「なぁ福沢!」
「うわびっくりしたぁ、大きい声出してどうしたの?」
「デートって付き合ってるカップルが行くもんじゃないのか?」
福沢は目を丸くしたあと「そうだよ」と頷く。恥ずかしそうに横髪を撫でなが。
「だから真弓たちとのダブルデートなんじゃん。あたしと黒瀬くんは付き合っているわけじゃないけど、なんていうかほら候補……みたいな?」
「だったらなんでおれを誘うんだ? 福沢は斎藤マナトが好きなんだろ?」
「はぁ?」
驚いたように体をのけぞらせた。しかし凪人は真剣そのもの。他人との関わりを避けて色恋沙汰に縁がなかったツケがきたのだと知る由もない。
「ちょっとやだ、本気で言ってるの? あたしなんかが『向こうの世界』の人と付き合えるわけないじゃん」
福沢は腹を抱えて笑い出した。どこか壊れたんじゃないかと思うほどの大爆笑で、ヒーヒ―言いながら涙を拭っている。凪人は腑に落ちない。
「はいはい、言いたいことは分かるよ。黒瀬くんは兎ノ原アリスのファンなんだね。でもその気持ちは恋じゃないよ。もし交際できたとしてもマスコミに追いかけられたり激高したファンに嫌がらせされたりでイイコトなし。お店だって簡単に特定されちゃうよ」
思えばアリスとの出会いもストーカーによるものだった。昨今マスメディアへの露出が増えて人気が出てきたアリスの周りにそういった輩がいても不思議はない。
「向こうの世界の人たちは色恋沙汰をバラエティー番組のネタや好感度に結び付けられるけどあたしたちはそうじゃない。だからあたしは斎藤マナトを好きだけど普通の人と恋をするし、普通の人と結婚するつもり。黒瀬くんはどうなの?」
福沢が黒板消しを上下させると波やウサギは跡形も残らず消えていく。
ふいに言い知れない不安が胸の内に押し寄せてきた。
ひとたび波が足元をすくえばアリスとともに築き上げた痕跡はあっという間に消えてしまい、あとには何も残らないのかもしれない。確かなものなど一つもない、そんな危うい場所に立っているのだ。
「いまだってお互いに遠慮しているんじゃない? 兎ノ原さんは誰もが振り返るモデルで凪人くんは目立つのが嫌い。長く続くはずない。だって住む世界が違うんから」
すっかり黒板をきれいにした福沢が振り返る。開けっ放しの窓から吹き込んだ風で髪の毛が揺れた。
「ためしになにも遠慮する必要のない人と付き合ってみたらどう? あたし実験台になってあげるよ」
「……え?」
実験台に名乗りを上げた福沢はどこか不安そうに髪の毛を押さえた。
「どういう意味か分かる? 分からないよね、黒瀬くんは鈍いから」
「え、あ……ぅん」
「だーかーら!」
おもむろに近づいてきたかと思うと手近な机によじのぼり、腕を伸ばして凪人に抱きついた。すー、っと息を吸い、一言。
「好きだって言ってんの!」
思わずモップの柄を放してしまった。
横倒しになったモップなど視界に入らないのか福沢は肩にきつく抱きついてくる。ほんのりとシャンプーの匂いがした。
「ちょっと前から黒瀬くんのことイイなって思ってたの。朝ごはん食べてるときも教室でも放課後でもお風呂入ってても考えるようになって、昨日は夢にも出てきた。水のあるところでデートしてて、帰りに告白して付き合うことになるんだけど……ダメだなぁ、あたし、嬉しすぎてフライングしちゃった」
福沢に抱かれているとどんどん体が熱くなっていくのが分かった。アリスとはまた違う緊張感が伝わってくる。
「あたしいますごく不安、だけどすごく幸せ。こんな気持ち初めて。ねぇお願いだから責任とってよ。他にいくらでも男がいる兎ノ原さんよりあたしの方が絶対にいいよ。だからさ、――付き合ってくれない?」
※
とぼとぼと歩いて家に近づいたとき、凪人は学校に自転車を置いてきてしまったことを思い出した。
