
千田莉子が、私のセーターを握りしめる力をより強いものにする。このまま突き落とされるんじゃないかと目を閉じると、「危ないよ。そんなところで」と、穏やかで、はっきりとした声がかかった。その声で千田莉子の動きが止まる。声のかかった方向を見ると萩白先輩が階段の踊り場からこちらを見下ろすように立っていた。そしてゆっくりとこちらに降りてくる。
「人と話をするときは、そんなセーターを掴んだり野蛮なふるまいをしてはいけない。ただでさえ階段だ。そもそもここは移動をする場であって、会話をする場所じゃないよ」
そうして、千田莉子の手を私のセーターからどける。千田莉子は、ばつの悪そうな顔をして、階段を駆け下りるように去っていった。その姿を見て、萩白先輩は首をかしげる
「彼女はどうしたの? かなり物騒なことを言っていたけれど……良ければ相談にのるよ」
その言葉に、説明をすべきか迷い、口をつぐむ。すると萩白先輩は私の肩をぽんと叩いた。
「うん、たまには私も人と帰ってみたい。良ければ一緒に帰ってくれないかな。出来れば人通りの少ない道がいいんだけど……どう?」
萩白先輩の言葉に、考え込む。先輩は考えながら話をしたっていいんだよ。何なら筆談でも構わないしと頷いて歩いていく。私は少し迷った後、恐る恐る先輩の後をついていった。
「ごめんね、私は騒がしい通りが好きじゃないんだ。樋口さんはどう?」
うす暗い日暮れの坂を、萩白先輩と共に下っていく。
今まで私は帰るときに、同じ学校の人間が通る道より一本裏手の道を通っていた。たまにゲームをしながら通る生徒はいるけれど、あっちもこっちに関心を持たないし、持つことを嫌うそぶりさえ見せる。
人のいない道は気楽だと思っていたけれど、萩白先輩が選んだ場所は、そこからさらに奥まった、下り坂のある道だった。住宅街が立ち並び、その隙間からは下の、駅前の通りが見える。清水照道に案内された団地もわずかながらに見えた。その団地を見ながら歩き、先輩の言葉に返事をしなければと口を開く。
「……わ、わ、わー、たしも、ひ、人が多い……み、道は……嫌い、です」
「私もだ。だからいつも、この道を降りて駅に向かっているんだ。上るときもそう。バスは使わず、この坂を上がる。そしてたまに、マスクを取る」
先輩が私を見て、マスクを掴むそぶりをした。しぐさに驚いていると、先輩は静かに頷く。
「安堂先生が言っていたよ。萩白さんには理解者が必要だと思うの、この間樋口さんには説明したわ。樋口さんは静かないい子だし、きっと友達になれるはずだってね」
その言葉にどう返事をしていいかわからず、俯く。すると先輩は私の肩をぽんと叩いた。
「だから、君が私が留年して、いわゆる先輩もどきであるという認識をしているであろうことも知ってる。だから気軽に私のことは萩白さん、そして敬語も使わなくていい。同じ学年だからね」
「……は、はー、萩白さん」
「うん。よろしく樋口さん」
萩白先輩は私を見た。ように感じる。実際は、長い前髪にその視線は隠れ見えない。じっと先輩の目のあるであろう方向を見ていると、先輩は「ところで」と人差し指を立てる。
「さっきの女子生徒は、一体何? 私はあの子を何度か見たことがある。バレー部で明るくしているような子だったけど、まるで別人のようだった」
萩白先輩は、静かに驚くように千田莉子について語る。私は説明を迷い、長くなってしまうと鞄からノートを取り出しあったことを書いていく。千田莉子の状況やその経緯について全て書き終えると、大体二ページが埋まった。萩白先輩はその紙を見て、考え込むようにすると「なるほどねえ」と呟く。
「きっと、その河野由夏さんは、清水くんのことが好きなのだろう。そして千田莉子さんはうっかりそれを言ってしまい、彼女の逆鱗に触れたと……きっかけがある分厄介だね」
きっかけがあると、厄介? きっかけが無いほうが厄介じゃないのかと考えると、先輩はそれを察したらしい。「私も以前教室にいたとき、何度か見たことがあるんだけど」と前置きをした。
