「帰ってください」
一も二もなく拒絶した。葉山は不快そうに眉を吊り上げる。
「せめて話だけでも」
「聞きたくない。帰れ。帰ってくれ!」
懇願するように頭を抱えた。血が逆流しているのではないかと思うくらい体中がおかしい。どうにかなってしまいそうだ。見かねた母が間に割って入る。
「葉山さん、ご無沙汰してます。せっかく来ていただいたのに申し訳ありませんが今日はお引き取り願えませんか?」
「このカフェは客を選ぶというのですか?」
「あいにくと今日はお休みですので。お願いします、この通りですから……」
ひたすら頭を下げて相手を諦めさせるしかない。
願いが通じたのか葉山はフンと鼻を鳴らして踵を返した。
「また来ます。こちらも仕事ですからね、簡単には諦めません」
不吉なセリフと力強い靴音を残して店を出ていく。
扉が閉まって十秒も経たないうちにドアベルが鳴り、今度はアリスが顔を出した。
「あぁアリスちゃん! いらっしゃい!」
急にほっとした桃子はいつも以上の大声で出迎えてしまった。アリスはびっくりしたように目をむく。
「あ、お邪魔します。忙しかったですか?」
「いいのいいの、さぁ入って」
大歓迎の桃子をよそにアリスはしきりに扉の方を気にしている。
「いまスーツの女性とすれ違ったんですけど、お客さんですか?」
モデルとマネージャー。事務所こそ違うが現場で顔を合わせている可能性もある。桃子は内心冷や汗をかきながら首を振った。
「なんでもないわ、道を訊かれただけなのよ」
「そう……ですか。あ、凪人くんこんにちは」
「ぅん、いらっしゃい」
吐く寸前だった凪人は必死に笑顔を浮かべた。しかし近づいてきたアリスはすぐに異変に気づく。
「顔色悪いね。休んだ方がいいよ?」
「平気だ。せっかく来てくれたんだから――うっ」
せりあがってきた吐き気を必死にこらえる。慌てて桃子がトイレへと連れて行った。
とても食事どころではなく、凪人は結局部屋で休むことにした。凪人が手作りしたレアチーズケーキを振る舞ったのは桃子だ。
「あー美味しかった。ごちそうさまです」
「お粗末様でした。凪人もアリスちゃんに食べてもらって嬉しかったと思うわ」
「凪人くん大丈夫でしょうか?」
「そうね……」
時計を見るとアリスが来てから一時間ほど経過していた。桃子は用意したお盆にミネラルウォーターとグラスを乗せる。
「悪いけど凪人の部屋に水を運んでもらえる?」
「え、私がですか?」
「わたしは洗い物を片づけるから。カウンターの奥から入ると自宅のリビングに出るからそこで靴を脱いでスリッパに履き替えて。玄関前の階段を上がった突き当たりが凪人の部屋。すぐトイレに駆け込めるように鍵はかけていないはずよ。お願いね」
桃子はさっさと席を離れてしまう。
アリスに残された選択肢は引き受けるか断るかの二択だけ。
凪人の部屋。考えるだけで胸がドキドキして張り裂けそうだった。
「い、行ってきます」
ずしりと重いお盆を手に、ゆっくりと奥へ向かう。
目隠しのための暖簾をくぐるとこざっぱりとしたリビングに出る。言われたとおり靴を脱いであがった。
親子二人には十分すぎるほどのリビングダイニング。観葉植物のパキラや料理本が詰め込まれた本棚、奥の机にはパソコンとプリンターが置いてある。
隅に置いてあるマガジンラックにアリスが表紙の雑誌が立ててあった。こんなところに「自分」がいるのだと思うと急に恥ずかしくなる。
二階の突き当たりの部屋はなんの変哲もない木製の扉で、ドアレバーの感触から確かに鍵はかかっていないようだ。
片手でノックをしようとしたが緊張のせいでお盆から両手が離せない。
「凪人くん、アリスです。具合はどう」
中に声をかけた。しかし返事はない。
「入……ちゃいますよ」
肘を使ってドアレバーを回し、肩で扉を押し開けた。カーテンごしの日差しに布団にくるまる人影が映し出され思わず息を呑む。
「寝てる、の?」
ドキドキしながら足を踏み入れた。
勉強机の上や漫画本が収まった本棚は思いのほかきれいに整理されていて、桃子の手が行き届いているのが見て取れた。壁紙は男の子っぽいサッカーボール柄で、子どものころから変わっていないのだと思うと微笑ましい。
