「さあねえ。この話は私のばあさんから聞かされた話ですよ。もう水池村は廃村になってしまったし、知る人もいなくなってしまったね」
茫然とした私は砂利を踏む足音に、ふと我に返った。
首にタオルを巻いたお爺さんが店にやってきた。彼の顔を見た私はまた驚かされる。
「やあ、お客さんかい」
お爺さんは、五平だった。那岐と私を気遣ってくれた村人で、キヨノの旦那さんだった。畑仕事の最中らしい彼は水を飲んでひと息ついた。
「龍神伝説はわしらの祖先からの言い伝えだよ。まあ、今じゃ龍なんているわけないと、お伽話扱いだけどもね。わしらが子どもの頃は、龍族は存在すると信じていたんだ」
「今も、いるんでしょうか?」
私の問いに、お爺さんは首を振る。
「いんや。もう絶滅したんでないかな。人間に利用されて、死に絶えてしまったんだろう。哀しいことだ」
西河くんは何も言わず、ラムネを飲んでいた。
休憩したあと、ふたりにに見送られて店をあとにする。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
清乃は私の手のひらに、包みを握らせてくれた。
手のひらを開けてみるとそこには、のど飴がふたつ。
「ありがとう、清乃さん。いってきます」
キヨノにもこうして菓子をもらったことが、切なく胸を過ぎる。
込み上げるものを呑み込み、見送るふたりに笑顔で手を振った。
山道の途中にある深い森林に囲まれた場所に、神社の跡地があった。
移転する前の龍宮神社は、ここにあったのだろう。高台で足場が悪いけれど、水が上がってくる心配のないところだ。
「水池村は、この辺りかな?」
「そこに川が流れてるね。地図によれば、その向こうだよ」
川のせせらぎが耳に届く。沢から降りたところを川が流れているらしい。
「あっ……」
私は顔を上げて、山の景色を凝視する。
蛇行した川の流れ、川から見た山の稜線。
ここは、那岐とふたりで毎日通った川にとてもよく似ていた。
やがて山道が開けた。
山間に忘れられた廃村の全貌が見渡せた。
「ここが……水池村……」
山に囲まれた小さな盆地には、荒野が広がっていた。そこかしこに点在する家屋の土台がひっそりと佇んでいる。
扇状に広がる地形。川沿いの土手から見渡せる、山々のなだらかな稜線。一際高くそびえる山の尾根まで一緒だ。
夢の中で見た村の景色と、全く同じだった。
西河くんと共に道を下り、村の跡地へ向かう。
この道も、幾度も那岐と歩いた道と同じように、やや左に曲がっている。
道を下りるとすぐに村長の屋敷があったはずだけれど、そこには何もなかった。ただ草が生い茂っているだけ。
「昔は人が住んでいたそうだけど、今はもう誰もいないね」
「そうだね……あ、あそこ……」
とある位置へ目を向けて、ぎくりとする。
長方形に切り取られたように黒い土が剥き出しになり、草一本生えていない場所がある。そこに、小さな墓石が建てられていた。
あそこは私が閉じ込められた蔵があった辺りだ。
「あれは慰霊碑だね。手を合わせていこうか」
「う、うん」
おそるおそる足を運び、慰霊碑の前に立つ。
石は年月が経過したため、角が欠けて丸くなっていた。蔵があったと思しき敷地は、そこだけが焦げた跡のように黒ずんでいる。辺りには静かな慟哭が漂っていた。
私たちは慰霊碑に手を合わせて、目を閉じる。
村人の誰かが、人柱になった娘の死を悼んで建ててくれたのだろう。蔵のあった地面の黒ずみは、まるで罪の証のようであった。
ふと、鳥の羽ばたきの音が耳を掠める。上空を見上げると、白鳩が山のほうへ飛来していった。この辺りに、鳩が巣を作っているらしい。
龍神の社があった方角を見やる。ここからは対極の位置だ。
「向こう側が、樫の巨木があったところだね。行ってみよう」
那岐と過ごした、穏やかな日々が脳裏によみがえる。
けれど、胸を喘がせながら辿り着いたそこには、澄んだ色をした湖が広がっていた。
今はもう何もないと鑓水さんが語っていたとおり、龍神の社も、樫の巨木も、過去の彼方に消え去っていた。
すべてが浅葱色をした水面に覆われている。
茫然として佇む私は、湖の畔に巨木の株があることに気がついた。