告白されたあと、どんな言葉を交わしたのか細かく覚えていない。「そっか」とか「ありがと」とか答えて、最後に「ごめん」と言いかけたところで手のひらで口を押えられた。
『一生に一度の告白かもしれないんだよ、もうちょっと考えてくれてもいいじゃん。また聞くから、いっぱい悩んで返事をして』
冗談みたいに笑っていたが目尻には光るものが。
彼女は彼女なりに考えて、悩みぬいて、ありったけの勇気を振り絞って告白してくれたのだ。あっさりフラれるのは癪だろう。
(申し訳ないけど答えは決まっている。だっておれはアリスのことが――)
ずきりと胃が痛くなった。
自分はまだ小山内レイジだった過去を話していないのだ。本当の意味で心が通じ合ったとは言えない。
(ちゃんと言わないと。おれの過去、どうしてレイジをやめたのかも)
「んにゃ」
ふと声がするので足元を見るといつかの黒猫がすり寄ってきていた。しゃがんで喉を撫でてやると気持ちよさそうに目をつむる。
「おまえ野良か?」
見たところ毛並みはきれいだがゴミがついていたり汚れていたりする。首輪もないし片手で持ち上げられるくらい痩せている。
「もしまっくろ太がCGじゃなかったら、こんな感じだったのかな。おれ猫飼ったことなくてよく分からなかったんだよ。だから友だちの家や猫カフェ見に行って勉強しようとしたんだけど、いつも逃げられて」
膝の上に乗せても黒猫は大人しく撫でられていた。
「――飼いたかったな、猫」
『――お母さんほんと? お仕事頑張ったから猫飼っていいの? 大切にするよ。まっくろ太って名付けて、一緒に名探偵になるんだ。あぁ早くもふタッチしたいなぁ。きっとすっごく柔らかいんだよね』
「あっ」
するりと黒猫が逃げて行ってしまう。尻尾に触られたのが嫌だったようだ。民家の生垣の向こうに消えるまで見送ってから、小さくため息をついて再び歩き出す。
「凪人、お帰りなさい」
珍しく店の前に立っていた母が手を振った。困り果てたような表情を見てどことなく嫌な空気を察知する。
「どうも」
店のカウンター席で待ち構えていた葉山が軽く会釈した。
一転して険しい表情になる凪人を諭すように母が口を開く。
「何度でも来ると言うから待っていてもらったの。でもどうするかは凪人の判断に任せるわ。お母さんは接客をしていただけだから」
たしかにこう何度も来られては迷惑だ。とりあえず話を聞けというのなら聞いておいた方がいい。
「分かりました、話だけなら」
「ありがとうございます。お母さまもご同席願います。凪人くんは未成年ですから保護者の了解がいりますしね」
テーブル席を囲んでさながら三者面談のような体裁になる。いまさら『レイジ』になんの用事があるのかと警戒する凪人の前に『企画書』と題された一枚の紙が差し出された。
「この放送局は今年開局七十周年と称して大々的なイベントを展開しています。人気ドラマの生放送や様々なアーティストとのコラボレーション、スペシャルドラマなどを精力的に放送しつつ、過去に話題になった高視聴率ドラマの再放送やリメイクなどをしています。そんな中、局内で話題になったのが『黒猫探偵レイジ』です」
そこで言葉を切った葉山はちらりと凪人を見た。
「ここ最近再放送という形で当時を知る世代や新しい世代に『黒猫探偵レイジ』に接してもらっていますが視聴率は悪くないそうです。そこで二時間のスペシャル番組を放送することが決定しました。題して『帰ってこない黒猫探偵』。同じ世界観を踏襲しながらもキャストを刷新し、本格ミステリーとして新たなストーリーを展開することにしたのです」
つまり開局記念と称して新たな視聴者を獲得したいということらしい。当時人気を博した『黒猫探偵レイジ』がその起爆剤として取り上げられたのだ。
「一つよろしいですか?」
ためらいながら母が手を挙げた。
