『レイジがどこにいるのか教えてもらえないかな?』
 突然カフェに現れた俳優・愛斗の言葉に凪人は戸惑いを隠せなかった。
「一体……なんのことですか」
 背中に冷たいものが流れる。
(まさかおれのことがバレた? でも、そんなはずはない)
 小山内レイジを辞めてからは、かつてのマネージャーどころか芸能界(ワンダーランド)には意識的に近づかないようにしていた。高度な顔認証や遺伝子の確認などをされたら言い逃れはできないが、そうまでして自分を追ってくる必要はない。
「とぼけるな。ここにいるんだろう、レイジにそっくりの猫が」
「――――ね、こ?」
 あまりにびっくりして反すうしてしまった。しかし相手は大まじめで頷く。
「そう、黒いニャンちゃんだ」
「えーと………」
 話が掴めない。それどころか頭が痛くなってきた。
「このカフェにはレイジとかなんとかにそっくりな黒猫がいるんだろう。だから俺もいつかここに来て存分にモフモフしてやろうと思っていたんだ」
 相手の言葉を聞いて複雑に絡まっていた話の糸口が見えた気がした。
「質問ですが、愛斗さんは『黒猫探偵レイジ』を知ってますか? 六年前に放送していたテレビドラマなんですけど」
「いや? 両親の仕事の都合で五年前までアメリカに住んでいたから」
「なるほど、だからレイジを知らないんですね。もうひとつ質問――いや確認です。その話を耳に入れた相手はアリスですね?」
 『アリス』という個人名称が出たことに相手は心底驚いたような顔をした。
「きみはアリスのこと知っているのか?」
 解決。すべて解決した。
 レイジであればまっくろ太と『もふタッチ』するところだが、いまは喜びを心の中に留めておく。
「アリスは高校の同級生で、『黒猫探偵レイジ』に出ていた子役がおれに似ていると勘違いしているんですよ。愛斗さんはその辺の情報を誤解して受け止めたんじゃないでしょうか。マネージャーの柴山さんによるとアリスは時々日本語が変になるらしいですから」
「たしかにアリスとは時々立ち話する間柄だけど――……その子役がきみに似ていると『勘違い』って言い方はなんだか妙だな」
 ちょっと意識しすぎた。絶対に知られたくない、という心理があるからつい言葉を盛ってしまうのだ。
「日本語は難しいな」
 相手が帰国子女で良かった。自分の語学力不足だと思ってくれたらしい。
(それにしても意外だな)
 アリスが自分や黒猫カフェのことを他人……しかも男性に対して話していたのは少なからずショックだ。もちろん誰に言おうとアリスの自由だし胸に秘めておくのが美徳だなんて思わないが、彼女の『恋心』はそんな簡単に話してしまえる内容なのだ。
(あるいはこの人がそれだけ特別なのかもしれない)
 長身で容姿端麗、運動能力も高い上に俳優としての実力も確か。その上、帰国子女で語学堪能ときた。あまりにも設定を盛り過ぎだ。
 そんな愛斗は忙しなくあちこちに視線を向け、遂には膝をついて机やソファーの下まで覗き込んでいる。
「なぁ黒いニャンちゃんは?」
「あぁ、そうでした。すいませんけどこの店に本物の黒猫はいないんです。アリスが言う黒猫っていうのは――」
 にゃぁん、と外から声が聞こえた。愛斗はがばっと振り返って「ニャンちゃん!」と叫ぶ。
 戸惑う凪人をよそに「お散歩に出てたのかー」と表に向かう愛斗。別人格かと思うほど口調が乱れている。テレビドラマだったらNGどころかお宝映像ものだ。
「ニャーンちゃん」
 満面の笑顔で勢いよく扉を開けた愛斗。その視線の先には。
「…………愛斗さん?」
 野良の黒猫を抱いたアリスと買い物帰りの母がぽかんと口を開けて立っていた。

「なんで愛斗さんがここにいるんですか?」
 アリスの態度はいつもと違う。自分からカフェのことを話したにしては眉間に皺が寄り、まるで不審人物を見るような扱いだ。
「あ、いや、これは、だな」
 じりじりと後ずさりする愛斗。
 事情が分からず見守るしかない凪人と母。
「愛斗さんまさか」
 怒りの形相でアリスがにじり寄った。腕に抱いた黒猫も興奮気味に尻尾を立てる。
「まさか私のスマホ盗み見したんですか? 日記見たんでしょう!?」
 愛斗の顔色が変わった。
「ち、ちち違う、たまたま、たまたま控室にスマホが置いてあって忘れ物かと思って」
「私のスマホに黒猫のケースカバーがついているの知っているじゃないですか。前に褒めてくれましたよね、自分も同じものが欲しいって」
「だ、だからそれは」
 人気若手俳優はその見た目や能力とは別に、どうやら性格に難ありのようだ。
「いいですか、もし今度スマホ盗み見たら絶交ですよ絶交。二度と口きかないんですから」
「本気か!?」
「仕方ないでしょう。それだけのことをしたんですから」
