この恋を殺しても、君だけは守りたかった。

「照道ーっどこだー!」

 後ろから寺田が叫んでいる。距離も空いているし、その間には人もいる。、寺田たちが急激にこっちに来ることはないだろう。わずかに安堵していると、清水照道が一切の反応をしないことに気付いた。いつもなら馬鹿みたいな返事をするはずなのに、まるで聞こえていないかのように黙々と歩いている。

「てるみちー! いないのー?」

 今度は千田莉子の声だ。しかし清水照道は返事をしない。それどころか表情がどんどん能面のようになっていって、恐怖すら感じた。

「お、おい、呼ばれてるぞ」

 声をかけると強い目を向けられたら、怯む。清水照道はため息を吐いてから声を張り上げた。

「……照道ここー!」

「ちょっと来てくんねえ? 河野が呼んでるー」

 清水照道がまた私を見た。今度はこちらの様子を窺う、私の選択を待つ目つき。選ぶ権利なんて私にはない。それなのに奴は考え込んでいる。その時間が苦痛で、私は迷う肩をわずかに押した。

「い、け」

「でも」

「……わっ、わらわらここに来られても、め、め、迷惑だ、いけっ」

 そう言うと、清水照道は「そのほうが安全か」と呟いて足を止め、逆走を始めた。なんだかその表情がやけに頭の中に残っていくような気がして、私は奴を振り切るように前を見据えて歩いたのだった。



 一つ一つ、石と小枝を地面に沈めるように歩いていく。

清水照道と別れて大体一時間、団子みたいに固まっていたり、三人くらいで歩いて邪魔な生徒を追い越して山を登っていくと、ふもとの景色は生い茂った木々に隠され、周囲は霧に包まれ始めた。

 きちんと初心者コースである確認をして、分かれ道を進んでいく。私の前を歩く生徒は見えず、後ろも歩く生徒がうっすらと見えるだけ。

 でも油断は出来ない。のろのろ歩いていたら、後ろから来た清水照道たちに馬鹿にされるに違いない。「待っててくれたの?」なんて言って、絶対馬鹿にしてくる。

 ああいう奴はいつだってそうだ。こっちの事情なんて考えない。あいつは心配みたいな顔をしていたけど、きっと演技だ。心配してるふりをして、近づいて利用する。人の前に立ちたがる奴はみんな等しくクソなんだ。

 中学の時だってそうだった。小学校のころ私は話の仕方が変だと馬鹿にされて酷い目にあった。だからお母さんが私が話をするのが苦手だと言うことを中学に入学するときに学校側に説明してくれたけど、でも、それが駄目だった。

 一年の時、教室で私は「樋口さんは上手く話ができない子なんだよ」と入学式から教室に戻ってすぐに発表された。そのまま黒板の前で自己紹介をさせられた。「だからみんな樋口さんを受け入れてあげてね」なんて言っていたけれど、あの瞬間まさしくクラスのみんなと私が切り離された瞬間だった。
 次は二年の後半だ。一年の時の発表は二年になっても付きまとい、私は「うまく話せない子、一年の頃の自己紹介で変な喋り方をしたやつ」として周知され距離を置かれていた。

 そんな時、クラスで中心にいる奴の作文が、夏に開かれた国が主催している高校生のコンクールか何かで賞を取ったのだ。

 その題材が私だった。

 私は自分が題材にされていたことを全く知らず、夏休み明け、先生が皆の前で発表し愕然とした。私はそれまで奴とは一度も話をしたことがなかったし、書いてもいいかなんて聞かれていなかった。

 呆然としていると、秋にスピーチコンテストがあり、そこで作文は国の偉い大臣とかの前で読むと担任が説明し、通例では作文を書いた本人が読むものだけれど、ここは私が読むべきだとみんなの前で言い放ったのだ。そうすることで、私と同じ悩みを持つ皆を元気づけられると笑って。

 そんなこと、出来るわけがない。何度首を横に振って、嫌だと言ってもなかったことにされて、なら始業式が始まる前に皆の前で読めばきっと大丈夫だと、この場には私の味方しかいないのだからと、そう言って先生は私を黒板の前に立たせ、読み上げるであろう作文を持たせた。

 顔を上げれば、好奇の目が一瞬にして私に集中した。皆そろえた様に唇に弧を描いているように見えて、二つ並んだ白目に丸い点がぎょろぎょろとこちらを覗いている。

 その光景を前にしたとき、心臓がばくばくして、足が震えて、背筋がとにかく寒くて、気が付いた時には胃液がせり上がってきて、どうしようもなくなった私は盛大に吐いた。

 吐いてはいて、先生が駆け寄って私の背中に手をまわした瞬間どんどん吐き気が止まらなくなって、皆が私のことを避けて教室の、黒板側とは正反対の方向に皆が寄って、校内を歩いていた先生たちが状況がおかしいことに気付いて、教室に入ってきた。

 後のことは、もう地獄としか言いようがない。ゲロまみれの私は入ってきた先生たちに運ばれて、保健室に連れていかれたあと病院に行った。その後は、悲しそうな顔をしたお母さんが迎えに来て、一緒に帰った。その夜、お父さんは私に部屋にいるよう言って、しばらくすると玄関のチャイムが鳴って、担任と、作文を書いた奴の声、そしてお父さんとお母さんの話声が聞こえた後、声を荒げる二人の声が聞こえた。