「『キャストを刷新』というお言葉を聞く限り、息子の出番はないようですけれど? まさか放送する許可を得に来たわけでもないでしょう?」
「ええ、主役は若者に人気の斎藤マナト。ヒロインは近くオーディションにより決定されます」
「斉藤マナトさんが新たな小山内レイジ役になるのですか?」
「いいえ、違います。彼は小山内レイジとは接点をもたない大学生で探偵事務所のアルバイトをしている設定です。しかし猫の声を聞くことができ、ヒロインからまっくろ太の捜索を依頼されるところからストーリーが始まります」
企画書の下に描かれていたまっくろ太の画像は本物と見まごうほどの出来栄えだった。
CG技術の向上によって、どこかぎこちなかった『まっくろ太』も六年を経て立派な猫に化けたのだ。そう思うとなにひとつ進歩していない自分など必要ない気がしてくる。
「脚本は間もなく完成しますが、ストーリーの終盤で小山内レイジの出番があるのです。いまや世界的に有名になった水内監督が初めて手掛けた作品が『黒猫探偵レイジ』だったことから、ぜひともレイジ……凪人くん本人に出演していただきたいとのご意向なのです」
「無理です。おれはもう小山内レイジじゃない。ただの一般人だ」
凪人は激しくかぶりを振る。監督といいまっくろ太といい、すべてが異次元の存在だ。
「ですからこのようにお願いに参った次第です」
葉山はあくまでも冷静に、丁寧に頭を下げる。
「わたくしはMareの社員です。トライ&トライをモットーとしており、納得がいくまで足掻くのが信条。凪人さんがわたくしのことを嫌っているのは重々承知しています。謝れ、土下座しろ、腹踊りをしろと命じられたら実行します。羞恥心など元よりない。どんな悪者にでもなりましょう。社畜となじられようとこれがわたくしのプライドです」
そう言って床に土下座しようとするので慌ててやめさせた。
凪人のように学生とカフェ店員のどちらにも中途半端に足を突っ込んでいる状態とは違う。葉山はどこまでも仕事を愛し、真剣なのだ。だから幼いころから凪人に厳しかった。
(たぶんアリスもおんなじだ)
もし目の前で土下座しようとしたのが葉山でなくアリスだったのなら、受け入れてしまいそうだ。自分の体調不良など、どうにかしてしまおうと思うだろう。それよりもアリスの喜ぶ顔を見たい。
けれど。
「話は分かりました。でもやっぱりお断りします」
葉山の顔が険しくなった。
「子どもの頃と違って、いまのおれには葉山さんがどれだけ熱心なのかが分かる。だからこそ断ります。おれには覚悟がない。勇気がない。自信がない。イヤだと拒絶する自分の心を殺せない。そんな状態で『レイジ』を演じても誰も納得しないし迷惑をかけるだけだ」
これがいまの本音。偽ることのない本心。
心のこもっていない『レイジ』に一体なんの意味があるだろう。
「残念です……」
そう呟いたきり葉山は項垂れる。しかしなかなか立ち上がろうとしなかった。罪悪感のある凪人としてはコーヒーをぶちまけて怒鳴られればまだ気持ちが楽だったのに、それもない。
「そういえば」
葉山がゆっくりと動いて、冷めたコーヒーに手を伸ばした。なにか思い出すように手元を見つめている。
「以前このお店の前ですれ違った女性――見覚えがあると思って調べましたらモデルのAliceだったのですね。親しいご関係ですか?」
どきん、と心臓が脈打った。よりによってアリスに気づくとは。
「ただのお客さんです」
平静を装うつもりだったのに自然と声が低くなってしまう。葉山はわざとそうしているように凪人の目を見ない。
「そうですか。SNSでクラスメイトと映った写真を拝見しましたが、凪人くんと同じクラスのようですね」
「だからなんだっていうんですか?」
次第にイライラしてきた。葉山の目的が分からない。