 小学生の喧嘩か、と内心突っ込みを入れてしまう凪人だったが愛斗は明らかにダメージを受けている。見かねた母が聖母のごとき微笑みで二人の間に割り込んだ。
「二人とも落ち着いて。あまり大声出すとご近所さんたちが驚いちゃうでしょう」
 凪人は注目されるのが苦手だ。通行人がちらちらと視線を向けてくるので、そろそろ奥に引っ込もうと思っていたところだった。
「もしこのまま喧嘩するつもりなら二人とも営業妨害で出禁にしますよ?」
 笑顔でさらっと恐ろしいことを言う。二人はすぐさま大人しくなった。
「――俺、帰ります」
 気落ちしたように歩き出す愛斗。店員でもある凪人は慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございました。またお越しください」
 見送りの定型文を口にするもいまの愛斗には酷な気がした。
「アリス……ごめんな」
 愛斗が横を通り過ぎるときもアリスは視線を合わせずに唇を尖らせていた。かわりに腕の中の黒猫がじたばたと動きだし、愛斗を追いかけるように走っていく。その姿が消えるまでアリスは微動だにしなかった。こんなつもりじゃなかった、と後悔が顔に現れている。
 凪人は思わず声をかけた。
「アリス、いいのか?」
「なにが」
 気を遣って声をかけたつもりだが相当へそを曲げている。母がそっと促した。
「さ、中にどうぞ。この前のお礼をさせてちょうだい。ほら凪人、コーヒーとカフェラテ、あとパンケーキを二皿。大至急ね」
「あぁ、うん」
 店に入ったアリスは愛斗が座っていた席を一瞥した。食べかけのパンケーキの上にはハチミツでライオンの絵が描かれている。それを見る目はどこか苦しそうだったが、アリスはなにも言わずにもっとも離れた窓際のボックス席に腰を下ろした。
 凪人が準備をする間、母がアリスの話し相手になる。
「さっきの彼、俳優よね。お友だち?」
「仕事仲間です。撮影スタジオで会うことが多くて、顔を合わせればいつも長話していました」
「仲が良かったのね」
「はい、なんだか年の離れたお兄ちゃんって感じで頼もしかったんです。帰国子女の愛斗さんは海外にルーツがある私ともなんとなく話が合って、どんな些細なことでも話しました。私、プライベートの携帯やメールアドレスは家族とマネージャーさん以外には教えないようにしているんですけど、彼だけには教えたんです。それで、一度だけ食事に誘ってストーカーについて相談したことがあるんです」
 エスプレッソマシーンから泡が噴き出してカフェラテが入る。凪人は眼鏡が曇るのを承知でアリスには背を向けて作業に没頭している振りをした。
「そう。怖い思いをしたのね」
 母の優しい声音にアリスの肩が震える。
「愛斗さんは私のことすごく心配して、すごく怒ってくれたんです。私としては話したことで気持ちが楽になったので良かったと思っていたんですけど……愛斗さんはそうじゃなかったみたいで」
「どういう意味?」
「頻繁に『今日は大丈夫だったか』とか『なにかあったら呼んでほしい』ってメッセージが入るようになったんです。『自宅の周りを見張ってやる』とも。やっちゃった、と思いましたよ。愛斗さんはバカみたいに真面目で正義感が強いんです。悪は倒すべきっていうか、見て見ぬふりができない人なんですよね。もし私が頼めば仕事を休んででも見張っていてくれると思うんです、見返りとかなにも求めずに。そういう彼の性分を分かっていたのに甘えたのは私です」
 だれも守ってくれる人がいない中でついこぼした本音。アリスはそれで少しでも楽になりたかった。一緒に重石を背負ってくれる相手が欲しかった。それだけのことだったのに愛斗は「自分に守ってほしいというお願い」だと解釈してしまったのだ。
「……失礼します」
 凪人は話の合間を見計らってふたりのための飲みものを運んだ。落ち込んでいたアリスの顔がぱっと明るくなる。「ありがと」と動かした唇でマグカップに口をつける。
「あー、ほろにがで美味しいー」
 とろけるような笑顔。やはりアリスは笑っている方がいい。
「アリス、いま焼いてるパンケーキのトッピングはなにがいい? ブルーベリーとかヨーグルトとかハチミツとかあるけど」
「じゃあ愛斗さんと同じ生クリームたっぷりのハチミツ!……と言いたいところだけど太ると困るからヨーグルトでお願いします」
「かしこまりました」
「パンケーキができたら凪人くんも一緒に食べようよ」
「おれは仕事中だから」
「いいわよ凪人。お店はもう閉める時間だしね」
 と店長判断で勝手に営業時間を繰り上げる。もっと真面目に商売しろ、と言いたいところだったが今日ばかりはありがたいと思った。
 アリスは凪人が並べたパンケーキをひとしきり眺めた後、フォークとナイフで丁寧に切り分けて口へと運ぶ。
「うーん、おいひーい。凪人くんもここに座って食べて」