 担任の先生は、きっと私が誤解をしているから会わせてほしいという一点張り、最後にはお父さんが出ていくよう伝えて、担任たちは出て行った。

 そして次の日、私は学校を休んだ。

 お母さんもお父さんも、行きたくなったら行けばいいと言ってくれて、でもこのままだと高校の受験に響いてしまうことは自分が一番よく分かっていて、嫌だったけど始業式から一週間経った頃、学校に行かなければと朝起きて、制服を着て、教科書をもって、玄関を出ようとした瞬間、急激に吐き気が込み上げてきて、吐いた。

 何度吐いても吐き気は収まらなくて、玄関をぐちゃぐちゃにして、お母さんが背中をさすってくれても全然吐き気が収まらなくて、結局救急車で運ばれた。それからまた、一週間くらいたって、今度こそ大丈夫だと自分に言い聞かせて玄関の手すりを握ると、また駄目だった。

 それからは、もう学校に行くのは無理かもしれないという話になって、お母さんたちと学校が話し合いをして、三か月間私は家にいた。
 それから担任ではなく別の先生が家に来て、プリントや授業をまとめたものを家に届けてくれて、家に来たとき両親経由で渡してくれれば、内申点の評価をすると言われた。

 学校に行けない間、私はお母さんと近所の散歩を初めて、慣れてきたら図書館で勉強をしたり、病院に行ったりしていた。

 そうして少しずつ、少しずつ外に出る機会を増やし、学校に向かうことのないまま三年生になった頃。私は高校の受験をしたいと言った。

 このままだとお母さんにも心配をかけ続けることになる。お母さんとお父さんの不安げな表情や、心配そうな顔を見たくはなかったし、ネットで高校について調べると、通信制の高校を見つけたことも大きい。中学のいない高校を選んで、それでも駄目だったら通信制の高校に切り替えればいいと逃げ道を発見して、私は少しだけ前向きになれた。

 それから、お母さんやお父さん、ネットで有志の人がアップしている勉強の動画を見たりして、高校受験の勉強をした。

 出席日数に不安がある分試験では絶対にいい点数を取らなければいけなくて、小学校虐められてまともに授業が受けられなかったし、中学で授業を受けていない分勉強は大変だった。

 受験票の提出はお母さんがしてくれたけど、試験は自分がしなきゃいけない。受験当日の朝、服を着替えて、朝ご飯を食べて、鞄をもって、靴を履き替えて。そして玄関のドアノブを握ったとき、足は震えたけど吐きはしなかった。お母さんは嬉しそうに笑って、試験すら受かってないのにおめでとうと喜ばれた。

 そんな経緯を経て、この高校に入ったわけだけど、まさかあんな奴、清水照道が六月になって現れるとは思っていなかった。クソ、本当にクソだ。

 嫌な気持ちが拭えないまま黙々と山を登っていると、景色が変わったことに気付いた。今まできちんと道になっていたはずなのに、どこか獣のようで転がる大きな石は無くなり、代わりに小ぶりな岩がごろごろと斜面に鎮座している。地面は雨なんて降っていないのに湿っていて、ぬかるんでいる気がしてならない。

 ……道を間違えた?

 でも、きちんと初心者コースか山登りコースか確認して進んだはずだ。

 山登りコースを選んでいるのなら、私みたいな人間が登れるはずがない。気のせいだと少し進んでいき、周りに全く人の気配を感じられず立ち止まる。

 もしかして、ここはどのコースでもない? 迷った?

 コースは二つしかない。けれど定められたコースが二つしかないだけで、別にそれ以外の道を通ると降ろされるとかそういうことはない。

 あの看板を誰かが悪戯して、私は今全く別の場所を進んでいることもあり得ない話じゃない。頭の中に、遭難という文字が過る。

 いや、まだ遭難してない。スマホを確認すると電波は良好で、圏外にもなっていなかった。もしこのまま上に登って道がおかしくなったら、戻ろう。戻って戻れなくなっていたら電話しよう。遭難していないなら、電話はしなくていい。

 電話を掛けることを考え、ぎゅっと心臓が痛むのを落ち着けるように大丈夫だと深呼吸をして、画面に目を向ける。

 時刻は山頂に集合するまで余裕がある。大丈夫だとまた深呼吸をしようとすると、画面に水滴がぽつりと落ちた。
 雨だ。

 反射で動くように鞄から傘を取り出そうとする。でも今日の天気予報は晴れで、予備のつもりで持ってきたから奥まって取れない。もたつきながら折りたたみ傘を出して差すと、瞬く間に大粒の雨が降り注ぎ始めた。

 さっきまで薄ぼんやりと明るかった景色が一気に暗くなる。空はどす黒い雲が覆っていて、遠くからは雷鳴が聞こえてきた。折りたたみ傘には絶え間なく伸し掛かるような雨が降り注ぎ、足元に泥が跳ね隙間から靴を濡らしていく。

 どこかで一旦雨宿りをしなきゃいけない。

 不安を抱えながら進んでいくと、大きな岩と岩が重なり合って、人ひとり入れるくらいの隙間を作っていた。少しずつ岩場を登り、隙間に入るようにしてしゃがみ込む。靴下はすでに雨水と泥をたっぷりと吸っていて酷く重たい。いつの間にか遠くから聞こえていた雷鳴は大きく目の前に轟くようなものに変わって、目の前が激しく光るほどに近くなっていた。

 このままだと、絶対山になんて登れない。山登りは中止になったかもしれない。早く下山をなんて話に、なっているかもしれない。

 鞄からスマホを取り出して、画面のロックを解除する。電話を。電話をしなきゃいけない。今日の山登りのしおりには、緊急時の電話番号が書いてある。そこに電話をして、助けを求めるべきだ。そう思っても電話のアプリに指が向いていかない。

