勝ち誇った笑みが癪に障る。
西河くんがまた無理難題をふっかけてくることは想像に易い。
「しょうがないね……。お手柔らかに頼みます」
「それは俺の台詞」
「え?」
私は首を捻り、わずかに感じた不可思議を探る。
西河くんは口端を引き上げて、意地悪そうな笑みを見せていた。
「……あっ」
勝ったほうが負けたほうの言うことをきく。
言うことをきくのは勝ったほうで、負けたほうが命令できるのだ。
オセロが終わるまで、全く気づかなかった。
私が勝っていたら、西河くんの命令どおりにしなければならないところだった。
「そういうこと……。負けてよかった……」
「というわけで、俺に何を命令する? お手柔らかに頼むよ」
命令と言われても困るのだけれど。
ふいに、そのままになっていた暗号のことを思い出した。
私は自分の鞄から、暗号文を書き留めていたノートを取り出す。
「そういえばモールス信号のこと、まだ教えてもらってないよね? 信号の一覧表みたいなもの、ないの?」
一覧表と暗号文を照らし合わせれば、一目瞭然だ。それはネットで調べてはいけないというルールに当て嵌まらない。
「一覧表があるか、ないかという質問でいい?」
私は西河くんの意図を素早く察知した。
ある、という答えだけでオセロに負けた報酬を終わらせるわけにはいかない。
意地悪な西河くんと暗号の決着をつけるべく、私は腰に手を当てて命じた。
「モールス信号の一覧表を、出しなさい」
「了解しました」
茶化して慇懃な礼をした西河くんは、また押し入れを探る。彼は畳まれていた白い紙を差し出した。
どきどきしながら紙を広げる。
『和文モールス符号』というタイトルの下に、イロハ順に符号が記されていた。
暗号文と、その符号を当て嵌めてみると……。
-・-・ --・-・ ・-・・ -・- ・-・ -・-・・・・
(に し か わ な ぎ)
「……なぁんだ」
私は嘆息と共に声を漏らした。
そういうことだったんだ。
つまり西河くんは、それほどに自分の名前を呼ばせたかったわけで。
それをきっかけにして、私の名前も呼びたかったのかもしれない。
ペナルティは名前で呼ぶことなんて西河くんは提案していたけれど、これでは正解してもしなくても一緒だ。
私はまんまと、西河くんの手のひらで踊らされていたわけ。
「暗号、解けたよ」
「正解は?」
「……えっとね」
夢の中で何度も呼んだ名前を、今ここで口にすることを、私はためらう。
沈黙している私に眼差しを注いでいた西河くんは、ふっと息を吐いた。
「言えないみたいだね。じゃあペナルティとして、相原さんを名前で呼んでもいいよね?」
私はどうしても、『那岐』と言えなかった。
その名を口にすれば、押し込めていた様々な想いが溢れそうな気がしたから。
「いいよ」
私は了承した。
那岐に、一度も呼ばれることのなかった、私の本当の名前。
夢の中ではどうしても思い出せなかった。
西河くんは私の目をまっすぐに見ながら、ゆっくりと発音する。
「絆(きずな)」
手元に目を落とせば、左手の痣が目に入る。
それはまさに、私の名前を表していた。
片仮名の『キ』に似た痣。
絆の文字に組み込まれた、傷のような烙印。
きずなという呼び方も、キズと被っているので、逐一痣のことを思い起こさせた。
「自分の名前、嫌いなの?」
「うん……だって、絆っていう漢字の中に、痣の形が入ってるから……」
「痣の形? ああ、手の。どんなだっけ」
もう引っかからない。
私は左手を握りしめると、背中に隠した。
「汚いから、見ないで」
「汚くないよ。まあ、でも、見られたくないよな」
西河くんは何やら考え込んでいる。
今度は、私の痣をじっくり見るための作戦を練っているに違いない。
暗号文については完全な敗北を喫してしまった。今後、西河くんから名前で呼ばれることについては了承せざるを得ないけれど、
西河くんが悪巧みを考えている隙を突いて、私はさっさと帰り支度を始めた。
窓の外に目をやれば、辺りはすでに夕闇が迫っている。街灯の明かりが灯るのが窓の端に見えた。私はスマホを取り出そうとして、鞄を探る。
「あれ? ない……」
ふと西河くんに目を向けると、彼は私のスマホを手にしていた。いつのまに。
悠々と、勝手に操作している。
「西河くん。それ、私のスマホ」
「うん。知ってる」
断りもなく人のスマホをいじるという行為をここまで堂々とされると、咎める気も失せる。
嬉しそうに微笑んだ西河くんは、ようやく私のスマホを返してくれた。
「はい、どうぞ」
「……どうもありがとう。何見てたの?」
「お母さんっていう登録名にメールしておいてあげたから」
ひと仕事やり遂げましたという満面の笑みに衝撃的な発言を添付され、私は頬を引き攣らせる。
慌てて確認すると、すでにお母さん宛てにメールが送信されていた。
「お母さんへ。クラスが同じ友達の家に遊びに来ていて遅くなったので、明日は学校休みだから泊まることになりました。心配しないでね。きずな☆」
ひどい。何がひどいかというと、私は名前に星の絵文字なんてつけない。西河くんのセンスを疑う。
唖然としていると、お母さんから返信が届いた。
『ご迷惑にならないようにしなさいね。何かあったら電話してください』
お母さんは西河くんが作成したメールに何の疑いも持たず、私からだと信じてしまったようだ。
