一緒に朝ごはんを食べてからテレビを観ているとアリスの携帯が鳴った。相手は柴山らしい。少し話をしてから電話を切る。
「昨日の落とし物やっぱり鍵だって。柴山さんが事務局で受け取ってくれて、もうすぐこっちに着くらしいよ」
「良かった、お礼言わなくちゃな。柴山さんが来るってことはアリスの迎えだろ、支度しなくていいのか?」
「あ、うん。する……けど」
上目遣いに見つめてきた。ぎくりとする。なにかを期待している目だ。
案の定、
「キスでも、しない?」
と軽い調子で尋ねられ「はぁ!?」と仰け反った。アリスは後ろ手に指を組んで恥ずかしそうにおねだりしてくる。
「……ダメ?」
「ダメもなにもさっき納豆食べてたよな」
「ちゃんと歯磨きしたもん! 大豆は畑の肉なんだよ、健康維持のために納豆は大事だもん。見てよこのきれいな歯並び」
唇をつまんで歯を見せようとしたので「見た見た」と応じた。
納豆を理由に受け流したが本心では自分がビビっているだけだ。昨夜は花火の余韻でなんとなくキスしてしまったが、ことあるごとにキスするほど強心臓ではない。だからといって昨晩のような強引なキスも勘弁してほしい。
しかしアリスは諦めずに粘る。さすが納豆を食べただけはある。
「言っておくけどキスなんて海外じゃ当たり前なの。フランスでもビズっていう挨拶があって、できて当然のマナーなんだよ。私だってフランス人のパパの血が入ってるもん」
その言い分にはかなりの無理がある。自分はフランス人だと言うのならアリスはクラスメイトにもまんべんなくビズをしなくてはおかしい。しかもビズは頬を合わせて音を立てるだけでキスではない。
無言で抗議の目を向けていると、自身の言い分を苦しく思ったのかアリスの目線が不安そうに下がっていく。
「だって……初めてのお泊りなのに何もなかったし厳しいレッスンを前にしてキスくらい欲しいじゃん。だめならハグだけでも」
「じゃあハグで」
「二択じゃないんだけど!」
安易に妥協案を出してしまった自分を悔やむアリスだったが、結局そういうことになった。
仕切り直して互いに向き合う。そこまでは良かった。場の勢いや感情の昂ぶりによるハグなら簡単だが、冷静な状態でいざ対峙してから「さぁハグしましょう」のなんと難しいことか。
二人は互いに硬直したまま見つめ合っていたが、埒が明かないと踏んだ凪人が先に両手を広げた。
「こ、来いよ」
「いいの?」
「おまえが言ったんだろ、ハグって」
「じゃ、じゃあ、遠慮なく」
歩幅を短くしてアリスがそーっと懐に入り込んでくる。凪人は肌に触れてくる感触をなるべく意識しないように肩に手を回した。抱くというよりは薄い膜を隔てて包み込むような感じだ。たったそれだけでも心音が早くなるのに一方のアリスは背中に手を伸ばしてさらに密着しようと試みる。
「くっつきすぎだ」
「いいじゃんケチー」
凪人は腹を凹ませて後ずさりするがアリスは負けじと一歩踏み出してくる。そんな攻防を繰り広げていた二人はインターフォンが鳴ったことにまったく気づかなかった。
「よぉ」
「うわっ」「きゃっ」
突然背後から聞こえた声に驚き互いを突き飛ばして尻餅をつく。呼びかけた柴山はキッチンの入口の前に立っていて申し訳なさそうに頬を掻いた。
「取り込み中に悪いな、何度インターフォンを押しても反応なかったから合い鍵で入ってきたんだ。仲良しなのはいいことだけど時間がないもんで」
「あ、もうこんな時間! 着替えないと!」
我に返ったアリスは廊下へと飛び出していく。
柴山が「ほらよ」と鍵を放り投げたので慌ててキャッチした。キーホルダーもなにもついていない質素な鍵だ。
「これです。お手間かけてすみませんでした。本当にありがとうございます」
「いいって。そのかわり今日は家まで送ってやれないけどな」
「お気遣いなく。歩いて帰るの大丈夫ですよ」