これが、樫の木の跡だ。腐ってしまった木を切り倒したのだろう。
西河くんは哀しげな微笑を浮かべて、深みのある色の湖を眺めた。
「この湖は、『龍の涙』と呼ばれているんだ」
「龍の涙……? 涙が溜まって、湖になったの?」
「樫の木に縛りつけられた龍神は、人型から龍に変身した。そのときの衝撃でこの場所は大地が抉れて、そこに雨が溜まって湖になったんだ」
雨は、龍の涙なのだ。
雨が降るときは、龍が泣いている。
この澄んだ湖が悲劇の終わりの形だなんて、なんて哀しいことなのだろう。
西河くんが、まるで私の夢を覗いてきたかのように詳しい理由を、私は疑問にしなかった。
龍の涙と名付けられた静かな湖を、ただ沈痛な面持ちで眺めた。
西河くんはナップザックを下ろして、パーカーを脱ぎ捨てる。
「さあ、泳ごう。冷たくて気持ちよさそうだよ」
ざぶりと豪快に飛び込んだ西河くんはクロールをして湖を泳いだ。私も木陰に身を隠して、用意してきた水着に着替える。
水着持参でと西河くんに告げられたので不思議に思っていたけれど、ここで泳ぐためだったらしい。
群青色の水着を着用した私は、湖におそるおそる足先を浸けてみた。
夏の陽射しの中、冷たい水が心地好い。
けれどプールではないので結構深そうだ。湖は浅葱色から、深いところは瑠璃紺に変化していて、底が見えない。
思い切って水の中に入ってみれば、全身が清涼に包まれた。
すぐに足がつかないことに気づかされ、慌てて手足をばたつかせる。
「あ、足が……つかない……!」
颯爽と平泳ぎで近づいてきた西河くんは、私の体を支えてくれた。
「そういえば、絆は泳げたんだっけ?」
「少しね」
「手をつないであげるから、バタ足してみて」
両手をつないでくれた西河くんは、器用に立ち泳ぎで後ろ向きに進む。手を引かれながらバタ足をすると、思いのほか上手に泳げた。
「そうそう、上手だよ。手は離さないから、安心して預けて」
西河くんの誘導が上手いので、湖の中央まで泳いでやってきた。
立ち泳ぎをして振り返り、村のあった方向を眺める。澄み切った湖から見渡せば、緑の木々が泰然としてそこかしこに枝葉を広げていた。
木々の呼吸しか聞こえない、ただ静かな景色だ。
茫然とした私は砂利を踏む足音に、ふと我に返った。
首にタオルを巻いたお爺さんが店にやってきた。彼の顔を見た私はまた驚かされる。
「やあ、お客さんかい」
お爺さんは、五平だった。那岐と私を気遣ってくれた村人で、キヨノの旦那さんだった。畑仕事の最中らしい彼は水を飲んでひと息ついた。
「龍神伝説はわしらの祖先からの言い伝えだよ。まあ、今じゃ龍なんているわけないと、お伽話扱いだけどもね。わしらが子どもの頃は、龍族は存在すると信じていたんだ」
「今も、いるんでしょうか?」
私の問いに、お爺さんは首を振る。
「いんや。もう絶滅したんでないかな。人間に利用されて、死に絶えてしまったんだろう。哀しいことだ」
西河くんは何も言わず、ラムネを飲んでいた。
休憩したあと、ふたりにに見送られて店をあとにする。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
清乃は私の手のひらに、包みを握らせてくれた。
手のひらを開けてみるとそこには、のど飴がふたつ。
「ありがとう、清乃さん。いってきます」
キヨノにもこうして菓子をもらったことが、切なく胸を過ぎる。
込み上げるものを呑み込み、見送るふたりに笑顔で手を振った。
山道の途中にある深い森林に囲まれた場所に、神社の跡地があった。
移転する前の龍宮神社は、ここにあったのだろう。高台で足場が悪いけれど、水が上がってくる心配のないところだ。
「水池村は、この辺りかな?」
「そこに川が流れてるね。地図によれば、その向こうだよ」
川のせせらぎが耳に届く。沢から降りたところを川が流れているらしい。
「あっ……」
私は顔を上げて、山の景色を凝視する。
蛇行した川の流れ、川から見た山の稜線。
ここは、那岐とふたりで毎日通った川にとてもよく似ていた。
やがて山道が開けた。
山間に忘れられた廃村の全貌が見渡せた。
「ここが……水池村……」
山に囲まれた小さな盆地には、荒野が広がっていた。そこかしこに点在する家屋の土台がひっそりと佇んでいる。