 学校に、連絡を入れればいい。

 でも電話を出来る気がしない。

 間違いなく助けを呼ばなきゃいけない状態なのに、ボタンを押す気になれない。どうせわかってもらえない、無駄だ。通話はまだ始まっていないのに、繰り返し聞き返されるような声が聞こえてきて中学の出来事を思い出す。

 安堂先生にバレて、また中学の時みたいになるんじゃないか。ただでさえ清水照道に馬鹿にされて玩具にされている今、安堂先生が私のことをクラスの連中に言ったら、また中学と同じ目に遭うんじゃないか。

 せっかく、せっかく外に出られるようになったのに。学校に通えて、お母さんにもお父さんにも迷惑かけずに済んでいるのに。

 そう考えると、今助けてもらうより、いっそこのまま雨が止むのを待って、自力で降りていくほうがよっぽどいいことのように思えた。それに、私がいないことなんて誰も気づかないかもしれない。点呼の時、私がいないことに安堂先生が気付いても、きっと河野由夏たちに話しかけられたらすぐに忘れる。大丈夫、電話なんてかけなくていい。

 身を千々込めるようにして膝を抱え、ぎゅっと手のひらを握りしめる。

 どうして、電話が出来ないんだろう。みんな、みんな普通にしているのに。そう考えると無性に死にたくなった。お母さんも、お父さんも普通にしてる。皆してる。なのに私だけができない。死にたい。もうこのまま、消えたい。助けなんて来なくていいからみんな私のこと忘れてほしい。

 ぐっと喉が詰まっていくのを感じながら顔を伏せる。すると雨音と雷鳴の隙間を縫うようにして、人間の叫ぶような声が聞こえてきた。

 私のほかにも、遭難してる人がいるのかもしれない。

 顔を上げて周りを見ると、暗がりの中で雨が降りしきるばかりで景色は分からない。ただ時折大きく鳴り響く雷鳴とともに、ぱっと周りに光が照らされ、人影のようなものが遠目に映った。その人影は、雷が周囲を照らすたびに、徐々にこちらに近づいてくる気がして、次第に鮮明に浮かび上がってきた人影に、私は言葉を失った。

「萌歌!」

 怒鳴りつけるように、絶叫するように清水照道は大きく目を見開いてこっちに向かってかけてくる。

 傘も差さず、いつかの時みたいにずぶ濡れだ。地面はぬかるんで、こんな場所は走ることなんて無謀なのに、何度も躓きながら走り、奴は息を切らしながら私の目の前に立った。

「なんでこんな危ないとこいんだよ。岩が雨水で滑ったら潰されて死ぬじゃん、ほら、行くぞ」

 清水照道は私の傘を奪うようにしてさし、私に無理やり持たせてそのままどんどん進んでいく。

 どう見ても奴の進む方向は正しいルートから外れるような、山の奥深くへと進んでいくものだ。どこに行こうとしているんだ。そう言いたいけれど奴の鬼気迫るような態度に何も言えない。そのまま進んでいくと、徐々に道が平たくなってきて、遠くには雷光に照らされ建物の影が浮かび上がった。やがて山小屋にたどり着くと、奴は南京錠をかけ閉じられた扉を蹴破った。

「お前……!」

「入って」

 無表情で中に入るよう促され、小屋の中へと足を進める。中には暖炉と、机、椅子が並べられていて、休憩をするのを目的にしたような場所だった。清水照道は扉を閉めると、辺りは急に暗くなる。しかしすぐにパチンと、軽い音がして照明がつけられた。奴は「照明生きてんじゃん。良かったー」と明るい口調で、まるでさっきまで能面のように表情が無かったのが嘘だったかのようにへらへらと笑っている。そして頭を振り、水滴を飛ばすと髪をかき上げこちらを見た。

「つうか萌歌ちゃんどっか怪我してない? 気持ち悪いとか、頭痛いとか、吐きそうみたいなのは?」

「……な、ない」

「いや怪我してんじゃん」

 清水照道は私の足元を見て顔を顰めた。視線を追うと確かに私の膝は擦りむき、血が滲んでいる。でも、軽くすった感じで切り傷になってるわけでもない。こんなの怪我のうちに入らない。中学の時突き飛ばされたときのほうが、もっと血がだらだら出ていた。だから何故奴がそこまで顔を顰めるのかと思っていると、奴は私の足元にかがんで、リュックからハンカチを取り出しぐるぐる巻きだした。

「は?」

「俺には別にいいけど、後から先生来たときはちゃんと言えよ? ……はい、でーきたっと。ちょっと待ってて、今現在地連絡するから、そしたらすぐ助け来るし」

 そう言って奴は私の膝にハンカチを巻き終えると、電話をかけ始めた。すぐ繋がったらしく、私と一緒にいることや、現在地を伝えていく。どうしてこいつはこんな場所のことを知っていたんだろう。調べたとか? こんな場所、しおりにだって載っていなかった。疑問を感じながら奴が電話をしているのを見ていると、奴はスマホをポケットにしまいこちらに顔を向ける。

「多分だけど、四十分くらいはかかるって、その間二人っきりだね萌歌ちゃん」

 その言葉に返事をせずじっと奴を見ていると、奴は首を傾げる。私に近づいてきて「まぁ座っておきなって」と椅子に座らせたと思えば軽く咳き込んで水を飲んだ。

「……何でだ」

「ん?」

「な……何で、きた」

「好きだからに決まってるじゃん?」



 へらへら、馬鹿にするような笑いをしながら清水照道は唇に弧を描く。その様子に苛立って何故あの場所にいることが分かったのかを問いかけると、今度は含みを持たせるように笑った。