「そっか。で……どうだった?」
ニヤリと不気味な笑みが浮かぶ。とてもマネージャーとは思えない。
凪人は肩をすくめて見せた。
「なんにもありません。お互い疲れていたのですぐ寝ちゃいましたよ」
ズルい大人の目論見通りにはいかないと肩透かししてやろうと思ったのに、柴山の笑みがさらに深くなった。
「そんなことだろうと思った。アリスの顔見りゃ分かるよ」
さすがマネージャー。アリスと顔を合わせただけですぐに読み取れてしまうのだ。恐ろしい。
「先に車に行ってるって伝えてくれ」
立ち去りかけた柴山は思わせぶりに凪人を振り返った。
「奥手な黒瀬くんには難しいかもしれないが程々にアリスを甘えさせてやってくれよ。徐々に仕事も増えてきたし今度のドラマが決まったらあまり会えなくなるんだぞ。おまえは良くてもアリスの充電はすぐに切れちまう。頼むな」
返答など聞きもせず出て行ってしまう柴山は遠回しに発破をかけてきたのだ。それくらいは凪人にも分かる。
「お待たせー」
着替えを済ませたアリスが駆けてくる。青のノースリーブに白い肌が映え、華奢な体にミルクティー色の髪と瞳がより一層強調されて見えた。
「良ければこれ使って」
差し出されたのは黒猫を模ったキーホルダーだ。なにもアクセサリーがついていない鍵を見て気を遣ってくれたのだと分かる。
「サンキュな。あ、柴山さん先行ったよ。おれもそろそろお暇するから」
「じゃあ急がないと。戸締り戸締り!」
慌ただしく戸締りをしてから一緒に玄関に向かう。
アリスはシューズボックスを開けると白いミュールを引っ張り出して足先を収めた。
「っと、とと」
あまりに急ぎすぎたため立ち上がった瞬間ふらっとよろめいた。
「あぶなッ」
とっさに凪人が背中を支えると香水のような甘い匂いが広がった。唇に薄く紅を引いたアリスの顔がすぐ間近にある。驚いたようなターコイズの瞳に視線が引き寄せられる。
いまなら――と魔が差して、耳たぶにちゅっとキスをした。
ハッと我に返ったのは呆然としていたアリスの顔が果実のように赤くなったせいだ。触れられた部位に触れ、信じられないとばかりに目を見開いている。
「いま、なにしたの」
「ビズだよ。ビズ」
「でも、耳に」
「ビズ!」
凪人自身、冷静になろうとしても顔の火照りがおさまりそうにない。あまりの恥かしさに顔を覆った。いっそ逃げ出したい。
「――ありがと。これ、お礼」
チュッと頬に口づけされたが、あまりにも一瞬のことで凪人はリアクションすら忘れた。アリスは恥ずかしがるように外へ飛び出していき、
「よぉーし、がんばるぞー」とマンション中に響き渡るような声が聞こえたのでこっちが恥ずかしくなってきた。
一体何をやっているんだろう。これではまるで恋人同士だ。
※
アリスの家から自宅までは徒歩でもそれほどかからない。にも関わらず、今日に限って直帰するのが勿体ないような気がしてわざと遠回りした。
気の向くまま歩き回って若者たちが大勢集まるショッピング通りに入る。
人込みを避けるように裏通りに入るとビンテージショップが立ち並んでいた。
(あ、黒猫)
とある店の前で黒猫が丸くなっていた。凪人が近づいてもまるで逃げる気配はなく、手を伸ばしても大人しく撫でられていた。赤い首輪が巻かれているので飼い猫のようだ。
ふと視線を向けるとガラスの向こうにも黒猫がいた。しかしどれだけ見つめても動かない。どうやら置物のようだ。目を凝らすとガラス張りの店内には黒猫をモチーフにした雑貨がぎっしりと並べてあり、どうやら黒猫雑貨専用のセレクトショップらしい。
なんとなく興味をひかれるまま店内に入った。
せいぜい四畳半程度しかない店内には棚に入りきらないほどの雑貨が詰め込まれているが、幸いにも他の客の姿はなかった。凪人はほっと胸をなで下ろす。客同士すれ違うのがやっとというこんな空間に長くいたらきっと吐いてしまう。