「たまに、本当に魔のさすように仲のいい人間に突然そういうことをする人間はいるんだよ。でも元から理由なんてないから、なんとなくもういいかとそれは止む。でも今回はきっかけがある。また大きなきっかけが無い限り流れは変わらないだろうし、それに安堂先生は、待つことをするか、千田莉子さんに原因を突き付けて、謝るよう言うか、まぁ、ろくなことはしないだろうね……」
「……わ、私は、ど、ど、どうすれば、いいのかな」
「まぁ、安堂先生が担任である以上は、八方ふさがりになるね。生徒同士で解決しろと学校側は思っているかもしれないけど、ただの喧嘩じゃない。一方的な暴力に近いもので、相手はもう話し合いが出来る状況でもない。明日は合唱コンクールだし、もしかしたらそこで流れが変わるかもしれない。様子見をすべきだと、私は思うよ」
先輩の言葉に、納得する。確かに明日は合唱コンクールで、打ち上げをしようとかなんとか、河野由夏は企画していた。もしかしたら明日の合唱コンクールで優勝をして、クラスの団結みたいなうすら寒いムードで、千田莉子の状況は改善されるかもしれない。
「それに、本当に助けたいと思う相手なら、やりたいのなら、迷わないはずだ。助けなきゃいけないと心が思う。どうしようかと思っているのは、後悔する証拠だよ」
萩白先輩は大きく伸びをして、空を見上げる。私も揃えるように空を見上げた。すると先輩が「だから私も、そろそろ勇気を出さなきゃいけないんだけどね」と呟く。
空の色は、徐々にオレンジ色が紺色に滲んで浸食されていくみたいで、私はその空を見上げながら、明日の合唱コンクールがましなものになればいいと思った。
初め千田莉子は河野由夏に対して「無視しないでよ由夏しい」と話しかけたり、指でつついたりしていたけど、一度「マジでうざいんだけど」と言われてからはやめた。
そして俯き申し訳なさそうに、黙ってついていくようになっていたけれど、河野由夏が「何かキモイのついてくるんだけど」と言ってからはそれすらせず、一人で行動をするようになった。
そんな千田莉子を、自分のグループに入れようとする人間は一人もいない。
男子は普通に素知らぬ顔。女子のカースト上位は河野由夏に睨まれたくない気持ちで、そして吹奏楽部とか、比較的このクラスでも真面目に属されていたり、上位の人間から地味だと馬鹿にされるリア充たちは千田莉子をもとから嫌っていたらしく、トイレで「ざまあじゃん」と言っていたのを聞いた。だから、千田莉子は基本的に声を発さなくなったといっていい。
寺田は初め千田莉子の扱いについて「どうしたん?」「なになにどういうこと?」と首をかしげていたけど、理由を聞いたのかそれについて触れなくなり皆と同じになった。
清水照道は、よくわからない。
ただただ関わるのではなく、傍観し、様子を伺っているように思う。ただその件に関しての話題が触れそうになると、私にうざ絡みをすることで危機を脱しているようではあった。
そうして、二週間が経過した。
文化祭も明日に迫り、帰りのホームルームを目前にしてクラスでは団結だの、合唱コンクール優勝できるといいねと、そんな生ぬるい雰囲気が漂っているけど、その空気外れるように私は俯いているし、千田莉子もただじっと机でスマホをいじっている。
やがて、安堂先生が教室に入ってきた。先生はちらりと千田莉子を見る。先生だって、千田莉子の今の状況を知っている。知ってるけれど何もしない。
一度河野由夏に「どうしたの由夏ちゃん、喧嘩しちゃったの? 駄目よみんなと仲良くしないと」と言ったものの「じゃあ先生嫌いな人いないの? っていうか私みんなと仲良くしてますよ」と即座に言い返されてからは、何も言っていない。そして千田莉子に対して話しかけようか迷うそぶりは見せても、言葉をかける様子もなく、ただただ困って、助けてほしいという顔をして、黙ったままだ。
似ているなと思う。安堂先生は今までの担任の先生に。
一人ぼっちの学校を嫌がる生徒を助けるより、クラスの中心の人間の機嫌を伺うほうがずっと楽なんだろうと思う。そう思うけど、私も千田莉子を助けようとはあまり思えない。
