村は水害に遭い、沈没してしまったので、彼も村から去っていったのだろうか。
「明日、この龍宮神社に行って取材しようか」
西河くんの言葉に、私は本から顔を上げた。
「市内に同じ名前の神社があるけど……まさかこの本に登場する龍宮神社のことじゃないよね?」
私は市内の龍宮神社を訪ねたことはない。書籍によると、龍神の怒りを収めるために建設された龍宮神社は水池村の高台にあるという。
「何か関係があるかもしれないよ。部活動のためということで、宮司の鑓水さんに話を聞いてみよう」
「そうだね」
私は同意した。
夢の正体に、徐々に近づいている気がしたから。
それは輪郭を持って、私の目の前に着実に姿を現す。
ノートに要点をまとめて書き記していると、窓からそよぐ温い夏の夜風が頬を撫でていく。
もうすぐ夏休みだ。
夢の中では秋の気配が訪れていたと、ふいに思い出す。
私の視線に気づいた西河くんは立ち上がり、網戸を閉めた。
「寒い?」
「ううん。大丈夫」
作業を終えると歯を磨いて、就寝の支度をした。
布団に入った私に、隣の布団に仰臥した西河くんから低く声をかけられる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
西河くんが横に寝ていることに、かすかな緊張を覚える。
そうしていると、那岐とこうして布団を並べて眠った日々が瞼の裏に思い出されて、胸が締めつけられた。
那岐とは、おやすみという言葉を交わしただろうか。
私の胸の奥には、那岐への想いが深く刻まれている。
屈託のない那岐の笑顔、低いのに凜とした声音、包み込んでくれた逞しい腕の強さまで明瞭に覚えている。
私を好いていると言ってくれた。婚姻の証だと、逆鱗を授けてくれた。
その想いに応えられず、逆鱗を手放してしまったばかりか、最後の一文字を伝えられずに息絶えてしまった……。
那岐に会いたい。彼はその後、どうなったのだろうか。
どうか、無事でいてほしい。
眦を涙が伝い落ちる。
ふいに左手に冷たいものが触れて、その感触に驚いた。
「手をつないでいよう。そうすれば、怖くないから」
西河くんとつないだ手の感触、そして体温までもが那岐と同じで、私はまた涙を零した。
「うん……ありがとう」
西河くんは、那岐なのだろうか。
つないだ手の感触が、揺れる心を凪いでいく。
冷たい体温に安堵した私は眠りの淵に沈んだ。
薄らと腫れた瞼を押し上げると、隣には少々寝乱れた布団があった。
西河くんはすでに起床したらしい。泊まった彼の部屋のカーテンからは、眩い夏の朝陽が零れている。
昨夜は泣きながら眠ってしまった。
西河くんが手をつないでくれたためか、悪夢を見ることはなかった。
もう、見ないのだと思えた。
私の記憶の深いところで、あの悪夢は終わったのだと伝えた。
ニエはもう、死んだのだから。
足音が鳴り、部屋の扉が開かれる。
「おはよう、絆。朝御飯できてるよ」
「あ……ありがと。おはよう……」
すでにシャツに着替えた西河くんから、爽やかに声をかけられる。
堂々と名前で呼ぶ西河くんは、もう『相原さん』は返上したらしい。
私は目を擦りながら布団から起き上がる。寝起きを見られるなんて恥ずかしいけれど、西河くんは嬉しそうに微笑んだ。
「泣いたから、少し目が腫れたね。冷たいタオルを持ってくるよ。着替えておいで」
「ん……」
お泊まりした朝、顔を合わせるのは気恥ずかしさが込み上げる。
普段着を持ってきていないので、ハンガーに掛けていた制服に着替えた。それから洗面所で髪を梳く。
「はい、タオル」
「ありがとう」
顔を出した西河くんに冷たいタオルを手渡される。わざわざ氷で冷やしてくれたらしく、とても冷たかった。それを腫れた瞼に押し当てると、とても心地好い。
