授業が終わり、即座に顔を伏せる。
次の時間は、終業式。それが終われば帰れる。明日から夏休みだという一方で、七月の窓の外に梅雨明けの兆しはない。
こうして机にふせていても窓を叩く雨の音が聞こえる。教室の中を濡らさないよう窓は閉じているというのに、隙間から湿った空気が入ってきているのか、教室はどこかじめじめしていた。
うんざりとしていると、その憂鬱さをさらに強める大きな足音がこちらにやってくる。その足音の主は、私の席に半ばぶつかるようにして私の机の前に立った。
今目の前にいる人間は、顔を見なくても、誰か分かる。だからこそ、私は伏せる首の力、顔を隠す腕の力に全力を注ぎ、寝たふりをした。
「ねー萌歌何で寝てんだよー。起きろよー。もしかしてキス待ち?」
目の前の人間は、私の頭に触れそう言い放つ。周囲の不特定多数の人間たちが一斉にくすくす笑い始めた。
「あはは! 照道ウケる、マジ馬鹿!」
「本当最高だよねえ、樋口さん大好きごっこネタ!」
……クソ、本当クソ、皆死ね。
心の中でひたすらに周囲を呪う。いや、周囲じゃ無くこのクラス全員。特に目の前に立つ人間を重点的に呪い、私は顔を伏せたまま瞳を閉じる。私が一切の反応を示さないことにしびれを切らしたのか、清水照道は「駄目だぐっすりだ。静かに寝かせてあげないと」なんて声を潜めるようにして遠ざかっていった。
私の周りで起きていた笑い声も、徐々に別の話題へと移ろいで、周囲はいつも通りの騒音に戻っていく。
清水照道。奴が転校してきて、一か月。そして私を好きだというふざけた行いが始まって二週間。奴がそれに飽きる気配は、見えない。
それどころか、日に日に悪化の一途をたどっている。最近では駆け寄って来て「今日も大好き!」と言い、事あるごとに私を「可愛い」と持て囃し、何かにつけて「俺と萌歌は将来〜」なんて、辿りつくはずのない未来についての世迷言を語る。最悪だ。
「ナスリコー! ジュース買いにいこー!」
「分かったー!」
河野由夏が、千田莉子を呼ぶと、椅子がガタンと音を立てて、忙しない音が教室に響く。千田莉子は先週の家庭科から、「チダリコ」というあだ名から「ナスリコ」というあだ名に変化した。
先週夏休み前半に行われる校外学習のキャンプの練習にと、調理実習で夏野菜カレーを作ることになり、そこで黒板に書かれた茄子の字が莉子と似ているとか似ていないとかで「あれ何? 莉子? 茄子?」と茄子という漢字が読めなかった寺田が言ったことがきっかけだった。
ナスリコなんて、どう考えても馬鹿にされてるあだ名だろうと思ったけど、どうやら楽しいことらしく千田莉子は笑っているし、皆も笑っている。
変化は他にもある。教室は、まとまっていたグループたちが再編されたり分裂したりして、夏休みを目前に落ち着いた。
今は河野由夏、清水照道が率いる男女混合のクソキラグループと、そのクソキラグループを囲うようなグループ、真面目な吹奏楽部女子で集められたグループ、音楽が好きな男子で集まったグループ、そしてオタクグループが点々と混在し、ぼっちの私がいる状態。
周りは変化をしているのに、清水照道は飽きずに私を玩具にしてくる。
馬鹿にしているのだ。私を。だからいつか、人を玩具にした報いを受けさせてやる。そう決めて、しばらく経つ。
けれど具体案は浮かんでいない。でも、やる気はある。奴を苦しめて、後悔をさせてやる。地獄に落とす。
私は机に伏せ、どうやって復讐するか、今日まで答えの出ない想像を始めていった。
「明日から夏休みだけど、校外学習もあるから、皆ちゃんと生活リズムはキープしたままでいてね。それと雨が強くなってきたから、早く帰ること。明日から夏休みだからって浮かれないで!」
終業式も終わり、とうとう帰りのホームルームも終わった。
安堂先生が幼稚園児や小学生を相手にするかのようにクラスのみんなに話しかけている。先生は私たちを子ども扱いする割に、河野由夏の「えー席替え? だるーい」という一言に屈し、席替えをする気配はなく、とうとう夏休みを迎えようとしていた。
一方でクラスの男子たち……オタクグループや、自分が顧問を務める吹奏楽部の女子たちには比較的先生らしい姿を見せている。河野由夏たちはそれでいいのだろうが、ほかの生徒はたまったものじゃなく、この間女子トイレで悪口を言われているのを聞いた。
夏休み、清水照道らに会わなくて済むのも嬉しいけど、安堂先生に会わなくて済むのも嬉しいと思う。
そんなことを思いながら教室を出て、階段を下りていく。そして下駄箱近くの傘立てから自分の傘を取ろうとして、動きが止まった。
傘が、ない。
立ち止まる私を押しのけるように、同じクラスや他のクラスの人間たちが、どんどん自分の傘をそこから抜き取っていく。束になった傘たちはどんどん減っていき、探しやすくなるというのに私の傘だけがどこにも見当たらない。
嫌がらせ……?
