「ぃやぁああ」
 アリスはその場でうずくまってしまう。異変を察知したスタッフが駆け寄ってタオルをかけるが震えは止まらない。
 何事かとシャッターを切る野次馬たち。
 アリスの泣き声。
 慌ただしく駆け回るスタッフたち。現場は騒然としていた。
(なんで)
 アリスが取り乱したのは自分の存在に気づいたからだ。そして悲鳴を上げた。
(拒絶された、のか? そこまでおれのことを)
 呆然と立ち尽くしていると目の前にさっと人影が現れる。
「ちょっと来い」
 柴山である。有無を言わせず凪人の腕を引いて洞窟を抜け、近くに停めてあった自らの車に連れ込んだ。三列目のシートに凪人を座らせ、自分は二列目に座って向かい合う。
 人懐こかった眼差しは仇でも見るように鋭い。異様なまでの圧迫感はまるで尋問されているようだ。
「言ってやりたいことは山ほどあるが、まずは話を聞こう。アリスとなにがあった。どうしてここに来た」
 アリスは柴山になにも話していないらしい。
 凪人も聞きたいことはたくさんあるが、まずは求めに応じて白状しようと思った。アリスに求められ、拒絶したあの日のことを。
「……なるほどな。確かにあのオーディションは胸糞悪かった。あの審査員、明らかにアリス一人にきつく当たってたしな。あんなもんパワハラだ」
 事情を聞いた柴山は煙草を吸うかわりにペットボトルに口をつける。
「なにか理由があったんでしょうか?」
「さぁな。単に気に食わなかったのかもしれない。ヒロイン役に決まった女優もMareの所属だし、身内を贔屓したのは明らかだけどな」
 審査員はMareの息がかかっていたらしい。それを聞いた瞬間、自分のもう一つの功罪に気づく。
「それ、おれのせいかもしれません」
「どういう意味だ?」
 凪人は一瞬迷った。
 しかしもはや隠し立てする意味を見いだせず、カバンから一枚の名刺を取り出して手渡す。綴られた文字を読み取った柴山の眉がぴくりと跳ねあがった。
「葉山江梨子……。は? Mare? なんだこれ。なんでこんなものを持ってる?」
 一般人である凪人が芸能事務所の名刺を持っている。しかもMareのものだ。訳が分からないだろう。
 凪人の心臓がトクトクと高鳴る。
 ついにこの瞬間がきたのだ。

「おれは……昔……小山内レイジだったんです」

 柴山は無反応だった。
 理解が追いつかないようだ。あんぐりを口を開けたまま凪人を凝視している。ペットボトルのフタが転がり落ちたことにも気づかない。
「凪人くんが……あの、小山内レイジ?」
「はい。『黒猫探偵レイジ』の小山内レイジです。Mareに所属する子役でした。六年前までは」
「おいおいマジかよ…………あぁでも道理で、見覚えのある顔だと思ったわけだ。しかも名刺があるってことは間違いないよな……アリスは自分で初恋の相手を見つけていたのかよ」
 額に手を当てて宙を仰ぎながらぶつぶつと呟く柴山。
 そう、偶然とは言えアリスは初恋の相手をふたたび好きになったのだ。
「少し前、葉山さんが来て今度のドラマに出演して欲しいと頼んできました。おれは断ったんですが、店の前でアリスとすれ違ったのでおれたちの関係も察していたんだと思います。そのことがオーディションでの一件につながったのかもしれません。葉山さんは仕事に私情を持ち込まないタイプなので間接的に聞いた誰かが……。でも、おれのせいです」
 まさかこんな形で二重三重にアリスを傷つけるとは思わなかった。
 しかしすべての原因が自分にあるとすれば、こんな諸悪の根源はアリスに関わらないほうが良いのかもしれないと思えてくる。
「それで、どうすんだ?」
 大きく息を吐いた柴山が名刺を返しながら凪人を見た。
「アリスに会いに来たんだろう」
「そのつもりでした。さっきまでは」
 会いたい気持ちがしぼんでいく。
 あんな顔を見せられてしまったら、尚更。
「オーディションの件は嫌がらせかもしれないが逃げたのはアリスが弱かったからだ。本人はそのことを自覚している。あの野郎との件……は知らないか、あれも本人の脇が甘かったこともあるし、なによりオレの監督不行き届き。どっちにしても凪人くんの責任じゃない」
「そうだとしても、おれは、もう」