そんな苛立ちを当然のように受け止めつつ葉山はゆっくりとコーヒーを飲み干す。
「彼女、『帰ってこない黒猫探偵』のヒロインオーディションで最終選考に残っていますよ」
「――……まさか」
オーディション。その言葉を耳にして息を呑んだ。
アリスが演技指導を受けてまで出演したいドラマが『黒猫探偵』だとしたら、あれほどまで熱心だった理由も分かる。
「関係者に聞いたところお世辞にも演技が上手とは言えないのでヒロインとしては難しいようですが……もし凪人くんにご協力頂けるのであれば名前のついた端役なら用意できるかもしれませんね。わが社も協賛企業のひとつですから」
葉山の目が獲物のように凪人を捕える。体ごと心まで握りつぶされたような気がした。
凪人の手足が小刻みに揺れ始めた。顔からは血の気が引く。葉山は企画書を引き取るかわりに名刺と二千円札を置いて椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまでした。来週また伺います。良い返事を期待しておりますよ」
こらえていた怒りが頂点に達した。
「……昔からそうやって優しいふりしてなんでもかんでも自分の思い通りにするところが嫌いだったんだ」
椅子を蹴るように立ち上がって二千円札を床にたたきつける。
「来るな、もう二度とこの店に来るなッ!」
腹の底から叫んで何度も机を叩いた。あまりの衝撃にコーヒーカップがガシャンと跳ねる。我を忘れてここまで激高したのは初めてだった。
「そんなふうに怒りを露わにすることもあるのですね」
葉山はこれといって取り乱すこともなく、醒めた目で凪人を見つめている。だからこそ余計に腹が立った。こんなことで取り乱す自分が幼稚に思えたのだ。
「お邪魔しました」
ドアベルを鳴らして去って行く葉山。その後ろ姿が消えた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。立っていることもままならずその場に座り込む。
嘔吐しそうな気配はなかった。怒りが勝ってそれどころではなかったのだろう。
「はい、お水」
冷えたグラスが差し出される。凪人は急に喉の渇きを感じて一気に飲み干してしまった。母はすぐにかわりを用意してくれる。
「ごめん……おれ店員失格だな」
「そうかもね」
母の声音は優しい。顔を見ても怒っている様子はない。
「それで、どうするの? 本当に断るの?」
「自信がないって言っただろ。あれが全部だよ。たとえアリスに頼まれたって同じだ」
克服できるものならしている。それができないから目立たずに生きていくしかなかったのだ。
「まぁね、もう高校生なんだから決めるのは凪人だけど」
母がリモコンを操作すると『黒猫探偵レイジ』の再放送が流れていた。右も左も分からない状態でぎこちないながらも一所懸命に演技しているのが分かる。
「お母さんはどっちも好きよ。黒瀬凪人も小山内レイジも。どっちも大切な息子だからね」
凪人はぼんやりと画面を見つめる。
思い出したくもない。できれば消してしまいたい過去でも、誰かの心にはクッキリと爪痕を残しているのだ。
『ぼくは鳴いている猫と女の子の味方だよ』
恥ずかしくてみっともないと思っていたレイジの決め台詞がやけに心に響いてきた。
自分はいま誰の味方なのだろう。
※
三日後の日曜日、アリスの最終オーディションの日は朝から雨だった。母は地域の飲み会に参加して帰りは遅くなるらしい。
オーディションが何時に始まって何時に結果が出るのか聞いていない凪人だったが、どうにも落ち着かず昼過ぎからずっと店のカウンター席に座って料理本を広げていた。しかし本の中身はまるで頭に入ってこない。気になるのは時計の針とスマホの着信だけだ。
時計の針は四時を指している。アリスからの連絡は、まだない。