いじめられることが怖いし、千田莉子は「あんたがいじられればいいじゃん」と言った。何かしらの拍子で、また怪我が絶えず、私物を買い替えることが続いて、お母さんとお父さんが悲しそうにするのを見ていることはつらい。もうあんな目に絶対あいたくない。
鞄に荷物を詰めながらホームルームが終わるのを待っていると、案外早く終わった。「明日の合唱コンクール頑張りましょう」という先生の言葉に、どことなく今大事なのは合唱コンクールじゃなくて、クラスのことを先生は考えるべきなんじゃと思ってしまう。でも、いつまでも教室に残っていて先生に話しかけられるのも嫌だ。教室にはもう、千田莉子と私、そして吹奏楽部へ行こうと楽器のケースを持つ吹奏楽部しかいない。
立ち上がって、逃げるように教室を去っていくと、廊下の端のほうに河野由夏が見えた。何事もなく、何の滞りもなく千田莉子の不在すらわからないように、最初から知らなかったかのように歩いている。
やっている側は、本当に相手がどう思っているかなんて、関係ない。
きっとこのことが大事になって先生が怒ったとしても、奴らに芽生えるのは「面倒くさいことになった」「もっと上手くやれば良かった」という感情だけだ。実際小学校のころだって、中学校のころだって、先生がそいつらに謝罪を促して、謝ったんだから許してあげてと強要されて終わりだ。
ちゃんと和解して、収まったよというのが欲しいだけだ。あっち側の人間は。
でも、今の自分もこうして、ただ黙ってていいのだろうかという気持ちもある。先生に千田莉子について何か言うべきなんじゃないかと思う。でも、言えない。手紙を書いてみるのもいいかもしれないけど、それをどうやって渡すんだろうと思うと、またできない。やらない理由を探しているのかもしれない。
ぽつりぽつり、落ちていくみたいに階段を降りていく。すると何か走るような音と共に肩を捕まれ無理やり後ろを向かせられた。
「うぁっ」
落ちそうになり、後ろ手で慌てて手すりを掴む。後ろにいたのは千田莉子だ。心臓がばくばくと激しく動いているのが分かる。この間よりずっと鬼気迫るような表情で、私をにらみつけている。
「何なの。ハブられるべきはそっちなのに。私は、ちゃんと皆が盛り上がるよう頑張ったのに何でよ。ずっと、ずっとあんたいじったほうが楽しいって、こっちはずっと言ってるのに……!」
千田莉子が、私の肩のセーターをぎりぎりと握りしめている。その殺気立つような空気に、内臓がしんと冷えていった。何かされて、怖い。これからいじめられるかという恐怖じゃなく、今まさに何か、殺されるんじゃないかと背筋が凍りついた。
「調子乗んな偽善者」
千田莉子が、私のセーターを握りしめる力をより強いものにする。このまま突き落とされるんじゃないかと目を閉じると、「危ないよ。そんなところで」と、穏やかで、はっきりとした声がかかった。その声で千田莉子の動きが止まる。声のかかった方向を見ると萩白先輩が階段の踊り場からこちらを見下ろすように立っていた。そしてゆっくりとこちらに降りてくる。
「人と話をするときは、そんなセーターを掴んだり野蛮なふるまいをしてはいけない。ただでさえ階段だ。そもそもここは移動をする場であって、会話をする場所じゃないよ」
そうして、千田莉子の手を私のセーターからどける。千田莉子は、ばつの悪そうな顔をして、階段を駆け下りるように去っていった。その姿を見て、萩白先輩は首をかしげる
「彼女はどうしたの? かなり物騒なことを言っていたけれど……良ければ相談にのるよ」
その言葉に、説明をすべきか迷い、口をつぐむ。すると萩白先輩は私の肩をぽんと叩いた。
「うん、たまには私も人と帰ってみたい。良ければ一緒に帰ってくれないかな。出来れば人通りの少ない道がいいんだけど……どう?」
萩白先輩の言葉に、考え込む。先輩は考えながら話をしたっていいんだよ。何なら筆談でも構わないしと頷いて歩いていく。私は少し迷った後、恐る恐る先輩の後をついていった。
「ごめんね、私は騒がしい通りが好きじゃないんだ。樋口さんはどう?」
うす暗い日暮れの坂を、萩白先輩と共に下っていく。
