ノートには古文の脇に波線や傍線が引かれ、現代語で訳がつけられている。おそらく、この記号がモールス信号を表しているのではないだろうか。
 ただ大量なので、どれがそうなのかわからない。すべての文に線は引かれている。
 まさかノート全部というわけではないだろうし……。
 早々にギブアップした私はスマホを手にした。
『どの部分がモールス信号なのか、ヒントをください』 
 どきどきしながら送信する。
 一分もしないうちに、返信が届いた。
『伊勢物語』
 授業中に西河くんが解説していた古文は伊勢物語のひとつだった。
 それは、来ない恋人を待ち続けるという内容だ。私は該当の箇所を捜してノートを捲る。
「あった。……君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば、頼まぬものの恋ひつつぞ経る」
 文章の脇には傍線と点らしきものが混在している。
 また着信音が鳴った。私は無意識にスマホを手に取る。
『ネットで調べるのは禁止』
 突然のルール提示に唖然とした。モールス信号なんて知らないので、当然ネットから情報を得ようと考えていた。
 私はすぐさま返信する。
『そうすると詰みます』 
 緊張して液晶を見つめながら、返事を待つ。
 今頃になって気づいたけど、敬語なのって変じゃなかったかな?
 なんだか報告みたいになってしまった。
 そのとき、扉の外から母に声をかけられる。
「×××、ちょっといい? おばあちゃんから電話なの」
 名前で呼ばないでと言ってあるのに。
 ふわふわした心地は即座に粉々に打ち砕かれてしまう。
 重い溜息を吐いた私はスマホを手放した。
 そうして始めて、私は西河くんとのメールを楽しんでいたことに気づかされる。
 私は、わくわくしてたんだ。
 たった数文字のやりとりに。
 階下へ行くと、リビングに置かれた電話の前で母が待ち構えていた。受話器を差し出されたので、手に取る。
「もしもし、おばあちゃん?」
 内容はどうということはなくて、元気かということ、学校には行っているかなど、ごく当たり前のことだ。おばあちゃんの家はわりと近所にあり、すぐに行き来できる距離なので、会おうと思えばいつでも会える。
 だから会話に稀少性はなかった。
 ただ母は私が小さかった頃、悪夢の話をおばあちゃんに相談したことがあるようなので、何かの病気ではないかと訝ったおばあちゃんは未だに心配なのだろう。
「うん、それじゃあね。お母さんに代わるね」
 母に受話器を預けて再び二階へ向かう。
 トントンと鳴る階段の足音を聞きながら、私はぼんやりと思った。
 両親やおばあちゃんを鬱陶しく感じているけれど、それはすべて私の悪夢が原因だ。
 喋らなければよかった……。
 悪夢のことを話さなければ、余計な心配をかけさせることもなかった。
 おそらくだけれど、あの予知夢の火事で死ぬのは、私ひとりだ。
 暗くて何もない箱の中は、私しかいないのだから。
 秘密というものは、死ぬまで自分の胸に抱えて然るべきものなのだと、小さかった私に諭してやりたい。
 身近な人に聞いてほしいという強い衝動に抗えないのは、私が弱いからなんだろうか。
 自室に戻り、机のスマホに目を向ける。
 着信を知らせる光が点滅していた。
 私はまるで道に落ちている百円玉を拾い上げるかのような貪欲さで、自らのスマホに縋りつく。
 胸を躍らせながら、西河くんからのメールを開いた。
『信号は拾えた?』
 そのあとに、もう一件来ていた。
『あとでいいから状況を教えて』
 おばあちゃんとの電話が長引いたので、何かあったのかと思われてしまったようだ。
 暗号を放り投げたと思われても困るので、私は少し長めの文章を作る。
『おばあちゃんと電話してたから遅くなりました。どれが信号かわかりません。モールス信号は点も文字のひとつですか?』
 散々迷った末に、結局敬語にした。急に話し口調になったら、逆に変かもしれないから。
 送信を押す。今度は緊張せずに押せた。
 ところが次の返信はなかなか来なかった。
 なんだろう。どうしたんだろう。私、変なこと書いちゃったかな?
 急に不安になる。
 自分の送った文章を見返したり、西河くんからもらったメールを眺めたりして、ひたすら返信を待った。
「×××、ごはんよ!」
「えっ?」
 階段下から母に呼ばれて、はっとした。ベッドの枕元に置いてある時計に目を向ける。
 もうこんな時間。
 いつのまにか一時間ほどが経過していた。メールを眺めていただけなのに。
 椅子から立ち上がろうと中腰になったそのとき、着信音が鳴る。
「きた!」
 思わず叫んでしまった。
 でも、もしかしたら西河くんじゃないかもしれない。
 震えながらタップすると、そこには『ごめん』という件名が表示された。
 え、なに? 
 なにが、ごめんなんだろう。
 私はまるで告白を断られたかのような負の衝撃に身を震わせる。誰にも告白したこともないくせに。
 震える指先がメールを開く。
 瞬きを忘れて乾いた眼球が、そこに書かれた文字をなぞった。
『説明しづらくて、伝え方を今まで考えてた。モールス信号は点も文字を構成する要素のひとつだよ。それは和文モールス符号にしてあるから、イロハになってる。イは・-というように当てはめる』
 ほっとして肩の力が抜ける。
 そうしてから安心して、メールの内容に三回、目を通した。
 もしかしたら嫌われてしまったかもなんていう懊悩は完全な杞憂だった。
 西河くんはモールス信号のことを何も知らない私にどう伝えようか、一時間も考えていてくれたんだ。
「了解しました。今から夕ごはんだから、あとでまた暗号解読しておきます……っと」
 私は微笑みながら送信した。
 そわそわしながら夕ごはんを済ませる。
 届いた返信には、『俺も夕飯にする。相原家の今日の夕飯は何だった?』と書かれていた。 私はまたメールを返信する。
 西河くんとのメールのやり取りは、深夜遅くまで続けられた。

 次の日曜日、私は西河くんと市立図書館へ出かけるために家を出る。
 今日までに西河くんと幾度もメールのやり取りをしたけれど、その内容には夕飯に何を食べたのかなど、とてもくだらないことが多分に含まれていた。