奥でパソコンをいじっていた五十路くらいの店員はチラッとこちらを見て「らっしゃい」と言っただけで画面に視線を戻す。
(ものの見事に黒猫ばっかりだな)
店頭にあった猫のミニサイズにはじまって縫いぐるみ、ペンケース、筆記用具、誰が描いたのか分からない絵画まである。陳列された商品の中には明らかに「まっくろ太」を意識したものが多い。類似品や劣化品ばかりだが手に取るのに抵抗はない。
『黒猫探偵レイジ』の中に登場するまっくろ太はCG。レイジを演じていたころの凪人は本物の猫の毛触りを知らずにいた。テレビを通してみるまっくろ太の毛はとても柔らかそうで、いつか「本物」に触れてみたいと願ってやまない時期があった。
(『あのこと』がなければ、おれはまだレイジでいたのかな)
時々考えてしまう。
あのとき、もしも何かが違っていたら自分は小山内レイジとして芸能界に在籍し、違う形でアリスと出会ったのかもしれないと。
「彼女へのプレゼント? これなんかどうだい?」
いつの間にか店員が隣に立ち、一枚のTシャツを掲げていた。
体操着を思わせる白地に、誰の落書きかと疑う寸胴の黒猫が描かれたものだ。もはや壊滅的なセンスと言っていい。
「えーと、可愛いんですけど、彼女の服のサイズ知らないので」
「一点もののTシャツだよ。世界でたった一枚、これしかないんだ。ゆくゆくはプレミアものになるかもしれない」
これは面倒なことになった。
なにか買わないと逃げられそうにない。
(……あ)
凪人の目に飛び込んできたのは黒猫のシルエットがアクセントになっている指輪だ。なんとはなしに手にとってみたが、輪郭や接着面はとても丁寧に処理されていて、リングの幅も太すぎず細すぎず丁度良い。
(アリスにあげたら喜びそうだな)
脳裏にぽっと浮かぶのは嬉しそうな笑顔。
(プレゼントとか大げさなものじゃなくて泊まりとキーホルダーのお礼だって言えばいいよな)
値段は千円プラス税。これくらいなら買える。
(でもさすがに安すぎるかな。アリスはモデルだから安物を付けていたらバカにされたりするかも)
などど悩んでいると、
「お客さん見る目あるね。それはオニキスを削ったものだよ。もちろん一点もの」
「オニキス、パワーストーンですか?」
「そう。魔除けの石さ」
魔除けと聞いてストーカーのことを思い出した。今後同じようなことがあるかも知れず、アリスにぴったりだ。
「これ買います!」
家族以外の人のために買い物をするなんて初めてのことだった。
※
翌週、アリスと会う約束をした。
この前泊めてもらったお礼をしたいと伝え、店での食事に誘ったのだ。そこで指輪を渡すつもりでいる。
午後二時。チリリ、とドアベルが鳴った。
(来た)
凪人は笑顔で待ち構える。ゆっくりと扉が開いて人影が現れた。
「いらっしゃいアリス、忙しいのにごめ――」
はっと口をつぐんだ。現れたのは赤縁の眼鏡に紺色のスーツを身につけた小柄な女性だ。
すぐに人違いを謝ろうとしたが言葉が続かない。ただの客……そう言い切れないほど彼女のことをハッキリと覚えていたからだ。
「黒瀬凪人くんですね。すっかり大きくなって」
女性もすぐに気づいたらしい。正面で向き合うと凪人が見下ろす形になるのが不思議だった。あのころは塔のように見上げるしかなかったのに。
「なんで、ここに、なんの用で――」
問いかける声は震えた。声だけでなく全身が制御を失って細かく揺れる。体中から血液が抜き取られているみたいに寒気がした。
「決まっているでしょう」
カツ、とヒールを慣らして女性が近づいてくる。
くらくらと目眩がして、気を抜けば後ろに倒れてしまいそうだった。しかし相手はそんなことには気づかず、まるで王の使者でも気取るように仁王立ちになって凪人を見つめる。桃色の唇がゆっくりと吊り上がった。
