那岐。会いたい、会いたい。
押し込んでいた想いが業火のように膨れ上がる。私は漆黒の煙が充満する蔵の中をあてもなく駆け回り、闇雲に宙を掻いた。
でも、もう、会えない。
その事実を突きつけられたとき、絶望した。
信じていた。また必ず会えると。雨は降ると。
那岐は約束してくれた。共に生きようと、紫陽花の前で誓った。婚姻の証として逆鱗を授けてくれた。
けれど、もう二度と会えなかったのだ。
喉が焼ける。あつい、いたい、あつい。
咳き込もうとしたが、熱風が張りついたように喉を灼いて、もはや息をすることすらままならない。黒煙が気道に入り込み、肺を塞ぎ、内臓を潰していく。
「な……ぎ……う、ぐぅ……」
脳がぐらりと揺れた。何者かに激しく体の内側から蝕まれる感覚に、均衡を失う。
私の体は鉄板のごとく熱された床に頽れた。
着物に炎が燃え移る光景が目に映り、自分が焼かれているのだと気づいた。火の粉が降りかかり、皮膚を、髪を焼いていく。
ふいに瞼の裏に、那岐の笑顔が浮かぶ。
愛しいひとの、弾ける笑み。
もう一度だけ、見たかった……。
私はもう指一本動かせなかった。
声も出ない。
乾いた眼球は燃えさかる炎しか映さない。
左手に握りしめている和紙に、火が燃え移る。
燃やさないで。
あと一文字。
那岐に伝えさせて。
蔵は業火に包まれる。破壊音がして、天井が崩れ落ちた。
「ニエ、ニエーッ!」
那岐の声がする。幻聴だろうか。
倒れた私の体を、崩れた天井から伸びた腕が掬い上げる。巨大な龍の黄金の双眸が、焼け焦げた私に向けられた。
「ニエ、すまない。死ぬな、すまない……」
龍は何度も、すまない、そして死ぬなと繰り返していた。
私の脳はとうに、考えることをやめてしまっていた。
ただ残った眼球の欠片で、目の前の景色を最期に映し出しているだけ。
雨が、降っていた。
雨に煙る山間の村に、龍の咆吼が響き渡る。
それは嘆きの叫びのようであり、最後の別れを告げているようでもあった。
私の体を抱えた龍は、天を覆い尽くす雨雲に向けて高く飛び立つ。
高く、高く、どこまでも。
骨だけの私の手のひらから、灰となった和紙の切れ端がさらさらと零れ落ちた。
それを雨が無情に濡らしていった。
「う……、げほっげほっ」
肺いっぱいに息を吸い込み、ひどく噎せ返る。
眼前には、書きかけのノートと数式の並んだ数学の教科書。
はあはあと荒い息をついた私は、多数の人の気配を感じて顔を上げた。
クラス中の人間が、唖然としてこちらを見ていた。教科書を手にした先生が呆れ顔で問いかける。
「おい、相原。居眠りか。数学の授業はそんなに退屈か?」
どっと、クラスが笑いの渦に包まれた。
平穏な学校。和やかな人々。温い夏の空気。
私の額から汗が滴り落ちる。
ぽたりと、ノートに書いた数字に染みた。
「え……夢……?」
授業中に居眠りをしていたらしい。
龍神信仰の村。雨乞いの儀式。那岐と出会って龍神の社で過ごし、最後に生贄の私は、蔵の中で焼き殺された。
あれらはすべて夢だったのだろうか。
数十分の間に繰り広げられた、夢の中の出来事だというのか。
おそるおそる、対極の席に座っている西河くんに目を向ける。
笑っているクラスメイトの中でただひとり、彼だけが平静な表情をして私を見ていた。
後ろの席の沙耶に心配げな声をかけられる。
「具合悪いんじゃない? 保健室に行こうか?」
「……うん」
沙耶が先生に了解を取ってくれたので、席を立って廊下へ出る。
覚束ない足取りで、沙耶に支えられながら階段を下りた。
窓の外に広がる蒼天と入道雲。蝉の鳴き声。陽射しは眩く照りつけている。
唐突に思い出した私は、沙耶に詰め寄った。
「沙耶、逆鱗、どうなったの……⁉ 那岐に渡してくれたの⁉」
突然のことに驚いた沙耶は、呆気にとられていた。
「え? 何を渡すって? なんか頼まれてた?」
「逆鱗を……」
説明しようとして、ふと自分の体を見下ろす。
私は学校の制服を着ていた。
ポケットに手を入れると、スエードの生地が指先に触れる。
果たしてそこに、茶色の巾着袋はあった。
当然だ。初めから、制服のポケットに入っていたのだから。
中を開けて、手のひらに取り出してみる。
七色に光る細長い龍の鱗は、那岐の逆鱗と寸分の狂いもなく、同じ形だった。
「それがゲキリン? とりあえず保健室に行こうよ」
沙耶は逆鱗について何も知らないようだった。
彼女は村長の娘のサヤではなく、私の親友の沙耶なのだ。
再び制服のポケットに巾着袋ごと仕舞い、私は茫然と呟く。
「ごめん……私の勘違いだった。夢の中の話だった……」
「悪夢でも見たの? すごく疲れてるみたいだよ」
生贄の私を睥睨していたサヤとはまるで違い、沙耶は親切に私を気遣ってくれた。
幼い頃からいつも見てきた悪夢。
狭い箱の中で焼き殺される悪夢。
あれは、そういうことだったんだ……。
夢の中で、私は生贄のニエだった。村の生贄として殺される娘の記憶だったのだ。
保健室の先生に私を託すと、沙耶は教室に戻っていった。私の熱を測って様子を見た保健師に、ベッドで休むよう促される。平熱なので、軽い疲労という診断だった。