ふいに昔の記憶がよみがえった。土砂降りの日に、傘を目の前で折られて、昇降口の外に押され、地面に向かって突き飛ばされる。泥でぐちゃぐちゃになって重たくなった制服、鼻につく土臭さ。頭が真っ白になって、どう立ち上がっていいかすら分からなくなったあの光景が、目の前にあるかのような錯覚を受ける。動けないでいると、後ろから湧いて出てくる騒ぎ声にはっとした。
朝は、きちんと傘をさしてきた。
だから忘れたなんてことはないし、探しやすいように一番端の、奥まったところに差し込んでいたはずだ。ビニール傘ではあるけれど、誰かと間違えることがないために、赤のビニールテープで二重のラインを引いている。
その傘をさしている時、誰かと会った覚えもない。
私がどんな傘を持っているかを、嫌がらせをしてきそうな奴らは知らないはずだ。嫌がらせを受けたのではなく、盗られた可能性が高い。ビニール傘だし、好み関係なく盗んでいける傘だ。
現に傘立ての横を見ると、バキバキにへし折られ意味を成さないような真っ黒な傘が捨て置かれている。
この傘の主が、適当に傘を抜き取っていき、その傘の持ち主が私であったということかもしれない。
傘立てから離れ、柱に隠れるように立ってから、大丈夫だと言い聞かせるように左腕を握りしめる。
外を見ると、ただでさえ大粒で、強めに降っていた雨は完全に豪雨と化し、雷を伴って霧を起こしそうなほど叩きつけるように降っていた。生徒たちはぞくぞくと傘を差して雨の中へと身を潜めていくけど、その姿が少しすれば完全に見えなくなるほどの強い雨だ。
ずぶ濡れで帰ることにも慣れている。
霧雨程度なら帰ってしまうけれど、この雨じゃ無理だ。それに前にずぶ濡れで帰ったときは晴れていた。それ以上濡れることはなかったけど、今は絶え間なく雨が降っている。
先生に言えば、傘を貸してくれるのだろうか。
でも、きっと借りるときに、クラスと番号を名乗ることになる。傘を借りたいと話さなくちゃいけない。
職員室に行き、傘を借りようとする自分を想像して血の気が引いた。私はスマホを鞄から取り出し、天気予報のページを開く。今から四十分後に一旦雨脚が途絶えるらしい。また一時間ほどで強い雨が降るらしいけど、その間に駅について傘を買えばいい。
濡れる覚悟を決めていると、クソキラキラグループの姿が見えた。
清水照道、河野由夏らが並び、後ろを付き従うように歩く千田莉子。そしてそれらを囲うように男女のパリピみたいな連中が歩いている。
どう見ても、通行の邪魔だ。奴らの後ろを歩く吹奏楽部の女子たちは、迷惑そうに後ろでひそひそ話をしている。
このまま出くわすのも嫌だ。下駄箱の隅に移動して、そのまま下駄箱を背に隠れる。奴らは声を潜めて話すことを知らないし、どんな風に動いて、どれくらいの位置にいるのかまる分かりだ。
じっと息を殺し、クソキラキラグループが去っていくのを待つ。奴らは一歩一歩進むごとに馬鹿笑いをして中々進まない。
忌々しい気持ちで床を睨みつけていると、やがて馬鹿騒ぎの声は遠くなり、雨音にかき消されるように消えていく。
辺りはいつの間にか下校する生徒も消え、下駄箱には私や、私と同じように俯きがちに歩く生徒がまばらにいる程度だ。時間はスマホで天気を見た時から十五分以上経過している。本当にクソだ。牛歩しやがって。あんな奴らずぶ濡れになってしまえばいいのに。
溜息を吐いて、雨が弱まっていないか少し期待をしながら昇降口のほうを覗く。相変わらず雨は止む気配を見せず、降り注ぐように地面を濡らし続けていた。
本当に、このまま待ってて止むのか……?