「うわびっくりしたぁ、大きい声出してどうしたの?」
「デートって付き合ってるカップルが行くもんじゃないのか?」
福沢は目を丸くしたあと「そうだよ」と頷く。恥ずかしそうに横髪を撫でなが。
「だから真弓たちとのダブルデートなんじゃん。あたしと黒瀬くんは付き合っているわけじゃないけど、なんていうかほら候補……みたいな?」
「だったらなんでおれを誘うんだ? 福沢は斎藤マナトが好きなんだろ?」
「はぁ?」
驚いたように体をのけぞらせた。しかし凪人は真剣そのもの。他人との関わりを避けて色恋沙汰に縁がなかったツケがきたのだと知る由もない。
「ちょっとやだ、本気で言ってるの? あたしなんかが『向こうの世界』の人と付き合えるわけないじゃん」
福沢は腹を抱えて笑い出した。どこか壊れたんじゃないかと思うほどの大爆笑で、ヒーヒ―言いながら涙を拭っている。凪人は腑に落ちない。
「はいはい、言いたいことは分かるよ。黒瀬くんは兎ノ原アリスのファンなんだね。でもその気持ちは恋じゃないよ。もし交際できたとしてもマスコミに追いかけられたり激高したファンに嫌がらせされたりでイイコトなし。お店だって簡単に特定されちゃうよ」
思えばアリスとの出会いもストーカーによるものだった。昨今マスメディアへの露出が増えて人気が出てきたアリスの周りにそういった輩がいても不思議はない。
「向こうの世界の人たちは色恋沙汰をバラエティー番組のネタや好感度に結び付けられるけどあたしたちはそうじゃない。だからあたしは斎藤マナトを好きだけど普通の人と恋をするし、普通の人と結婚するつもり。黒瀬くんはどうなの?」
福沢が黒板消しを上下させると波やウサギは跡形も残らず消えていく。
ふいに言い知れない不安が胸の内に押し寄せてきた。
ひとたび波が足元をすくえばアリスとともに築き上げた痕跡はあっという間に消えてしまい、あとには何も残らないのかもしれない。確かなものなど一つもない、そんな危うい場所に立っているのだ。
「いまだってお互いに遠慮しているんじゃない? 兎ノ原さんは誰もが振り返るモデルで凪人くんは目立つのが嫌い。長く続くはずない。だって住む世界が違うんから」
すっかり黒板をきれいにした福沢が振り返る。開けっ放しの窓から吹き込んだ風で髪の毛が揺れた。
「ためしになにも遠慮する必要のない人と付き合ってみたらどう? あたし実験台になってあげるよ」
「……え?」
実験台に名乗りを上げた福沢はどこか不安そうに髪の毛を押さえた。
「どういう意味か分かる? 分からないよね、黒瀬くんは鈍いから」
「え、あ……ぅん」
「だーかーら!」
おもむろに近づいてきたかと思うと手近な机によじのぼり、腕を伸ばして凪人に抱きついた。すー、っと息を吸い、一言。
「好きだって言ってんの!」
思わずモップの柄を放してしまった。
横倒しになったモップなど視界に入らないのか福沢は肩にきつく抱きついてくる。ほんのりとシャンプーの匂いがした。
「ちょっと前から黒瀬くんのことイイなって思ってたの。朝ごはん食べてるときも教室でも放課後でもお風呂入ってても考えるようになって、昨日は夢にも出てきた。水のあるところでデートしてて、帰りに告白して付き合うことになるんだけど……ダメだなぁ、あたし、嬉しすぎてフライングしちゃった」
福沢に抱かれているとどんどん体が熱くなっていくのが分かった。アリスとはまた違う緊張感が伝わってくる。
「あたしいますごく不安、だけどすごく幸せ。こんな気持ち初めて。ねぇお願いだから責任とってよ。他にいくらでも男がいる兎ノ原さんよりあたしの方が絶対にいいよ。だからさ、――付き合ってくれない?」
※
とぼとぼと歩いて家に近づいたとき、凪人は学校に自転車を置いてきてしまったことを思い出した。