「萌歌ちゃんの居場所は、ぜーんぶ分かるから。運命共同体ってやつ」

「ふ、ふ……ふざけるな」

「……萌歌が先登ったのに、頂上にいなかったからだよ」

 清水照道が、真面目な顔で私を見る。視線を逸らすと、奴は言葉を続けた。

「先登って、萌歌いなくて、上にいた奴らに聞いて回っても誰も萌歌ちゃんがどこにいるか分かんないみたいで、だから山ばーって下って、とりあえず探した。まぁ、見つかってよかったわまじで。完全に運命だよな。すげー心配したわ」

 奴は「あー、水飲む?」「寒い?」とこちらの様子を伺いながら、部屋の奥の扉、出口とは別の部屋に向かって歩いていく。そして「この小屋開くの冬場だからさあ、毛布はあるはずなんだよね」と一人で呟きながら扉に手をかけた。横目で見ていると、次の瞬間清水照道の身体が糸を離した操り人形みたいにがしゃんと崩れ落ちる。

 慌てて床に伏せる奴に近づくと、奴は激しく咳き込み、さっきまでへらへらしていた瞳が嘘のように虚ろで苦しそうなものに変わっていた。
「おい!」

「あー、わり、だいじょーぶ。つうかさ、うつるからあんま近付かないほうがいーよ……」

 そう言って、喉を焼くような咳を清水照道は繰り返す。恐る恐る力なく地面に置かれた腕に触れると、人間の体温とは思えないほど熱くなっていた。思えばこいつは今日、変に汗をかいていたり、咳き込んでいた。汗っかきだからと言っていたし、咳き込みも喋りすぎだと思っていたけど、違ったんだ。こいつは風邪をひいているんだ。

「……お、お前、な、なーんで、こんな、こんななのに、わ、私のとこ、……来て」

「好きだからって言ってんじゃん?」

 へらへら笑うわりに声は弱々しい。起き上がろうとするのに、力が入らないのか、肩がずれるように動くばかりでまた伏せた。呻きながら「くっそ」と呟き、顔を歪めるばかりだ。

 確か、隣の部屋に毛布があったはず。立ち上がって隣の部屋に入ると、棚には真空パックに詰められた毛布が並べられていた。いくつか袋を開いて丸め、清水照道の枕代わりにして、のこりはそのまま覆うようにかけた。浅い呼吸は苦しそうで、額には大粒の汗が浮かび、瞬きすらゆっくりだ。

「はは、看病してくれんの? うれし、俺こーいうのされんの初めてだから、萌歌ちゃんに初めて捧げちゃったわ」

 そう言って、清水照道は咳き込む。こういう時は、とりあえず水分を取るのがいいとどこかで見た。奴の鞄からペットボトルの水を取り出し、奴の頭を抱えるようにして、ふたを開く。

「なに、飲ませてくれんの? やっぱ萌歌はやさしーね」

「う、うるさい……いいから飲め」

 黙らせるように水を飲ませていく。髪の毛すら雨に濡れている姿が、ふいに終業式の日、奴がずぶ濡れで帰った日と重なった。

 あの時こいつは私に傘をさして、自分はシャツが身体にはりつくくらいびしょびしょに濡れていた。こいつが今風邪を引いているのは、私のせいかもしれない。

 いや、私のせいだ。

 そう考えると、ずっとこいつのことを苦しめて、復讐してやりたかったはずなのに、取り返しのつかないようなことをした気持ちになって、喉の奥がぐっとつまった。俯くと、奴は私の顔を見上げるようにして、頬にそっと触れてくる。

「気持ち悪い? 頭、痛いの? ……安心しろって、ちゃんと助け来るし……大丈夫だからな」

 浅い呼吸の間に紡がれる言葉。こいつは私をクソつまんないから、面白くしてやると言ってクラスの前で馬鹿にする奴だ。中学校の奴ら、小学校の奴ら、幼稚園の奴らと何も変わらない。

 変わらないはずなのに、奴の手が頬に触れても怖いとも思わないし、気持ち悪くもならない。目の前で力なく私を見るこいつが、本当に私を心配して、ただただ労わろうとしているように見える。

 嘘なのに。絶対嘘なはずなのに。こいつは私を玩具だと思っていて、笑いに執着して、いかにクラスを盛り上げるかしか考えていない。

 それなのに、目頭がじわじわ熱くなって、涙が出てきた。

「萌歌……?」

「な、な、な、何で、……わー、私なんか、助けにっ……」

 こいつは、人の心を弄んで、馬鹿にして遊ぶ奴だ。私を嘲笑って、馬鹿にして、笑いものにして、同じ人間だなんて思っちゃいない。今までの奴らと同じだ。それなのにどうしてこいつは私のためにずぶ濡れになってまで傘を差し出して、私のせいで風邪を引いたのに、苦しいのに、つらいのに、山に登ったのに下ってどこにいるのか全く分からない私を探して、ズボンもスニーカーも泥だらけにして、ずぶ濡れにして、髪の毛ぐちゃぐちゃになって、倒れてまで私の心配をするんだ。

 何なんだこいつは。

 目の前の奴のことが全然わからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで涙が出てくる。一方奴はまるで私をあやすように指で涙をすくって、困ったように笑っている。

