「遅れてごめん、福沢」
やっとの思いで教室にたどり着いた凪人は先に到着していた週番のクラスメイトに謝りに行ったが、教材を準備していた彼女はきつく睨んだきりなにも言わなかった。
「本当にごめん」
嘔吐後は怠さのせいでなかなか動けない。しばらくトイレに籠城してようやく動けるようになったが到着したのは予定より一時間遅れ、福沢が怒るのも無理はない。
必要以上に刺激しないよう距離を置きつつ、見よう見真似で人数分のプリントをホチキスで留めていった。いまはなにを言っても火に油。だがこんなときに限って変なものを見つけてしまったりする。
「福沢、これ印刷するときに折れたみたいで文字が半分しか……」
なけなしの勇気を振り絞って話しかけたが、分厚いプリントを机に叩きつけられたせいでびびってしまった。
「知らない。自分で先生のとこ行けば」
福沢は顔も見ずにそう言い捨てると自分がホチキス留めした分のプリントを抱えて立ち上がり、登校した生徒たちに配り始めた。
「はい一時間目の授業で使う問題集だって。全部埋め終わった人から自習らしいから早めにやったほうがいいよー」
前の席から手際よく配っていくが凪人が持っている分は当然配れない。一刻も早く自習を勝ち取りたいのにプリントが配られない生徒たちからは「早くしろよ!」と口々に文句が飛んだ。
もちろん凪人だって急いでいる。ひとりくらい手伝ってくれてもよさそうなものだが飛んでくるのは怒号ばかり。ホチキスが空しい音を立てた。
「やべ、替え芯もない」
助けを求めて福沢を見るが自分のプリントをしっかり確保した彼女は仲間内で問題を解き始めており視線を合わせようとしない。
結局凪人は職員室に針を取りに走り、戻ってきたときは生徒たちによってプリントが持ち去られたあとだった。ホチキスは別の生徒が融通をきかせたらしい。凪人の元に残ったのはミスプリント入りの問題用紙とホチキスの針だけだ。
黒猫が目の前を横切ると不吉――そんな都市伝説が頭をよぎった。
※
「よし次の文章を黒瀬……じゃなくて福沢、読んでくれ」
次の授業では国語の教師が凪人を指名しかけて視線をそらし、たまたま目があった福沢を指名した。突然名前を呼ばれた彼女は不満げに手を挙げる。
「先生、前から思っていたんですけど、なんで黒瀬くんだけ朗読免除されるんですか? 他の授業でも一度も当てられたことないし、おかしくないですか?」
名指しされた凪人は背中を丸めて顔を伏せるしかない。黒瀬凪人はなぜか指名されない。それは薄々クライメイトたちが感じていた不満だった。
(仕方ないだろ)
そっと胃をさする。大勢から見られる、注目される。それは凪人にとってはこの上ない恐怖だ。胃が痙攣を起こして今朝のような嘔吐につながる。
学校にはあらかじめ診断書が提出されていて、過度に注目されることがないよう配慮を求められている。しかしそんなことを生徒たちが知るはずもなく、なんらかの『えこひいき』があると考えられていた。
「あ……黒瀬、どうだ、たまには読んでみるか? 座ったままでいいから」
生徒たちの気迫におされた教師が困り顔で尋ねてくる。周囲の視線や週番のこともあり、とても断れる雰囲気ではない。
「はい」
凪人は唾とともに吐き気を飲み込んだ。教科書の文面に目をこらす。
「このようにしてぼくは、世界というものを信用しなくなり、嫌悪するに至った。平和などというものも……のりべん?」
「オイそれは詭弁だ。昼ごはんにはまだ早いぞ」
教師の一言でどっと教室内が湧いた。ささやかな誤読。それだけのことで凪人の吐き気がピークに達した。両手で力いっぱい口を押える。
「お、黒瀬、おい大丈夫か?」
椅子を倒して立ち上がった凪人は机を押しのけるようにして教室を飛び出し一目散にトイレへと駆け込んだ。
心因性嘔吐。
身体的な異常はないがストレスによって吐き気が誘因される病気だ。凪人の場合は不特定多数に注目されたり極度の緊張状態に陥ったりすると嘔吐してしまう。
『――おいおい情けにゃいなぁレイジ』
吐いている間中、頭の中で懐かしい”相棒”の声が響いていた。
