「さーて、帰りますかっと」

 お茶を飲み終えた私は、伸びをする清水照道の後ろをついていく。図書館の中の込み具合は最初に入った時と同じだけど、貸出、そして返却コーナーは列を成していた。

 並んでいる列をぼんやり眺めていると、清水照道は「何か借りたい?」と私に揃えるように返却コーナーを見る。

「……ちち、違う。なー、並んでると、お、思って」

「あー、まぁ文化祭で出し物のネタ集めに借りに来てるやつが多いからじゃね? 時期的にほかの高校とか、それこそ中学も文化祭やるだろうし」

 確かに、奴の言う通り並んでいる列には高校生っぽい人間、中学生っぽい人間と、ところどころお年寄りたちに混ざって学生が並んでいる。納得しながら歩いていると、後ろから聞きなれない声で「樋口さん?」と声がかかった。

 前を歩く清水照道のほうが先に反応し、怪訝な顔をした。私も遅れるように振り返り、頭が真っ白になった。

「やっぱり樋口さんだ!」

 ボランティアスタッフのエプロンをかけ、何が楽しいのか、嬉しそうにかけよる男……三浜木宗太。奴を見た瞬間耳鳴りがした感覚がして、気が遠くなるような気がした。けれど奴の次の言葉が、私の意識を現実へと引き戻す。

「中学二年の時に樋口さんが転校して……だから大体二年ぶりくらいかな、久しぶり」

 息がし辛い。

 頭がふらふらする。清水照道は心配そうに、まるで支えるように私の腕を掴んだ。一方三浜木宗太はぺらぺらと、まるであの頃みたいに話をしだす。

「実は僕も、あれから転校をすることになっちゃったんだよ。なんでか知らないけどネットの人たちが僕のこと誤解してて、自分がスピーチコンテストで優勝するために樋口さんを利用したって言われてさ……本当ネットの奴らって最悪だよ。住所とかも出ちゃって、結局引っ越しすることになっちゃってさ……」

 ぶつぶつと、三浜木宗太は自身の近況について語る。あの後、こいつが転校したのは聞いた。

 スピーチコンテストがネットで中継されて、そこで、そこで奴は私について話をしたのだ。詳細に、執拗に、どういうことがあってこの場に来れなくなったかを。

 それについて、お父さんが明確に抗議をしていたから、その電話の音を聞いてそのことについては知っている。けれどネットで叩かれてたなんて知らなかった。

「それで僕さ、ちょっと外出るの辛い時期があって、最近ここで図書館のボランティアしてたんだけど……まさか僕と同じ痛みを抱えた樋口さんと会えるなんて思わなかったな」

 同じ……痛み?

 こいつは、今だってぺらぺら、ぺらぺら、つっかえることも、同じ言葉を繰り返すことも、言いたいことが言えなくてどうしようもなくなることもない。すらすら、思った通りの言葉をそのまま話をしている。それのどこが同じ痛みなんだ? こいつは、私と同じだと、本気で思っているのか?

「ねえ、よければこの後話をしない? 対談みたいな感じでさ。お互いの気持ちを話し合って……そうだな、それをネットにのせよう。吃音についての理解を、もっと周知させるべきなんだよ」

「……い、いや」

「ゆっくりでいいよ、緊張しないで」

「だ、だ、だか」

「早くしゃべらなくていいから」

 話がしたいのに、遮られて言葉が出せない。どんどん胸の奥が詰まって苦しくなる。嫌だ。眩暈が止まらない。こんなに苦しいのに、どうして目の前の三浜木宗太は笑顔で、余裕をもって、こちらを急かすように待っているんだ。

「……あ」

「頑張って樋口さん」

「いちいち遮ってんじゃねえよ」

 低い、地を這うようで、まったく抑揚のない声が頭上から発された。恐る恐る顔を上げると、清水照道が機械のレンズみたいな目で三浜木宗太を見ていた。

「ん? なに?」

「今萌歌話してんだろ、いちいち遮んじゃねえよ」

「何を言ってるの?」

「遮るなって言ってるんだけど。つうかさっきから何お前。頑張ってとかばっかじゃねえの?」

 清水照道に詰め寄られ、三浜木宗太は眉をひそめる。そしてあっと声を上げた。

「君、もしかして知らない? 樋口さんは吃音でね、僕らがちゃんとフォローして励ましてあげなきゃいけないんだよ?」

「は?」

 清水照道は能面のような顔で、感情のない、機械みたいな声で三浜木宗太を見た。

 全く表情がないのに、その力を込められた左手を見て、こいつは三浜木宗太を殺そうとしているんじゃないかとすら思えてくる。

「……お、お、おい」

 そんな清水照道の姿を見て、急激に不安になった。こちらを支えてくる腕をゆすると「大丈夫、萌歌に怖いことなんてしねえよ」とこちらを見ずに、独り言のように呟く。そして静かに三浜木宗太を睨んだ。