芝生のような緑色のカーペット踏みしめて近づくと足元でカサッと音がした。緊張していたせいで少しの音にもびっくりしてスリッパの下を見るといくつかの空袋が散らばっている。粉や漢方薬などの胃薬だ。
制服のポケットに薬を常備していることは知っているが、これほどたくさん服用しているとは知らなかった。なにも言われなかった。なにも気づかなかった。
嘔吐して辛そうにしている凪人の姿を思い出すと胸がツンと痛くなる。
傍らにお盆を置いて様子をうかがうと背を向ける形で横向きになって眠っていた。鼻から下は布団に隠れているが、その分、長い睫毛とやわらかそうな目蓋がよく見える。
子どものように無防備な寝顔。いつまでも眺めていられそうだった。
「かわいい」
寝返りを打ったときに壊さないようにと思い、枕元に転がっていた眼鏡を拾い上げた。何気なく眼鏡越しに見た世界はひとつの歪みもない。度が入っていないのだ。つまりダテ眼鏡。
それがなにを意味するのか深く考えることもなく、膝たちになってぐいぐい顔をのぞき込んだ。いまならキスしてもバレないかもしれない。
「……ぅん」
ふいに凪人が声をもらす。アリスは小さく悲鳴を上げて後ずさった。
続けておおきく寝返りを打った凪人はゆっくりと目を開け、両手を挙げたまま硬直しているアリスを捉えた。
「なに、してるんだ」
「な、な、なにも。なにもしてません」
ガサガサと布団をめくって上体を起こした凪人はまだ眠気の方が勝っており目が虚ろだ。
「おれどれくらい寝てた?」
「えーと、一時間くらいかな」
「待っててくれたのか?」
「うん。しばらく忙しくなるから」
「そっか、ごめん」
「なんか素直……!」
いつもとは違う一面にソワソワしてしまう。次第に目が覚めてきた凪人はアリスを招いた目的をようやく思い出した。
「それで、その、渡したいものがあって」
凪人はおもむろに立ち上がると引き出しを開けて「あるもの」を取り出した。ぞんざいに差し出してきたのは小さな箱だ。
「――やる」
「なにこれ?」
「いいから開けてみろ」
強引に押しつけてくるのでとりあえず受け取り、言われるまま包みをほどく。凪人は顔をしかめつつ落ち着かなそうにアリスの指の動きを追っていた。
「……あっ」
中から表れたのは黒猫がついた指輪だ。なにか言われる前にと凪人は早口になる。
「この前の、お礼で。サイズとか好みとか全然分からないから適当だけど」
しどろもどろの凪人をよそに指輪を手に取ったアリスは上から下からながめすがめつしたあと早速指に嵌めてみようとして、動きを止めた。
「どうした? 気に入らなかったか?」
「ううん。そうじゃなくて」
おもむろに膝で這っていき凪人に自らの手を差し出した。
「どうせなら凪人くんの手で嵌めてもらいたい」
「あ……そういうことか」
普段なら恥ずかしくて断る凪人だったが、まだ寝ぼけていて頭が回らなかった。なので差し出された手を素直に左手で包み、右手に指輪を持つ。
(細い指だな)
背丈が自分と同じくらいのアリスだが手は一回りほど小さい。きれいに磨かれた爪は最低限のジェルが塗ってあるだけで、派手派手しいネイルが苦手な凪人には好印象だ。
「じゃあ、入れるぞ」
「うん。お願い」
ここだと主張するように持ち上げられた薬指にそっと指輪を押し込む。知らぬ間に息を止めていた。
「ふぅー」
ちゃんと嵌まったのを見届けた凪人は大きく息を吐いた。安堵感とともに肩の力も抜けていく。眠気が覚めて冷静になったせいか指輪の不格好さが目についた。
「はは。ちょっと大きかったな、安物だし」
「ううん。すごく嬉しい。ずっと大事にするね」
たかが千円ぽっちの指輪を宝物のように見つめるアリス。どうしてそんな幸せそうな顔をするのかと、凪人の胸が熱くなる。
「ね、またキスしよっか」
会う度に催促してくるアリスの大胆さにも少しずつ慣れてきた。
凪人の不服そうな様子を察したアリスが唇を尖らせる。
「まさか歯磨きしてからとか言うつもり? それに『また』って言うほどキスしてませんしー」
「でも節操がないっていうか」
「……あっそぅ、じゃあいい」