今まで私は帰るときに、同じ学校の人間が通る道より一本裏手の道を通っていた。たまにゲームをしながら通る生徒はいるけれど、あっちもこっちに関心を持たないし、持つことを嫌うそぶりさえ見せる。
人のいない道は気楽だと思っていたけれど、萩白先輩が選んだ場所は、そこからさらに奥まった、下り坂のある道だった。住宅街が立ち並び、その隙間からは下の、駅前の通りが見える。清水照道に案内された団地もわずかながらに見えた。その団地を見ながら歩き、先輩の言葉に返事をしなければと口を開く。
「……わ、わ、わー、たしも、ひ、人が多い……み、道は……嫌い、です」
「私もだ。だからいつも、この道を降りて駅に向かっているんだ。上るときもそう。バスは使わず、この坂を上がる。そしてたまに、マスクを取る」
先輩が私を見て、マスクを掴むそぶりをした。しぐさに驚いていると、先輩は静かに頷く。
「安堂先生が言っていたよ。萩白さんには理解者が必要だと思うの、この間樋口さんには説明したわ。樋口さんは静かないい子だし、きっと友達になれるはずだってね」
その言葉にどう返事をしていいかわからず、俯く。すると先輩は私の肩をぽんと叩いた。
「だから、君が私が留年して、いわゆる先輩もどきであるという認識をしているであろうことも知ってる。だから気軽に私のことは萩白さん、そして敬語も使わなくていい。同じ学年だからね」
「……は、はー、萩白さん」
「うん。よろしく樋口さん」
萩白先輩は私を見た。ように感じる。実際は、長い前髪にその視線は隠れ見えない。じっと先輩の目のあるであろう方向を見ていると、先輩は「ところで」と人差し指を立てる。
「さっきの女子生徒は、一体何? 私はあの子を何度か見たことがある。バレー部で明るくしているような子だったけど、まるで別人のようだった」
萩白先輩は、静かに驚くように千田莉子について語る。私は説明を迷い、長くなってしまうと鞄からノートを取り出しあったことを書いていく。千田莉子の状況やその経緯について全て書き終えると、大体二ページが埋まった。萩白先輩はその紙を見て、考え込むようにすると「なるほどねえ」と呟く。
「きっと、その河野由夏さんは、清水くんのことが好きなのだろう。そして千田莉子さんはうっかりそれを言ってしまい、彼女の逆鱗に触れたと……きっかけがある分厄介だね」
きっかけがあると、厄介? きっかけが無いほうが厄介じゃないのかと考えると、先輩はそれを察したらしい。「私も以前教室にいたとき、何度か見たことがあるんだけど」と前置きをした。
「たまに、本当に魔のさすように仲のいい人間に突然そういうことをする人間はいるんだよ。でも元から理由なんてないから、なんとなくもういいかとそれは止む。でも今回はきっかけがある。また大きなきっかけが無い限り流れは変わらないだろうし、それに安堂先生は、待つことをするか、千田莉子さんに原因を突き付けて、謝るよう言うか、まぁ、ろくなことはしないだろうね……」
「……わ、私は、ど、ど、どうすれば、いいのかな」
「まぁ、安堂先生が担任である以上は、八方ふさがりになるね。生徒同士で解決しろと学校側は思っているかもしれないけど、ただの喧嘩じゃない。一方的な暴力に近いもので、相手はもう話し合いが出来る状況でもない。明日は合唱コンクールだし、もしかしたらそこで流れが変わるかもしれない。様子見をすべきだと、私は思うよ」
先輩の言葉に、納得する。確かに明日は合唱コンクールで、打ち上げをしようとかなんとか、河野由夏は企画していた。もしかしたら明日の合唱コンクールで優勝をして、クラスの団結みたいなうすら寒いムードで、千田莉子の状況は改善されるかもしれない。
「それに、本当に助けたいと思う相手なら、やりたいのなら、迷わないはずだ。助けなきゃいけないと心が思う。どうしようかと思っているのは、後悔する証拠だよ」
萩白先輩は大きく伸びをして、空を見上げる。私も揃えるように空を見上げた。すると先輩が「だから私も、そろそろ勇気を出さなきゃいけないんだけどね」と呟く。
空の色は、徐々にオレンジ色が紺色に滲んで浸食されていくみたいで、私はその空を見上げながら、明日の合唱コンクールがましなものになればいいと思った。