(もう結果が出てもおかしくないよな)
 葉山の言うことが事実ならアリスはヒロインには選ばれない。その場合、他の役を割り振られるのかもしれないし作品自体に関わらないかもしれない。
 今回のドラマにこだわらなければ他にいくらでもチャンスはあるだろうと思っていた。もしアリスが落ちたとしても――。
 チリン、とドアベルが鳴る。いつ来てもいいようにと開けていたのだ。

「――……アリス?」

 ドア影から現れた華奢な人影は「あ」と小さく息を吐くと、なぜかそのまま後ずさりして扉を閉めた。凪人は急いで駆け寄り大きく扉を開け放つ。背中を向けたアリスがすぐそこに佇んでいた。
 いつもの調子で「なんで閉めるんだよ」と軽口を叩きそうになった凪人は思わず息を呑む。
 アリスの頭から爪先までぐっしょりと濡れている。靴やふくらはぎには泥も飛んでいて、冷え切った肌が青白く光って見えた。
「その格好……どうしたんだ?」
「あ、こ、これはね」
 アリスは小刻みに震える指で、目蓋にかかる前髪をぎこちなく動かした。
 ターコイズの瞳は一層深い色に染まっている。
「わたし、わた、私ね、傘、忘れちゃって、この、ままじゃ、お店濡れちゃうし」
 寒さのせいか呂律が回っていない。
 それでも必死に言葉を紡ごうとしている。
 毛先から滴り落ちる水滴が何度も何度もアリスの服を濡らしていく。
 すぐにでも店の中へ引き入れたいところだったが、アリスは気兼ねしてしまうだろう。
「とりあえずもっとこっちへ、雨の当たらないところに来いよ。そこでちょっとだけ待ってろ」
 そう言い置いて大急いで自宅に戻り、バスタブにお湯を落としてから大判のバスタオルを数枚引っ張り出す。なぜか無性に焦っていた。容赦なく叩きつける雨に紛れてアリスがいなくなってしまうのではないか、そんな不安がよぎる。
「アリス、いるか」
 扉を開けたところにアリスはしゃがみこんでいた。内心ほっとする。
 けれど、背を向けて所在なげに座り込んでいる姿を見ていると次から次へと不安があふれてくる。早く安心したい。
 衝動に任せ、大判のタオルごと後ろから抱きしめた。アリスの細い肩がぴくりと跳ねる。
「なぎと、くん?」
 タオルごしとは言え体は相当冷えていて、まるで氷を抱きしめているような感覚だった。体も細く、どんなにしっかり抱きしめていてもするりと腕の中から抜けていきそう。
「ど、したの。お店の前でこ、んな大胆なこと。めだっ、ちゃうよ」
「どうした、はこっちの台詞だよ。こんなにずぶ濡れで。傘も差さずタクシーも使わないなんて変じゃないか」
 凪人に向き直ったアリスの頬は真っ青で、唇に至っては紫色に変色していた。
「私、ばかだから、お財布、なくしゃっ、て。ど、しよかなって、思って、それで歩いて」
「いいから風呂に入れよ。温まって、話はそれからだ」
 アリスは立ち上がろうとしたが、まったくと言っていいほど体に力が入っていなかった。
 さすがにおかしいと思ったらしく、焦りの色が浮かぶ。
「ど、しよ。立てない、こまっ、た、な」
 だったら、と背中と膝裏に手を差し込んでぐいっと持ち上げた。
「ふえ、えぇ」
「頼むから暴れるなよ、しっかり首にしがみついていろ」
 抱き上げたアリスがしっかりと腕を回したのを確認して店内を縦断し、自宅の浴室まで運んでいく。最後まで運べる自信はなかったが、想像以上に軽かったのでなんとか落とさずにすんだ。
 バスタブの湯はまだほとんど溜まっていなかったが、それ幸いとアリスを縁に腰掛けさせて足首から下を浸してやった。自らは裾をまくりあげてバスタブ内に入り、手桶でお湯をかけたり軽くマッサージしてやったりしていると血の気を失っていた足先に少しずつ肌色が戻ってくる。
「よし、もう少しでお湯も溜まるはずだから入浴していけよ。脱衣所におれの新品の服を置いておくし、リビングに温まるものでも用意しておくから」
「――ねぇ凪人くん」
 血色は良くなったもののアリスの表情は冴えない。
「なんでもない……ありがと」
 うつむきがちなアリスと目線が重なることはない。凪人の不安はまだ拭い取れそうになかった。

「こんなもんでいいかな」
 凪人は温かなシチューを用意してリビングで待っていた。時計の針を見るとあれから三十分経っている。遅い。
(まさか溺れてないよな)
 心配になって駆けつけようとした矢先、廊下で足音がした。アリスだ。
 湯上がりなので顔色はいいが相変わらず表情は暗い。凪人のシャツは彼女の体には大きく、その不格好さが言い知れぬ不安を募らせた。
「あ、食べるだろ。シチュー。いま盛るから」
 背中を向けてお玉でかき混ぜていると後ろからアリスが抱きついてきた。ぎくっとしつつ慌ててコンロの火を止める。
「危ないだろ、いま火を使って」
「凪人くん私のこと好き?」
 声を遮って唐突に尋ねてくる。「なに言ってるんだ」とはぐらかそうとした凪人の顎をアリスの指先が捕らえた。半ば強引に振り向かせて唇を重ねてくる。噛みつくようなキスには逃げることを許さない荒々しさがあった。
「……は、なせよ」
 やっとのことでキスから解放されて呼吸することが出来た。いつもなら多少の恥じらいを見せるアリスなのにいまは違う。湖面のように凪いだターコイズの瞳が機械的に瞬きしているだけだ。青白い唇がまた動く。
「私のこと好き?」
 質問というよりも尋問に近い声音だった。まるでアリスそっくりのアンドロイドと対面している気分になる。
「本当にどうしたんだよ。ここに来てから――いや来る前から変だ」
「……変じゃないよ」
 戸惑いを隠せない凪人の手首をとって自らの頬に触れさせた。あまりにも冷たい。
「私のこと好きならぎゅって抱いて。――お願い」