憤慨して立ち上がったはずのアリスは回れ右して出ていくわけでもなく、逆に凪人の膝の上にちょこんと座った。
「焦らしプレイしよう。つまり我慢比べ。お互いに寸止めして理性を保てなくなったほうが負け」
「なんだその怪しげなプレイは」
「はいスタート!」
いきなり鼻がぶつかりそうな距離まで近づいてくる。しかし触れていない。ただの睨めっこだ。
そのまま無言で見つめ合っていると次第にアリスの顔が紅潮していく。
(自分で言い出したくせに、なんだよその顔。見てるこっちが恥ずかしいわ)
「目、そらさないで」
居たたまれなくなって顔を背けようとするが両頬を包み込むように手を伸ばしてくる。しかし触れない。体温が分かるくらいの絶妙な距離を保っている。
「凪人くんって肌きれいだね」
じーっくり鑑賞していたアリスがおもむろに呟く。
「鼻の立体感とか、眉毛の形、唇の厚み……好みかも」
ひとつひとつを指さしていく。もちろん寸止めで絶対に触らない。
「顎もシャープだし、髪の毛の生え方もいいね。変な癖もついてない」
軽く息を吐けばかかりそうな距離まで顔を寄せてくるのに頑なに触ろうとしない。
顔や手は当たっていないが胸は当たっている。本当に勘弁して欲しい。
「あれれ。なんだか顔が赤いですよ? いけない子ですねぇ」
それはおまえの方だ、と突っ込みを入れたくて仕方ない。
「ね、後ろからハグして。ただし触らないでね。エアーハグ」
無防備に背中を向けてくるので言われたとおり後ろから腕を伸ばした。自分の胸の中にすっぽり収まるアリスの華奢な体。ミルクティー色の髪が鼻に当たってくすぐったい。シャンプーの匂いだ。
「うーん。意外と我慢できちゃうもんだね、焦らしプレイ。なにか事故が起きると思ったのに」
「変態か」
「あのねぇ、そもそも凪人くんが男気を見せてくれないから……っつぁ」
いきなり振り返ったせいでバランスを崩して倒れ込んだ。腕を引っ張られた凪人も巻き添えで倒れ込む。
ばふん、と布団が揺れて二人の体が重なり合う。
仰向けに倒れたアリスの髪がシーツの上に広がる。シャンプーの匂いが一層強くなり、逆にアリスの体がとても小さく見えた。
(やばい)
どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。こんなにも小さくて愛らしい少女が自分の腕の下で寝そべっている。どうしてこんなに喉が渇くのだろう。水なんかじゃだめだ。
凪人はたまらずアリスの髪の一房をすくいあげた。滑らかな手触りをひとしきり楽しんだあとで、そっと口づけを落とす。
「……私の勝ち」
アリスが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
まだやっていたのかと呆れつつ、いかにもアリスらしい勝利宣言だった。
「もうどっちでもいいよ、勝ちでも負けでも」
「じゃあ私の勝ち。だから、もういいよね」
言いながら腕を伸ばして凪人の首に絡めると自らの側に引き寄せる。そのままいつもより長くキスをした。もういいだろうと唇を離してもすぐ磁石のようにくっつく。その繰り返しだった。
最後は首筋に顔を埋めて思う存分シャンプーの匂いにひたる。アリスはひたすら髪を撫でてくれた。
「そろそろ行かないと」
すっかり溶け込んでいた体を離してアリスが立ち上がる。服と髪の乱れを軽く直して扉の前に立つ。
「このまえ話したオーディション、来週が最終選考なんだ。すごく緊張している。だから顔を見たかったの」
「受かるといいな」
「うん。凪人くんが言うなら大丈夫な気がする」
別れ際にもう一度だけキスをして、きつく抱き合った。
きっと大丈夫。アリスの顔を見ていると不安など一ミリも感じなかった。
※
「真弓、彼氏と抜け駆けしたみたい。ひどくない?」
モップの柄に頬杖ついた福沢が呆れたようにスマホをしまう。放課後の掃除当番は本来四人いたはずだった。しかしいま教室にいるのは凪人と福沢だけ。
真弓というのは福沢といつも一緒にいるクラスメイトだと思うが、顔をはっきり思い出せない。
「彼氏いたのか」
「知らないの? 文化祭のあと教室で片付けしていたら真弓の元彼がフラれた腹いせに乗り込んできて、ウチのクラスの岡田が助けようとして殴り合いの流血騒ぎ。でもそのお陰でいまはラブラブ……って知らないか」