靴を履き替え、ほんの少し昇降口を出て、空を見上げる。どこもかしこも真っ黒な空が広がっていて、明るくなっているかと思えば雷鳴が轟いている。
……このまま帰るか……?
別に今日、何か予定があるわけでもない。でもいつまでもこの学校に留まっているのも嫌だ。彷徨うように二の足を踏んでいると、つん、と肘に何かがぶつかった。振り返って広がった目の前の光景に、目を大きく見開く。
「萌歌ちゃん、なーにしてんの?」
派手なリュックを背負い、真っ青な傘を手に持った清水照道が、私の後ろに立っている。
どうしてこいつがここにいる? さっき、河野由夏たちと、帰ったはずじゃ……。
よく見ると奴の手にしている青い傘は濡れていて、その先から水が滴り小さな水たまりを作っていた。一度、戻ってきたということだろうか。何のために? 私を馬鹿にしようと、傘をある自分を見せつけようとしている?
「な、な、な、なーんで、お前が……ここに」
「萌歌ちゃん、帰ってる様子もないなーと思って。どうした? 何か困ったことあった?」
清水照道は、首をかしげる。なんでこいつに答えなきゃいけないんだ。口をつぐむと、奴は私をつま先から頭の先まで見定め始めた。あれこれ私のことを不躾に見て、やがて温度のない声を発した。
「……萌歌ちゃん、傘どこ?」
「……知らん」
そんなこと、私が知りたい。というかこいつが何かしたんじゃないだろうな。清水照道は「誰かにやられたとか覚えある?」と、またいつかの時のような無表情で問いかけてきて、私は黙って首を横に振る。
「じゃあ今日は俺が入れてってやるよ、傘。相合傘ってやつ」
奴は昇降口に出て、ばさりと傘を差した。スイッチ式の傘はしぶきを前に飛ばしながら開き、あっという間に広がる。
「い、いらない。や、やーむまで、ま、ま、待つ……」
こいつに関わると、ろくなことがない。きっと今日相合傘をしただの言って、ネタにするつもりだろう。そうはさせない。一歩後ずさるようにして校舎の中に入る。清水照道は「分かった」と言って傘を閉じた。訳も分からず奴を見ると「萌歌ちゃん置いて帰るわけには行かないじゃん?」などと宣い、へらへらした顔で私の隣に立つ。
「わ、わ……、私に、か、構うな」
「やだ」
奴は動じることなく「俺はずっと萌歌とここで雨宿りしててもいいし」と笑う。
駄目だ、このままここで待っていても、奴の思い通りになってしまう。前を見ると、雨は絶えず降り注いでいて、始めに見た時と勢いは変わっていない。でも、このままだと、奴の思い通りだ。
「あっ萌歌っ」
思い切って、雨の中へと駆けていく。いつかの日、泥を被せられた時よりはましだと考えながら駆けると、前髪にぼたぼたと滴が垂れてきた。もう夏だというのに、雨に当たったところが冷えていく。しかしそれは、一瞬にして遮られた
「ほら、出てっちゃったら濡れるって」
思わず立ち止まると、清水照道が私に向かって傘を差していた。いっそのこと、突き飛ばしてしまえばと考えながら奴を見て、私は絶句した。
奴は、まるで私を濡らすまいとするように、すっぽりと私を傘の中に入れている。けれど自分はスペースを空けるように傘の範囲から出ていた。降りしきる豪雨のせいでずぶ濡れになり、まったく傘に守られていない左肩にはシャツが張り付いている。髪の毛だって水滴が滴っている。なのに私のほうは、一切水なんてかかっていなくて、それなのに、奴は自分が濡れるのなんてまるで気にしないようにしてへらへらと笑っている。
「……や、やめろ!」
「だってこうでもしないと萌歌ちゃんびしょ濡れになっちゃうじゃん? ちゃんと傘の中入ってないと風邪引いちゃうよ? ほら歩こ、駅まで着く頃には、マシだろうし。傘だって買えるでしょ?」
「で、で、でで、出る」
「ほーら、いい子にしてて。家までついて行ったりはしないから」