ダイニングへ向かうと、すでに食卓には朝食が並べられていた。
食欲をそそる美味しそうな匂いに、お腹がきゅうと鳴る。
「わあ……パンだ。ハムエッグも……美味しそう」
マグカップをふたつ携えた西河くんは席に着いた。ひとつを私の前に置く。
「はい、カフェラテ」
おそろいの白磁のカップには、私のほうにはカフェラテが、西河くんのほうにはブラックコーヒーが淹れられている。
私は目を瞬かせた。
いつも朝はカフェラテを飲む習慣があるけれど、それを西河くんに話したことがあっただろうか。
「西河くん……ブラックコーヒーなんだね」
「朝はいつもブラックを一杯飲むんだ。絆はカフェラテだよね」
「うん。そのこと西河くんに話したっけ?」
西河くんはトーストをかじりながら頷いた。
マーガリンとジャムの瓶を私のほうに押しやる。
「メールで見たよ。朝はカフェラテ、パンにはマーガリンとジャムの両方をつけるってね。太るぞ」
「ご心配なく。勉強して解消するね」
「よく言うよ」
またふたりで笑い合いながら、和やかに食事を取る。
そういえば、メールのやり取りの中に朝夕のメニューを報告したことがあった。
西河くんはよく覚えているんだなと感心しながら、私はパンにジャムを塗る。
「人の記憶って、五分しかもたないんだってさ。印象深いことはどうして記憶に残るかというと、脳内で繰り返しリピートするから忘れないんだよ」
ハムエッグの黄身を突いた西河くんは、まるで自分が発見した説のように自信たっぷりに解説する。
「ふうん……。じゃあ私のカフェラテ好きは、西河くんにとって記憶に残る印象深いことだったの?」
それこそどうでもいい情報だ。
西河くんは楽しそうに笑った。
「文字の情報って記憶に残りやすいよね。意味不明なものとか、特に」
カフェラテが意味不明だったとは思えないけれど。
保健室で西河くんは、「ただ気づいてほしかった」と話していた。
「明日、この龍宮神社に行って取材しようか」
西河くんの言葉に、私は本から顔を上げた。
「市内に同じ名前の神社があるけど……まさかこの本に登場する龍宮神社のことじゃないよね?」
私は市内の龍宮神社を訪ねたことはない。書籍によると、龍神の怒りを収めるために建設された龍宮神社は水池村の高台にあるという。
「何か関係があるかもしれないよ。部活動のためということで、宮司の鑓水さんに話を聞いてみよう」
「そうだね」
私は同意した。
夢の正体に、徐々に近づいている気がしたから。
それは輪郭を持って、私の目の前に着実に姿を現す。
ノートに要点をまとめて書き記していると、窓からそよぐ温い夏の夜風が頬を撫でていく。
もうすぐ夏休みだ。
夢の中では秋の気配が訪れていたと、ふいに思い出す。
私の視線に気づいた西河くんは立ち上がり、網戸を閉めた。
「寒い?」
「ううん。大丈夫」
作業を終えると歯を磨いて、就寝の支度をした。
布団に入った私に、隣の布団に仰臥した西河くんから低く声をかけられる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
西河くんが横に寝ていることに、かすかな緊張を覚える。
そうしていると、那岐とこうして布団を並べて眠った日々が瞼の裏に思い出されて、胸が締めつけられた。
那岐とは、おやすみという言葉を交わしただろうか。
私の胸の奥には、那岐への想いが深く刻まれている。
屈託のない那岐の笑顔、低いのに凜とした声音、包み込んでくれた逞しい腕の強さまで明瞭に覚えている。
私を好いていると言ってくれた。婚姻の証だと、逆鱗を授けてくれた。
その想いに応えられず、逆鱗を手放してしまったばかりか、最後の一文字を伝えられずに息絶えてしまった……。
那岐に会いたい。彼はその後、どうなったのだろうか。