「なんかじゃねえし。萌歌は萌歌だろ。っていうか泣くなって、そんな顔させたいわけじゃないんだって」

 私だって、泣きたいわけじゃない。

 清水照道にあやされるみたいにして泣いている今の状況が情けなくて、不愉快極まりないのに、それでも涙は止まってくれない。

「ほら、目こすんなって、腫れて痛くなるだろ。つうかマジで泣きたいのこっちだったからな? 山登ってどこ見ても萌歌いないし」

「ううう、うるさい! ……おー、お前が……! た、助けに来るから!」

「当たり前だろ。俺萌歌のこと大好きだから」

 ばかみたいなほど優しい声に、頭の奥が熱くなった。こいつは、人のことつまんない奴って言った。面白くしてやるって、人のことを玩具みたいに言ったくせに。頭がぐるぐる回るみたいになって、訳が分からなくなる。

「あ、う……った、い、いー言ったくせに! 人のこと、つまんないって、おお面白くしてやるって、か、か、勝手に!」

 怒鳴るように言い放つと、清水照道は私の頭を無遠慮に撫でる手を止めた。まるで、殴られたみたいな、酷く傷ついたような顔をして、流れるみたいにいつも通りのへらへらした顔に戻る。

「……だって、萌歌ちゃんずーっと机に伏せてるから、萌歌ちゃんのかわいーところ皆に見せてやろーかなって、駄目?」

「ふ、ふ、ふざけるな……!」

「本気だって。俺はいつだって萌歌に超本気」

 ぎゅ、と僅かな力で頬を指でつままれた。振り払うと奴は「病人なんですけど?」とおどけたような顔をする。さっきよりだいぶ顔色がよくなってきた。っていうかさっき、なんでこいつはあんな被害者面したんだ。睨んでやろうと思っても、混乱は続いていて、こいつが助けてきたこと、こいつが馬鹿にしてきたことが頭の中で渦を巻いて巡って、どうしていいかわからなくなる。

「お、お、お前は、なー、な、何が…………目的なんだよ……」

「萌歌ちゃんが学校平和に過ごせること」

「……ど、ど、どういう……」

 言いかけた瞬間、扉を叩く音がした。養護教諭の先生の声もする。慌てて扉を開くと、養護教諭の先生と、萩白先輩が合羽を着て並んでいた。

「樋口さん無事だったのね。良かったわ……! あれ、清水くんはどうしたの?」

 状況を、清水照道が倒れて、風邪を引いて、熱が出ていることを説明しないと。

 口を開こうとしても呼吸ばかりで出てこない。「あの」「えっと」と言葉を繋げていると、先生は私を見て「大丈夫よ」と落ち着くように声をかけてくる。違う。違う。こんな場合じゃないのに。振り返って奴について説明しようとすると同時に、ぽんと肩に熱を帯びた手がのせられた。

「いますよせんせー、つうか雨でまじ速攻で風邪ひいたっぽくて……。勝手に小屋ん中のもん使っちゃったんですけど、大丈夫っすか?」

 淡々と、少ない言葉で状況を説明する清水照道。先生は瞬時に察したらしく「ええ。先生が説明しておくわ」と頷く。二人の背後から見える景色は雨足は強いものの外はいつの間にか明るく、雷鳴も落ち着いていた。

「今はみんな、山の上で待機ってことになっているの。でも、この調子だと清水くんは早退したほうがいいわね。家の人と連絡は取れるかしら」

「あーうち無理っすね。母親仕事中電話切ってなきゃいけない仕事なんで」

 先生の問いかけに、奴は淡々と答える。そして私の腕を掴むと「樋口さんも」と話を続けた。

「樋口さんも、さっきまで吐いてたり、頭痛いって言ってたんで、早退させたほうがいいと思います。高山病? かなんか分かんないっすけど、俺のこと、看病してる間も、すげえふらついて、倒れたり、ゲロゲロ吐いてたり酷かったんで」

 そんなこと、一言も言ってない。それにふらついてたり倒れたのは清水照道のほうだ。それなのに奴は平然と嘘をつき続ける。

 なんでこいつは私を早退させようとしているんだ? 私が首を横に振り訂正する前に先生は頷き、「じゃあ二人に会えたことと、早退すること安堂先生に連絡するから」と電話を始めてしまった。その言葉に、萩白先輩の顔が一瞬でゆがむ。清水照道は「萌歌も濡れてるし、いつ熱出るか分かんないじゃん?」と声を潜めるようにして私を見た。先生の隣に立っていた先輩は、こちらを心配そうに振り向く。

「君たち、四月の頃に二人で保健室に来ていたけど、大丈夫? あんまり保健室に来ないようだけど、辛いようならいつでも来ていいんだよ? 私はいつでも歓迎するし」

 先輩はうんうんと頷きながら、私たちの肩に手をのせた。清水照道は「ありがとーございまーす!」とおどけたように返事をした。良かった。元気そうだ。ほっと力が抜けるような感覚がして、その後すぐにはっとした。

 なんで私は今、安堵したんだ。

 まるで、こいつが元気になって良かったみたいじゃないか。私はこいつを苦しめたいのであって、馬鹿にしてくるこいつを復讐したいのであって、別にこいつが元気になって嬉しいはずがない。むしろ逆だ。私はこいつに散々馬鹿にされてきたんだ。それを私は忘れたのか。でもこいつは、助けに来た。

 奥歯をぎりぎり噛みしめる。奴は萩白先輩と会話をするのをやめ、電話を終えた先生に状況を説明し始めた。私はもやもやしていくものがどんどん大きくなるのを感じながら、濡れた背中を睨んでいた。
 照り付けるような太陽の元、線香が薄く香る長く空に伸びていくような坂をお母さんとお父さんの間に並んで上っていく。今日はお盆休みで、隣駅のお寺にあるお母さんのおばあちゃんとおじいちゃんのお墓参りに来た。額から汗を流れるのを感じながら、まだ辿り着かないのかとスマホを取り出す。地図を見れば目的地には近くこのまま歩いていればもうそろそろ着くらしい。安堵しながらアプリを閉じて、待ち受けに表示していたカレンダーが視界に入った。