 ぽんぽんと叩かれたのはアリスの隣だ。洗い物をしていた凪人は仕方なく傍へ行き、十センチほど隙間を空けて座った。アリスは不満げな顔でパンケーキに食らいつく。
「アリスちゃん。落ち着いたところでさっきの続きを聞いてもいい?」
「あ、はい。その、ストーカーのことは解決したんですけど、愛斗さんはまだ心配してくれていて。私のスマホに変なメールが送られてきたことがあるって随分前に話したことを気にしてスマホを見たんだと思います」
「……それは違うんじゃない?」
 母はコーヒーを口に運んでから笑顔を浮かべた。
「きっかけは分からないけど彼はあなたに恋しているんじゃない? 異性として意識したんでなければスマホの日記なんて目を通さないし、ここを見に来たりしないでしょう」
「……」
 黙り込んだアリスは凪人のエプロンの先をちょいと握る。触れられているのは衣服のほんの一部なのに、意識しただけで心臓が高鳴った。
「私は愛斗さんを恋人としては見られません。これまでみたいにお兄ちゃんでいて欲しい」
「相手がそれでは不満だと言ったら?」
 エプロンを摘まむ指が強くなった。
「どうしようもないです。だって私いま好きな人がいるから。その人のこと考えるだけで胸が潰れそうになるのに、愛斗さんにそんなこと思われたらもういっぱいいっぱいで、息できない」
 凪人は気づいた。
 エプロンを握りしめているんじゃない。すがりついているのだ。不安定な自分の心を再確認して、必死で奮い立たせているのだ。
「アリス……」
 母の前では気軽に慰めるなどできるはずもなく、アリスの横顔を見つめるしかない。そんな凪人をよそに母が立ち上がった。
「さて、と。お母さんこのあと町内会の集まりがあるから出掛けてくるわ。お店はよろしくね。いつも通り洗い物して鍵だけかけておいてくれればいいから」
「え、町内会の集まりなんて聞いてないけど!?」
 思わず腰を浮かすが、アリスが離してくれない。
「あら言ってなかったかしら。ま、なんでもいいじゃない。夕飯はテキトウにね」
 おほほと笑って店の奥へと消えていく。自宅に続いているので、そのまま出かけるつもりらしい。
「……なんなんだよもう母さんは」
 置いてけぼりにされた凪人とアリス。二人きりだ。なんとも気まずい状態だが幸いにしてここは店の中。やることはいくらでも見つけられる。
「アリスごめん、おれ洗い物しないといけないんだ」
 言い訳がましいことを承知で口にするとアリスがやっと手を離した。
「手伝うよ。なんだかごめんね、迷惑かけて」
 アリスは申し訳なさそうに詫びて立ち上がる。エプロンから離れた指先は太ももの横でぎゅっと握りしめられていた。
「いいよ座ってろ。一応お客さんなんだし皿割られたら困るし」
「失礼な」
 アリスは右手を腕まくりして九の字に曲げた。ふっくらとした力瘤ができる。
「これでも家事は得意なんだよ。時間があればお弁当だって自分で作るんだから」
「へぇー意外だな」
「ふふん、いいお嫁さんになれると思うでしょう?」
「……まぁ、それはそれ。これはこれ」
「なんで目をそらすの!?」
 並んでシンクに立ち洗剤で皿を洗っていく。途切れ途切れの水音が二人の沈黙を埋めていくようだった。
「そういえば来週末は文化祭だけど」
 凪人はわざと的外れな話題を振った。言葉を探しあぐねていたらしいアリスも素直に応じる。
「うん、うちのクラスは女子がうさぎ喫茶、男子は中庭で屋台だってね。凪人くんはせっかくカフェの店員なのに本領発揮できなくて残念だね」
「ウサ耳カチューシャで接客なんて恥ずかしくてやってられるか。しかも尻尾つき」
「文化祭終わったらカチューシャあげようか? お店でつけて接待したらお客さん殺到するかもよ」
「結構だ」
「可愛いと思うのに。あ、食器乾燥機終わったよ。お皿どこに片づけるの」
「後ろの棚。同じような皿があるところに重ねてくれればいいよ」
「はーい」
 てきぱきと行動するアリス。凪人は流れ落ちる水を眺めながらぼんやりと考えていた。
(普通に考えればアリスが愛斗さんと結ばれる方がふつうなんだよな。仕事のことだって相談しやすいだろうし)
 たとえば【凪人←アリス←愛斗】の恋愛矢印をくるりとひっくり返して【凪人 アリス→LOVE←愛斗】になればすべてうまくいくのではないか。
(そうすればおれは一人……うん、元通りになる)
 こんな苔人間よりも自分に見合った相手と幸せになる方がいいに決まっている。
 けれど。
「……凪人くん」
 ぽすん、と軽く背中に当たった感触。
 それが自分の背中に寄りかかっているアリスだと気づいた凪人は体を硬直させた。
「このままでいさせて、ほんの少しでいいから」
 動けない。軽く寄りかかってきているだけなのに。
 アリスの吐息、アリスの体温、アリスの指先。
 ぜんぶ背中に。