「ここが私の部屋だよ」
 案内された部屋は意外にも整理整頓されていた。
 クリーム色の壁にはおしゃれな本棚が並び、雑誌やファッションに関する書籍がはみ出すことなく整列している。勉強机は化粧台も兼ねていた。
 床にはミニテーブルとピンクのクッション。先客の黒いぬいぐるみが転がっている。
「なりゆきで来ちゃったけど、親御さんは?」
「うちはママ――お母さんしかいないの。さっきメールが入ってて、明日早いから会社近くのホテルに泊まるんだって。だから気を遣わなくていいよ」
 そう言いながら化粧台の前で髪飾りを外し、そのままの流れで浴衣の帯にも手を伸ばした。すかさず凪人が非難の声を上げる。
「ちょ、ちょっと待て。ここで着替える気か?」
「え……だめ、ですか?」
 急に敬語になる。しかもちょっと顔を赤らめながら。
「だ、だだだだめだ。絶対ダメ!!」
 両腕で何度も×印を作る凪人に呆れつつも、アリスは照れ臭そうに笑った。
「分かった。じゃあ着替えながらシャワー浴びてくるからここで待ってて。私が出たら続けて入ってね。言っておくけど変なもの触っちゃダメだよ」
 上擦った声で念押しされたが「触るか!」と返す余裕もなく、カーペットに直座りして下を向いていた。
 自分は人生で初めて女性の部屋に招かれている。
 深夜に。
 二人っきり。
 ということは……。
(いや待て待て。これはそういうことじゃない。アリスは野宿するしかないおれを憐れんで一夜の宿を貸してくれただけ。おれがすべきことはシャワー借りたら即布団にもぐって寝ること。で、朝起きたら飯のひとつでも作ってやればいい。うん、それでオッケー。はいシミュレーション終わり!)
 無理やり自分を納得させて頷いていると、夜の静けさに混じってかすかに水音が聞こえてきた。アリスが使っているシャワーの音だ。
(ちょっ!壁!薄すぎ!)
 こんな高級そうなマンションなのに壁が薄いなんて致命的だ。ちっとも落ち着けない。
「あぁもう、くそ」
 一人で悪態をついてから立ち上がった。
 こんなにソワソワしてはアリスが戻ったときに笑われる。なにか気を紛らわせたい。
 ちょうど視界に入ったのは本棚だった。雑誌や書籍に混じって違うものが飾ってある。色紙とペットボトルだ。
 ペットボトルは以前凪人があげたものを本当に大事にとっているらしい。
(この色紙……ずいぶん汚い字だな。おれといい勝負だ)
 笑いながら近づいてじっくり覗き込む。
 左下の日付は六年前。その上に黒く塗りつぶされた猫らしきマークが書いてある。書きなぐったような描線を追うと辛うじて文字が読み取れた。

(ア・リ・スちゃんへ く・ろ・ね・こ・た・ん・て・い 小・山・内・レ・イ・ヅ…………おれ?)

 何度読み直しても同じだ。小山内レイジ……つまり凪人が書いたものである。
 芸名の「小山内レイジ」は役名をそのまま貰ったものだ。最後の「ジ」を「ヅ」っぽく書いてしまう癖はいまも抜けない。
 どうやら偽サインではなく正真正銘自分が書いたものらしい。
 しかし当人には書いた覚えがない。
「なにしてんの?」
「うわっ!」
 横から覗き込まれて叫んでしまった。すかさずアリスが人差し指を立てる。
「真夜中だよ、静かに」
「あ、悪い。……それよりこの色紙だけど」
 アリスは自慢げに鼻を膨らませた。
「いいでしょう。小山内レイジから貰ったの。七年前にレイジがゲストで出た番組の観覧に行ってね、何人かにだけプレゼントしてくれたんだ。あげないよ」
「いらねぇよ(本人だし)」
 凪人はもう色紙の話を切り上げたかったが、アリスは話し足りないとばかりに顔を寄せてきた。
「でねでね、この黒猫は私がリクエストして描いてもらったの。レイジは絵が苦手だって難しそうな顔していたけどちゃんと……」
 途端、洗い立てのシャンプーの匂いがふわりと香る。
「つッ」
 凪人は反射的にアリスの肩を押しのける。
 しかし柔らかい素材の寝間着に食い込んだ自分の指先を見た瞬間、ぶわっと全身に鳥肌が立った。
「いたいよ、凪人くん」
 ひどく優しい言い方をして、自らの手を重ねてきた。湯上がりの肌は吸い付くように柔らかくて温かい。なんだこれは、と頭の中がまっしろになる。
「緊張してるの? 大丈夫、私も同じだよ」
 アリスは硬直したままの凪人に歩み寄り、軽く体を委ねてきた。
「この部屋に男の人を入れるの初めてなんだよ。パパですら入ったことない。それどころかウチに家族以外の人が来るなんて、ましてや招き入れるなんて……」
 ぎゅっと腰に抱きついてくる。もう身動きがとれなかった。
「だからもう一回、してほしいな」
 甘えるように瞳を潤ませる。
「な、なにを」
「だからキス――、したいです」
 いまだって頭が沸騰しそうなのにキスなんてしたら歯止めがきかなくなりそうだ。
 そんなことになったら――。

