……ガタタンと電車が通り過ぎていく。
膝をついて座り込んでいた凪人はぺたぺたと近づいてくる足音に顔を上げた。ミルクティー色の髪が潮風になびく。
「あぁ……良かった」
アリスだ。やっと、つかまえた。
※
「昔、猫を飼いたかったんだ」
海浜公園のベンチに二人の姿はあった。互いの心の距離を表すようにベンチの端と端に座っているが逃げ出す様子はない。
気まずそうなアリスを前に口を開いた凪人は「すべて」明かすことにしていた。
「知り合いが連れてきてくれた子猫をおれが逃がしてしまった。あちこち追い回したあげく屋外に出て――」
外は小山内レイジの出待ちをする多くのファンでごった返していた。凪人の姿を見た途端に色めき立ち、津波のように押し寄せてきたのだ。彼女たちの目は恐ろしく歪んでいた。
幼い凪人はもみくちゃにされ、体のあちこちを執拗に触られた。肺が押されて呼吸すらままならない。
慌てて追いかけてきたスタッフたちの手でなんとか解放されたが、肝心の子猫がいない。
必死に辺りを見回すと黒い塊が視界に飛び込んできた。「いた!」と目を輝かせて駆けだしたのも束の間。
「そこ、道路の真ん中だったんだ。夕方のラッシュでものすごい量の車が行き来していた」
息を呑み、口を覆うアリス。
「うん。遠目にも剥き出しの骨や内臓が見えたし、タイヤにでも引っかかったのか長い長い血の跡が数メートルにわたって続いていたんだ。……たくさんの人たちが、いた。でもだれも見てなかった」
あの衝撃を、あの驚きを、あの恐怖を、なんと言葉にすればよいのだろう。
先ほどまで健気に鳴いていた子猫、どう引きずられたのかハッキリと分かる血痕、その先に転がっている肉塊。そして凄惨な光景を目にしたあとも何事もなかったように「レイジ」を取り囲んで欲求を果たそうとするファンたち。異様な目つきはいまも罪悪感とともに凪人を苛んでいる。
「そのときからだよ。注目されたり、たくさんの人がいたりすると吐くようになったのは。いまだって思い出しただけで胃が……」
こみあげてくる吐き気を必死にこらえようとする。またいつものパターンだと呆れてしまった。
するとアリスの手が伸びてきて凪人の口元を覆った。
「いいよ、ここに吐いても」
「な……に言って」
「凪人くんのなら汚くないから」
あまりにもびっくりしたせいか、喉元までこみ上げていた吐き気がウソのように消えてしまった。こんなことは初めてだ。
「アリス。――この前はごめん」
あの日突き放してしまったアリスがようやく近くに来てくれた。ここから歩み寄るのは自分の方だ。
「ううん、私も、ごめんなさい」
「アリスに会いたかった。会って謝りたかった」
「福沢さんがいるのに?」
「謝って、殴ってもらった」
「……ほんとだ、腫れてる。いたそう。でもそれで良かったの」
まじまじと顔を見るとアリスが不思議そうに首を傾げた。ターコイズの瞳はなんてきれいなんだろう。
「いいんだよ。こんなに好きになった相手、初めてなんだ」
驚いたように目を見開いていたアリスは、しばらくして大げさに肩を揺らした。
「なにが可笑しいんだよ?」
「ううん。凪人くんがこんな素直に告白してくれるなんて私の努力も無駄じゃなかったって感慨深くて」
アリスに出会う前は他人の目を気にして俯いてばかりいた。面と向かって告白するなんて死んでも御免だったはず。
けれどいま心の中は驚くほど澄み切っている。
焦りも恥ずかしさもなく、心地よい風が吹き抜けているような感覚だ。
「あのな、それでおれ」「あのね、私、」
ほぼ同時に話してしまって互いに目を見合わせた。「お先に」とアリスに譲ったものの不安そうに瞳が揺れていた。
「あのね私、この前ある男の人に――襲われそうになっ、て」
かすかに震える語尾。凪人は抱きしめるかわりにキッパリと告げた。
「愛斗さんから聞いた。アリスは悪くない」
「軽蔑しなかった?」
「しなかったよ。その男に嫉妬はしたけど」