西河くんがまた無理難題をふっかけてくることは想像に易い。
「しょうがないね……。お手柔らかに頼みます」
「それは俺の台詞」
「え?」
私は首を捻り、わずかに感じた不可思議を探る。
西河くんは口端を引き上げて、意地悪そうな笑みを見せていた。
「……あっ」
勝ったほうが負けたほうの言うことをきく。
言うことをきくのは勝ったほうで、負けたほうが命令できるのだ。
オセロが終わるまで、全く気づかなかった。
私が勝っていたら、西河くんの命令どおりにしなければならないところだった。
「そういうこと……。負けてよかった……」
「というわけで、俺に何を命令する? お手柔らかに頼むよ」
命令と言われても困るのだけれど。
ふいに、そのままになっていた暗号のことを思い出した。
私は自分の鞄から、暗号文を書き留めていたノートを取り出す。
「そういえばモールス信号のこと、まだ教えてもらってないよね? 信号の一覧表みたいなもの、ないの?」
一覧表と暗号文を照らし合わせれば、一目瞭然だ。それはネットで調べてはいけないというルールに当て嵌まらない。
「一覧表があるか、ないかという質問でいい?」
私は西河くんの意図を素早く察知した。
ある、という答えだけでオセロに負けた報酬を終わらせるわけにはいかない。
意地悪な西河くんと暗号の決着をつけるべく、私は腰に手を当てて命じた。
「モールス信号の一覧表を、出しなさい」
「了解しました」
茶化して慇懃な礼をした西河くんは、また押し入れを探る。彼は畳まれていた白い紙を差し出した。
どきどきしながら紙を広げる。
『和文モールス符号』というタイトルの下に、イロハ順に符号が記されていた。
暗号文と、その符号を当て嵌めてみると……。
-・-・ --・-・ ・-・・ -・- ・-・ -・-・・・・
(に し か わ な ぎ)
「……なぁんだ」
私は嘆息と共に声を漏らした。
そういうことだったんだ。
つまり西河くんは、それほどに自分の名前を呼ばせたかったわけで。
それをきっかけにして、私の名前も呼びたかったのかもしれない。
ペナルティは名前で呼ぶことなんて西河くんは提案していたけれど、これでは正解してもしなくても一緒だ。
私はまんまと、西河くんの手のひらで踊らされていたわけ。
「暗号、解けたよ」
「正解は?」
「……えっとね」
夢の中で何度も呼んだ名前を、今ここで口にすることを、私はためらう。
沈黙している私に眼差しを注いでいた西河くんは、ふっと息を吐いた。
「言えないみたいだね。じゃあペナルティとして、相原さんを名前で呼んでもいいよね?」
私はどうしても、『那岐』と言えなかった。
その名を口にすれば、押し込めていた様々な想いが溢れそうな気がしたから。
「いいよ」
私は了承した。
那岐に、一度も呼ばれることのなかった、私の本当の名前。
夢の中ではどうしても思い出せなかった。
西河くんは私の目をまっすぐに見ながら、ゆっくりと発音する。
「絆(きずな)」
手元に目を落とせば、左手の痣が目に入る。
それはまさに、私の名前を表していた。
片仮名の『キ』に似た痣。
絆の文字に組み込まれた、傷のような烙印。
きずなという呼び方も、キズと被っているので、逐一痣のことを思い起こさせた。
「自分の名前、嫌いなの?」
「うん……だって、絆っていう漢字の中に、痣の形が入ってるから……」
「痣の形? ああ、手の。どんなだっけ」
もう引っかからない。
私は左手を握りしめると、背中に隠した。
「汚いから、見ないで」
「汚くないよ。まあ、でも、見られたくないよな」
西河くんは何やら考え込んでいる。
今度は、私の痣をじっくり見るための作戦を練っているに違いない。
暗号文については完全な敗北を喫してしまった。今後、西河くんから名前で呼ばれることについては了承せざるを得ないけれど、
西河くんが悪巧みを考えている隙を突いて、私はさっさと帰り支度を始めた。
窓の外に目をやれば、辺りはすでに夕闇が迫っている。街灯の明かりが灯るのが窓の端に見えた。私はスマホを取り出そうとして、鞄を探る。
「あれ? ない……」
ふと西河くんに目を向けると、彼は私のスマホを手にしていた。いつのまに。
悠々と、勝手に操作している。
「西河くん。それ、私のスマホ」
「うん。知ってる」
断りもなく人のスマホをいじるという行為をここまで堂々とされると、咎める気も失せる。
嬉しそうに微笑んだ西河くんは、ようやく私のスマホを返してくれた。
「はい、どうぞ」
「……どうもありがとう。何見てたの?」
「お母さんっていう登録名にメールしておいてあげたから」
ひと仕事やり遂げましたという満面の笑みに衝撃的な発言を添付され、私は頬を引き攣らせる。
慌てて確認すると、すでにお母さん宛てにメールが送信されていた。
「お母さんへ。クラスが同じ友達の家に遊びに来ていて遅くなったので、明日は学校休みだから泊まることになりました。心配しないでね。きずな☆」
ひどい。何がひどいかというと、私は名前に星の絵文字なんてつけない。西河くんのセンスを疑う。
唖然としていると、お母さんから返信が届いた。
『ご迷惑にならないようにしなさいね。何かあったら電話してください』
お母さんは西河くんが作成したメールに何の疑いも持たず、私からだと信じてしまったようだ。