そのころ凪人は図書室にいた。アリスと愛斗を引き合わせるために神経使っていたのだ。そんな騒動があったとは露知らず、友だちもいないので噂が耳に入ることもなかった。思いのほか狭いこの教室内で起きたという騒ぎがまるで別世界の出来事のようだ。
(そうやってなんの思い出も感傷もないまま卒業していくんだろうな)
目立たない、つまり他者の記憶に残らないとはつまりそういうこと。自身にも大した記憶が残らないまま押し流されるように学校から放り出される。
(アリスはどうするんだろう、卒業したら芸能活動に専念するのかな)
きっとそうだ。そのとき自分はどうするのだろう。
「最近、兎ノ原さん欠席多いね。この前の期末テストも全部受けられなくて休みの日に追試受けたらしいじゃん」
掃除に飽きた福沢が黒板にチョークでウサギのイラストを書いた。意外とうまい。
「忙しいみたいだからな」
「でも頭いいらしいね。移動時間に勉強しているって雑誌のインタビューで答えてた」
「負けず嫌いなところもあるからな」
「休みの過ごし方はお気に入りのカフェで美味しいコーヒーと甘すぎないパンケーキを食べて気まぐれな黒猫を構うことだって」
「”黒猫を構う”?」
どういう意味だ、と眉間に皺が寄った。
「そう書いてあったよ。もしかしてたまに会ってるの?」
「まぁ、店の常連客だから」
一瞬余計なことを言ってしまったと思ったが手遅れだった。たちまち福沢の顔つきが変わる。
「やっぱりそうなんだ。自宅でカフェやってるって噂は本当だったんだね。前に送ってくれた斉藤マナトの写真の背景がそうでしょう? 雰囲気良さそうだと思った」
文化祭のときに頼まれた写真のことだ。事情を聞いた愛斗は快く了解してくれ、パンケーキを前に写真を撮らせてくれた。しかし念願の写真を手に入れたはずの福沢の反応は「ありがと」だけで、大して嬉しそうでなかったのを覚えている。
「今度行っていい?」
教壇に頬杖をついた福沢が目を輝かせて身を乗り出してくる。アリスが聞いたら怒りそうだとは思ったが、客を選ぶ権利はない。
「いいけど……営業時間は午前十一時から午後六時時まで、木曜と日曜は休み。あとは母さんの都合で臨時休業になることも多い」
「なんか来てほしくなさそう……」
自分で言い出したくせにつまらなそうに怪訝そうな眼差しを向けてくる。
「そんなことはないけど――」
言いよどんでいるとあっという間に話の内容が変わった。
「ところで黒瀬くんて兎ノ原さんと付き合ってるの?」
「いや、付き合ってない」
凪人は条件反射的に首を振っていた。
「ほんとにぃ?」
「好きだとは言ってない」
「賢明だね。じゃあさ――」
再びチョークを持った福沢は黒板の右から左までゆらゆらと波線を描いた。水平線のつもりらしい。
「夏休みになったら海に行こうよ」
「海?」
「そ、真弓たちと一緒にさ。この前、新しい水着買っちゃったんだ」
ここから海までは遠い。片道で電車二時間はかかる距離だ。往復するとなれば一日がかり。
「プールでもいいよ。なんなら湖でもいいし水族館でもいい。とにかく水のある涼しそうなところに行きたい」
今度は黒板を左から右へと駆け戻ってきて波を二重にする。
どうしても行きたいらしいが夏の海は混むので好きではない。混雑した電車に揺られるのも苦手だ。湖やプールも同じで、発作がある凪人は落ち着かない。
長期の休みは店番と称して自宅でゆっくり過ごすのが最良で、これまではずっとそうしていた。
けれど。
「やっぱりダメ――かな」
ためらいがちな福沢を見ていると申し訳ない気持ちになってくる。せっかく誘ってくれたのに自分の都合ばかり優先して断るなんて。
「分かった、いいよ」
「ほんと?」
「ただ人酔いするから状況や場所によっては情けない姿を見せるかもしれない。迷惑かけないように気をつけるけど」
「そんなの全然いいよ。やった、デートだ」
赤いチョークに持ち替えた福沢は流れるようにハートを描きながら再度黒板を横断した。
「…………デート?」
凪人はぱちくりと目を瞬かせる。
デートデートデート……あれ、と思考が止まる。