「おひさしぶりです、葉山です。今日は小山内レイジくんに用があって参りました」
「昨日の落とし物やっぱり鍵だって。柴山さんが事務局で受け取ってくれて、もうすぐこっちに着くらしいよ」
「良かった、お礼言わなくちゃな。柴山さんが来るってことはアリスの迎えだろ、支度しなくていいのか?」
「あ、うん。する……けど」
上目遣いに見つめてきた。ぎくりとする。なにかを期待している目だ。
案の定、
「キスでも、しない?」
と軽い調子で尋ねられ「はぁ!?」と仰け反った。アリスは後ろ手に指を組んで恥ずかしそうにおねだりしてくる。
「……ダメ?」
「ダメもなにもさっき納豆食べてたよな」
「ちゃんと歯磨きしたもん! 大豆は畑の肉なんだよ、健康維持のために納豆は大事だもん。見てよこのきれいな歯並び」
唇をつまんで歯を見せようとしたので「見た見た」と応じた。
納豆を理由に受け流したが本心では自分がビビっているだけだ。昨夜は花火の余韻でなんとなくキスしてしまったが、ことあるごとにキスするほど強心臓ではない。だからといって昨晩のような強引なキスも勘弁してほしい。
しかしアリスは諦めずに粘る。さすが納豆を食べただけはある。
「言っておくけどキスなんて海外じゃ当たり前なの。フランスでもビズっていう挨拶があって、できて当然のマナーなんだよ。私だってフランス人のパパの血が入ってるもん」
その言い分にはかなりの無理がある。自分はフランス人だと言うのならアリスはクラスメイトにもまんべんなくビズをしなくてはおかしい。しかもビズは頬を合わせて音を立てるだけでキスではない。
無言で抗議の目を向けていると、自身の言い分を苦しく思ったのかアリスの目線が不安そうに下がっていく。
「だって……初めてのお泊りなのに何もなかったし厳しいレッスンを前にしてキスくらい欲しいじゃん。だめならハグだけでも」
「じゃあハグで」
「二択じゃないんだけど!」
安易に妥協案を出してしまった自分を悔やむアリスだったが、結局そういうことになった。
仕切り直して互いに向き合う。そこまでは良かった。場の勢いや感情の昂ぶりによるハグなら簡単だが、冷静な状態でいざ対峙してから「さぁハグしましょう」のなんと難しいことか。
二人は互いに硬直したまま見つめ合っていたが、埒が明かないと踏んだ凪人が先に両手を広げた。
「こ、来いよ」
「いいの?」
「おまえが言ったんだろ、ハグって」
「じゃ、じゃあ、遠慮なく」
歩幅を短くしてアリスがそーっと懐に入り込んでくる。凪人は肌に触れてくる感触をなるべく意識しないように肩に手を回した。抱くというよりは薄い膜を隔てて包み込むような感じだ。たったそれだけでも心音が早くなるのに一方のアリスは背中に手を伸ばしてさらに密着しようと試みる。
「くっつきすぎだ」
「いいじゃんケチー」
凪人は腹を凹ませて後ずさりするがアリスは負けじと一歩踏み出してくる。そんな攻防を繰り広げていた二人はインターフォンが鳴ったことにまったく気づかなかった。
「よぉ」
「うわっ」「きゃっ」
突然背後から聞こえた声に驚き互いを突き飛ばして尻餅をつく。呼びかけた柴山はキッチンの入口の前に立っていて申し訳なさそうに頬を掻いた。
「取り込み中に悪いな、何度インターフォンを押しても反応なかったから合い鍵で入ってきたんだ。仲良しなのはいいことだけど時間がないもんで」
「あ、もうこんな時間! 着替えないと!」
我に返ったアリスは廊下へと飛び出していく。
柴山が「ほらよ」と鍵を放り投げたので慌ててキャッチした。キーホルダーもなにもついていない質素な鍵だ。
「これです。お手間かけてすみませんでした。本当にありがとうございます」
「いいって。そのかわり今日は家まで送ってやれないけどな」
「お気遣いなく。歩いて帰るの大丈夫ですよ」
「そっか。で……どうだった?」