「私がバカだったの。あの人も『黒猫探偵レイジ』のファンだって言うから嬉しくて話が弾んで、部屋に小山内レイジからもらったグッズがあるから見に来ないかと誘われてついていって。廊下で待つと言ったら急に部屋に引きずり込まれそうになって、抵抗したら不意打ちで髪の毛に触れられて……その瞬間すごく怖くなって逃げ出したの。あとから要注意人物だと聞かされた」
その時のことを思い出して再び震えるアリス。「大丈夫だ」と言って細い肩を抱いてやろうとするとアリスは小さく首を振った。
「ごめんなさい。まだちょっと怖いの、触られるのが」
アリスをこんなにも傷つけた男への怒りで頭が沸騰しそうだ。
けれど自分にも一因がある。
アリスに言わなければいけないことがある。
「正直に答えてくれ。アリスはいまでも小山内レイジに会いたいか?」
小山内レイジ。二人を繋ぐ糸であると同時に二人を隔てる大きな壁だ。
アリスは少しだけ考える。
「会いたいよ。初恋の人だもん。本当はエキストラでもいいからドラマに参加して、アナタがいるから私はいまココにいるって伝えたかったんだけど……」
もったいぶるように言葉を切り、首元があらわになるほどの角度で空を見上げている。
「けど?」
心配そうな凪人を横目で見、薄く微笑んだ。
「凪人くんが嫉妬しそうだからやめておこうかな」
「なっ……!」
確信を秘めたような笑顔は凪人の心など見透かしているようだ。
「ホテルの件で気づいたの。私はやっぱり凪人くんのことが好きで、もう他の人は好きにはなれない。それなのに裏切る形になってしまった。本当は何度も連絡しようとしたし黒猫カフェにも行きたかったけど、嫌われるのが怖くて身動きとれなくなった。いっそ死んでしまおうかとも思った。だけどさっき――『好き』っていってくれたから、どうしても続きが聞きたくて」
撮影中ずっと不安そうにしていたアリスはようやく本来の自分を取り戻しつつあった。アリスの心をつなぎとめたのは他ならぬ凪人である。
「だから自信をもって。あなたはモデルのAliceが愛した世界にただ一人の男の人なんだよ」
いまや数万人規模のファンがいるAlice。
そんな彼女のたったひとりの相手が、自分。
「が、がんばって、みる」
緊張のせいか少しだけ声が震えた。ともすれば子役だった時よりもプレッシャーがかかる気がする。吐きそうだ。
「……ねぇ」
ふと指先が伸びてきて、ためらうように凪人の手の甲に重なった。
「手、つなぎたい」
アリスはまだ距離を測りかねている。
だから凪人は笑って受け入れた。
「いいよ」
もう離れないようにときつく指先を絡める。
「肩にもたれかかってもいい?」
「いいよ。少し汗くさいけど」
「そんなの平気。凪人くんのにおいだもん」
やわらかい髪の感触とともにアリスがもたれ掛かってくる。
「触れてみたい」
「いいよ、好きなだけ」
アリスの指先が頬や首筋、肩、腰へとうつろう。少しくすぐったいが目をつむって我慢した。
「さっきのあれ、もう一回ちゃんと言って欲しいな」
「あれって?」
「分かってるくせに。踏切前で叫んだ言葉」
そこで凪人は目を開けた。すぐ傍にあるターコイズの潤んだ瞳に自分の姿を見て、軽く息を吸う。
「好きだよ、アリス」
好きな人に好きだと告げること、それはなんてステキなことなのだろう。
アリスもこらえきれないように破顔した。
「私も。私も凪人くんのことが大好き」
それからどちらからともなく顔を寄せて唇を重ねた。離れていた時間を埋めるように抱き合って、ひとつの体のように密着する。
「凪人くんの舌、血の味がする」
そう言ってアリスが笑ったので悔しくなって再びキスをした。アリスの舌からは潮の味がする。きっと世界で一番あまいだろう。
ミルクティー色の髪に指をくぐらせた凪人は内緒話をするように耳元に口を寄せた。
「なぁ、もしいま目の前に小山内レイジがいるって言ったら――――信じてくれるか?」