一も二もなく拒絶した。葉山は不快そうに眉を吊り上げる。
「せめて話だけでも」
「聞きたくない。帰れ。帰ってくれ!」
懇願するように頭を抱えた。血が逆流しているのではないかと思うくらい体中がおかしい。どうにかなってしまいそうだ。見かねた母が間に割って入る。
「葉山さん、ご無沙汰してます。せっかく来ていただいたのに申し訳ありませんが今日はお引き取り願えませんか?」
「このカフェは客を選ぶというのですか?」
「あいにくと今日はお休みですので。お願いします、この通りですから……」
ひたすら頭を下げて相手を諦めさせるしかない。
願いが通じたのか葉山はフンと鼻を鳴らして踵を返した。
「また来ます。こちらも仕事ですからね、簡単には諦めません」
不吉なセリフと力強い靴音を残して店を出ていく。
扉が閉まって十秒も経たないうちにドアベルが鳴り、今度はアリスが顔を出した。
「あぁアリスちゃん! いらっしゃい!」
急にほっとした桃子はいつも以上の大声で出迎えてしまった。アリスはびっくりしたように目をむく。
「あ、お邪魔します。忙しかったですか?」
「いいのいいの、さぁ入って」
大歓迎の桃子をよそにアリスはしきりに扉の方を気にしている。
「いまスーツの女性とすれ違ったんですけど、お客さんですか?」
モデルとマネージャー。事務所こそ違うが現場で顔を合わせている可能性もある。桃子は内心冷や汗をかきながら首を振った。
「なんでもないわ、道を訊かれただけなのよ」
「そう……ですか。あ、凪人くんこんにちは」
「ぅん、いらっしゃい」
吐く寸前だった凪人は必死に笑顔を浮かべた。しかし近づいてきたアリスはすぐに異変に気づく。
「顔色悪いね。休んだ方がいいよ?」
「平気だ。せっかく来てくれたんだから――うっ」
せりあがってきた吐き気を必死にこらえる。慌てて桃子がトイレへと連れて行った。
とても食事どころではなく、凪人は結局部屋で休むことにした。凪人が手作りしたレアチーズケーキを振る舞ったのは桃子だ。
「あー美味しかった。ごちそうさまです」
「お粗末様でした。凪人もアリスちゃんに食べてもらって嬉しかったと思うわ」
「凪人くん大丈夫でしょうか?」
「そうね……」
時計を見るとアリスが来てから一時間ほど経過していた。桃子は用意したお盆にミネラルウォーターとグラスを乗せる。
「悪いけど凪人の部屋に水を運んでもらえる?」
「え、私がですか?」
「わたしは洗い物を片づけるから。カウンターの奥から入ると自宅のリビングに出るからそこで靴を脱いでスリッパに履き替えて。玄関前の階段を上がった突き当たりが凪人の部屋。すぐトイレに駆け込めるように鍵はかけていないはずよ。お願いね」
桃子はさっさと席を離れてしまう。
アリスに残された選択肢は引き受けるか断るかの二択だけ。
凪人の部屋。考えるだけで胸がドキドキして張り裂けそうだった。
「い、行ってきます」
ずしりと重いお盆を手に、ゆっくりと奥へ向かう。
目隠しのための暖簾をくぐるとこざっぱりとしたリビングに出る。言われたとおり靴を脱いであがった。
親子二人には十分すぎるほどのリビングダイニング。観葉植物のパキラや料理本が詰め込まれた本棚、奥の机にはパソコンとプリンターが置いてある。
隅に置いてあるマガジンラックにアリスが表紙の雑誌が立ててあった。こんなところに「自分」がいるのだと思うと急に恥ずかしくなる。
二階の突き当たりの部屋はなんの変哲もない木製の扉で、ドアレバーの感触から確かに鍵はかかっていないようだ。
片手でノックをしようとしたが緊張のせいでお盆から両手が離せない。
「凪人くん、アリスです。具合はどう」
中に声をかけた。しかし返事はない。
「入……ちゃいますよ」
肘を使ってドアレバーを回し、肩で扉を押し開けた。カーテンごしの日差しに布団にくるまる人影が映し出され思わず息を呑む。
「寝てる、の?」
ドキドキしながら足を踏み入れた。
勉強机の上や漫画本が収まった本棚は思いのほかきれいに整理されていて、桃子の手が行き届いているのが見て取れた。壁紙は男の子っぽいサッカーボール柄で、子どものころから変わっていないのだと思うと微笑ましい。