告白されたあと、どんな言葉を交わしたのか細かく覚えていない。「そっか」とか「ありがと」とか答えて、最後に「ごめん」と言いかけたところで手のひらで口を押えられた。
『一生に一度の告白かもしれないんだよ、もうちょっと考えてくれてもいいじゃん。また聞くから、いっぱい悩んで返事をして』
冗談みたいに笑っていたが目尻には光るものが。
彼女は彼女なりに考えて、悩みぬいて、ありったけの勇気を振り絞って告白してくれたのだ。あっさりフラれるのは癪だろう。
(申し訳ないけど答えは決まっている。だっておれはアリスのことが――)
ずきりと胃が痛くなった。
自分はまだ小山内レイジだった過去を話していないのだ。本当の意味で心が通じ合ったとは言えない。
(ちゃんと言わないと。おれの過去、どうしてレイジをやめたのかも)
「んにゃ」
ふと声がするので足元を見るといつかの黒猫がすり寄ってきていた。しゃがんで喉を撫でてやると気持ちよさそうに目をつむる。
「おまえ野良か?」
見たところ毛並みはきれいだがゴミがついていたり汚れていたりする。首輪もないし片手で持ち上げられるくらい痩せている。
「もしまっくろ太がCGじゃなかったら、こんな感じだったのかな。おれ猫飼ったことなくてよく分からなかったんだよ。だから友だちの家や猫カフェ見に行って勉強しようとしたんだけど、いつも逃げられて」
膝の上に乗せても黒猫は大人しく撫でられていた。
「――飼いたかったな、猫」
『――お母さんほんと? お仕事頑張ったから猫飼っていいの? 大切にするよ。まっくろ太って名付けて、一緒に名探偵になるんだ。あぁ早くもふタッチしたいなぁ。きっとすっごく柔らかいんだよね』
「あっ」
するりと黒猫が逃げて行ってしまう。尻尾に触られたのが嫌だったようだ。民家の生垣の向こうに消えるまで見送ってから、小さくため息をついて再び歩き出す。
「凪人、お帰りなさい」
珍しく店の前に立っていた母が手を振った。困り果てたような表情を見てどことなく嫌な空気を察知する。
「どうも」
店のカウンター席で待ち構えていた葉山が軽く会釈した。
一転して険しい表情になる凪人を諭すように母が口を開く。
「何度でも来ると言うから待っていてもらったの。でもどうするかは凪人の判断に任せるわ。お母さんは接客をしていただけだから」
たしかにこう何度も来られては迷惑だ。とりあえず話を聞けというのなら聞いておいた方がいい。
「分かりました、話だけなら」
「ありがとうございます。お母さまもご同席願います。凪人くんは未成年ですから保護者の了解がいりますしね」
テーブル席を囲んでさながら三者面談のような体裁になる。いまさら『レイジ』になんの用事があるのかと警戒する凪人の前に『企画書』と題された一枚の紙が差し出された。
「この放送局は今年開局七十周年と称して大々的なイベントを展開しています。人気ドラマの生放送や様々なアーティストとのコラボレーション、スペシャルドラマなどを精力的に放送しつつ、過去に話題になった高視聴率ドラマの再放送やリメイクなどをしています。そんな中、局内で話題になったのが『黒猫探偵レイジ』です」
そこで言葉を切った葉山はちらりと凪人を見た。
「ここ最近再放送という形で当時を知る世代や新しい世代に『黒猫探偵レイジ』に接してもらっていますが視聴率は悪くないそうです。そこで二時間のスペシャル番組を放送することが決定しました。題して『帰ってこない黒猫探偵』。同じ世界観を踏襲しながらもキャストを刷新し、本格ミステリーとして新たなストーリーを展開することにしたのです」
つまり開局記念と称して新たな視聴者を獲得したいということらしい。当時人気を博した『黒猫探偵レイジ』がその起爆剤として取り上げられたのだ。
「一つよろしいですか?」
ためらいながら母が手を挙げた。
