「……あれ?」
消えていたはずの痣は、元通りそこにあった。
痣がなくなっていたのは夢の話なので、目が醒めればもちろん痣はそのままある。
疎ましく思っていた左手の痣が、意味を持っているような気がして、私はじっと手のひらを見つめた。
チャイムの音が鳴り、授業が終わったことを知らせる。
やがて生徒たちのざわめきが廊下を通して保健室まで届いた。もう、下校時刻だ。
からりと保健室の扉が開かれた音がした。
保健師と、低い声の男が会話を交わす。
はっとした私がベッドから身を起こすのと同時に、仕切りのカーテンが引かれた。
「西河くん……」
薄く微笑んだ西河くんは、自分の鞄の他に、私の鞄まで抱えていた。
一瞬、那岐の声かと思ったけれど、西河くんだった。那岐のわけないのに。
「どう、気分は?」
丸椅子を持ってきた西河くんはベッドの脇に腰を下ろした。
「あ……うん。もう平気。あの……鞄、持ってきてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
ぎこちなく話す私に対して、西河くんは自然体だった。
彼の声質も瞳の色も、体つきまで那岐とそっくりなので、私は戸惑いを隠せない。
「あ……そうだ、逆鱗……!」
私はポケットから巾着袋を取り出して両手に乗せ、西河くんの前に差し出す。
「これ、返すね。やっぱり預かれないから」
西河くんはふと笑みを収めると、私の瞳を見つめた。
「これが逆鱗だって、どうして知った?」
「……え」
柔らかい口調だった西河くんの声が、急に重い響きを伴う。
そんなふうに言われると、いっそう那岐を彷彿とさせた。
「俺は、これが龍の鱗だとは言ったけど、逆鱗だとは話してないよ」
「……だって、生まれたときに一枚だけあったんだよね?」
「あったね。どこだと思う?」
「喉元でしょ?」
那岐の喉元に逆鱗はあった。私は自分の喉元を指し示す。
「正解」
西河くんは笑顔を浮かべた。その笑みには、那岐と同じ位置にえくぼがあった。
そういえば、逆鱗のことを話してくれたのは那岐だったのだ。双方の鱗は全く同じに見えるので、西河くんの鱗も逆鱗なのだろうと思い込んでいた。
「気づいたんだね。俺はただ、気がついてほしかったから相原さんに逆鱗を預けたんだけどさ」
西河くんが何を言いたいのか、よくわからない。
まるで逆鱗のせいで、私が悪夢を見たのだと彼は指摘しているようだった。
「どういうこと?」
「いや……どう言えばいいのかな。ちょっと考えてる」
西河くんは深く考え込んでいるようだけれど、、私には訳がわからなかった。
そのとき保健室の扉が開かれて、誰かが入室してきた。
「失礼します。二組の飯田沙耶です」
沙耶がやってきた。ここに西河くんがいるので、些か気まずい思いに囚われる。
ベッドの私、そして西河くんを順に眼に映した沙耶は目を瞬かせた。
さらりと、西河くんは告げる。
「相原さんは俺が送るから、飯田さんは心配しなくて大丈夫だよ」
「……いいの? 西河くんが送るって言うなら、いいけど」
「うん。ぜひ送りたい。本人の了解はもう取ってあるから」
いつ私の了解を得たのだろうか。初耳だ。
「そっか。じゃあね」
沙耶は早々に保健室をあとにした。
どうやら西河くんが家まで送ってくれることになったらしい。茫然としている私に向き合いながら、西河くんはまたしても驚きの発言を投げてくる。
「相原さんの体調もよさそうだから、帰ろうか。俺の家に行こう」
「はあ?」
頓狂な声が漏れてしまう。
どうしてそんなことになるのか。私は西河くんはもちろん、男子の家に上がったことがない。
逆鱗を受け取る気のないらしい西河くんは、私の手に巾着袋を握らせると、鞄を手にして立ち上がる。私の鞄も彼の手の中にあった。
「自分で持つよ」
「病人が遠慮しなくていいよ」
「さっき、体調よさそうって言ってなかった?」
「うーん、忘れた。俺、都合良く忘れるから」