「悪いけど、萌歌と話がしたいなら俺のこと通してくんない。っていうか、もう顔も見せないでくんないかな」

「どうして樋口さんと話をするのに君を通さなきゃいけないんだ?」

「どう見てもお前と話す萌歌が苦しそうだからに決まってんだろ。行くぞ萌歌」

 そう言って、清水照道は私の肩を掴むと、また強引に連れていき、そのまま図書館を出た。三浜木宗太は「待ってくれ」と追いかけてくる。清水照道は舌打ちをしながら歩く足を止めない。そして「タクシーどこだよ」と苛立ちを抱えながら周りを見渡す。

「なぁ、樋口さん君は勇気を出すべきじゃないのか!?」

 振り返ると、三浜木宗太が大きな声を出した。図書館に行ったり、そこから出てきた人々がこちらを見る。

 その視線があの時と重なって、途端に体から力が抜けそうになった。清水照道はそんな私の肩を支え、不安げな声で私の名前を呼ぶ。大丈夫、そう言いたいのに声を出せば戻してしまいそうで口元を押さえた。

「吃音の君が! 頑張る姿を見せることで、前に出で話をすることで、勇気を与えることができると思うんだ。スピーチコンテストでは、君は吐いてしまったけれどそんな風に君を想う友達が出来たならきっと今なら出来るはずだ!」

「お前いい加減にしろよ。何かしたいならまずお前が先陣切ってやれ、萌歌は吃音だから特別な存在なのか、吃音だから頑張んなきゃいけねえのかよ。お前が……、お前のせいで萌歌は……、萌歌?」

 スピーチコンテスト。吐いてしまった。

 その単語が、合図だったかのように喉元から一気に胃液がせりあがる。そのまま地面に戻すと、清水照道は私の背中をさすり、周りの人間に図書館の人間を呼ぶよう伝えた。そして自分のパーカーを脱ぎ、吐いたところにかけると私に袋を渡してくる。

 されるがまま袋に吐いていると、三浜木宗太が近寄ってきた。頭が痛い。頭が痛くて仕方がない。ただただ戻していると、やがて三浜木宗太は去っていく。清水照道は、「大丈夫だから」「好きなだけ吐いていいから」と私の背中をさすり続けている。

 地面には、ぐちゃぐちゃになったパーカー。頭の中は、めまぐるしくあの時の光景がよみがえる。けれど、こいつの「大丈夫」という声で、だんだんと痛みが和らぐような気がしてきて、私はただただ背中をさすられていた。




 薄暗い夕焼けの下、図書館近くの公園のベンチに座る。隣には、清水照道がぐちゃぐちゃになったパーカーを入れた袋を持ち、ぼんやりと座っている。他には誰もいない。二人きりだ。

 あれから、清水照道経由で呼んだであろう司書さんたちが来てくれて、私は図書館の奥のバックヤードみたいなところで休んで、図書館の前を汚したことを謝った。

 司書さんたちは気にしないでと言ってくれたけど、掃除をするのは多分司書さんたちで、そのことを考えると気が重くなる。そして図書館を後にしようとして、清水照道が私の親を呼んで迎えに来て貰ったほうがいいと言って、私の代わりに電話をかけ、今は私の……たぶんお母さんが来るのを待っている。

 清水照道は、何も聞いてこない。ただ「大丈夫か」「気持ち悪い?」とは定期的に聞いてくるけど、三浜木宗太のことも、スピーチコンテストのことも、私が中学の頃転校した時についても、何も聞いてこない。

 今も、別に話をしなくてもいい空気だということはわかる。でも、なんとなく、言葉を出したくなって、口を開いた。

「……こ、こ、こー、殺すのかと、お、思った、あいつのこと」

「えっ、俺が? もしかして俺、カッとなるとすぐ手が出るタイプだと思われてんの?」

 私の言葉に清水照道が即座に反応する。そして無表情だった顔を、おどけたように変えた。頷くと、奴は唇を尖らせる。

「まぁ俺もさあ、なんであんな奴のせいで、ゲロ吐くまで萌歌が追い詰められなきゃいけねえのとは、思ったし、殺してえなとは思ったけど、しないからね。捕まったら閉じ込められて萌歌ちゃんのそばにいられなくなっちゃうしぃ~」

 そう言って、奴は足を伸ばす。そしてなんの気なしに、こちらに顔を向けた。

「萌歌ちゃんはさ、人のことマジで殺したいと思ったことある?」

「……は?」

「俺殺したいやつ片っ端からやっていったらさ、マジでキリないかんね。ほぼほぼクラス全員くらいの人数になっちゃう。だからしない」

「……く、く、くーそ、いきり」

「はは。元気になってくれた。よかった」

 けらけらと、清水照道は楽しそうに笑う。でもクラスで馬鹿な笑い方をしているけらけら笑いとはまた違ったように見えて、何となく、なんとなく、声を出そうと思った。

「……あ、あ。……ああ、あいつに……い、いーわれたんだ。おお、お母さんのこと……、おー、おおお父さんのこと、に、憎むなって、言われて」

 中学の頃、本当に、何のきっかけもなく私はあいつに「吃音のことで、お母さんとお父さんを憎んじゃ駄目だよ?」言われた。私は確かにどうしてこんな風に生まれてきたんだと、何で私だけと思った。