 校外学習から、一週間が経った。今日を知らせる日付とその周りには赤い字が並びお盆休みに入ったことを示していて、すぐ近く……月末の学校開始の文字に胃が重くなった。

「どうしたの萌歌、疲れちゃった?」

 花を抱えたお母さんがこちらを見る。お父さんは「日傘を持ってくればよかったかもしれないね」と額の汗をハンカチでふく。私は大丈夫だと伝えるために頷いて、歩く足に力を籠めた。

 校外学習の日、私は結局清水照道とともに早退をした。保健室の先生や萩白先輩と下山して、他の生徒や担任とは会わなかった。あの大雨はどうやら一時的なものだったらしく、清水照道以外は皆山頂にいて、校外学習は継続だったらしい。私は山のふもとで迎えに来たお父さんやお母さんと帰ることになったけれど、奴は保健室の先生と帰ることになっていた。

 両親が来ない清水照道に同情をして私の両親は車で送っていくことを提案したけど、奴はへらへら笑ってそれを断った。

 そうして、校外学習から時間はどんどん過ぎて一週間。夏休みに入っていなかったら、きっと次の日には清水照道によって私は馬鹿にされていただろうけど、今私は清水照道だけじゃなく他の奴らにも会っていない。奴は夏休み前意気揚々とクラスの連中と約束を繰り返し「満喫する!」なんてぎゃーぎゃー言っていたから、今頃「樋口俺が助けてやった」みたいな話を武勇伝としてぺらぺら話をし、馬鹿にしているのかもしれない。

 でも私はその場にいないし、夏休みが終わるまでまだ二週間はある。きっとその頃にはその話に飽きていることだろう。

 安堵したいけれど、どこか気分に重しが残る。私が清水照道によって巻かれたハンカチを持ってしまっているからかもしれない。私はハンカチを巻かれていたことをすっかりと忘れ、奴と別れてしまった。だから夏休みが始まればあいつに私はハンカチを返さなくてはいけなくて、それが夏休み終了への鬱屈としたような、嫌な気持ちを増す要因となっている。

 黙々と坂を上っていると、線香の香りが濃くなってきた。顔を上げると落ち着いた色の瓦が視界に入る。

「ああ、やっと着いた。」

 お母さんが息を漏らしてつぶやいた。ここに来るのは毎年だけど、相変わらず特に変わりのないどこにでもあるようなお寺だ。門を潜り抜け、三人そろって本堂で挨拶を済ませて、ひしゃくと桶を借りて、水場で水を汲んでいく。準備を整え霊園に足を踏み入れると、一面敷き詰めるようにお墓が並んでいた。

 お墓には、花が供えられているところ、お酒が供えられているところ、何もされていなくて、土で汚れているところと様々だ。少し湿った土を踏みしめ歩き、ぼーっとただお墓を眺めていくと、おばあちゃんとおじいちゃんのいるお墓についた。

 お母さんとお父さんは手を合わせお墓の掃除を始め、私も慌てて手を合わせる。お墓はわずかに土や強い風で飛んできた葉っぱがついたりしていた。その葉っぱを取りつつ、漠然とお墓を見つめる。
 私は一昨年ここで、おじいちゃんとおばあちゃんにお願いをしたことがある。そっちに連れて行ってほしいというお願いを。

 少し口の中が苦くなるような錯覚を覚えていると、お母さんとお父さんは掃除を終え線香を焚き始めた。そして水をかけ始める。

 その水を見て、お風呂で昔、手首を切ろうとした時の光景が重なった。やり方はネットで調べて、切るものは家にあったものを使おうとした。お父さんが仕事に行くのを待って、お母さんが買い物に出かけるのを待って、二人がいなくなった時に部屋を出て、私はお風呂場に向かった。

 でも出来なかった。

 体に刃をあてることは怖いと思ったし、ほんの少し刃をあてただけなのに痛くて、これ以上は無理だと思った。その後は天井の照明のところにコンセントの延長コードをくくった。でもいざ近くに椅子を置いて、輪へ首を通そうとすると足が震えた。ベランダから外を見ても同じだった。ベッドに入っているときは出来ると思っていたのに、結局できなくて、私は今もここにいる。お母さんとお父さんが悲しむだろうと思うし、最近はしない。でもいつも頭の中には、早くここからいなくなりたいという気持ちは拭えない。今このまま生きていくよりずっといいと思う気持ちは、全然消えない。

 お母さんとお父さんが手を合わせる。どこか後ろめたい気持ちで私も手を合わせた。しばらくそうしていると、やがてお母さんもお父さんも手を合わせるのをやめ立ち上がり、来た通りの道のりへと歩みだした。

「おじいちゃんとおばあちゃん、萌歌とあえて嬉しいってきっと言ってるわよ」

 お母さんは、穏やかに笑う。曖昧に頷いていると、向かい側から男が歩いてきて、驚いたような声を僅かに漏らして立ち止まった。不審な仕草に目を凝らして、愕然とした。

 清水照道だ。

 校外学習の時のウェイみたいな服装とは全く異なった黒っぽい服を着て、手に花とおけと柄杓を持った清水照道が、道の向かい側に立ち尽くすようにしてこちらを見ていた。表情は驚いているのに、感情が欠落しているようにも見える。しかし奴は表情をすぐに変え、墓の周りではやや不謹慎な笑みを浮かべこちらに向かって歩いてきた。