腰を上げた西河くんと共に保健室を出る。彼は私の鞄を持つことを頑として譲らなかった。仕方ないので西河くんに鞄を預けて校舎をあとにする。
「自転車は置いていこうか。駅に行こう」
「うん。いいけど」
自転車置き場を通り過ぎ、西河くんと並んで駅へ向かう。商店街を通れば、夏の気怠い空気に包まれていた。
何も変わらない日常の光景の中、ふと夢のことを思い出す。
西河くんの逆鱗はここにある。
でも那岐の逆鱗は、どうなったのだろうか。
サヤの手に渡ってから、那岐に返してもらえたのだろうか。
夢の中では明らかになっていないので、それが気になる。
全部、夢だったわけだけれど……。
「何考えてた?」
ふいに西河くんに問いかけられ、ふと彼の横顔を見る。
切れ上がった涼しげな眦に那岐の面影を見出して、私は目を伏せた。
「夢の中の逆鱗はどうなったのかなと思って」
「ああ。授業中、うなされてたね。悪夢を見てたんだ?」
「すごく長い夢を見たの。今まで見てた悪夢のロングバージョンと言えばいいのかな……。夢の中では数ヶ月くらいだったけど、でも私が居眠りしてたのって、ほんの少しだよね?」
「そうだね。十分くらいかな」
たった十分の間に、あんなにもリアルで長い夢を見てしまったのだ。
時間というものは、いかに覚束ないものであるか知った私は背筋を震わせる。
「逆鱗の行方か……」
西河くんは商店街の向こうに小さく映る夕陽を見つめて考え込んでいる。
「西河くんとは別の人の逆鱗があったの。それをなくしちゃって。本人に返してもらえたのか、気になるんだよね」
「なるほど」
ひとこと呟いた西河くんはドラッグストアの前で足を止め、店内に入っていく。
買い物だろうか。私も付き合うことにして、あとを追った。
西河くんは化粧水や綿棒、コットンなどが一纏めになった商品をレジに持って行った。
「他にいるもの、ある?」
「え?」
「パジャマや下着は用意してあるから」
「え。なにが?」
会計を終えた西河くんは店から出ると、再び駅へ向かって歩き出す。
消えていたはずの痣は、元通りそこにあった。
痣がなくなっていたのは夢の話なので、目が醒めればもちろん痣はそのままある。
疎ましく思っていた左手の痣が、意味を持っているような気がして、私はじっと手のひらを見つめた。
チャイムの音が鳴り、授業が終わったことを知らせる。
やがて生徒たちのざわめきが廊下を通して保健室まで届いた。もう、下校時刻だ。
からりと保健室の扉が開かれた音がした。
保健師と、低い声の男が会話を交わす。
はっとした私がベッドから身を起こすのと同時に、仕切りのカーテンが引かれた。
「西河くん……」
薄く微笑んだ西河くんは、自分の鞄の他に、私の鞄まで抱えていた。
一瞬、那岐の声かと思ったけれど、西河くんだった。那岐のわけないのに。
「どう、気分は?」
丸椅子を持ってきた西河くんはベッドの脇に腰を下ろした。
「あ……うん。もう平気。あの……鞄、持ってきてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
ぎこちなく話す私に対して、西河くんは自然体だった。
彼の声質も瞳の色も、体つきまで那岐とそっくりなので、私は戸惑いを隠せない。
「あ……そうだ、逆鱗……!」
私はポケットから巾着袋を取り出して両手に乗せ、西河くんの前に差し出す。
「これ、返すね。やっぱり預かれないから」
西河くんはふと笑みを収めると、私の瞳を見つめた。
「これが逆鱗だって、どうして知った?」
「……え」
柔らかい口調だった西河くんの声が、急に重い響きを伴う。
そんなふうに言われると、いっそう那岐を彷彿とさせた。
「俺は、これが龍の鱗だとは言ったけど、逆鱗だとは話してないよ」
「……だって、生まれたときに一枚だけあったんだよね?」
「あったね。どこだと思う?」
「喉元でしょ?」
那岐の喉元に逆鱗はあった。私は自分の喉元を指し示す。
「正解」
西河くんは笑顔を浮かべた。その笑みには、那岐と同じ位置にえくぼがあった。
