「んー? どうだと思う?」
 明確な答えは返って来ない。
「さぁ、分かりません」
「もしもレイジだったら、おれの言動から推理してみるんじゃないか?」
 ぎゅうと胸が痛くなる。愛斗はレイジの正体に気づいているわけではない。それなのに時々ドキッとするようなことを言う。
「そんなの分かりませんよ……おれはレイジなんかじゃないし、自分の気持ちすら分からないんですから」
 さっきだってそうだ。
 アリスの想いには応えられないので付き合う気はない。けれど、なぜ頑ななまでにそう思っているのか自分でも分からないのだ。
「だったら俺だって同じだ。アリスに未練があるのかないのか、はっきりとは分からない。だけどいま不思議なほど心が穏やかなんだ」
 愛斗が見つめているのは茜色の空だ。いくつもの雲がゆっくりと流れていく。
「いまの俺にはアリスや凪人という年下の友人がいて、お気に入りのカフェがあって、そこではいつでも美味しい飲み物とパンケーキがある。そんな現状がとても幸せなんだ。俺はこれまで早く早くとひたすらアクセルを踏み続けてきたけど、いまは多分、サービスエリアか待避所で休憩したり地図を確認したりしているところだと思うんだ」
「この状態が心地いいってことですか?」
「そうだな。ここは俺の目指すゴールではない。だからいずれはアクセルを踏んで進まなくちゃいけないだろう。そうしたらアリスのことに関して凪人と衝突することがあるかもしれないけど、もうしばらくこうしていたい。そんな気持ちなんだ。……分かるか?」
 同意を求めてきた愛斗の目は穏やかだった。
 凪人も同じように空を見上げる。吸い込んだ空気は夏の匂いを含んで清々しい。
「分かります。でも、ちょっと年寄りくさいですね」
「言うなよ、これでも四つか五つしか違わないんだぞ」
 笑いながらバシバシと肩を叩かれる。しかし不思議と痛みは感じなかった。
 雲は流れていく。時計の針は進んでいく。
 いずれは進まなくてはいけない。
 アリスのことや発作のこと、そしてレイジのことに決着をつけなくてはいけないときがくる。
 けれどそれまではもう少しだけ――。

 ※

『皆さんこんばんは。第●回納涼花火大会においでいただきありがとうございますッ』

 六時半。地元テレビ局の女性アナウンサーの声で番組が始まった。番組の趣旨や会場の様子などを簡単に紹介したあとゲスト紹介に入る。

『では本日のゲストをご紹介します。花火に関する書籍を多数発行されている熊田笹子先生、そしてモデルのAliceさんです。どうぞー』

 特設ステージの脇に控えていたアリスと熊田が飛び出していく。
(熊田先生って今日借りた本の著者だよね)
 そんな専門家が呼ばれているとは知らなかった。名前のとおりがっしりした体格の熊田は同じゲストとは思えない圧倒的な存在感がある。花火トークにも慣れているらしく、司会に振られた話題にすらすらと応えている。それに比べるとアリスは画面に華を添えるだけの生け花のようだ。
『……で、どう思われますかAliceさん』
「えっはい?」
 突然話題を振られたアリスは硬直した。その一瞬の間で「聞いてなかったのか」と責め立てる空気が生まれる。司会は気を取り直したようにマイクを向けてきた。
『今年の花火大会はどうでしょうか?――という話題だったのですが』
「あ、花火大会ですね。えーと、まだ花火を見ていないのでなんとも言えません」
 どっと笑いが起きる。司会の眉間に皺が寄った。
『それはそうですよね、失礼しました。熊田先生はどう思われます?』
『はい、プログラムを拝見したところ今年は新しい技法の花火がたくさん打ち上げられるということでしたので楽しみにしておりました。適度に風もあって雲が流れていくので皆さまのところからも大輪の華がご覧になれるのではないでしょうか』
(どうしよう、やっちゃった)
 アリスは頭を抱えていた。
 生放送という撮り直しのきかない場面で話を聞いていなかったどころか空気を悪くしてしまった。これでは観客のみならずテレビの視聴者をも苛立たせてしまう。
(しっかりしなくちゃ。まだ挽回できるはず)
 どこかで凪人が見ている。そう思うと身が引き締まる気がした。
 しかしやる気とは反対にアリスは失敗を重ねていく。

「最後の花火、知ってます。菊ですよね」
『違いますね。牡丹です』

「いまの花火を提供された会社さんってお掃除の会社ですよね」
『訂正しておきますが清掃は業務内容のほんの一部でして、不動産をメインで展開していらっしゃる日本有数の大企業ですよ』

 しまいには。

『……とAliceさんはおっしゃっていますが本当でしょうか? 熊田先生』
『ええ、今回は正解です。おめでとう』
 と生放送中に正答が確認されていく始末だった。
 Aliceがなにか言う度に失笑が起き、それを熊田が訂正して笑いをとっていく。そんなパターンができていった。