「こんにちは! 樋口さん!」

 そう言って笑う清水照道に、父と母も好意的に「清水くん」と微笑み返す。

 二人は私が山でいなくなり、清水照道が私を探し山を下った話を先生から聞いていた。だから、奴をいいやつだと考えている。好意的な両親を見ると、奴を見る時とはまた異なったもやもやが胸に広がる。

「お墓参りですか?」

「ええ、そうなの。萌歌のおばあちゃんとおじいちゃんに挨拶に来てね、清水くんも?」

「はい、そうです。俺もおじいちゃんとおばあちゃんのお墓詣りに来て……」

 清水照道の手には、私のお父さんと同じようにひしゃくと水の入った桶、もう片方の手には三つの花束がある。

 けれど私のお父さんと違って奴の周りに人はいない。一人でここに来たらしい。こいつが熱を出した時もこいつの家族は迎えに来ていなかった。思えばこいつはクラスの中心でげらげら騒ぎ、その家族の話をしている時もつっこみ役、聞き役に回って何も自分から話そうとはしていなかった気がする。違和感を覚えていると、清水照道は「じゃあ俺は墓参りあるんでこれで!」と奥への方へ歩いていった。その背中を黙って見送っていると、お母さんが「お話しなくて大丈夫? 私たち、先に出てお寺の前で待っていようか?」と問いかけてきた。

「……いい」

 完全に、お母さんとお父さんは私と奴が友達か何かだと思っている。私に友達なんていたことがないのに。でも強く否定すれば、お母さんとお父さんを悲しませてしまう気がして、それ以上何も続けられないでいると二人は「待ってるわね」と、お寺の出口へと歩いて行ってしまった。両親とは反対の、地続きになっている通路では清水照道が奥の墓石の前で手を合わせていた。

 ……私はあの時、清水照道が山を下っていたときのお礼を、言っていない。

 頭の中のもやもやがまた増えて、ぎゅっと手のひらを握って、奥歯を噛みしめながら清水照道に向かって歩いていくと、奴はあまりに冷たい瞳で墓石を見つめていて鼓動が跳ねた。

「父さん、母さん」

 まるで、まるで子供が言葉を覚えるみたいな呼びかけ方だ。唖然としていると声の主である清水照道が、放り投げるように花を供える。墓石を見ると、清水ではない、奴とは異なった苗字が記されていた。奴は父さん、母さんと言った。でも校外学習の時母親は忙しから来れないと言っていた。一体どういうことだ。意味が分からない。

「あれ、萌歌ちゃんどうしたの? 夏休みに俺に会えて嬉しくなっっちゃったとか?」

 混乱していると、いつの間にかこっちを見ていた清水照道はくすりと笑って私を見た。その表情に腹が立ち、強い抗議を示すように首を横に振る。

「なんだあ、残念。っていうかお母さんとお父さんは? 待ってろって言われてどっか行ったとか? はぐれた系?」

「ち、違う」

 否定して、言葉を繋げようとして、自分はいったい何をしに来たのかを思い出す。そうだ。私はこいつにお礼を言いに来たんだ。お礼を、言わなければ。その前に山について言わないと、何のことだと話をする量が増えてしまう。そう考えるだけでもすっている酸素が薄くなるような気がして、振り切るように「や、やーま!」と発した。

「うん」

「……あ、あ、あり、ありがとう」

「お礼なんていいって」

 清水照道は、自然に、馬鹿っぽさが全く感じられない返事をした。どことなく落ち着かない感じがして俯くと奴の足が視界に入り、借りていたハンカチの存在を思い出した。

 今日、あれを持っていれば、返すことができたのに、今日、私はハンカチを持っていない。あのハンカチは洗って干して、紙の袋に入れて机の横の引き出しに入っている。次の言葉を考えていると、奴はじっと私を待っているようで、何も言わずただ私を見ていた。

「……家を、お、教えろ」

「なんで家?」

 咄嗟に出た言葉に、自分でも混乱する。私はハンカチをこいつの家に届けようと考えているのか……? でも言った言葉は取り消せない。清水照道はスマホ貸してと私に手を差し出してきた。ふざけるでもなく真面目に、感情の色が見えないその表情に押されるようにスマホを渡すと「メモに書いておくね」と勝手に操作し始める。何かを入力し終えると、私にスマホを返してきた。

「これでいつでも住所晒せるじゃん」

 言われた言葉の意味が掴めない。住所が晒せる? こいつは私が復讐をしようとしていることを知っている? というか晒さないし、そんなことまではしないし、そもそも何故こいつは晒されると思って住所を渡したんだ? 偽物だから?

「お母さんとお父さん、待ってるんじゃない? 行かなくていいの? それとも二人でどっか遠くにかけおちする?」

 清水照道はおどけながら笑う。なんだか住所だの偽物だのと考えていることが馬鹿らしくなった。「しない」と呟いて、奴に背を向け歩いていく。言葉がいつもよりすんなり出た。私はまた奥歯を噛みしめ、奴のもとから去っていった。
 お盆が終わり、ほぼ平日になった電車内の中、閑散としながらもどこかに出かける子連れや、プールバックを抱えた同い年くらいの陽キャを横目に、素早く流れる車窓に目を向ける。

 お墓参りから一週間、私は清水照道の家へと向かっていた。

 出来ることなら、あいつの家の近くに、あいつに近づきたくない。今もそうだ。だからあいつに住所を聞いた後もハンカチを届けるか届けないか、ずっと悩んでいた。

 でも両親は校外学習の三日後くらいに、奴にお礼にとなんだかとても仰々しい箱を用意していたのだ。

 お母さん曰く中身は近くのお菓子屋さんのクッキーで、確かに見覚えのあるような包装紙だった。でも学校経由であいつに連絡を取った後、そんなことしなくていいと断られ連絡先も教えられなかったらしく、クッキーの入った紙袋はリビングに居場所の無いようにぽつんと置かれていた。