芝生のような緑色のカーペット踏みしめて近づくと足元でカサッと音がした。緊張していたせいで少しの音にもびっくりしてスリッパの下を見るといくつかの空袋が散らばっている。粉や漢方薬などの胃薬だ。
制服のポケットに薬を常備していることは知っているが、これほどたくさん服用しているとは知らなかった。なにも言われなかった。なにも気づかなかった。
嘔吐して辛そうにしている凪人の姿を思い出すと胸がツンと痛くなる。
傍らにお盆を置いて様子をうかがうと背を向ける形で横向きになって眠っていた。鼻から下は布団に隠れているが、その分、長い睫毛とやわらかそうな目蓋がよく見える。
子どものように無防備な寝顔。いつまでも眺めていられそうだった。
「かわいい」
寝返りを打ったときに壊さないようにと思い、枕元に転がっていた眼鏡を拾い上げた。何気なく眼鏡越しに見た世界はひとつの歪みもない。度が入っていないのだ。つまりダテ眼鏡。
それがなにを意味するのか深く考えることもなく、膝たちになってぐいぐい顔をのぞき込んだ。いまならキスしてもバレないかもしれない。
「……ぅん」
ふいに凪人が声をもらす。アリスは小さく悲鳴を上げて後ずさった。
続けておおきく寝返りを打った凪人はゆっくりと目を開け、両手を挙げたまま硬直しているアリスを捉えた。
「なに、してるんだ」
「な、な、なにも。なにもしてません」
ガサガサと布団をめくって上体を起こした凪人はまだ眠気の方が勝っており目が虚ろだ。
「おれどれくらい寝てた?」
「えーと、一時間くらいかな」
「待っててくれたのか?」
「うん。しばらく忙しくなるから」
「そっか、ごめん」
「なんか素直……!」
いつもとは違う一面にソワソワしてしまう。次第に目が覚めてきた凪人はアリスを招いた目的をようやく思い出した。
「それで、その、渡したいものがあって」
凪人はおもむろに立ち上がると引き出しを開けて「あるもの」を取り出した。ぞんざいに差し出してきたのは小さな箱だ。
「――やる」
「なにこれ?」
「いいから開けてみろ」
強引に押しつけてくるのでとりあえず受け取り、言われるまま包みをほどく。凪人は顔をしかめつつ落ち着かなそうにアリスの指の動きを追っていた。
「……あっ」
中から表れたのは黒猫がついた指輪だ。なにか言われる前にと凪人は早口になる。
「この前の、お礼で。サイズとか好みとか全然分からないから適当だけど」
しどろもどろの凪人をよそに指輪を手に取ったアリスは上から下からながめすがめつしたあと早速指に嵌めてみようとして、動きを止めた。
「どうした? 気に入らなかったか?」
「ううん。そうじゃなくて」
おもむろに膝で這っていき凪人に自らの手を差し出した。
「どうせなら凪人くんの手で嵌めてもらいたい」
「あ……そういうことか」
普段なら恥ずかしくて断る凪人だったが、まだ寝ぼけていて頭が回らなかった。なので差し出された手を素直に左手で包み、右手に指輪を持つ。
(細い指だな)
背丈が自分と同じくらいのアリスだが手は一回りほど小さい。きれいに磨かれた爪は最低限のジェルが塗ってあるだけで、派手派手しいネイルが苦手な凪人には好印象だ。
「じゃあ、入れるぞ」
「うん。お願い」
ここだと主張するように持ち上げられた薬指にそっと指輪を押し込む。知らぬ間に息を止めていた。
「ふぅー」
ちゃんと嵌まったのを見届けた凪人は大きく息を吐いた。安堵感とともに肩の力も抜けていく。眠気が覚めて冷静になったせいか指輪の不格好さが目についた。
「はは。ちょっと大きかったな、安物だし」
「ううん。すごく嬉しい。ずっと大事にするね」
たかが千円ぽっちの指輪を宝物のように見つめるアリス。どうしてそんな幸せそうな顔をするのかと、凪人の胸が熱くなる。
「ね、またキスしよっか」
会う度に催促してくるアリスの大胆さにも少しずつ慣れてきた。
凪人の不服そうな様子を察したアリスが唇を尖らせる。
「まさか歯磨きしてからとか言うつもり? それに『また』って言うほどキスしてませんしー」
「でも節操がないっていうか」
「……あっそぅ、じゃあいい」
憤慨して立ち上がったはずのアリスは回れ右して出ていくわけでもなく、逆に凪人の膝の上にちょこんと座った。
