空気を読まない男というレッテルが彼女たちの中で貼られてしまったのかもしれない。
けれど私には、なぜ西河くんが突然そんなことを言い出したのか、薄々理由に勘付いていた。
私の、手のひらの痣のことで、部内の空気が微妙になったからだ。
西河くんが自分の正体は龍と暴露したので、みんなはもうそのことに頭が占められており、痣のことは忘れてしまっている。
「西河くん。つまらない冗談はそのくらいにしてちょうだい。それじゃあ、まずは資料集めからね。いつもどおりの進行でいくわよ」
峯岸さんの呆れた声音が室内に響く。
私は苦笑いを浮かべながら、プリントを見直した。
こっそり心の中で、西河くんに感謝しながら。
部活動を終えて、昇降口を沙耶と共に出る。私は校内にある自転車置き場の前で、彼女にノートを差し出した。
先程借りた、西河くんの古典のノートだ。
けれど借りてほしいと懇願したはずの沙耶は、無表情で首を振る。
「いいよ。西河くんが暗号解けないとペナルティあるって言ってたじゃない? がんばってね」
これまでの西河くんへの情熱からは考えられないほど冷淡な反応に、私は睫毛を瞬く。
「見なくていいの? 暗号はあとから解読するからいいよ。西河くんのノート、見たかったんだよね?」
「うーん……。だってさ、さっきの話どう思う?」
「さっきの話って?」
「俺は龍神だってやつ」
「ああ……あれね。冗談なんじゃない?」
私を庇ってくれた、ということは付け加えなかった。
今になって思えば、自意識過剰だったかもしれないと思い直したから。
本当に単なる冗談だったのかもしれない。
沙耶にはもちろん、過去に「その傷、どうしたの?」と問われたことがあるので、生まれたときからの痣だと説明済みだ。悪夢のこととは違い、痣は目に見えてしまうので、どうしても近しい人には訊ねられてしまう。
沙耶は溜息をひとつ零した。
「ああいう頭が悪そうなこと言う人だとは思わなかったんだよね。なんか冷めちゃったかも」
「え……あのひとことだけで?」
「だってイメージと違いすぎるんだもん」
「沙耶が西河くんに抱いてたイメージって、どんなだったの?」
沙耶はつまらなそうに唇を尖らせて、夕焼け雲を睨んだ。
「頭が良くて格好良くて、優しくて、完璧な王子様ってかんじ。西河くんは理想どおりだと思ったんだけどな」
どうやら沙耶は、思い描いた理想像に西河くんを当て嵌めていたようだった。理想と外れた言動を西河くんが見せたので、落胆したらしい。
「西河くんだって生身の人間だから、少しは変わったところもあると思うよ」
「少しじゃないよ。俺の正体は龍神って、変な人すぎる。あれを言われたときのあたしの衝撃はすごかったよ」
私は首を捻った。
龍神伝説と名付けられているけれど、あのとき西河くんは「俺は龍なんだ」と言っただけで、龍神とは名乗らなかった気がする。
「龍神じゃなくて、龍なんじゃない?」
「そんなこと、どうでもいいよ。同じでしょ」
些細な違いかもしれないけれど、なぜか私の頭の隅に引っかかる。
龍神と龍では、どう違うのだろう。水害に遭った村のことを調べれば、何かわかるかもしれない。
龍神伝説にわずかな興味を持った私は、自分の赤い自転車を漕ぎ出した。
ぱらりとページを捲る乾いた音が、自室に響く。
私は机に向かって、西河くんから借りた古典のノートに書かれているであろう暗号解読に取り組んでいた。
けれど、いったいどこに暗号なんて書いてあるのか、それすらもわからない。
どこを捲っても、古文とその解説ばかりが羅列されていた。
「もしかして、縦読みとか? ……あ、始めから縦書きか」
難解な文章を紐解いた美しい文字を、ゆっくりと目で辿る。
男の人って、角張った文字が多いのかなと思っていたけれど、西河くんの字はまるで筆で描いたかのように流麗だった。
書道でも習っていたのかもしれない。
私は西河くんについて、何も知らない。
今までは興味もなかった。自分の好きなテーマ以外はまるで無関心という小池くんのように。
峯岸さんの言う三角関係というのも、あながち的外れではないかもしれない。沙耶がいなければ、西河くんとの接点もないような気がする。
今日のことで、沙耶は冷めたというようなことを言っていた。そうすると、西河くんと疎遠になるかもしれない。今後は挨拶だけの関係になるのかもしれない。沙耶は情報総合部の活動についてはあまり興味がなさそうなので、明日には退部すると言い出すかもしれない。
そうしたら、私はどうしよう。
「……やめたくないな」
龍神伝説については興味がある。
とりあえず、このテーマについては調べてみよう。
その前に、暗号を解読しないといけないんだけど。
私は深夜遅くまで、西河くんのノートを捲り続けた。
一晩経過して、ついに暗号を解読することはできなかった。
というか、暗号なんて書いてあったの?