膝をついて座り込んでいた凪人はぺたぺたと近づいてくる足音に顔を上げた。ミルクティー色の髪が潮風になびく。
「あぁ……良かった」
アリスだ。やっと、つかまえた。
※
「昔、猫を飼いたかったんだ」
海浜公園のベンチに二人の姿はあった。互いの心の距離を表すようにベンチの端と端に座っているが逃げ出す様子はない。
気まずそうなアリスを前に口を開いた凪人は「すべて」明かすことにしていた。
「知り合いが連れてきてくれた子猫をおれが逃がしてしまった。あちこち追い回したあげく屋外に出て――」
外は小山内レイジの出待ちをする多くのファンでごった返していた。凪人の姿を見た途端に色めき立ち、津波のように押し寄せてきたのだ。彼女たちの目は恐ろしく歪んでいた。
幼い凪人はもみくちゃにされ、体のあちこちを執拗に触られた。肺が押されて呼吸すらままならない。
慌てて追いかけてきたスタッフたちの手でなんとか解放されたが、肝心の子猫がいない。
必死に辺りを見回すと黒い塊が視界に飛び込んできた。「いた!」と目を輝かせて駆けだしたのも束の間。
「そこ、道路の真ん中だったんだ。夕方のラッシュでものすごい量の車が行き来していた」
息を呑み、口を覆うアリス。
「うん。遠目にも剥き出しの骨や内臓が見えたし、タイヤにでも引っかかったのか長い長い血の跡が数メートルにわたって続いていたんだ。……たくさんの人たちが、いた。でもだれも見てなかった」
あの衝撃を、あの驚きを、あの恐怖を、なんと言葉にすればよいのだろう。
先ほどまで健気に鳴いていた子猫、どう引きずられたのかハッキリと分かる血痕、その先に転がっている肉塊。そして凄惨な光景を目にしたあとも何事もなかったように「レイジ」を取り囲んで欲求を果たそうとするファンたち。異様な目つきはいまも罪悪感とともに凪人を苛んでいる。
「そのときからだよ。注目されたり、たくさんの人がいたりすると吐くようになったのは。いまだって思い出しただけで胃が……」
こみあげてくる吐き気を必死にこらえようとする。またいつものパターンだと呆れてしまった。
するとアリスの手が伸びてきて凪人の口元を覆った。
「いいよ、ここに吐いても」
「な……に言って」
「凪人くんのなら汚くないから」
あまりにもびっくりしたせいか、喉元までこみ上げていた吐き気がウソのように消えてしまった。こんなことは初めてだ。
「アリス。――この前はごめん」
あの日突き放してしまったアリスがようやく近くに来てくれた。ここから歩み寄るのは自分の方だ。
「ううん、私も、ごめんなさい」
「アリスに会いたかった。会って謝りたかった」
「福沢さんがいるのに?」
「謝って、殴ってもらった」
「……ほんとだ、腫れてる。いたそう。でもそれで良かったの」
まじまじと顔を見るとアリスが不思議そうに首を傾げた。ターコイズの瞳はなんてきれいなんだろう。
「いいんだよ。こんなに好きになった相手、初めてなんだ」
驚いたように目を見開いていたアリスは、しばらくして大げさに肩を揺らした。
「なにが可笑しいんだよ?」
「ううん。凪人くんがこんな素直に告白してくれるなんて私の努力も無駄じゃなかったって感慨深くて」
アリスに出会う前は他人の目を気にして俯いてばかりいた。面と向かって告白するなんて死んでも御免だったはず。
けれどいま心の中は驚くほど澄み切っている。
焦りも恥ずかしさもなく、心地よい風が吹き抜けているような感覚だ。
「あのな、それでおれ」「あのね、私、」
ほぼ同時に話してしまって互いに目を見合わせた。「お先に」とアリスに譲ったものの不安そうに瞳が揺れていた。
「あのね私、この前ある男の人に――襲われそうになっ、て」
かすかに震える語尾。凪人は抱きしめるかわりにキッパリと告げた。
「愛斗さんから聞いた。アリスは悪くない」
「軽蔑しなかった?」
「しなかったよ。その男に嫉妬はしたけど」