「焦らしプレイしよう。つまり我慢比べ。お互いに寸止めして理性を保てなくなったほうが負け」
「なんだその怪しげなプレイは」
「はいスタート!」
いきなり鼻がぶつかりそうな距離まで近づいてくる。しかし触れていない。ただの睨めっこだ。
そのまま無言で見つめ合っていると次第にアリスの顔が紅潮していく。
(自分で言い出したくせに、なんだよその顔。見てるこっちが恥ずかしいわ)
「目、そらさないで」
居たたまれなくなって顔を背けようとするが両頬を包み込むように手を伸ばしてくる。しかし触れない。体温が分かるくらいの絶妙な距離を保っている。
「凪人くんって肌きれいだね」
じーっくり鑑賞していたアリスがおもむろに呟く。
「鼻の立体感とか、眉毛の形、唇の厚み……好みかも」
ひとつひとつを指さしていく。もちろん寸止めで絶対に触らない。
「顎もシャープだし、髪の毛の生え方もいいね。変な癖もついてない」
軽く息を吐けばかかりそうな距離まで顔を寄せてくるのに頑なに触ろうとしない。
顔や手は当たっていないが胸は当たっている。本当に勘弁して欲しい。
「あれれ。なんだか顔が赤いですよ? いけない子ですねぇ」
それはおまえの方だ、と突っ込みを入れたくて仕方ない。
「ね、後ろからハグして。ただし触らないでね。エアーハグ」
無防備に背中を向けてくるので言われたとおり後ろから腕を伸ばした。自分の胸の中にすっぽり収まるアリスの華奢な体。ミルクティー色の髪が鼻に当たってくすぐったい。シャンプーの匂いだ。
「うーん。意外と我慢できちゃうもんだね、焦らしプレイ。なにか事故が起きると思ったのに」
「変態か」
「あのねぇ、そもそも凪人くんが男気を見せてくれないから……っつぁ」
いきなり振り返ったせいでバランスを崩して倒れ込んだ。腕を引っ張られた凪人も巻き添えで倒れ込む。
ばふん、と布団が揺れて二人の体が重なり合う。
仰向けに倒れたアリスの髪がシーツの上に広がる。シャンプーの匂いが一層強くなり、逆にアリスの体がとても小さく見えた。
(やばい)
どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。こんなにも小さくて愛らしい少女が自分の腕の下で寝そべっている。どうしてこんなに喉が渇くのだろう。水なんかじゃだめだ。
凪人はたまらずアリスの髪の一房をすくいあげた。滑らかな手触りをひとしきり楽しんだあとで、そっと口づけを落とす。
「……私の勝ち」
アリスが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
まだやっていたのかと呆れつつ、いかにもアリスらしい勝利宣言だった。
「もうどっちでもいいよ、勝ちでも負けでも」
「じゃあ私の勝ち。だから、もういいよね」
言いながら腕を伸ばして凪人の首に絡めると自らの側に引き寄せる。そのままいつもより長くキスをした。もういいだろうと唇を離してもすぐ磁石のようにくっつく。その繰り返しだった。
最後は首筋に顔を埋めて思う存分シャンプーの匂いにひたる。アリスはひたすら髪を撫でてくれた。
「そろそろ行かないと」
すっかり溶け込んでいた体を離してアリスが立ち上がる。服と髪の乱れを軽く直して扉の前に立つ。
「このまえ話したオーディション、来週が最終選考なんだ。すごく緊張している。だから顔を見たかったの」
「受かるといいな」
「うん。凪人くんが言うなら大丈夫な気がする」
別れ際にもう一度だけキスをして、きつく抱き合った。
きっと大丈夫。アリスの顔を見ていると不安など一ミリも感じなかった。
※
「真弓、彼氏と抜け駆けしたみたい。ひどくない?」
モップの柄に頬杖ついた福沢が呆れたようにスマホをしまう。放課後の掃除当番は本来四人いたはずだった。しかしいま教室にいるのは凪人と福沢だけ。
真弓というのは福沢といつも一緒にいるクラスメイトだと思うが、顔をはっきり思い出せない。
「彼氏いたのか」
「知らないの? 文化祭のあと教室で片付けしていたら真弓の元彼がフラれた腹いせに乗り込んできて、ウチのクラスの岡田が助けようとして殴り合いの流血騒ぎ。でもそのお陰でいまはラブラブ……って知らないか」