どうか、無事でいてほしい。
眦を涙が伝い落ちる。
ふいに左手に冷たいものが触れて、その感触に驚いた。
「手をつないでいよう。そうすれば、怖くないから」
西河くんとつないだ手の感触、そして体温までもが那岐と同じで、私はまた涙を零した。
「うん……ありがとう」
西河くんは、那岐なのだろうか。
つないだ手の感触が、揺れる心を凪いでいく。
冷たい体温に安堵した私は眠りの淵に沈んだ。
薄らと腫れた瞼を押し上げると、隣には少々寝乱れた布団があった。
西河くんはすでに起床したらしい。泊まった彼の部屋のカーテンからは、眩い夏の朝陽が零れている。
昨夜は泣きながら眠ってしまった。
西河くんが手をつないでくれたためか、悪夢を見ることはなかった。
もう、見ないのだと思えた。
私の記憶の深いところで、あの悪夢は終わったのだと伝えた。
ニエはもう、死んだのだから。
足音が鳴り、部屋の扉が開かれる。
「おはよう、絆。朝御飯できてるよ」
「あ……ありがと。おはよう……」
すでにシャツに着替えた西河くんから、爽やかに声をかけられる。
堂々と名前で呼ぶ西河くんは、もう『相原さん』は返上したらしい。
私は目を擦りながら布団から起き上がる。寝起きを見られるなんて恥ずかしいけれど、西河くんは嬉しそうに微笑んだ。
「泣いたから、少し目が腫れたね。冷たいタオルを持ってくるよ。着替えておいで」
「ん……」
お泊まりした朝、顔を合わせるのは気恥ずかしさが込み上げる。
普段着を持ってきていないので、ハンガーに掛けていた制服に着替えた。それから洗面所で髪を梳く。
「はい、タオル」
「ありがとう」
顔を出した西河くんに冷たいタオルを手渡される。わざわざ氷で冷やしてくれたらしく、とても冷たかった。それを腫れた瞼に押し当てると、とても心地好い。
ダイニングへ向かうと、すでに食卓には朝食が並べられていた。
食欲をそそる美味しそうな匂いに、お腹がきゅうと鳴る。
「わあ……パンだ。ハムエッグも……美味しそう」
マグカップをふたつ携えた西河くんは席に着いた。ひとつを私の前に置く。
「はい、カフェラテ」
おそろいの白磁のカップには、私のほうにはカフェラテが、西河くんのほうにはブラックコーヒーが淹れられている。
私は目を瞬かせた。
いつも朝はカフェラテを飲む習慣があるけれど、それを西河くんに話したことがあっただろうか。
「西河くん……ブラックコーヒーなんだね」
「朝はいつもブラックを一杯飲むんだ。絆はカフェラテだよね」
「うん。そのこと西河くんに話したっけ?」
西河くんはトーストをかじりながら頷いた。
マーガリンとジャムの瓶を私のほうに押しやる。
「メールで見たよ。朝はカフェラテ、パンにはマーガリンとジャムの両方をつけるってね。太るぞ」
「ご心配なく。勉強して解消するね」
「よく言うよ」
またふたりで笑い合いながら、和やかに食事を取る。
そういえば、メールのやり取りの中に朝夕のメニューを報告したことがあった。
西河くんはよく覚えているんだなと感心しながら、私はパンにジャムを塗る。
「人の記憶って、五分しかもたないんだってさ。印象深いことはどうして記憶に残るかというと、脳内で繰り返しリピートするから忘れないんだよ」
ハムエッグの黄身を突いた西河くんは、まるで自分が発見した説のように自信たっぷりに解説する。
「ふうん……。じゃあ私のカフェラテ好きは、西河くんにとって記憶に残る印象深いことだったの?」
それこそどうでもいい情報だ。
西河くんは楽しそうに笑った。
「文字の情報って記憶に残りやすいよね。意味不明なものとか、特に」
カフェラテが意味不明だったとは思えないけれど。
保健室で西河くんは、「ただ気づいてほしかった」と話していた。