まるで遠くの世界のよう。
ふと水面に目を落とした私は、足元で動いている生き物を発見した。
細い体をくねらせて、流れるように水の中を泳いでいる無数の生物は魚だろうか。けれど細長いその生き物は、白く光っているように見える。
「西河くん……これ、魚かな?」
「彼らはね、水池村の主だよ」
「え⁉」
「大丈夫、何もしない。彼らは百年生きて、この地に根付いた蛟なんだ。昔、村人に殺された蛟の魂が、死んだあともこの場所を離れられず、湖に棲みついて主となった」
彼らは、龍神の社にいた蛟たちなのだ。
村人に殺された蛟の魂は、まるで灯籠の明かりに誘われる虫たちのように、西河くんと私のもとに躍る。
「蛟さんたち……西河くんが来たのを喜んでるみたいだね」
無数の魂が、細い光の輪となって西河くんに寄り添う。
輪が弾けてはまた躍り、それはまるで真の主の帰りを喜んでいるように見えた。
「そうだね……」
西河くんは言葉少なに呟き、じっと蛟たちの魂を見つめていた。
生命の哀しい末路に、私は己を重ね合わせて、その運命を悼んだ。
しばらく私たちは手を取り合いながら、湖に浮かんでいた。そうしてから湖畔で休んでいると、私は湖の端にある細い山道に気がつく。
「あ……あの道……」
龍神の社の裏手にあった、紫陽花の丘へ続く道だ。
社は存在しなかったけれど、地形が同じためか道はある。
私の見ているものに気づいた西河くんは湖畔から腰を上げた。
「行ってみようか。靴を履いていこう」
「うん」
靴を履いて、水着の上にパーカーだけ羽織る。髪からは雫が零れていたけれど、夏の風がすぐに攫っていった。
西河くんと共に狭い山道を登っていく。
とくりとくりと、私の胸の鼓動は期待と不安が綯い交ぜになり、高まった。
「あ……!」
辿り着いた丘の上には、瑞々しい紫陽花が咲き誇っていた。
青から紫へ、麗しいグラデーションを描きながら、誰も訪れることのない丘で、手鞠型の花たちは静かに佇んでいる。
「紫陽花の時季は過ぎてるのに、ずっと花が咲いているんだね。龍の涙の影響かな」
那岐と見た、丘の上の紫陽花と同じ光景が再現されていた。
ここで那岐は逆鱗を授けて、約束してくれた。
俺は神をやめてから、そなたを迎えに行く。たとえ、どこにいても。そのときは俺の花嫁になってくれ。ただの那岐となった俺と、共に生きよう。
那岐の声が、鮮明に耳の奥によみがえる。
私の胸に狂おしい切なさが込み上げた。
西河くんは微笑みを浮かべながら、大輪の紫陽花の前で私に向き直る。
「俺は、古い記憶を持って生まれた」
「え……」
「絆が、生まれたときから痣があって、悪夢を見るのと同じだよ。俺は水池村の龍神で、村人のために雨乞いをしていた。でも村人から樫木の木に拘束されて、ニエという生贄の娘と引き離されてしまうんだ。俺の位置から、彼女が閉じ込められた蔵はよく見えた。鳩が手紙を持ってきてくれるんだけど、そこには『ス』とだけ血文字で書かれてあった。何のことだろうなと、不思議だったよ。蔵が燃えて、ニエが焼かれてしまうと思ったとき、爆発的な力を発揮できた俺は龍の姿に戻った。でも……間に合わなくて、ニエは死んでしまった。龍の俺は遺骸を抱えたまま豪雨を降らせて、そして死んだ。俺はその記憶を抱えて、後悔と共に生まれたんだ。でもさ、それがただの妄想じゃないって、確信できるときが訪れたんだ。いつだと思う?」
私は西河くんの告白に、唇を震わせながら聞き返した。
「……いつなの?」
「道後くんが、その手のひらの傷どうしたって聞いたときだよ! ニエは左の手のひらに紙のような燃えくずを握りしめてた。あれは、『ス』の暗号の答えのはずだ。ずっと、暗号の答えを知りたかった。ニエを救いたかった。俺は苦悩してるのに、ニエときたら高校の同じクラスに何食わぬ顔をして現れるんだから。俺が解決できたのはニエの本名が、『絆』だっていうだけだよ。絆は暗号の答えを握りしめて、決して見せてくれようとしない。俺のことも思い出さない。名前で呼ぼうとしない。だから俺は、一縷の望みに懸けて逆鱗を預けてみた。もしかしたら絆の悪夢の正体は、水池村で起こったできごとじゃないかと思ってね」