そのころ凪人は図書室にいた。アリスと愛斗を引き合わせるために神経使っていたのだ。そんな騒動があったとは露知らず、友だちもいないので噂が耳に入ることもなかった。思いのほか狭いこの教室内で起きたという騒ぎがまるで別世界の出来事のようだ。
(そうやってなんの思い出も感傷もないまま卒業していくんだろうな)
目立たない、つまり他者の記憶に残らないとはつまりそういうこと。自身にも大した記憶が残らないまま押し流されるように学校から放り出される。
(アリスはどうするんだろう、卒業したら芸能活動に専念するのかな)
きっとそうだ。そのとき自分はどうするのだろう。
「最近、兎ノ原さん欠席多いね。この前の期末テストも全部受けられなくて休みの日に追試受けたらしいじゃん」
掃除に飽きた福沢が黒板にチョークでウサギのイラストを書いた。意外とうまい。
「忙しいみたいだからな」
「でも頭いいらしいね。移動時間に勉強しているって雑誌のインタビューで答えてた」
「負けず嫌いなところもあるからな」
「休みの過ごし方はお気に入りのカフェで美味しいコーヒーと甘すぎないパンケーキを食べて気まぐれな黒猫を構うことだって」
「”黒猫を構う”?」
どういう意味だ、と眉間に皺が寄った。
「そう書いてあったよ。もしかしてたまに会ってるの?」
「まぁ、店の常連客だから」
一瞬余計なことを言ってしまったと思ったが手遅れだった。たちまち福沢の顔つきが変わる。
「やっぱりそうなんだ。自宅でカフェやってるって噂は本当だったんだね。前に送ってくれた斉藤マナトの写真の背景がそうでしょう? 雰囲気良さそうだと思った」
文化祭のときに頼まれた写真のことだ。事情を聞いた愛斗は快く了解してくれ、パンケーキを前に写真を撮らせてくれた。しかし念願の写真を手に入れたはずの福沢の反応は「ありがと」だけで、大して嬉しそうでなかったのを覚えている。
「今度行っていい?」
教壇に頬杖をついた福沢が目を輝かせて身を乗り出してくる。アリスが聞いたら怒りそうだとは思ったが、客を選ぶ権利はない。
「いいけど……営業時間は午前十一時から午後六時時まで、木曜と日曜は休み。あとは母さんの都合で臨時休業になることも多い」
「なんか来てほしくなさそう……」
自分で言い出したくせにつまらなそうに怪訝そうな眼差しを向けてくる。
「そんなことはないけど――」
言いよどんでいるとあっという間に話の内容が変わった。
「ところで黒瀬くんて兎ノ原さんと付き合ってるの?」
「いや、付き合ってない」
凪人は条件反射的に首を振っていた。
「ほんとにぃ?」
「好きだとは言ってない」
「賢明だね。じゃあさ――」
再びチョークを持った福沢は黒板の右から左までゆらゆらと波線を描いた。水平線のつもりらしい。
「夏休みになったら海に行こうよ」
「海?」
「そ、真弓たちと一緒にさ。この前、新しい水着買っちゃったんだ」
ここから海までは遠い。片道で電車二時間はかかる距離だ。往復するとなれば一日がかり。
「プールでもいいよ。なんなら湖でもいいし水族館でもいい。とにかく水のある涼しそうなところに行きたい」
今度は黒板を左から右へと駆け戻ってきて波を二重にする。
どうしても行きたいらしいが夏の海は混むので好きではない。混雑した電車に揺られるのも苦手だ。湖やプールも同じで、発作がある凪人は落ち着かない。
長期の休みは店番と称して自宅でゆっくり過ごすのが最良で、これまではずっとそうしていた。
けれど。
「やっぱりダメ――かな」
ためらいがちな福沢を見ていると申し訳ない気持ちになってくる。せっかく誘ってくれたのに自分の都合ばかり優先して断るなんて。
「分かった、いいよ」
「ほんと?」
「ただ人酔いするから状況や場所によっては情けない姿を見せるかもしれない。迷惑かけないように気をつけるけど」
「そんなの全然いいよ。やった、デートだ」
赤いチョークに持ち替えた福沢は流れるようにハートを描きながら再度黒板を横断した。
「…………デート?」
凪人はぱちくりと目を瞬かせる。
デートデートデート……あれ、と思考が止まる。