扇状に広がる地形。川沿いの土手から見渡せる、山々のなだらかな稜線。一際高くそびえる山の尾根まで一緒だ。
夢の中で見た村の景色と、全く同じだった。
西河くんと共に道を下り、村の跡地へ向かう。
この道も、幾度も那岐と歩いた道と同じように、やや左に曲がっている。
道を下りるとすぐに村長の屋敷があったはずだけれど、そこには何もなかった。ただ草が生い茂っているだけ。
「昔は人が住んでいたそうだけど、今はもう誰もいないね」
「そうだね……あ、あそこ……」
とある位置へ目を向けて、ぎくりとする。
長方形に切り取られたように黒い土が剥き出しになり、草一本生えていない場所がある。そこに、小さな墓石が建てられていた。
あそこは私が閉じ込められた蔵があった辺りだ。
「あれは慰霊碑だね。手を合わせていこうか」
「う、うん」
おそるおそる足を運び、慰霊碑の前に立つ。
石は年月が経過したため、角が欠けて丸くなっていた。蔵があったと思しき敷地は、そこだけが焦げた跡のように黒ずんでいる。辺りには静かな慟哭が漂っていた。
私たちは慰霊碑に手を合わせて、目を閉じる。
村人の誰かが、人柱になった娘の死を悼んで建ててくれたのだろう。蔵のあった地面の黒ずみは、まるで罪の証のようであった。
ふと、鳥の羽ばたきの音が耳を掠める。上空を見上げると、白鳩が山のほうへ飛来していった。この辺りに、鳩が巣を作っているらしい。
龍神の社があった方角を見やる。ここからは対極の位置だ。
「向こう側が、樫の巨木があったところだね。行ってみよう」
那岐と過ごした、穏やかな日々が脳裏によみがえる。
けれど、胸を喘がせながら辿り着いたそこには、澄んだ色をした湖が広がっていた。
今はもう何もないと鑓水さんが語っていたとおり、龍神の社も、樫の巨木も、過去の彼方に消え去っていた。
すべてが浅葱色をした水面に覆われている。
茫然として佇む私は、湖の畔に巨木の株があることに気がついた。
これが、樫の木の跡だ。腐ってしまった木を切り倒したのだろう。
西河くんは哀しげな微笑を浮かべて、深みのある色の湖を眺めた。
「この湖は、『龍の涙』と呼ばれているんだ」
「龍の涙……? 涙が溜まって、湖になったの?」
「樫の木に縛りつけられた龍神は、人型から龍に変身した。そのときの衝撃でこの場所は大地が抉れて、そこに雨が溜まって湖になったんだ」
雨は、龍の涙なのだ。
雨が降るときは、龍が泣いている。
この澄んだ湖が悲劇の終わりの形だなんて、なんて哀しいことなのだろう。
西河くんが、まるで私の夢を覗いてきたかのように詳しい理由を、私は疑問にしなかった。
龍の涙と名付けられた静かな湖を、ただ沈痛な面持ちで眺めた。
西河くんはナップザックを下ろして、パーカーを脱ぎ捨てる。
「さあ、泳ごう。冷たくて気持ちよさそうだよ」
ざぶりと豪快に飛び込んだ西河くんはクロールをして湖を泳いだ。私も木陰に身を隠して、用意してきた水着に着替える。
水着持参でと西河くんに告げられたので不思議に思っていたけれど、ここで泳ぐためだったらしい。
群青色の水着を着用した私は、湖におそるおそる足先を浸けてみた。
夏の陽射しの中、冷たい水が心地好い。
けれどプールではないので結構深そうだ。湖は浅葱色から、深いところは瑠璃紺に変化していて、底が見えない。
思い切って水の中に入ってみれば、全身が清涼に包まれた。
すぐに足がつかないことに気づかされ、慌てて手足をばたつかせる。
「あ、足が……つかない……!」
颯爽と平泳ぎで近づいてきた西河くんは、私の体を支えてくれた。
「そういえば、絆は泳げたんだっけ?」
「少しね」
「手をつないであげるから、バタ足してみて」
両手をつないでくれた西河くんは、器用に立ち泳ぎで後ろ向きに進む。手を引かれながらバタ足をすると、思いのほか上手に泳げた。
「そうそう、上手だよ。手は離さないから、安心して預けて」
西河くんの誘導が上手いので、湖の中央まで泳いでやってきた。
立ち泳ぎをして振り返り、村のあった方向を眺める。澄み切った湖から見渡せば、緑の木々が泰然としてそこかしこに枝葉を広げていた。
木々の呼吸しか聞こえない、ただ静かな景色だ。