やっとの思いで教室にたどり着いた凪人は先に到着していた週番のクラスメイトに謝りに行ったが、教材を準備していた彼女はきつく睨んだきりなにも言わなかった。
「本当にごめん」
嘔吐後は怠さのせいでなかなか動けない。しばらくトイレに籠城してようやく動けるようになったが到着したのは予定より一時間遅れ、福沢が怒るのも無理はない。
必要以上に刺激しないよう距離を置きつつ、見よう見真似で人数分のプリントをホチキスで留めていった。いまはなにを言っても火に油。だがこんなときに限って変なものを見つけてしまったりする。
「福沢、これ印刷するときに折れたみたいで文字が半分しか……」
なけなしの勇気を振り絞って話しかけたが、分厚いプリントを机に叩きつけられたせいでびびってしまった。
「知らない。自分で先生のとこ行けば」
福沢は顔も見ずにそう言い捨てると自分がホチキス留めした分のプリントを抱えて立ち上がり、登校した生徒たちに配り始めた。
「はい一時間目の授業で使う問題集だって。全部埋め終わった人から自習らしいから早めにやったほうがいいよー」
前の席から手際よく配っていくが凪人が持っている分は当然配れない。一刻も早く自習を勝ち取りたいのにプリントが配られない生徒たちからは「早くしろよ!」と口々に文句が飛んだ。
もちろん凪人だって急いでいる。ひとりくらい手伝ってくれてもよさそうなものだが飛んでくるのは怒号ばかり。ホチキスが空しい音を立てた。
「やべ、替え芯もない」
助けを求めて福沢を見るが自分のプリントをしっかり確保した彼女は仲間内で問題を解き始めており視線を合わせようとしない。
結局凪人は職員室に針を取りに走り、戻ってきたときは生徒たちによってプリントが持ち去られたあとだった。ホチキスは別の生徒が融通をきかせたらしい。凪人の元に残ったのはミスプリント入りの問題用紙とホチキスの針だけだ。
黒猫が目の前を横切ると不吉――そんな都市伝説が頭をよぎった。
※
「よし次の文章を黒瀬……じゃなくて福沢、読んでくれ」
次の授業では国語の教師が凪人を指名しかけて視線をそらし、たまたま目があった福沢を指名した。突然名前を呼ばれた彼女は不満げに手を挙げる。
「先生、前から思っていたんですけど、なんで黒瀬くんだけ朗読免除されるんですか? 他の授業でも一度も当てられたことないし、おかしくないですか?」
名指しされた凪人は背中を丸めて顔を伏せるしかない。黒瀬凪人はなぜか指名されない。それは薄々クライメイトたちが感じていた不満だった。
(仕方ないだろ)
そっと胃をさする。大勢から見られる、注目される。それは凪人にとってはこの上ない恐怖だ。胃が痙攣を起こして今朝のような嘔吐につながる。
学校にはあらかじめ診断書が提出されていて、過度に注目されることがないよう配慮を求められている。しかしそんなことを生徒たちが知るはずもなく、なんらかの『えこひいき』があると考えられていた。
「あ……黒瀬、どうだ、たまには読んでみるか? 座ったままでいいから」
生徒たちの気迫におされた教師が困り顔で尋ねてくる。周囲の視線や週番のこともあり、とても断れる雰囲気ではない。
「はい」
凪人は唾とともに吐き気を飲み込んだ。教科書の文面に目をこらす。
「このようにしてぼくは、世界というものを信用しなくなり、嫌悪するに至った。平和などというものも……のりべん?」
「オイそれは詭弁だ。昼ごはんにはまだ早いぞ」
教師の一言でどっと教室内が湧いた。ささやかな誤読。それだけのことで凪人の吐き気がピークに達した。両手で力いっぱい口を押える。
「お、黒瀬、おい大丈夫か?」
椅子を倒して立ち上がった凪人は机を押しのけるようにして教室を飛び出し一目散にトイレへと駆け込んだ。
心因性嘔吐。
身体的な異常はないがストレスによって吐き気が誘因される病気だ。凪人の場合は不特定多数に注目されたり極度の緊張状態に陥ったりすると嘔吐してしまう。
『――おいおい情けにゃいなぁレイジ』
吐いている間中、頭の中で懐かしい”相棒”の声が響いていた。