「『キャストを刷新』というお言葉を聞く限り、息子の出番はないようですけれど? まさか放送する許可を得に来たわけでもないでしょう?」
「ええ、主役は若者に人気の斎藤マナト。ヒロインは近くオーディションにより決定されます」
「斉藤マナトさんが新たな小山内レイジ役になるのですか?」
「いいえ、違います。彼は小山内レイジとは接点をもたない大学生で探偵事務所のアルバイトをしている設定です。しかし猫の声を聞くことができ、ヒロインからまっくろ太の捜索を依頼されるところからストーリーが始まります」
企画書の下に描かれていたまっくろ太の画像は本物と見まごうほどの出来栄えだった。
CG技術の向上によって、どこかぎこちなかった『まっくろ太』も六年を経て立派な猫に化けたのだ。そう思うとなにひとつ進歩していない自分など必要ない気がしてくる。
「脚本は間もなく完成しますが、ストーリーの終盤で小山内レイジの出番があるのです。いまや世界的に有名になった水内監督が初めて手掛けた作品が『黒猫探偵レイジ』だったことから、ぜひともレイジ……凪人くん本人に出演していただきたいとのご意向なのです」
「無理です。おれはもう小山内レイジじゃない。ただの一般人だ」
凪人は激しくかぶりを振る。監督といいまっくろ太といい、すべてが異次元の存在だ。
「ですからこのようにお願いに参った次第です」
葉山はあくまでも冷静に、丁寧に頭を下げる。
「わたくしはMareの社員です。トライ&トライをモットーとしており、納得がいくまで足掻くのが信条。凪人さんがわたくしのことを嫌っているのは重々承知しています。謝れ、土下座しろ、腹踊りをしろと命じられたら実行します。羞恥心など元よりない。どんな悪者にでもなりましょう。社畜となじられようとこれがわたくしのプライドです」
そう言って床に土下座しようとするので慌ててやめさせた。
凪人のように学生とカフェ店員のどちらにも中途半端に足を突っ込んでいる状態とは違う。葉山はどこまでも仕事を愛し、真剣なのだ。だから幼いころから凪人に厳しかった。
(たぶんアリスもおんなじだ)
もし目の前で土下座しようとしたのが葉山でなくアリスだったのなら、受け入れてしまいそうだ。自分の体調不良など、どうにかしてしまおうと思うだろう。それよりもアリスの喜ぶ顔を見たい。
けれど。
「話は分かりました。でもやっぱりお断りします」
葉山の顔が険しくなった。
「子どもの頃と違って、いまのおれには葉山さんがどれだけ熱心なのかが分かる。だからこそ断ります。おれには覚悟がない。勇気がない。自信がない。イヤだと拒絶する自分の心を殺せない。そんな状態で『レイジ』を演じても誰も納得しないし迷惑をかけるだけだ」
これがいまの本音。偽ることのない本心。
心のこもっていない『レイジ』に一体なんの意味があるだろう。
「残念です……」
そう呟いたきり葉山は項垂れる。しかしなかなか立ち上がろうとしなかった。罪悪感のある凪人としてはコーヒーをぶちまけて怒鳴られればまだ気持ちが楽だったのに、それもない。
「そういえば」
葉山がゆっくりと動いて、冷めたコーヒーに手を伸ばした。なにか思い出すように手元を見つめている。
「以前このお店の前ですれ違った女性――見覚えがあると思って調べましたらモデルのAliceだったのですね。親しいご関係ですか?」
どきん、と心臓が脈打った。よりによってアリスに気づくとは。
「ただのお客さんです」
平静を装うつもりだったのに自然と声が低くなってしまう。葉山はわざとそうしているように凪人の目を見ない。
「そうですか。SNSでクラスメイトと映った写真を拝見しましたが、凪人くんと同じクラスのようですね」
「だからなんだっていうんですか?」
次第にイライラしてきた。葉山の目的が分からない。