問題すらどこにあるのかわからなかった。
『俺の正体は龍』という発言と一緒で、西河くんにからかわれたんじゃないかな。
本当に、迷惑な人……。
私は寝不足の眼を擦りながら登校した。
暗号のことが気にかかったせいなのか、昨夜はいつもの悪夢は見なくて済んだ。
けれど気分はすこぶる悪い。ねむい。かえりたい。
「おはよう。暗号解けた?」
昇降口で、寝不足の元凶に爽やかな挨拶をかけられる。
半眼で振り返ると、西河くんは嬉しそうに双眸を細めた。
「その様子じゃ解けてないね」
「……暗号なんて、あったの?」
「あるよ。もしかして暗号の存在がわからなかったとか」
「……わかりません」
「そっか」
暗号の内容を教えてくれるのかと思ったけれど、西河くんはそうしなかった。
「そのノート、次の古典の授業まで貸してあげるから、とりあえず暗号を捜してみてよ。ペナルティは保留にしておいてあげる」
「ヒントちょうだい」
私は咄嗟に縋りついた。ペナルティは保留にしてくれるなんて優しい言葉に、寝不足の脳は感動すら覚える。
けれど私には、なぜ西河くんが突然そんなことを言い出したのか、薄々理由に勘付いていた。
私の、手のひらの痣のことで、部内の空気が微妙になったからだ。
西河くんが自分の正体は龍と暴露したので、みんなはもうそのことに頭が占められており、痣のことは忘れてしまっている。
「西河くん。つまらない冗談はそのくらいにしてちょうだい。それじゃあ、まずは資料集めからね。いつもどおりの進行でいくわよ」
峯岸さんの呆れた声音が室内に響く。
私は苦笑いを浮かべながら、プリントを見直した。
こっそり心の中で、西河くんに感謝しながら。
部活動を終えて、昇降口を沙耶と共に出る。私は校内にある自転車置き場の前で、彼女にノートを差し出した。
先程借りた、西河くんの古典のノートだ。
けれど借りてほしいと懇願したはずの沙耶は、無表情で首を振る。
「いいよ。西河くんが暗号解けないとペナルティあるって言ってたじゃない? がんばってね」
これまでの西河くんへの情熱からは考えられないほど冷淡な反応に、私は睫毛を瞬く。
「見なくていいの? 暗号はあとから解読するからいいよ。西河くんのノート、見たかったんだよね?」
「うーん……。だってさ、さっきの話どう思う?」
「さっきの話って?」
「俺は龍神だってやつ」
「ああ……あれね。冗談なんじゃない?」
私を庇ってくれた、ということは付け加えなかった。
今になって思えば、自意識過剰だったかもしれないと思い直したから。
本当に単なる冗談だったのかもしれない。
沙耶にはもちろん、過去に「その傷、どうしたの?」と問われたことがあるので、生まれたときからの痣だと説明済みだ。悪夢のこととは違い、痣は目に見えてしまうので、どうしても近しい人には訊ねられてしまう。
沙耶は溜息をひとつ零した。
「ああいう頭が悪そうなこと言う人だとは思わなかったんだよね。なんか冷めちゃったかも」
「え……あのひとことだけで?」
「だってイメージと違いすぎるんだもん」
「沙耶が西河くんに抱いてたイメージって、どんなだったの?」
沙耶はつまらなそうに唇を尖らせて、夕焼け雲を睨んだ。
「頭が良くて格好良くて、優しくて、完璧な王子様ってかんじ。西河くんは理想どおりだと思ったんだけどな」
どうやら沙耶は、思い描いた理想像に西河くんを当て嵌めていたようだった。理想と外れた言動を西河くんが見せたので、落胆したらしい。