ああ、やはり、そうだったのだ。
西河くんは、那岐が転生した姿だった。
彼は約束どおり、龍神をやめて、人間になったのだ。喉元の逆鱗だけを残して。
よく見れば、彼の喉元には痣のような窪んだ痕が残されていた。
私の頬を溢れる涙が伝う。
「那岐……」
やっと、西河くんの名前を呼べた。
解けない暗号を課していたのは、私だった。
記憶の中の那岐と同じ表情で、西河くんは告げる。
「やっと、名前で呼んでくれたね。約束どおり、迎えに来たよ」
私の悪夢は予知夢ではなかった。過去に水池村で焼き殺されたニエの、最後の記憶だったのだ。
私は焼死する記憶のみを持って生まれてきた。手のひらに、那岐への血文字を抱えて。
今生で、那岐に伝えるために。
「俺はずっと後悔していた。でもこれからは後悔しない。今度こそ、絆を幸せにする。必ず守り通す。俺は遠い過去に、絆を守れなかった。だから、やり直したい。人間に生まれ変わった俺と、今度こそ共に生きてほしい。絆の手のひらには、焼けた血文字が刻印されているはずだ。暗号の答えがね。もし俺と、今生で共にいたいと思ってくれるなら、その手のひらを見せてほしい。絆を救えなかった俺を許すかどうか、手のひらを広げることで答えてほしい」
私は、手のひらをゆっくりと広げた。
前世から携えてきた暗号の答えを晒す。
私も、ずっと彼に伝えたかったのだから。
引っ掻いた傷のような痣は、『キ』と刻まれていた。
つなぎ合わせると、『スキ』になる。
たったこれだけだ。
この二文字を伝えるために、私たちは何百年もかけてしまったのだ。
ぽつり……。
佇む紫陽花に、雨の雫が天から舞い落ちる。霧雨のような雫が、紫陽花をしっとりと濡らしていく。
龍の涙だ。
霧雨は穏やかな世界を、いつまでも、優しく包み込んでいた。
ふと水面に目を落とした私は、足元で動いている生き物を発見した。
細い体をくねらせて、流れるように水の中を泳いでいる無数の生物は魚だろうか。けれど細長いその生き物は、白く光っているように見える。
「西河くん……これ、魚かな?」
「彼らはね、水池村の主だよ」
「え⁉」
「大丈夫、何もしない。彼らは百年生きて、この地に根付いた蛟なんだ。昔、村人に殺された蛟の魂が、死んだあともこの場所を離れられず、湖に棲みついて主となった」
彼らは、龍神の社にいた蛟たちなのだ。
村人に殺された蛟の魂は、まるで灯籠の明かりに誘われる虫たちのように、西河くんと私のもとに躍る。
「蛟さんたち……西河くんが来たのを喜んでるみたいだね」
無数の魂が、細い光の輪となって西河くんに寄り添う。
輪が弾けてはまた躍り、それはまるで真の主の帰りを喜んでいるように見えた。
「そうだね……」
西河くんは言葉少なに呟き、じっと蛟たちの魂を見つめていた。
生命の哀しい末路に、私は己を重ね合わせて、その運命を悼んだ。
しばらく私たちは手を取り合いながら、湖に浮かんでいた。そうしてから湖畔で休んでいると、私は湖の端にある細い山道に気がつく。
「あ……あの道……」
龍神の社の裏手にあった、紫陽花の丘へ続く道だ。
社は存在しなかったけれど、地形が同じためか道はある。
私の見ているものに気づいた西河くんは湖畔から腰を上げた。
「行ってみようか。靴を履いていこう」
「うん」
靴を履いて、水着の上にパーカーだけ羽織る。髪からは雫が零れていたけれど、夏の風がすぐに攫っていった。
西河くんと共に狭い山道を登っていく。
とくりとくりと、私の胸の鼓動は期待と不安が綯い交ぜになり、高まった。
「あ……!」
辿り着いた丘の上には、瑞々しい紫陽花が咲き誇っていた。
青から紫へ、麗しいグラデーションを描きながら、誰も訪れることのない丘で、手鞠型の花たちは静かに佇んでいる。