清水照道は、傘を持ち替え、濡れていないほうの腕で私の肩を抱き寄せる。押しのけようとして、そこまで奴の手に力が入っていないことに気付いた。壊れ物を扱うみたいに、支えられている。顔を上げると、奴は胡散臭く笑ったままだ。
「風邪ひいちゃったら、山登り休まなきゃじゃん。それにしても楽しみだよな〜山の景色見て〜カレー食べて〜、萌歌一緒に登ろうな?」
「い、い、嫌だ」
「何でだよー。疲れたらおんぶしてやるよ?」
「むー、りだ」
「いやいけるって、萌歌軽いし、俺結構力あるほうだかんね?」
なるべく、清水照道と離れながら、早歩きをする。それなのに飄々とついてきて、当たり前のように私を傘の中に入れ続けている。さっきから、私は雨に当たることは一切ない。けれど、奴はひたすら私と反対方向の肩を濡らし続けている。
何なんだこいつ。そこまで笑いに、ネタに生きているのか。
睨みつけると、清水照道は私を見返すようにして笑う。
「か、か、風邪引いても、しー、知らないからな」
「ええ、心配してくれんの萌歌ちゃん。やっさしい〜」
馬鹿にした声に、ため息を吐く。避けようとすると、肩に回された手に力が籠った。その力はほんの少しの柔らかなもので、苛立ちのような感情を覚えながら、私は清水照道の隣を歩いていた。
「萌歌、ちゃんとハンカチ持った? スマホの充電はしっかりある? いざとなったら笛を吹いて周りに知らせるのよ」
玄関でリュックを背負う私に、お母さんが忙しなくあれこれ確認をする。
夏休みが始まって一週間。今日は校外学習の日だ。
朝、学校に集まって、バスで県内の山のふもとまで行き、登る。山頂のコテージでカレーを作って帰宅するだけの行事だ。夏休みの登校日もかねていて、今日さえ行けば夏休みが終わるまで学校の人間たちと会うことはない。
正直山登りなんてしたくないし、クラスの連中となんてもっと嫌だ。でも行かないと、変に目立って、後からずる休みをしていたんじゃないかと疑われてしまう。
別に私一人行ったところで影響なんてないのに、それ見たことかと糾弾してくる。
私はもうそんなことが起きないように、お母さんやお父さんの「嫌なら休んでもいいよ」という言葉に首を横に振ったのだ。
私は校外学習に行きたくない気持ちを悟られないようにして、「……い、いってきます」とお母さんに伝え、家を出た。
扉がしまったのを確認してから、ため息を吐いて学校へ向かって歩き出す。
今日の天気は晴れだ。朝見た天気予報では、梅雨明けの兆しが見えてきましたねなんて言っていた。いっそのこと、大雨でも降ってくれたら雨天中止になっただろうに。さすがに大雨の中、山登りなんてさせないだろうし。
いっそ、雨でも降ってくれたらいいのに。
そう思って、ふと終業式の日を思い出す。
あの日、結局団地付近の連れ去りと同じように駅まで清水照道に送られた。
駅に着く頃には雨は止んだけど、奴は髪まで濡れ、見ているこっちが寒く感じるほどだった。
時期的に、電車は冷房がこれでもかと効いている。絶対に風邪を引くと思っていたけれど、夏休みが始まり会うことはなかったから、どうなったのか分からない。連絡先も知らないし。
というか今日、またあいつのへらへらした顔を見なくちゃいけないのか。
私はうんざりとした気持ちで、学校へと歩き出した。
学校にたどり着くと、もう既に校門の前にはバスが停まっていた。
バスの正面にはそれそれクラス番号が割り振られていて、乗り降りする扉の前には各クラスの担任が立っている。でも並びは順番じゃなくてバラバラだ。担任である安堂先生の姿を探して歩いていると、ちょうど一番端から二番目の位置に立っていた。
先生はいつも河野由夏たちにくっついている人間に囲まれ、楽しそうに話をしている。話しかけ辛くて様子を伺っていると、先生は私に気付いた。