「私がバカだったの。あの人も『黒猫探偵レイジ』のファンだって言うから嬉しくて話が弾んで、部屋に小山内レイジからもらったグッズがあるから見に来ないかと誘われてついていって。廊下で待つと言ったら急に部屋に引きずり込まれそうになって、抵抗したら不意打ちで髪の毛に触れられて……その瞬間すごく怖くなって逃げ出したの。あとから要注意人物だと聞かされた」
その時のことを思い出して再び震えるアリス。「大丈夫だ」と言って細い肩を抱いてやろうとするとアリスは小さく首を振った。
「ごめんなさい。まだちょっと怖いの、触られるのが」
アリスをこんなにも傷つけた男への怒りで頭が沸騰しそうだ。
けれど自分にも一因がある。
アリスに言わなければいけないことがある。
「正直に答えてくれ。アリスはいまでも小山内レイジに会いたいか?」
小山内レイジ。二人を繋ぐ糸であると同時に二人を隔てる大きな壁だ。
アリスは少しだけ考える。
「会いたいよ。初恋の人だもん。本当はエキストラでもいいからドラマに参加して、アナタがいるから私はいまココにいるって伝えたかったんだけど……」
もったいぶるように言葉を切り、首元があらわになるほどの角度で空を見上げている。
「けど?」
心配そうな凪人を横目で見、薄く微笑んだ。
「凪人くんが嫉妬しそうだからやめておこうかな」
「なっ……!」
確信を秘めたような笑顔は凪人の心など見透かしているようだ。
「ホテルの件で気づいたの。私はやっぱり凪人くんのことが好きで、もう他の人は好きにはなれない。それなのに裏切る形になってしまった。本当は何度も連絡しようとしたし黒猫カフェにも行きたかったけど、嫌われるのが怖くて身動きとれなくなった。いっそ死んでしまおうかとも思った。だけどさっき――『好き』っていってくれたから、どうしても続きが聞きたくて」
撮影中ずっと不安そうにしていたアリスはようやく本来の自分を取り戻しつつあった。アリスの心をつなぎとめたのは他ならぬ凪人である。
「だから自信をもって。あなたはモデルのAliceが愛した世界にただ一人の男の人なんだよ」
いまや数万人規模のファンがいるAlice。
そんな彼女のたったひとりの相手が、自分。
「が、がんばって、みる」
緊張のせいか少しだけ声が震えた。ともすれば子役だった時よりもプレッシャーがかかる気がする。吐きそうだ。
「……ねぇ」
ふと指先が伸びてきて、ためらうように凪人の手の甲に重なった。
「手、つなぎたい」
アリスはまだ距離を測りかねている。
だから凪人は笑って受け入れた。
「いいよ」
もう離れないようにときつく指先を絡める。
「肩にもたれかかってもいい?」
「いいよ。少し汗くさいけど」
「そんなの平気。凪人くんのにおいだもん」
やわらかい髪の感触とともにアリスがもたれ掛かってくる。
「触れてみたい」
「いいよ、好きなだけ」
アリスの指先が頬や首筋、肩、腰へとうつろう。少しくすぐったいが目をつむって我慢した。
「さっきのあれ、もう一回ちゃんと言って欲しいな」
「あれって?」
「分かってるくせに。踏切前で叫んだ言葉」
そこで凪人は目を開けた。すぐ傍にあるターコイズの潤んだ瞳に自分の姿を見て、軽く息を吸う。
「好きだよ、アリス」
好きな人に好きだと告げること、それはなんてステキなことなのだろう。
アリスもこらえきれないように破顔した。
「私も。私も凪人くんのことが大好き」
それからどちらからともなく顔を寄せて唇を重ねた。離れていた時間を埋めるように抱き合って、ひとつの体のように密着する。
「凪人くんの舌、血の味がする」
そう言ってアリスが笑ったので悔しくなって再びキスをした。アリスの舌からは潮の味がする。きっと世界で一番あまいだろう。
ミルクティー色の髪に指をくぐらせた凪人は内緒話をするように耳元に口を寄せた。
「なぁ、もしいま目の前に小山内レイジがいるって言ったら――――信じてくれるか?」