そんな苛立ちを当然のように受け止めつつ葉山はゆっくりとコーヒーを飲み干す。
「彼女、『帰ってこない黒猫探偵』のヒロインオーディションで最終選考に残っていますよ」
「――……まさか」
オーディション。その言葉を耳にして息を呑んだ。
アリスが演技指導を受けてまで出演したいドラマが『黒猫探偵』だとしたら、あれほどまで熱心だった理由も分かる。
「関係者に聞いたところお世辞にも演技が上手とは言えないのでヒロインとしては難しいようですが……もし凪人くんにご協力頂けるのであれば名前のついた端役なら用意できるかもしれませんね。わが社も協賛企業のひとつですから」
葉山の目が獲物のように凪人を捕える。体ごと心まで握りつぶされたような気がした。
凪人の手足が小刻みに揺れ始めた。顔からは血の気が引く。葉山は企画書を引き取るかわりに名刺と二千円札を置いて椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまでした。来週また伺います。良い返事を期待しておりますよ」
こらえていた怒りが頂点に達した。
「……昔からそうやって優しいふりしてなんでもかんでも自分の思い通りにするところが嫌いだったんだ」
椅子を蹴るように立ち上がって二千円札を床にたたきつける。
「来るな、もう二度とこの店に来るなッ!」
腹の底から叫んで何度も机を叩いた。あまりの衝撃にコーヒーカップがガシャンと跳ねる。我を忘れてここまで激高したのは初めてだった。
「そんなふうに怒りを露わにすることもあるのですね」
葉山はこれといって取り乱すこともなく、醒めた目で凪人を見つめている。だからこそ余計に腹が立った。こんなことで取り乱す自分が幼稚に思えたのだ。
「お邪魔しました」
ドアベルを鳴らして去って行く葉山。その後ろ姿が消えた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。立っていることもままならずその場に座り込む。
嘔吐しそうな気配はなかった。怒りが勝ってそれどころではなかったのだろう。
「はい、お水」
冷えたグラスが差し出される。凪人は急に喉の渇きを感じて一気に飲み干してしまった。母はすぐにかわりを用意してくれる。
「ごめん……おれ店員失格だな」
「そうかもね」
母の声音は優しい。顔を見ても怒っている様子はない。
「それで、どうするの? 本当に断るの?」
「自信がないって言っただろ。あれが全部だよ。たとえアリスに頼まれたって同じだ」
克服できるものならしている。それができないから目立たずに生きていくしかなかったのだ。
「まぁね、もう高校生なんだから決めるのは凪人だけど」
母がリモコンを操作すると『黒猫探偵レイジ』の再放送が流れていた。右も左も分からない状態でぎこちないながらも一所懸命に演技しているのが分かる。
「お母さんはどっちも好きよ。黒瀬凪人も小山内レイジも。どっちも大切な息子だからね」
凪人はぼんやりと画面を見つめる。
思い出したくもない。できれば消してしまいたい過去でも、誰かの心にはクッキリと爪痕を残しているのだ。
『ぼくは鳴いている猫と女の子の味方だよ』
恥ずかしくてみっともないと思っていたレイジの決め台詞がやけに心に響いてきた。
自分はいま誰の味方なのだろう。
※
三日後の日曜日、アリスの最終オーディションの日は朝から雨だった。母は地域の飲み会に参加して帰りは遅くなるらしい。
オーディションが何時に始まって何時に結果が出るのか聞いていない凪人だったが、どうにも落ち着かず昼過ぎからずっと店のカウンター席に座って料理本を広げていた。しかし本の中身はまるで頭に入ってこない。気になるのは時計の針とスマホの着信だけだ。
時計の針は四時を指している。アリスからの連絡は、まだない。

