「おはよう。二時間も寝ていたんだよ。具合はどう?」
 白いカーテンを開けて身を乗り出してきたのは若い養護教諭だ。ぼんやり瞬きを繰り返していた凪人はあぁ、と息を吐いて胃をさする。
(そうだ。また吐いたんだ)
 国語の授業でふたたび嘔吐したあと男子トイレに籠城、心配した担任に助けられて保健室に担ぎ込まれたのだ。
(なさけない、もう六年も経っているのに)
 枕元に置いてあった眼鏡を引き寄せながらベッドから起き上がる。感じたのは胃痛ではなく空腹だった。
「お腹がすいてきたので大丈夫だと思います」
「それは良かった、ちょうどお昼の時間だよ。アンパン食べる?」
 半分に割ったアンパンが手渡される。また吐くかもしれない恐怖はあったが空腹には勝てずにかぶりついた。餡子のほのかな甘さがじんわりと広がって美味しい。
「差し入れ。一年生の女の子が持ってきてくれたんだよ。さっきはごめんなさい、だってさ」
 話からすると福沢がお詫びを兼ねて持ってきてくれたらしい。凪人は数口でアンパンを食べきってしまった。
 それを確認したところで養護教諭が話しかけてくる。
「起きられるようならもう大丈夫でしょうね。昼休みが終わったら教室に戻っていいよ。さっきまで職員室付近が騒然としていたんだけどもう落ち着いたはずだから。なんでも芸能人が来たとかで」
「芸能人……へぇ、公立高校(うち)になんの用事で?」
「なにかの取材かな? まるで蟻の巣をつついたようにあっちこっちから生徒が出てきて大騒ぎ。嬌声を響かせて背伸びしてカメラ構えて凄かったよ」
「で、誰だったんですか?」
「それはね――」
 コンコンと扉がノックされた。
「はいどうぞ」
 自ら扉を開けに行った教諭は目を丸くした。
 入ってきたのは教頭先生だ。教諭に目配せしつつ凪人に視線を向けてくる。
「黒瀬くん。もう具合はいいのかい?」
「大丈夫です」
 布団を剥いでベッドを降りようとしたところを止められる。
「そのままで構わない。じつはお客さんが来ていてどうしても会いたいというんだ。さ、どうぞ」
 教頭に促されて扉の向こうに隠れていた人影が姿を見せた。
(――あっ)
 見覚えのあるスカートを履いている女生徒は今朝会った少女に違いなかった。ウィッグを外し、やや癖のある紅茶(ミルクティー)色の髪を背中まで流している。
「おじゃまします」
 目が合うとにっこりと微笑まれた。ごくごく自然でそれでいて皺が寄らない絶妙な目尻と頬骨のあがり方。よく訓練されているなぁと感心させられた。
「どうぞ中へ。いいかね黒瀬くん、今朝痴漢から守ってくれたということで、お礼を言いたいそうなんだ」
(痴漢?)
 予想外の単語が出て戸惑っているうちに少女が頭を下げた。
「失礼します。私、兎ノ原(とのはら)アリスと言います。黒瀬凪人さん、今朝は痴漢から守ってくださって本当にありがとうございました」
 体の前に両手を揃えて深々と頭を下げる姿はいかにも育ちのよい令嬢といった雰囲気で、傍らで見守っている教頭たちも感心したように息を吐く。
 そんな空気を察したのだろう、アリスは
「あの、凪人さんと少しお話をしたいのですが」
 と切り出して大人たちに視線を向けた。
「おぉそうか。では我々はこれで。帰りに職員室に寄ってください」
「じゃあ黒瀬くん、がんばって」
 扉が閉まるのを確認したアリスは凪人を振り返った。その顔に先ほどまでの笑顔はない。それどころか親の仇でも見るような凄みのある顔をしている。
「さて、と」
 ランウェイを歩くようにつかつかと近づいてきてそのままベッドに乗り上げた。
「あの……聞き間違いじゃなければお礼に来たんですよね」
 お礼参りの間違いでなければここまで迫られる理由がない。
「あぁ今朝の? 逆に人前でウィッグとられたこと謝ってほしいくらいだけど」
「そうですよね……すみません……」
「――なんて冗談冗談」
 本気で謝罪して欲しいわけではないらしく指で毛先をくるくると絡めて遊んでいる。
「やんなっちゃうのよね、いま変な奴に追いまわされて。事務所あてにびっしり書かれたラブレターや私服姿の盗撮写真とか大量に送られてくるの。しかも私のプライベートのことまでバッチリ知られてる。所謂ストーカー」
 なんだか大変そうだ。しかし事務所とはなんだろう。
「だから相手の目印になるような髪とか服とかアクセサリーを変えて様子見していたんだけど、ウィッグで髪色を変えたのもバレていたから家も見張っているみたいで」
「じゃあ今朝ホームで背中を押したのは」
「たぶんそいつ。顔は見た?」
「いや、人が多かったから」
「そっかー手がかりになればと思ったんだけど」
「ごめん」
 あからさまに残念そうなアリスを見ていると申し訳ない気持ちになってくる。もう少し注意深く見ていればストーカーの人相を確認できたかもしれない。
「どうして謝るの? さっき言ったことは忘れて、あなたは命の恩人なんだから胸張っていいの。私が死んだらどれだけの人が哀しむと思う? はい答えてみて」
 教師のように人差し指を突きつけてくるが死んだとき哀しむ人数を応えよと言われても。
「家族と近所の人、あとは学校や幼稚園の同級生やその保護者くらいだから……多く見積もって百人くら」
 言い終わる前にアリスが前のめりに迫ってきた。
「は? 少なすぎるでしょう!? ファンクラブ会員だけでも三千人いるのよ。私のこと誰だと思ってるの?」
「――だから兎ノ原アリスさんだよね。そう名乗ったじゃないか」
「だから私はアリスなの。A-L-I-C-E……Alice(アリス)」
 鼻先までぐいぐい迫ってくる。ターコイズブルーの瞳がこれ見よがしに輝いて凪人を見つめてきた。
「ほら。ほらほらほら見覚えあるでしょう?」
「……………えぇと」
 ここまでの会話でどうやら彼女がただの一般人でないことは薄々察しがついていた。しかし肝心の『Alice』が分からない。しかしアリスは諦めない。
「ハイティーン向けの『Emision(エミシオン)』って雑誌知らない?」
「Emision――悪いけど女性向けの雑誌は見ないから」
「じゃあネットは? 高校生ならスマホでいくらでも見られるでしょう」
「スマホは高いから持ってないんだ。自宅にあるパソコンは親と共有だから見るのはニュース記事と決まったサイトくらいだよ」
「じゃあAちゃんねるも知らない? ネットの動画配信番組なんだけど」
「それなら今朝中学生が話題にしていたよ、おれは観たことないけど」
 アリスの顔がどんどん険しくなる。
 旬な話題に疎いことは凪人も自覚していたが、どちらかと言えば「避けている」面が強い。しかし実生活で困ったことはなく、またこんな風に相手を残念がらせることもなかった。
「……はぁ。私の知名度もこの程度か」
 肩を落とすアリスは明らかに落胆した様子だったが、自分の努力不足を自覚しているようだった。そのままゴロリと横になり、猫のように体を丸くする。
「悔しいからふて寝しちゃお」
 意味が分からない。
 凪人の戸惑いなど意に介さず自宅のリビングにでもいるようにくつろいでいる。このまま占領されてはベッドから降りられない。困った。