 両親は、私を助けに来てくれた人間がいたことが本当に嬉しかったんだと思う。今まで私は学校で何かされたと言えば、物を壊されるか服を汚されるか怪我をさせられるかだった。でも今回私は勝手に遭難して、あいつが助けに来た。いつもなら両親は学校に行くことを進めるような言葉は間接的にでも絶対に言わないのに、「あの箱、夏休みが終わったら清水くんに持っていってくれないかな?」と言ってきた。

 間違いなく学校で渡せばあいつらの言う「ネタ」にされると考え、私はそのクッキーを夏休み明け自分の部屋に置いておくと決めていた。

 それから日が経ち、お墓参りで奴と会い住所を聞き出したこともあって、あいつにクッキーを渡さないと決めたことが私の頭の中から離れなかった。

 そしてふと、別に直接届けなくても、ハンカチをポストに入れておけばいいことに気付いたのだ。

 直接届けず、クッキーの箱もポストに入れておけば、奴と出会わなくて済む。ハンカチを一緒にポストに突っ込んでおけば、私か、私の両親からだと分かるだろう。学校が始まって「クッキー届けられた」なんて言われる可能性はあるけれど、私は住所を聞いてしまっている。クッキーを届けても届けなくても何かしら言われる可能性はあるのだ。それならもういっそ届けるかと、そう思い立った。

 夏休み終了まで、おおよそ十日。お墓参りをして約一週間後の今日、私は奴の家のポストにクッキーを届けに行くことにした。

 両親には清水の家に行くと言ったときついてこようとしたけど、一人で行きたいことを伝えて一人で家を出た。

 私の家から奴の家までは駅で五つほどの距離がある。迷わなければ誰かに話しかける必要もないし、迷ったとしてもスマホの地図アプリがある。

 奴の家は住所を検索にかけたけど、本当に普通の家に住んでいた。地図アプリでポストの位置も確認した。クッキーの紙袋が入るかは微妙だけど、きちんと包装紙に包まれているし、袋から取り出してそのまま箱を入れればいい。

 大丈夫だと心を落ち着けていると、奴の家の最寄り駅にたどり着いた。電車から降り、人目を避けるように改札を潜り抜け駅を出る。

 駅の何番の出口から出ればいいかは調べ済みだ。

 レジに行く必要もないし、買い物をするより確実に楽なはず。なのに緊張は溶けなくて、視線を落としがちにしながら地図アプリを頼りに歩いていく。

 駅を降りてすぐは、大通りになっていて、大きな会社や同じようなコンビニが等間隔に並んでいた。そのせいか人通りも多い。ぶつからないように、間違っても話しかけられないように歩いていくと、徐々にそびえたつようなビルは減り、木が増えて、アスファルトの地面もレンガ造りのようなものに変わっていく。

 地図アプリと景色や周りの建物を何度も見返し歩いて行って、電柱や掲示板にのっている住所とあいつが書いてきた住所を見比べるように歩くと、少し奥まった通りに出た。

 多分、清水照道の書いた住所が偽物でなければ、正しいはず。

 あいつが住所を書いたときに言った言葉は何となくおかしなものだったけれど、嘘をついているような気はしなかった。住宅街へと足を踏み入れ、清水の表札を探していくと、アプリで見た白塗りの壁が視界に入った。恐る恐る名前を確認すると、ガラスのプレートにローマ字で清水と記されている。

 アプリで見た時よりも、大きく感じる。

 とにかく、さっさと用事を済ませよう。……このままここに居たら、知らない奴に馬鹿にされて嫌な目に遭うかもしれないし、もしかしたらあいつが家に帰ってきたり、家から出てくるかもしれない。あいつの家族と鉢合わせる可能性だってある。

 私はさっさとポストにハンカチを入れた袋を突っ込んだ。そして次に、クッキーの箱を入れようとする。でも、蓋の幅がぎりぎりのところで擦れてつっかえてしまった。ほんの少し、箱を潰せばいけるかもしれないけど、中身はクッキーだ。どうしようか迷いながらもう一度潰れないように入れることを試みる。もう少し、あと少し、潰さないように角度を変えていると、ふいにぽんぽんと肩を叩かれた、振り返るとぶす、と頬に指が刺さった。

「なあにしてんの?」

 振り返ると、清水照道が私の頬に指をさして、にやにやとした顔で笑っていた。格好はウェイのクソパリピ感も無く、いつかのお墓参りのときみたいな真っ黒な、烏みたいな服で、白っぽい住宅街も相まって、こいつだけ嫌に浮いたように見える。

「お、お……おお、お母さんが……く、クッキー、お礼に」

「まじ? 超嬉しい。じゃあポストくんじゃなくて照道くんが受け取っとくわ」

 そう言って清水照道は、私がポストに入れようとしていた紙袋を掴んだ。そしてあたかも自然な流れとでもいうように門を開くと「ほら」と入るように促す。

「……は?」

「何か飲んできなよ。せっかく家まで来たんだし、今日は暑いし」

「い、い、いや、……か、か帰る」

「帰るときは送ってくから、ほら」

 とん、と押されてそのまま後ろを歩かれ門の中に入れられる。奴は紙袋を持ちながら私の肩を掴みどんどん歩かせる。そして玄関の扉を開くと、そのまま私を軽く押し込むようにしてその中に入れた。