「親さあ、海外に居て、家にいるの俺だけだしあんま緊張しなくていいよ」

 玄関で靴をスリッパに履き替えさせられ、長い廊下、よく分からない広間を色々抜け、一応リビングっぽいところに出てきた。けれど、家と言うには広すぎると言うか、今いるここが、おそらくダイニングキッチンか、いまいち自分のいる場所がよく分からないし、立っていていい場所もよく分からない。

 それに、異常なほどここには物がない。リビングってもっとこう、棚とか机とかテレビとか、色々あるものだ。でもそれがない。広い部屋にあるのは、真ん中にぽつんと置かれたソファと、テーブルがあるくらい。ダイニングテーブルとか椅子とかを置く場所はがらんとしていて、生活感がまるで感じられない。引っ越しをするからすべて荷物をまとめて出て行って、テーブルとソファだけ邪魔だから置いてきたみたいな、そんな部屋だ。

「適当にしてていいよ、座ってて」

 そんな部屋でまるで場違いな笑顔を清水照道は、する。

 ソファがあるからそこに座っていろという意味だろうけど、何となく座りづらい。ソファを人差し指で少し触ってみると、ふかふかと指が沈み込んだ。しばらくそうして床に座るかと考えていると、今度は奴は台所に向かって行き冷蔵庫の前に立った。

「オレンジジュースでいい?」

 奴が冷蔵庫からパッケージが英語で書いてある瓶を取りだす。見たことが無いけど、色がオレンジだし、オレンジの断面が描かれているから、まぁオレンジジュースなのだろう。いらないと言ったら、じゃあ何がいいかと聞かれそうだ。黙ってうなずくと奴はグラスを二つ食器棚から取り出した。

「じゃあ、萌歌ちゃんから貰ったクッキーも開けちゃおっかな」

 清水照道は、いそいそと手土産の紙袋を開く。その姿にそこはかとなく、不安を感じた。

 だって、こいつはきっと、いっつもキラキラしたようなものを食べている。写真とかをネットにあげて、たくさん評価されるような。そんなこいつに家の近くのお菓子屋さんのクッキーを渡して、馬鹿にしてこないだろうか。

 お母さんと、お父さんが、喜んで買ったクッキー。

 笑われたりしないだろうか。

 ぎゅっと手のひらを握りしめると、奴が不意にこちらを見た。

「これさ、萌歌ちゃんのお母さんとお父さんに、清水がありがとうって言ってたって言っておいて」

 清水照道は箱を手に取り、目を細め、大切そうに箱を掲げてこちらに笑いかける。

 何なんだ。こいつは。

 手土産なんかを、そんな変な目で見て。キラキラウェイのくせに。変な色のお菓子とか、写真たくさん撮られるようなものばっかり食べてそうなのに。何だこいつ。

 じっとテーブルを見ていると、グラスを両手に持ちながらも器用にクッキーをのせた皿を持った清水照道がこっちへやってきた。不安定そうな持ち方に慌ててお皿を支えて取ると奴は「ありがと」と笑ってテーブルにグラスを置く。

 奴はへらへら笑いながらクッキーを口にした。

「うま。萌歌のパパとママからのクッキーすげーうまい」

 へらへらと、また軽い口調で話す奴に疑惑の目を向けると奴は「こんな美味しいの食ったことねえから、マジで」と軽薄な笑い声で話す。

「ほーら、座って。別に立たせたいわけじゃねえし。ジュース飲んでクッキー一緒に食べたらちゃんと帰してやるから」

「……わ、分かった」

「学校なんか行かずにずっとここにいたいなら、それでもいいんだけど」

 ソファに座ると、奴は怖がらせるようにこちらを見る。私は顔をそむけ、皿に出されたクッキーを一枚手に取る。かじると、苦みもなく、ちゃんと甘い味がした。



「こっちの道のが日陰多くて涼しいから」

 清水照道は私を先導するように歩く。あれから一緒にクッキーを食べ、私がジュースを飲み終えたころ、奴は「じゃあそろそろ人質解放の時間かぁ」なんて、私を解放した。

 一緒に玄関を出て、送っていくと聞かないこいつに促されるまま、私は行きとは異なる木々に囲まれた公園の通りを並んで歩いている。

「なー、夏休みの宿題終わった?」

「お、お……終わった」

「まじ? お疲れえらいじゃーん、っていっても俺もなんだけどね」

「……い、い、いやだ」

「いや褒めてくれよ。えらいじゃん照道くんとか言って、優しくしてやって」

 けらけらと、奴は私なんかといて何が楽しいのかさっきから笑いっぱなしだ。心から楽しそうにしているように思えて、変な感じがする。また新しい違和感が出てきた。

 こいつは、私が言葉が出なくなっていたり、連続しているとき、丁寧に言葉を待っている。

 奴とクッキーを食べている間、会話もあって、私はこいつに一方的に親のことを聞かれたり夏休みは楽しく過ごせているか聞かれた。

 話すことが好きなら自分だけ勝手にしゃべっていてくれればいいのに、こいつは私にいちいち質問をしてくる。

 渋々答えていたけれど、そういう時間を過ごして気付いた。

 今まで何となく違和感を覚えていただけだったけど、こいつは私がどもっている時、私の言葉を笑わずに待っている。

 先取りをしてきたり、馬鹿にしてもこない。私に顔を向けて、待っている。早くしろと急かす雰囲気も出さず静かに私の次の言葉を待っているのだ。

 意味が分からない。馬鹿にされたいわけじゃないけど、何でこいつがそんな風に待つのかわからない。

 確かにこいつは私をつまんない奴だと考えて、「面白くしてやろう」という気持ちで私に対して、嘘の好意を向けて馬鹿にする。人前以外で私に対して、言葉を待ったり、オレンジジュースを飲ませたりする意味なんてどこにもない。

 山を下ってきたことは、後々「俺が助けた」と周りに話をすることができる。オレンジジュースも、もてなしをしたと話せる。でも、私の言葉をこいつが待つ意味は、どこにあるのか分からない。

「もうすぐ、夏休み終わるなあ」

 独り言をつぶやくように、清水照道は空を見上げる。そこには雲一つなく、澄み渡るような青色がべったりと塗られたように広がっている。

「こーして萌歌と外で会えるならさあ、学校なんか、消えればいいのに」

 全く温度の感じない、呪いのような声に反射的に視線が向いた。奴はまるで晴れ渡った空を憎々しげに見つめている。私の視線に気づいて変えたのか、にっこりと音でもするような笑い方をして「なんちゃって」とおどけた。

「何でそんなビビってんの? 照道くん傷ついちゃうんだけど」

「……本気、みたいな、……こ、こ、声だったから」

「あはは」

 清水照道は、否定をしない。「そんなわけないじゃん」と笑えばいいのに、どこか乾いたような笑いをして歩いていく。私はその横顔にどこか危うさを感じながら、奴の隣を歩いていた。