ニヤリと不気味な笑みが浮かぶ。とてもマネージャーとは思えない。
凪人は肩をすくめて見せた。
「なんにもありません。お互い疲れていたのですぐ寝ちゃいましたよ」
ズルい大人の目論見通りにはいかないと肩透かししてやろうと思ったのに、柴山の笑みがさらに深くなった。
「そんなことだろうと思った。アリスの顔見りゃ分かるよ」
さすがマネージャー。アリスと顔を合わせただけですぐに読み取れてしまうのだ。恐ろしい。
「先に車に行ってるって伝えてくれ」
立ち去りかけた柴山は思わせぶりに凪人を振り返った。
「奥手な黒瀬くんには難しいかもしれないが程々にアリスを甘えさせてやってくれよ。徐々に仕事も増えてきたし今度のドラマが決まったらあまり会えなくなるんだぞ。おまえは良くてもアリスの充電はすぐに切れちまう。頼むな」
返答など聞きもせず出て行ってしまう柴山は遠回しに発破をかけてきたのだ。それくらいは凪人にも分かる。
「お待たせー」
着替えを済ませたアリスが駆けてくる。青のノースリーブに白い肌が映え、華奢な体にミルクティー色の髪と瞳がより一層強調されて見えた。
「良ければこれ使って」
差し出されたのは黒猫を模ったキーホルダーだ。なにもアクセサリーがついていない鍵を見て気を遣ってくれたのだと分かる。
「サンキュな。あ、柴山さん先行ったよ。おれもそろそろお暇するから」
「じゃあ急がないと。戸締り戸締り!」
慌ただしく戸締りをしてから一緒に玄関に向かう。
アリスはシューズボックスを開けると白いミュールを引っ張り出して足先を収めた。
「っと、とと」
あまりに急ぎすぎたため立ち上がった瞬間ふらっとよろめいた。
「あぶなッ」
とっさに凪人が背中を支えると香水のような甘い匂いが広がった。唇に薄く紅を引いたアリスの顔がすぐ間近にある。驚いたようなターコイズの瞳に視線が引き寄せられる。
いまなら――と魔が差して、耳たぶにちゅっとキスをした。
ハッと我に返ったのは呆然としていたアリスの顔が果実のように赤くなったせいだ。触れられた部位に触れ、信じられないとばかりに目を見開いている。
「いま、なにしたの」
「ビズだよ。ビズ」
「でも、耳に」
「ビズ!」
凪人自身、冷静になろうとしても顔の火照りがおさまりそうにない。あまりの恥かしさに顔を覆った。いっそ逃げ出したい。
「――ありがと。これ、お礼」
チュッと頬に口づけされたが、あまりにも一瞬のことで凪人はリアクションすら忘れた。アリスは恥ずかしがるように外へ飛び出していき、
「よぉーし、がんばるぞー」とマンション中に響き渡るような声が聞こえたのでこっちが恥ずかしくなってきた。
一体何をやっているんだろう。これではまるで恋人同士だ。
※
アリスの家から自宅までは徒歩でもそれほどかからない。にも関わらず、今日に限って直帰するのが勿体ないような気がしてわざと遠回りした。
気の向くまま歩き回って若者たちが大勢集まるショッピング通りに入る。
人込みを避けるように裏通りに入るとビンテージショップが立ち並んでいた。
(あ、黒猫)
とある店の前で黒猫が丸くなっていた。凪人が近づいてもまるで逃げる気配はなく、手を伸ばしても大人しく撫でられていた。赤い首輪が巻かれているので飼い猫のようだ。
ふと視線を向けるとガラスの向こうにも黒猫がいた。しかしどれだけ見つめても動かない。どうやら置物のようだ。目を凝らすとガラス張りの店内には黒猫をモチーフにした雑貨がぎっしりと並べてあり、どうやら黒猫雑貨専用のセレクトショップらしい。
なんとなく興味をひかれるまま店内に入った。
せいぜい四畳半程度しかない店内には棚に入りきらないほどの雑貨が詰め込まれているが、幸いにも他の客の姿はなかった。凪人はほっと胸をなで下ろす。客同士すれ違うのがやっとというこんな空間に長くいたらきっと吐いてしまう。
