「やべっ」
 一段跳びで階段を下りてきた凪人はあと一歩のところで先発の電車に乗り損ねてしまった。周りの客たちの視線を苦笑いでごまかしつつ急いでその場を離れる。空いているスペースを探してホーム中ほどの電車待ちの列へとたどり着いた。
 季節は六月。空梅雨で朝からの蒸し暑く、手団扇であおいだところで汗が引く気配はない。
(ヤだなこの熱気。やっぱり早起きして自転車にすれば良かったな)
 ひとつ向こうの線路を通過する快速電車がなまぬるい空気をぶつけてくる。
 息がつまりそうな人ごみの中、ふと、猫の鳴き声がした。聞き間違いかと思うくらい小さな声だったが凪人は自然と声の主を探していた。それは案外近くにいて、自販機の下からするりと這い出てくるところだった。黒猫だ。それもまだ子猫。
(まっくろ太?)
 目が合った黒猫は体をほぐすように背伸びをし、乗客たちの足の間を軽快にすり抜けて行く。ホームから落ちては大変と見守っていたが、慣れているらしく改札に向かう階段を軽快に下りていった。
 不思議なことに猫の行方を追っていたのは凪人ひとりで、周りの乗客はだれひとりとして気づいていないようだった。息苦しい空間にひょいと現れた猫の存在は凪人の心はわずかに穏やかにする。
(黒猫が横切ると縁起が悪っていうけど、おれは好きだな、黒猫)
 そっと胃を撫でていると近くで甲高い声があがった。
「ねぇ昨日の『Aちゃんねる』観た?」
 中学生とおぼしき女子二人組がネット上の動画配信番組のことで笑っている。
「みたみた。歯ブラシ問題で炎上したこと一応謝ってたね。未使用の歯ブラシを使用済みと言ってオークション出していたのバレて謝罪したんでしょう」
「これから毎回番組中に使った歯ブラシの落札額を被害者への和解金にあてるだって。ふてぶてしいよね、ほんとムリ」
「今夜は早着替えに挑戦するらしいよ。ほんとモデルかよってカンジ」
 どうやら「Aちゃんねる」という番組に出てるお騒がせモデルのことらしい。話題にする友だちもいないぼっちの凪人にはどうでもいい内容だが、こうして他人の会話に耳を澄ましていれば「余計なこと」を意識しなくても済む。
 そっと胃袋のあたりを触って状態を確認した。どうやら落ち着いているらしい。願わくばこのままキープしてほしい。
(……ん?)
 ふと視界に留まったのは隣の列の先頭、緑地に白のチェックが入ったスカートだった。近くにある名門校の制服で、通うのは金持ちばかりだ。
 スカートの主は頭頂部から腰まで伸びる黒髪ストレートが傍目にもキレイだったが、うつむいているため髪に隠れて顔は見えない。
 なんとなく気になって見ていると少女の死角にあたる背後からスッと手が伸びてきた。それも両手だ。少女のピンと伸びた背に合わせるように手のひらを向けて距離をはかっている。
(一体なにを?)
 手は確実に少女を狙っている。
 しかし当の本人が身近に迫る危機を察した様子はない。他にだれか気づかないのかと見回してもスマホや新聞に集中しており、なんのセリフも与えられていないエキストラ然として空間を埋めているだけだ。
「あ、ちょっ、失礼します」
 どんな意図で伸ばされているのか分からない手をいさめる勇気などないが、他者が近くにいれば警戒して手が引っ込むかもしれない。そんな思いがあって凪人は列を離れた。

『ピンポン、まもなく列車がまいります。危険ですから黄色い線の内側へ下が――』

 アナウンスが鳴り響き、熱風とともに列車が近づいてくる。
 その瞬間、手が動いた。少女の背中めがけて。

「――――ッ」

 少女はつんのめるように前へと飛んでいた。黄色い線の向こう側へ。

(行くしかない)

 凪人は地面を蹴っていた。思いっきり跳んで、宙を舞う少女に横から体当たりをくらわせた。

 ――ざわめきが戻ってくる。

「え、なになに?」
「飛び込み自殺?」
「なんか知らないけど男の子がタックルしたの突然」

 恐る恐る目を開けると既に電車は到着していた。体はホームの上。手も足もちゃんとくっついている。動く。少しばかり膝が痛いが五体満足だ。

「……いったぁ」
 横倒しになっていた少女がうめいた。
「あっ……ごめ」
 命を救うためとは言え人前で押し倒す形になってしまった。一刻も早く立ち上がろうと手をついた凪人は、自分の指先に絡む奇妙な感覚に気づいた。

(えっ?)

 真っ黒な毛の塊を掴んでいる。呪いの類でなければこれは一体。
「――それ、私の……私のウィッグ、取った」
 怒りにぶるぶると肩を震わせる少女。ウィッグをしていたというヘアネットとヘアピンで地毛をまとめた頭部は人目にさらされるにはあまりにも恥ずかしい。凪人が混乱している間に膝立ちになって掴みかかってきた。
「どうしてくれるのよ。こんな醜態さらしてネットに――――えっ」
 少女と目があった。ターコイズの瞳は光を含んで宝石みたいに輝いている。日本人離れした相貌に顔に浮かんでいたのは怒りや悲しみではなく、
「……うそ、まさか」
 驚愕。
 がしっと掴んでいた手をゆっくりと放して凪人の頬を包み込む。
「あなた、あなた、もしかして――」
 しかし言葉は途中で遮られた。「ねぇちょっとあれ!」と先ほどの中学生が叫んだからだ。
「うそうそうそっ」
「うそじゃないよ、だってどう見ても!」
 急に騒がしくなる。我関せず素通りしようとしていた乗客たちが足をとめて覗き込んでくるほどに。
 凪人の背中を氷塊が滑り落ちた。

 目。目。そして目。

 朝の通勤・通学ラッシュで行き来する人々の何十、何百という視線が自分に集中しているのだ。どぱっと冷や汗が出てきた。
「なんか芸能人がいるって」
「ちょ、見たい」
「押すなバカ」
 狭いホームは押し合いへし合いで大混乱。あちこちでシャッター音が響き渡る。ズン、と胃が重くなった。
(やば……っ)
 咄嗟に口を押さえて呼吸を止めた。
 じわじわと這い上がってくるのは今朝食べたトースト。牛乳。ヨーグルト。体の中を逆流してくる。まずい。
 しかし凪人の異変に少女はまるで気づいていない。黒髪のウィッグをかぶり直しながら諦めを含んだ表情で視線を巡らせる。
「あーもー気づかれちゃった。ここじゃなんだから別のところで話でも――」
 凪人は顔面蒼白でうずくまる。
(――見るな)
 どくん、と体が震えた。
(見ないでくれ)
 いかに手で抑え込んでも一度痙攣しはじめた胃は止めようがない。こみあげてる液体を唾を呑んで押し返そうとするがすぐそこまできている。無理だ。
「だいじょうぶ? 顔色悪いよ」
 ようやく異変を察した少女がいたわるように背中をさすってくる。しかし限界だった。
「え、ちょ、ちょっと」
 脱兎の如く、とは正にこのことだろう。
 凪人は走った。人ごみを押しのけ、掻き分け、走って走ってトイレに飛び込み――。

「うぇえええええええ」

 思いっきり吐いた。
 少女が誰でなんと言っていたかなどもうどうでも良かった。