「あら樋口さんおはよう! バスの座席は自由だから、空いている席に座ってね」
投げかけられた声に会釈をして通り過ぎ、バスの中へと乗り込む。
安堂先生には、私が人となるべく話をしたくないことを伝えていない。
先生と私で面談をする、なんてこともないし。知らないだろうと思う。本当なら、ある程度説明をしておいたほうがいいものらしいけど、中学校の一件があって、知られないほうがいいんじゃないかと黙ったままだ。
でも、安堂先生は私について知らないけれど、そうしておいて良かったと思う。先生は基本的に、私や、クラスの中で権力のない人間を見ない。先生がいつも考えて気を遣うのはカースト上位にいる人間たちだけだ。私がどういった状況にあるのか説明して、何か改善されることなんてないだろうし、悪化するほうが想像に容易い。
今もなお、安堂先生は周りのキラキラグループを気遣う。バスの座席を見渡すと、後ろのほうにキラキラグループと思わしき派手な鞄たちがあり、中央には身を潜めるようにオタクの男子グループが集まっていた。後の面々はまだ来ていないか、鞄だけ置いてバスの外で会話をしているらしい。
オタクの男子立ちは入ってきた私に気付いた後、明らかに気が抜けた表情をして、また会話を再開する。
小学校のころ、男子たちは集団でゲラゲラ騒いでることが多かったけど、中学に入ってからは上下関係みたいなものがクラスの中にも出来た。
現に清水照道がオタクの男子のグループの前を通ると、オタクの男子たちは俯いて息を殺すし、馬鹿の寺田が鬱陶しい絡み方を男子たちにしても、男子たちは「すいません」とへりくだったような態度だ。
そうした態度を取られて、寺田や河野由夏たちは当然のようにしている。きっと、自分が世界の中心にでもいる気なのだろう。
きっと奴らは後ろの席に座る。騒がれても嫌だし、かといって安堂先生の近くも嫌だ。しばらく考えて、先生の座る席とは反対の席を選んで座る。どうせ私の隣に座る人間なんていないから窓側だ。私は早速持ってきていた本を取り出した。
校外学習があって暇になるからと、勇気を出して買った本。まだ読み慣れていないから新鮮な気持ちだ。挿絵があるページは何となく見られるのが嫌で、手早くめくっていく。
「萌歌ちゃん剣持って眼鏡かけてる奴がお気に入りなの?」
かけられた声に勢いよく本を閉じる。隣を見ると、さも当然のように清水照道が座っていた。制服じゃない、私服の姿だ。いかにもリア充のような格好で、奴は耳につけたイヤホンを取り外しながら私の本を興味深そうに見つめている。
「前も読んでたやつ、眼鏡かけてたよな。そん時は杖持ってたけど。どうしよう俺伊達のやつ買っちゃうかな〜」
「ど……どけ、何で、とー、隣に座ってくるんだ」
声を潜めながら睨むと、奴はそんな視線もろともせず「俺酔いやすいし? 前のほうじゃないときついんだよねえ」なんてけらけらと笑う。これ以上話をしていても埒があかない。座席を変えようとすると、奴は膝に肘をのせるようにして通せんぼをしてきた。ぶつかった膝が、やけに熱くて気持ち悪い。
「まぁまぁ、静かにしてるからここにいて? 寝たいならちゃんと照道くん黙ってるから」
このままじゃ通れない。座席を変えることもできない。いっそこいつの丸まった背中を踏み倒して移動してやろうか。そう思ったけれど河野由夏たちがゲラゲラ騒ぎながらバスに乗ってきた。そして私と清水照道を見るなり、歪に口角を上げた。
「えー照道樋口さんの隣なのー?」
「そう、ちょうど萌歌が窓際座ってたから、詰めて逃げられなくしてみた」
「照道こわ、ストーカーっぽいよ? 今ゾワッとした」
「何言ってんたよ押してダメならって言うじゃん?」
「いやそういう時引くんだって」
河野由夏はいかにも高そうな靴を履いて、笑いながら後ろの席へと歩いていく。