 ふいに、凪人の脳裏である考えが閃いた。
(歯止め?――おぉ!いいこと思いついた!)
「ごめんなアリス。いまはダメだ」
 きっぱり拒絶して体を押しのけた。
 拍子抜けしたアリスはものすごく不思議そうな顔をして首を傾げる。
「どうしてダメなの?」
「ふふん、だって歯磨きしてないからな」
 キスするなら歯もキレイじゃないと――というのはアリスが出ていたCMのキャッチフレーズだ。なんらおかしなことではない。
 当のアリスはものすごく不服そうに顔をしかめる。
「でもさっき公園でキスしたじゃん」
「食べたり飲んだりした直後はいいんだよ。唾液の働きで口内がキレイだからな。でも時間が経った口内はばい菌がうじゃうじゃいるんだぞ」
「…………しょーもな」
「なんだよその目。口内細菌を舐めるな」
 分かっている。ものすごく苦しい時間稼ぎだと痛感している。
 けれどこれくらいしか道がないのだ。
 自分たちはまだ高校生。しかも相手はモデルのAliceだ。
 一夜の間違いなんてあった日には――。
(絶対母さんに笑われる。「あらあら、凪人も大人になったのねー」って)
「……そうだ!」
 不満げに頬を膨らませてたアリスは妙案を思いついたらしくパッと顔色を変えた。
「じゃあ歯磨きしあいっこしよう」
「は?」
「お互いに歯磨きしあうの。ふだん目の届かないところまでキレイになるんだから文句ないでしょう?」
 自分から提案した手前、断る余地はない。
 アリスは早速洗面台に向かうと自分と未使用の歯ブラシを手に戻ってくる。
「凪人くんはあとでやってあげるね。じゃあお願いします」
 半ば強引に膝枕をさせられ、小学生が好きそうなピンク柄の歯ブラシを渡される。
 恥ずかしげもなく開かれた口内は顎の小ささに比例してとても小さく、きちっと生えそろった歯には治療痕がひとつもなかった。
 他人の歯を磨く体験なんて初めてだと思いつつ、自分で撒いた種なので下の奥歯から丁寧に磨いていく。
(……おれなんでこんなことやってるんだっけ)
 深夜二時を回っているからだろうか。なんだか妙な気持ちになってきた。
 目を閉じて歯を磨かれているアリスは本当に無防備だ。眠っているのかと思うほどで、悪戯心すら芽生えてくる。その度になんとか自制した。理性を失わせるのがアリスの目的だとしたら迂闊にのるわけにはいかない。
(おれ一体、なにと闘っているんだろう)
 投げやりな気持ちになったとき、アリスがぱちりと目を開けた。喋ることはできないが視線だけで挑発してくる。奥の方にあった舌がちょろりと動いた。
「――も、もう終わりだ。さっさと起きろ」
 アリスを促して口をゆすがせに行く。
 その隙に新品の歯ブラシを手に取り、自らの歯をマッハで磨いた。
「あ、ちょっと、ずるい! 私だって膝枕したかったのに!」
 戻ってきたアリスは非難轟々。しかし無視して三分ほどで歯を磨き終えた。
 未練がましいアリスの横をすり抜けて口をゆすぎ、笑いながら部屋へと戻る。
「いやー悪いな。おれ歯科で磨いてもらうときオエッてなるからモデルのアリスには荷が重いと思ってさ」
「バカッ」
 投げつけられたのはまっくろ太に似た猫のぬいぐるみだ。
 なんなく受け止めて「物を投げるな」と注意しようとしたところで体当たりされた。ぬいぐるみを抱いたまま壁に打ち付けられ、壁ドンならぬ逆壁ドンで追いつめられる。
「ちょっアリ――」
 呼びかけた声はアリスの口内に吸い込まれる。
 歯列を割って絡みついてくるのがさっき見た舌だと思うと体が熱くなった。
「あぁもう私ってばこんなに見境ないなんて、みっともない……」
 唇を離したアリスは理性のきかない自分を恥じながらも凪人の胸元に留まっている。
「凪人くんが悪いんだよ、あんまり焦らすから。でもさっきの言い分ならいいんでしょ、いくらキスしても」
「それは、そうだけど」
「じゃあオトコを見せてよ」
 凪人の肩腕を掴んで引き寄せ、自らの胸元へと持っていく。手のひら全体に伝わってくる弾力にごくりと唾を呑んだ。
「あのね、私は凪人くんが初めてで良かったと思ってる。凪人くんじゃなきゃダメだと思ってる。だから――」
 どこか不安そうに、けれど嬉しそうに、ターコイズの瞳が揺れた。
「お願いだから『痕』はつけないでね。もうすぐ水着撮影の時季だし、見られたら恥ずかしいでしょう」





 …………ダッシュ!!

 凪人はにげた。そりゃもう全速力で逃げ出した。
 廊下に飛び出すなり体を反転させ、外開きの扉をふさぐ形でアリス(という名のケダモノ)を閉じ込めた。内側から執拗に扉が叩かれる。
「ちょっと凪人くん!! 扉開けて、あーけーてー!!!」
「うるさい! 真夜中なんだから静かにしろ!」
 しかし声は一層大きくなる。
「この意気地なしー!!」
「だまれー!!」
 こうして眠れない夜が更けていく。