(もうダメだ、全然だめ)
 十五分間の休憩に入ったときにはアリスは疲労困憊していた。
 なにを言っても笑われる。司会にも、観衆にも、熊田にも。
「Aliceさん」
 声をかけてきたのは熊田だった。
「落ち着いて。失敗や間違いは誰にでもあるものですよ」
「あ、はい」
「でもアンタはどうやら学習能力がなさそうなので、モデルなんかよりおバカタレントとして売る方がいいかもしれないですね。お似合いですよ」
 と笑いながら去っていく。
 悄然と肩を落として控室がわりのテントに戻ったアリスは待機していた柴山の顔を見た途端泣きそうになった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 口を突いて出てくるのは謝罪の言葉ばかり。せっかく任せてもらった仕事なのに満足にこなせないどころか迷惑ばかりかけている。
「アリス落ち着け。大丈夫だから」
 肩を叩いて励ましてくれる柴山の顔もどこか険しい。
 ここで泣いてはメイクが落ちる。それだけはダメだ。
 アリスはその一心で涙をこらえていた。

「アリス調子悪そうだな。大丈夫かな」
 ぽつりと呟いた愛斗は、さっきまで隣にいた凪人がいないことに気づく。
 辺りを見回していると人ごみをかき分けて戻ってきた。その手にはペットボトルとサイリウムが一本握られている。
「なにをするつもりだ?」
「ペットボトルはアリスへの差し入れ、サイリウムは『ここにいる』って合図を送ろうと思って。そうしたら少しは気が楽になるかもしれないと思ったんです」
「悪目立ちするけどいいのか?」
「……ダメだと思ったらトイレに駆け込みます」
 それだけで凪人の覚悟が分かった。付き合ってないと言っておきながら、やっていることは友だち以上のことだというのに本人は理解していないらしい。
「おかしなもんだよな」
「え? なにが?」
「独り言だ。で、差し入れのペットボトルはどうやって渡すつもりなんだ? アリスたちはステージ裏で待機しているだろうけど、一般人が出入りできる場所じゃないだろう?」
「それなんですよね」
 なにかメッセージを書いて渡せればと思ったが、生放送中のステージで渡すのはアリスの邪魔になるし、かといってステージ裏に入る方法など思いつかない。
「……はっはっはー!」
 悩みあぐねる凪人の横で愛斗が豪快に笑った。あまりにも不審な笑い方だったので周りの客が一瞬こちらを見、関わらないでおこうと視線を背ける。凪人は一瞬だが冷や汗をかいた。小声ながらも必死に諭す。
「なに高笑いしているんですか。バレたらどうするんです?」
「あぁいや、凪人が失念していたようだから可笑しくて」
 愛斗はゆっくりとサングラスを外して目を細めた。切れ長で整った顔立ちは自然と目を惹きつける。
「俺はこれでも顔と名前を知られた俳優なんだぜ?」

「ん? なんだか騒がしいな」
 次の出番まであと五分というところでステージ裏が慌ただしくなった。興奮気味のスタッフたちがテントの中を出たり入ったりしている。
「なにかのトラブルですかね?」
 椅子に座り込んでいたアリスが顔を引きつらせたのを見て柴山は「まずいな」と内心焦っていた。ただでさえ参っているのにこれ以上のトラブルは御免だ。
 血の気の引いた手には御守りのように携帯が握りしめられている。
「なぁアリス。彼に電話してもいいんだぞ」
 仕事中は一切の電話とメールは禁止。それはかねてからの約束だった。しかしオンオフの区別をつけて欲しいからであって、いまは状況が違う。これまでは約束を忠実に守ってきたアリスだが、いまばかりはすがりつきたくてたまらないだろう。
 しかし気丈にも首を振る。
「いいんです。一度でも頼ったら何度でも甘えたくなっちゃう。これくらいの壁、頑張って乗り越えなくちゃいけないんです、ステージの上では一人なんだから」
「確かにそうだけどなぁ」
 もう少しずる賢くなれ、と言ってやりたくなる。マネージャーの目を盗んで電話するくらい要領のいい生き方だってあるはずなのに、アリスは妙に生真面目だ。本当にギリギリの状態にになるまで自分を追い込む。複雑な家庭環境ゆえだろうか。
「……ばい、やばいよね」
 数人の女性スタッフが走り抜けていった。なにやら顔を赤くしてアリスや柴山には目もくれない。
「なんでしょう?」
「さぁな」
 二人が首を傾げているとトイレに行っていたはずの熊田が大股で走ってきた。
「ちょっと斉藤マナトが来てるってどこよ、どこなのよ!! あたしが大ファンだってこと知らないの!?」
 マナトと聞いて反射的にアリスも立ち上がった。
 熊田のあとを追って別のテントに飛び込むと大勢のスタッフに取り囲まれている長身の愛斗が目に入った。どうやら握手攻めにあっているらしい。
(もしかして凪人くんも?)
 必死に姿を探すがどこにもいない。それもそうだ。こんな目立つところに乗り込んでくるはずがない。
「あ、アリス。お疲れ」
 アリスに気づいた愛斗が手を振り、熊田たちを押しのけて近づいてきた。
「近くまで来たからさ、これ差し入れ」
 口を開いて差し出されたビニール袋の中にはミネラルウォーターが何本か入っているが、一つだけキャップに絵が描いてある。黒いマジックペンで書かれた猫だ。
 アリスはハッと息を呑んで黒猫のボトルを手に取る。愛斗はそれでいいとばかりに微笑むと他のスタッフにも配り始めた。
(もしかして)
 ドキドキしながらラベルを見ると見覚えのある筆跡が読み取れた。

『がんばれ。応援してる』

 見慣れた文字を目にした瞬間、彼の声が脳裏でこだました。