その後を千田莉子、寺田、その他がついていった。
自分に話題の矛先が向けられなかったことに安堵しつつ、今清水照道をどかそうとするなら確実に奴にネタにされると考え、私は移動を諦めた。
せめて奴が視界に入らないよう窓に目を向けると、窓の外に保健室の先生と萩白先輩の姿が見えた。先輩は今日もマスクをしながら、バスの近くに停めてあった乗用車に乗り込んでいる。
服は制服じゃなくて、柔らかな色合いのパーカーにジーンズ姿だ。横顔しか見えなかったけれど、間違いなくあの姿は萩白先輩だろう。
でも、今日は一年生の行事のはず。二年生と三年生は休みだ。登校日でもない。
何もすることがないから、私は休み時間の間、廊下に張り出されている学年共通の予定表をよく見ていたし、間違いはない。
それに、養護教諭の先生は引率の先生のリストに入っていたから、体調が悪くなった先輩を移動させているわけでもないはずだ。
疑問に思っていると、安堂先生が乗り込んできて点呼を初めた。
先生は河野由夏に「先生今日の服かわいいー! 気合入ってんじゃん」と揶揄され、恥ずかしそうに笑い、点呼を中断して河野由夏と会話をしていく。
どうして先生はこんな感じなんだろう。
白けた気持ちになって、俯く。そういえば隣の清水照道は、騒ぐ気配がない。恐る恐る視線を向けると、奴は安堂先生に冷え切った目を向けていた。
しかし私の視線に気づいてか、顔をぱっと明るくして「なあに? 何か飲みたい? 間接になっちゃっていいならスポドリあるよけど」と鞄を漁りだした。
さっきのは、目の錯覚か。
私はため息を吐いて、窓の外の動かない景色をぼんやり眺めたのだった。
「じゃあ今からクラスごと出発時間をずらして山に登っていきます。頂上についたら自分のクラスの担任の先生のもとに集まるように」
バスに揺られ二時間。これから上る山のふもとで、学年主任の先生がクラスごと並んだ生徒たちに話をする。
けれど後ろに立ってる奴らは、こそこそ話をしたりスマホをいじったりで真面目に話を聞かない。
蔵井先生が適宜注意をして静かにするけど、近くにいるときだけだ。蔵井先生が他の奴らに注意をしに離れたとたん、べらべらと話を始める。
安堂先生も注意をしているけれど、生徒にのせられるだけで全然ちゃんと注意をしてくれない。それどころか蔵井先生に注意をされている。
他の登山客はそんな光景を横目に、なだらかな坂道を上って、山へと昇っていく。
何となくじめじめした気持ちになり、隣の清水照道を見ると軽く咳き込んでいた。
バスに乗っている間奴は静かにしていたけれど、黙ったわけじゃなかった。
時折思い出したように私に話しかけ、やれ景色がどうだとかちょっかいをかけてきて、酷く煩わしかった。
咳き込んでるのもきっと喋りすぎだろうと思うものの、やけに苦しそうだ。奴は私の視線に気付くと変顔をしはじめる。こちらを馬鹿にしているのだろう。くだらない。くたばれ。
しばらく真っ茶色にそまり、ざらつく地面を睨んでいると、クラスごと、順番に山登りへと出発しはじめた。
私のクラスは三組だから、三番目だ。
早く山登りが始まって、隣でにやけ面をするこの男を振り切らなければ。
「じゃあ次は三組~っ」
学年主任の先生の声掛けで、私のクラスの出発が始まった。
背負っていたリュックのひもを握りしめ、前を歩く生徒に続いていく。ふもとから頂上までは二つのルートがある。なだらかな坂道が続き、キャンプやハイキング、散歩として近所の人間にも親しまれる緩やかなルート。手ごたえを求めるような、岩や切り立った道、山に沿うような森が混じる厳しいルートだ。
今回体験学習で登るのは楽なほうだと聞いた。走るのは苦手だけど、坂道程度なら清水照道を振り切れる可能性もある。
それに出発の時は他の登山客に迷惑をかけない為に、クラスごと分散させただけで、ゴールは皆一緒じゃなくていいらしい。