でも、憎しみを持つまではしてなかった。なのにあいつは、どんどん私はお母さんやお父さんを憎んでいるみたいに言ってきて、「君の頑張る姿に人は感動して、共感するんだ。特別な存在なんだよ」とか、どんどん、どんどん洗脳するみたいに言ってきた。それが気持ち悪くて、利用されてるみたいで、言いなりにされてるみたいで、気持ち悪かった。

「わ、わ、わたしは、……憎んでなんか、……ない。で、で、でも、……ど、……どーうしてこんな風に、う生まれてきたんだって、きき気持ちになる。……そ、それも、に、に憎むってことなのか」

「違う。絶対に」

 清水照道は、真っすぐと私を見た。そして念を押すように「絶対違う」と続ける。

「しんどい時、誰かのせいにしたくなる。理由がつけたくなる。周りのせいでも、自分のせいでも。でも、萌歌が苦しいのは、お母さんのせいでもお父さんのせいでも、萌歌自身のせいでもない。話の仕方が、違うだけで、特別扱いしたり文句言ったり、馬鹿にする奴がいるせいだ。そんな奴らが、あいつらが、全員死ねば……」

「萌歌!」

 呪うような清水照道の声に被さるようにお父さんの声が響く。声のする方向を見ると、お父さんが額に汗を流しながらこちらに駆けてきた。お父さんは「大丈夫か」と私に声をかけた。もう、吐き気は殆どない。頷くとお父さんは清水照道に目を向けた。

「えっと、清水くん、今日はありがとう……」

「いえ。あの、中学二年の時、樋口さんのクラスメイトだった男が来て、それで体調崩してて、もうどっか行ったみたいなんですけど……、しつこい感じだったって言うか……萌歌になんかさせようとしてて……俺が言うのもアレですけど、気をつけて欲しいというか、一応、報告です」

 清水照道の言葉に、お父さんの顔色が変わる。きっと帰ったら、詳しいことを話さなくちゃいけない。お父さんは清水照道に礼を言い、そして奴の持っているビニール袋に視線を落とした。

「もしかして、それは」

「あぁ、気にしないでください丁度洗うところだったんで」

「クリーニング代を」

「しないんで、いらないです。っていうか、樋口さん帰してやってください。そろそろ日も暗いし、結構吐いて、疲れてるだろうし。じゃあ俺はこれで」

 清水照道は、お父さんの話を切り上げるように頭を下げて去っていく。お父さんは奴を見送ってから、反対方向の、駅に向かって歩き出す。

私もお父さんの隣を追うように歩いていくと、お父さんは遠慮がちに「三浜木くんと会ったのか」と訪ねてきた。図書館のボランティアをしていたらしいことを伝えると、お父さんは静かに視線を落とす。

「……で、でーも」

「ん?」

「あ、あい……、し、しーみず、が、かか、……庇った、から」

 そう言うと、お父さんは驚いたような顔をした。そして「親御さんに、お礼を言わなきゃなあ。クッキーだけじゃなく」と呟く。

 クッキーは、夏休み明けに学校に持って行ったことにしていた。嘘をつく結果になってしまったけれど、でもきちんとあいつに食べさせたわけだし、あいつも美味しいとか、お世辞でも言っていたし。一応時差はあったけど美味しかったと報告はした。

「でも、海外で働いてるとか、母さんが言っていたっけ」

「…ん。い、忙しい……みー、たい」

「そうか……」

 お父さんは、考えこんだような様子を見せる。そしてはっとした様子でこちらに振り返った。

「なあ萌歌、清水くんの下の名前って、照道で合ってるか? 照らすに、道の」

 お父さんの言葉に頷くと、またお父さんは足を止め俯いてぽつりと「一家心中の」と呟く。そしてまたはっとして、歩き出した。

「ああ、悪かった萌歌、早く帰ろう」

「ん」

 お父さんは、平静を取り繕うように笑う。それに、まるでさっきの言葉なんて聞こえていなかったように、私も素知らぬ顔をする。お父さんの、さっき言った言葉。それは、間違いなく、一家心中という言葉だった。

 その言葉に、あいつが熱を出したとき、あいつが一人で早退すると、親なんて来ないとまるで最初から分かっているような口ぶりだったこと、そして、まるで物がない部屋に住んでいたこと、自分と違う名字のお墓に対して呟いていた言葉を思い出して、酷く胸騒ぎのような、心臓が別の生き物のように動いた気がした。

「今日夕飯食べられそうか。おかゆか……それともゼリーとか、アイスとか、果物の缶詰とかそういうのがいいか」

「あ、あるので、い……いい」

「そうか」

 お父さんの隣を、歩いていく。さっきまで赤くこちらを照らしていた日はすっかり暮れて、周りは沈んでいくようにその陰を色濃いものにしていた。