「西河くんだって生身の人間だから、少しは変わったところもあると思うよ」
「少しじゃないよ。俺の正体は龍神って、変な人すぎる。あれを言われたときのあたしの衝撃はすごかったよ」
私は首を捻った。
龍神伝説と名付けられているけれど、あのとき西河くんは「俺は龍なんだ」と言っただけで、龍神とは名乗らなかった気がする。
「龍神じゃなくて、龍なんじゃない?」
「そんなこと、どうでもいいよ。同じでしょ」
些細な違いかもしれないけれど、なぜか私の頭の隅に引っかかる。
龍神と龍では、どう違うのだろう。水害に遭った村のことを調べれば、何かわかるかもしれない。
龍神伝説にわずかな興味を持った私は、自分の赤い自転車を漕ぎ出した。
ぱらりとページを捲る乾いた音が、自室に響く。
私は机に向かって、西河くんから借りた古典のノートに書かれているであろう暗号解読に取り組んでいた。
けれど、いったいどこに暗号なんて書いてあるのか、それすらもわからない。
どこを捲っても、古文とその解説ばかりが羅列されていた。
「もしかして、縦読みとか? ……あ、始めから縦書きか」
難解な文章を紐解いた美しい文字を、ゆっくりと目で辿る。
男の人って、角張った文字が多いのかなと思っていたけれど、西河くんの字はまるで筆で描いたかのように流麗だった。
書道でも習っていたのかもしれない。
私は西河くんについて、何も知らない。
今までは興味もなかった。自分の好きなテーマ以外はまるで無関心という小池くんのように。
峯岸さんの言う三角関係というのも、あながち的外れではないかもしれない。沙耶がいなければ、西河くんとの接点もないような気がする。
今日のことで、沙耶は冷めたというようなことを言っていた。そうすると、西河くんと疎遠になるかもしれない。今後は挨拶だけの関係になるのかもしれない。沙耶は情報総合部の活動についてはあまり興味がなさそうなので、明日には退部すると言い出すかもしれない。
そうしたら、私はどうしよう。
「……やめたくないな」
龍神伝説については興味がある。
とりあえず、このテーマについては調べてみよう。
その前に、暗号を解読しないといけないんだけど。
私は深夜遅くまで、西河くんのノートを捲り続けた。
一晩経過して、ついに暗号を解読することはできなかった。
というか、暗号なんて書いてあったの?
問題すらどこにあるのかわからなかった。
『俺の正体は龍』という発言と一緒で、西河くんにからかわれたんじゃないかな。
本当に、迷惑な人……。
私は寝不足の眼を擦りながら登校した。
暗号のことが気にかかったせいなのか、昨夜はいつもの悪夢は見なくて済んだ。
けれど気分はすこぶる悪い。ねむい。かえりたい。
「おはよう。暗号解けた?」
昇降口で、寝不足の元凶に爽やかな挨拶をかけられる。
半眼で振り返ると、西河くんは嬉しそうに双眸を細めた。
「その様子じゃ解けてないね」
「……暗号なんて、あったの?」
「あるよ。もしかして暗号の存在がわからなかったとか」
「……わかりません」
「そっか」
暗号の内容を教えてくれるのかと思ったけれど、西河くんはそうしなかった。
「そのノート、次の古典の授業まで貸してあげるから、とりあえず暗号を捜してみてよ。ペナルティは保留にしておいてあげる」
「ヒントちょうだい」
私は咄嗟に縋りついた。ペナルティは保留にしてくれるなんて優しい言葉に、寝不足の脳は感動すら覚える。