「紫陽花の時季は過ぎてるのに、ずっと花が咲いているんだね。龍の涙の影響かな」
那岐と見た、丘の上の紫陽花と同じ光景が再現されていた。
ここで那岐は逆鱗を授けて、約束してくれた。
俺は神をやめてから、そなたを迎えに行く。たとえ、どこにいても。そのときは俺の花嫁になってくれ。ただの那岐となった俺と、共に生きよう。
那岐の声が、鮮明に耳の奥によみがえる。
私の胸に狂おしい切なさが込み上げた。
西河くんは微笑みを浮かべながら、大輪の紫陽花の前で私に向き直る。
「俺は、古い記憶を持って生まれた」
「え……」
「絆が、生まれたときから痣があって、悪夢を見るのと同じだよ。俺は水池村の龍神で、村人のために雨乞いをしていた。でも村人から樫木の木に拘束されて、ニエという生贄の娘と引き離されてしまうんだ。俺の位置から、彼女が閉じ込められた蔵はよく見えた。鳩が手紙を持ってきてくれるんだけど、そこには『ス』とだけ血文字で書かれてあった。何のことだろうなと、不思議だったよ。蔵が燃えて、ニエが焼かれてしまうと思ったとき、爆発的な力を発揮できた俺は龍の姿に戻った。でも……間に合わなくて、ニエは死んでしまった。龍の俺は遺骸を抱えたまま豪雨を降らせて、そして死んだ。俺はその記憶を抱えて、後悔と共に生まれたんだ。でもさ、それがただの妄想じゃないって、確信できるときが訪れたんだ。いつだと思う?」
私は西河くんの告白に、唇を震わせながら聞き返した。
「……いつなの?」
「道後くんが、その手のひらの傷どうしたって聞いたときだよ! ニエは左の手のひらに紙のような燃えくずを握りしめてた。あれは、『ス』の暗号の答えのはずだ。ずっと、暗号の答えを知りたかった。ニエを救いたかった。俺は苦悩してるのに、ニエときたら高校の同じクラスに何食わぬ顔をして現れるんだから。俺が解決できたのはニエの本名が、『絆』だっていうだけだよ。絆は暗号の答えを握りしめて、決して見せてくれようとしない。俺のことも思い出さない。名前で呼ぼうとしない。だから俺は、一縷の望みに懸けて逆鱗を預けてみた。もしかしたら絆の悪夢の正体は、水池村で起こったできごとじゃないかと思ってね」
ああ、やはり、そうだったのだ。
西河くんは、那岐が転生した姿だった。
彼は約束どおり、龍神をやめて、人間になったのだ。喉元の逆鱗だけを残して。
よく見れば、彼の喉元には痣のような窪んだ痕が残されていた。
私の頬を溢れる涙が伝う。
「那岐……」
やっと、西河くんの名前を呼べた。
解けない暗号を課していたのは、私だった。
記憶の中の那岐と同じ表情で、西河くんは告げる。
「やっと、名前で呼んでくれたね。約束どおり、迎えに来たよ」
私の悪夢は予知夢ではなかった。過去に水池村で焼き殺されたニエの、最後の記憶だったのだ。
私は焼死する記憶のみを持って生まれてきた。手のひらに、那岐への血文字を抱えて。
今生で、那岐に伝えるために。
「俺はずっと後悔していた。でもこれからは後悔しない。今度こそ、絆を幸せにする。必ず守り通す。俺は遠い過去に、絆を守れなかった。だから、やり直したい。人間に生まれ変わった俺と、今度こそ共に生きてほしい。絆の手のひらには、焼けた血文字が刻印されているはずだ。暗号の答えがね。もし俺と、今生で共にいたいと思ってくれるなら、その手のひらを見せてほしい。絆を救えなかった俺を許すかどうか、手のひらを広げることで答えてほしい」
私は、手のひらをゆっくりと広げた。
前世から携えてきた暗号の答えを晒す。
私も、ずっと彼に伝えたかったのだから。
引っ掻いた傷のような痣は、『キ』と刻まれていた。
つなぎ合わせると、『スキ』になる。
たったこれだけだ。
この二文字を伝えるために、私たちは何百年もかけてしまったのだ。
ぽつり……。
佇む紫陽花に、雨の雫が天から舞い落ちる。霧雨のような雫が、紫陽花をしっとりと濡らしていく。
龍の涙だ。
霧雨は穏やかな世界を、いつまでも、優しく包み込んでいた。