奥でパソコンをいじっていた五十路くらいの店員はチラッとこちらを見て「らっしゃい」と言っただけで画面に視線を戻す。
(ものの見事に黒猫ばっかりだな)
店頭にあった猫のミニサイズにはじまって縫いぐるみ、ペンケース、筆記用具、誰が描いたのか分からない絵画まである。陳列された商品の中には明らかに「まっくろ太」を意識したものが多い。類似品や劣化品ばかりだが手に取るのに抵抗はない。
『黒猫探偵レイジ』の中に登場するまっくろ太はCG。レイジを演じていたころの凪人は本物の猫の毛触りを知らずにいた。テレビを通してみるまっくろ太の毛はとても柔らかそうで、いつか「本物」に触れてみたいと願ってやまない時期があった。
(『あのこと』がなければ、おれはまだレイジでいたのかな)
時々考えてしまう。
あのとき、もしも何かが違っていたら自分は小山内レイジとして芸能界に在籍し、違う形でアリスと出会ったのかもしれないと。
「彼女へのプレゼント? これなんかどうだい?」
いつの間にか店員が隣に立ち、一枚のTシャツを掲げていた。
体操着を思わせる白地に、誰の落書きかと疑う寸胴の黒猫が描かれたものだ。もはや壊滅的なセンスと言っていい。
「えーと、可愛いんですけど、彼女の服のサイズ知らないので」
「一点もののTシャツだよ。世界でたった一枚、これしかないんだ。ゆくゆくはプレミアものになるかもしれない」
これは面倒なことになった。
なにか買わないと逃げられそうにない。
(……あ)
凪人の目に飛び込んできたのは黒猫のシルエットがアクセントになっている指輪だ。なんとはなしに手にとってみたが、輪郭や接着面はとても丁寧に処理されていて、リングの幅も太すぎず細すぎず丁度良い。
(アリスにあげたら喜びそうだな)
脳裏にぽっと浮かぶのは嬉しそうな笑顔。
(プレゼントとか大げさなものじゃなくて泊まりとキーホルダーのお礼だって言えばいいよな)
値段は千円プラス税。これくらいなら買える。
(でもさすがに安すぎるかな。アリスはモデルだから安物を付けていたらバカにされたりするかも)
などど悩んでいると、
「お客さん見る目あるね。それはオニキスを削ったものだよ。もちろん一点もの」
「オニキス、パワーストーンですか?」
「そう。魔除けの石さ」
魔除けと聞いてストーカーのことを思い出した。今後同じようなことがあるかも知れず、アリスにぴったりだ。
「これ買います!」
家族以外の人のために買い物をするなんて初めてのことだった。
※
翌週、アリスと会う約束をした。
この前泊めてもらったお礼をしたいと伝え、店での食事に誘ったのだ。そこで指輪を渡すつもりでいる。
午後二時。チリリ、とドアベルが鳴った。
(来た)
凪人は笑顔で待ち構える。ゆっくりと扉が開いて人影が現れた。
「いらっしゃいアリス、忙しいのにごめ――」
はっと口をつぐんだ。現れたのは赤縁の眼鏡に紺色のスーツを身につけた小柄な女性だ。
すぐに人違いを謝ろうとしたが言葉が続かない。ただの客……そう言い切れないほど彼女のことをハッキリと覚えていたからだ。
「黒瀬凪人くんですね。すっかり大きくなって」
女性もすぐに気づいたらしい。正面で向き合うと凪人が見下ろす形になるのが不思議だった。あのころは塔のように見上げるしかなかったのに。
「なんで、ここに、なんの用で――」
問いかける声は震えた。声だけでなく全身が制御を失って細かく揺れる。体中から血液が抜き取られているみたいに寒気がした。
「決まっているでしょう」
カツ、とヒールを慣らして女性が近づいてくる。
くらくらと目眩がして、気を抜けば後ろに倒れてしまいそうだった。しかし相手はそんなことには気づかず、まるで王の使者でも気取るように仁王立ちになって凪人を見つめる。桃色の唇がゆっくりと吊り上がった。
「おひさしぶりです、葉山です。今日は小山内レイジくんに用があって参りました」