そういえば、逆鱗のことを話してくれたのは那岐だったのだ。双方の鱗は全く同じに見えるので、西河くんの鱗も逆鱗なのだろうと思い込んでいた。
「気づいたんだね。俺はただ、気がついてほしかったから相原さんに逆鱗を預けたんだけどさ」
西河くんが何を言いたいのか、よくわからない。
まるで逆鱗のせいで、私が悪夢を見たのだと彼は指摘しているようだった。
「どういうこと?」
「いや……どう言えばいいのかな。ちょっと考えてる」
西河くんは深く考え込んでいるようだけれど、、私には訳がわからなかった。
そのとき保健室の扉が開かれて、誰かが入室してきた。
「失礼します。二組の飯田沙耶です」
沙耶がやってきた。ここに西河くんがいるので、些か気まずい思いに囚われる。
ベッドの私、そして西河くんを順に眼に映した沙耶は目を瞬かせた。
さらりと、西河くんは告げる。
「相原さんは俺が送るから、飯田さんは心配しなくて大丈夫だよ」
「……いいの? 西河くんが送るって言うなら、いいけど」
「うん。ぜひ送りたい。本人の了解はもう取ってあるから」
いつ私の了解を得たのだろうか。初耳だ。
「そっか。じゃあね」
沙耶は早々に保健室をあとにした。
どうやら西河くんが家まで送ってくれることになったらしい。茫然としている私に向き合いながら、西河くんはまたしても驚きの発言を投げてくる。
「相原さんの体調もよさそうだから、帰ろうか。俺の家に行こう」
「はあ?」
頓狂な声が漏れてしまう。
どうしてそんなことになるのか。私は西河くんはもちろん、男子の家に上がったことがない。
逆鱗を受け取る気のないらしい西河くんは、私の手に巾着袋を握らせると、鞄を手にして立ち上がる。私の鞄も彼の手の中にあった。
「自分で持つよ」
「病人が遠慮しなくていいよ」
「さっき、体調よさそうって言ってなかった?」
「うーん、忘れた。俺、都合良く忘れるから」
腰を上げた西河くんと共に保健室を出る。彼は私の鞄を持つことを頑として譲らなかった。仕方ないので西河くんに鞄を預けて校舎をあとにする。
「自転車は置いていこうか。駅に行こう」
「うん。いいけど」
自転車置き場を通り過ぎ、西河くんと並んで駅へ向かう。商店街を通れば、夏の気怠い空気に包まれていた。
何も変わらない日常の光景の中、ふと夢のことを思い出す。
西河くんの逆鱗はここにある。
でも那岐の逆鱗は、どうなったのだろうか。
サヤの手に渡ってから、那岐に返してもらえたのだろうか。
夢の中では明らかになっていないので、それが気になる。
全部、夢だったわけだけれど……。
「何考えてた?」
ふいに西河くんに問いかけられ、ふと彼の横顔を見る。
切れ上がった涼しげな眦に那岐の面影を見出して、私は目を伏せた。
「夢の中の逆鱗はどうなったのかなと思って」
「ああ。授業中、うなされてたね。悪夢を見てたんだ?」
「すごく長い夢を見たの。今まで見てた悪夢のロングバージョンと言えばいいのかな……。夢の中では数ヶ月くらいだったけど、でも私が居眠りしてたのって、ほんの少しだよね?」
「そうだね。十分くらいかな」
たった十分の間に、あんなにもリアルで長い夢を見てしまったのだ。
時間というものは、いかに覚束ないものであるか知った私は背筋を震わせる。
「逆鱗の行方か……」
西河くんは商店街の向こうに小さく映る夕陽を見つめて考え込んでいる。
「西河くんとは別の人の逆鱗があったの。それをなくしちゃって。本人に返してもらえたのか、気になるんだよね」
「なるほど」
ひとこと呟いた西河くんはドラッグストアの前で足を止め、店内に入っていく。
買い物だろうか。私も付き合うことにして、あとを追った。
西河くんは化粧水や綿棒、コットンなどが一纏めになった商品をレジに持って行った。
「他にいるもの、ある?」
「え?」
「パジャマや下着は用意してあるから」
「え。なにが?」
会計を終えた西河くんは店から出ると、再び駅へ向かって歩き出す。