登る間に別のクラスの人間たちが混ざって、誰がどこにいるのか分からなくなったあたりで人に紛れ込めば大丈夫なはず。
見上げると、前のほうを歩く生徒たちは、人と人との間隔がまばらに空きばらけ始めていた。
一人で黙々と上る生徒もいるけど、三人二人で並んで山登りをしている奴らのほうが圧倒的に多い。
うんざりしながら足を動かしていると、清水照道はにたにた笑いながら隣を歩いてくる。まだ前の人たちは団子のようにくっついているし、逃げられない。
「萌歌ペース早くない? そんな最初から飛ばして平気? こっから先がきついんじゃん?」
なんだこの、労わるような物言いは。腹が立つ。
馬鹿にしているのか。それとも優しくして後から馬鹿にする気なのか。どっちにしてもむかつく。陰キャに山登りは無理だとでも言いたいのだろうか。
確かに私は体力はないし足も遅いけど、小さいころはよく近所の山をお父さんとお母さんと一緒に登っていた。頂上でお弁当を食べたし、山に登れないわけじゃない。
清水照道をきつく睨むと、同時に後ろから声がした。
「照道ーっどこだー!」
後ろから寺田が叫んでいる。距離も空いているし、その間には人もいる。、寺田たちが急激にこっちに来ることはないだろう。わずかに安堵していると、清水照道が一切の反応をしないことに気付いた。いつもなら馬鹿みたいな返事をするはずなのに、まるで聞こえていないかのように黙々と歩いている。
「てるみちー! いないのー?」
今度は千田莉子の声だ。しかし清水照道は返事をしない。それどころか表情がどんどん能面のようになっていって、恐怖すら感じた。
「お、おい、呼ばれてるぞ」
声をかけると強い目を向けられたら、怯む。清水照道はため息を吐いてから声を張り上げた。
「……照道ここー!」
「ちょっと来てくんねえ? 河野が呼んでるー」
清水照道がまた私を見た。今度はこちらの様子を窺う、私の選択を待つ目つき。選ぶ権利なんて私にはない。それなのに奴は考え込んでいる。その時間が苦痛で、私は迷う肩をわずかに押した。
「い、け」
「でも」
「……わっ、わらわらここに来られても、め、め、迷惑だ、いけっ」
そう言うと、清水照道は「そのほうが安全か」と呟いて足を止め、逆走を始めた。なんだかその表情がやけに頭の中に残っていくような気がして、私は奴を振り切るように前を見据えて歩いたのだった。
一つ一つ、石と小枝を地面に沈めるように歩いていく。
清水照道と別れて大体一時間、団子みたいに固まっていたり、三人くらいで歩いて邪魔な生徒を追い越して山を登っていくと、ふもとの景色は生い茂った木々に隠され、周囲は霧に包まれ始めた。
きちんと初心者コースである確認をして、分かれ道を進んでいく。私の前を歩く生徒は見えず、後ろも歩く生徒がうっすらと見えるだけ。
でも油断は出来ない。のろのろ歩いていたら、後ろから来た清水照道たちに馬鹿にされるに違いない。「待っててくれたの?」なんて言って、絶対馬鹿にしてくる。
ああいう奴はいつだってそうだ。こっちの事情なんて考えない。あいつは心配みたいな顔をしていたけど、きっと演技だ。心配してるふりをして、近づいて利用する。人の前に立ちたがる奴はみんな等しくクソなんだ。
中学の時だってそうだった。小学校のころ私は話の仕方が変だと馬鹿にされて酷い目にあった。だからお母さんが私が話をするのが苦手だと言うことを中学に入学するときに学校側に説明してくれたけど、でも、それが駄目だった。
一年の時、教室で私は「樋口さんは上手く話ができない子なんだよ」と入学式から教室に戻ってすぐに発表された。そのまま黒板の前で自己紹介をさせられた。「だからみんな樋口さんを受け入れてあげてね」なんて言っていたけれど、あの瞬間まさしくクラスのみんなと私が切り離された瞬間だった。