「”キミの覚悟はその程度なのか?”」

 はっとして息を呑んだ。
「その程度の気持ちでここに来たのか? 面と向かって話さずに自分ひとりが悪者になって気になって、尻尾を巻いて逃げ帰るのか?」
 自分の思い込みでなにもかも終わったつもりになるのは楽なことだ。心を揺さぶられることもない。最小限の痛みだけで傷つくこともない。
 けれどそれでいいのだろうか?
 あの日アリスにエールを送った自分が。
 アリスに勇気づけられてきた自分が。
 こんなふうに逃げて関係を終わらせて。

「…………イヤです」

 口を突いて言葉が飛び出した。心にしていた蓋がゴトンと外れたようだった。
「アリスのことが好きです。好きで好きでどうしようもない。あの写真だって本心では嫉妬で気が狂いそうだった。他の男になんてやりたくない。一ミリも触ってほしくない。モデルのAliceは誰のものでもないけど兎ノ原アリスは誰にもやらない、おれだけのものだ!」
 この醜悪なまでの独占欲が本心。それが自分の正体。
 内心笑うしかない。あのストーカーとなにも変わらないじゃないか。
 それでもこの気持ちに嘘はない。
「よし、じゃあ行くか。アリスのところに」
 腰を浮かせた柴山が肩を叩いてきた。
「仕事の邪魔をしない範囲ならキスでもハグでも好きにしていいんだぜ」
「いや、そこまではちょっと……」
 あれほどの啖呵を切ったのに急に弱い自分が出てくる。衆人環視の元でハグはともかくキスなんて絶対に無理だ。恥ずかしい。
「実はこっちも困ってたんだよ。ヤツとのことがあってからアリスは気落ちしていて、この撮影だってなんとか宥めて連れてきたんだ。でもあの調子だろう。まるで覇気がないし、人に触れられるのを怖がっている節もある。だからメイクも髪も自前なんだよ」
「そこまで深刻なんですか」
「拒食症の気もあって体重もどんどん落ちてる。もうお手上げ状態だったんだ。だから来てくれて助かった。これでアリスも――おっと」
 柴山の携帯が鳴っている。凪人に目配せしてから電話を取った柴山は次の瞬間大声を上げた。
「アリスがいなくなった?」
 驚いた凪人は反射的に立ち上がった。
 柴山は電話の相手から詳しい状況を聞いている。
「トイレに行くって現場を離れたきり戻らない? スタッフ総出で探している? 分かりました、すぐにオレも探しに行きます」
 凪人は車を飛び降りて駆けだしていた。

(アリス!)

 心当たりなんてまるでない。
 けれどアリスに会いたい一心だけで地面を蹴って走っていた。
「すみません、モデルのAliceを見ませんでしたか?」
「いいや」
「モデルのAliceを見ませんでしたか?」
「見てないけど」
 手あたり次第声をかけて回った。駅員や店員、通りすがりの観光客まで片っ端から。
 恥ずかしいとかみっともないなんて気持ちはまるでなく、アリスのことしか頭にない。
 三十分ほど走り回ったところで息が切れて立ち止まった。
 滝のように流れ出る汗。重たい体。渇きを訴える喉。
 それでもアリスは見つからない。
(駅にもホテルにもいなかった。砂浜は広すぎて全部回れてないけど誰も見てないって言うし)
 ふと視界に入ったのは数キロ先にある建物だった。
 壁面には色とりどりの魚と大きなジンベイザメのイラストが描かれている。

 水族館だ。
 初めてアリスとデートしたのも、水族館。

(あそこなら)
 凪人はごくんと唾を呑み込み、再び地面を蹴って走り出した。
 二十分以上かけてたどり着いた水族館は夏休みとあって人込みであふれている。この中からアリスを見つけ出すのは困難だ。
(とりあえずこの周辺の見取り図でも確認して)
 いまにも倒れそうな状態で入口近くに設置された看板にふらふらと近づいたとき、看板の前にミルクティー色の髪が見えた。
「……ありす」
 名を呼ぶ。
 何度となく呼んだ名前なのに随分と懐かしい気がする。
 看板前にいた少女が振り返る。ゆっくりと瞬きし、唇を開いた。
「凪人……くん?」