ベッドに横になり、純白の仕切り布をぼんやりと見上げる。
本当に、夢だったのだろうか。
低いけれど透き通った那岐の声音。手をつないだときに伝わる低い体温。心を震わせる、彼の言葉のひとつひとつ。
那岐への溢れる恋情とそして、己の胸を占める後悔。
那岐に伝えられなかった最後の一文字。
焼け爛れて骨になった手に握られた和紙の欠片。
ふと、左手を開いて見てみる。
押し込んでいた想いが業火のように膨れ上がる。私は漆黒の煙が充満する蔵の中をあてもなく駆け回り、闇雲に宙を掻いた。
でも、もう、会えない。
その事実を突きつけられたとき、絶望した。
信じていた。また必ず会えると。雨は降ると。
那岐は約束してくれた。共に生きようと、紫陽花の前で誓った。婚姻の証として逆鱗を授けてくれた。
けれど、もう二度と会えなかったのだ。
喉が焼ける。あつい、いたい、あつい。
咳き込もうとしたが、熱風が張りついたように喉を灼いて、もはや息をすることすらままならない。黒煙が気道に入り込み、肺を塞ぎ、内臓を潰していく。
「な……ぎ……う、ぐぅ……」
脳がぐらりと揺れた。何者かに激しく体の内側から蝕まれる感覚に、均衡を失う。
私の体は鉄板のごとく熱された床に頽れた。
着物に炎が燃え移る光景が目に映り、自分が焼かれているのだと気づいた。火の粉が降りかかり、皮膚を、髪を焼いていく。
ふいに瞼の裏に、那岐の笑顔が浮かぶ。
愛しいひとの、弾ける笑み。
もう一度だけ、見たかった……。
私はもう指一本動かせなかった。
声も出ない。
乾いた眼球は燃えさかる炎しか映さない。
左手に握りしめている和紙に、火が燃え移る。
燃やさないで。
あと一文字。
那岐に伝えさせて。
蔵は業火に包まれる。破壊音がして、天井が崩れ落ちた。
「ニエ、ニエーッ!」
那岐の声がする。幻聴だろうか。
倒れた私の体を、崩れた天井から伸びた腕が掬い上げる。巨大な龍の黄金の双眸が、焼け焦げた私に向けられた。
「ニエ、すまない。死ぬな、すまない……」
龍は何度も、すまない、そして死ぬなと繰り返していた。
私の脳はとうに、考えることをやめてしまっていた。
ただ残った眼球の欠片で、目の前の景色を最期に映し出しているだけ。
雨が、降っていた。
雨に煙る山間の村に、龍の咆吼が響き渡る。
それは嘆きの叫びのようであり、最後の別れを告げているようでもあった。
私の体を抱えた龍は、天を覆い尽くす雨雲に向けて高く飛び立つ。
高く、高く、どこまでも。
骨だけの私の手のひらから、灰となった和紙の切れ端がさらさらと零れ落ちた。
それを雨が無情に濡らしていった。
「う……、げほっげほっ」
肺いっぱいに息を吸い込み、ひどく噎せ返る。
眼前には、書きかけのノートと数式の並んだ数学の教科書。
はあはあと荒い息をついた私は、多数の人の気配を感じて顔を上げた。
クラス中の人間が、唖然としてこちらを見ていた。教科書を手にした先生が呆れ顔で問いかける。
「おい、相原。居眠りか。数学の授業はそんなに退屈か?」
どっと、クラスが笑いの渦に包まれた。
平穏な学校。和やかな人々。温い夏の空気。
私の額から汗が滴り落ちる。
ぽたりと、ノートに書いた数字に染みた。
「え……夢……?」
授業中に居眠りをしていたらしい。
龍神信仰の村。雨乞いの儀式。那岐と出会って龍神の社で過ごし、最後に生贄の私は、蔵の中で焼き殺された。
あれらはすべて夢だったのだろうか。
数十分の間に繰り広げられた、夢の中の出来事だというのか。
おそるおそる、対極の席に座っている西河くんに目を向ける。
笑っているクラスメイトの中でただひとり、彼だけが平静な表情をして私を見ていた。
後ろの席の沙耶に心配げな声をかけられる。
「具合悪いんじゃない? 保健室に行こうか?」
「……うん」
沙耶が先生に了解を取ってくれたので、席を立って廊下へ出る。
覚束ない足取りで、沙耶に支えられながら階段を下りた。
窓の外に広がる蒼天と入道雲。蝉の鳴き声。陽射しは眩く照りつけている。
唐突に思い出した私は、沙耶に詰め寄った。
「沙耶、逆鱗、どうなったの……⁉ 那岐に渡してくれたの⁉」
突然のことに驚いた沙耶は、呆気にとられていた。
「え? 何を渡すって? なんか頼まれてた?」
「逆鱗を……」
説明しようとして、ふと自分の体を見下ろす。
私は学校の制服を着ていた。
ポケットに手を入れると、スエードの生地が指先に触れる。
果たしてそこに、茶色の巾着袋はあった。
当然だ。初めから、制服のポケットに入っていたのだから。
中を開けて、手のひらに取り出してみる。
七色に光る細長い龍の鱗は、那岐の逆鱗と寸分の狂いもなく、同じ形だった。
「それがゲキリン? とりあえず保健室に行こうよ」
沙耶は逆鱗について何も知らないようだった。
彼女は村長の娘のサヤではなく、私の親友の沙耶なのだ。
再び制服のポケットに巾着袋ごと仕舞い、私は茫然と呟く。
「ごめん……私の勘違いだった。夢の中の話だった……」
「悪夢でも見たの? すごく疲れてるみたいだよ」
生贄の私を睥睨していたサヤとはまるで違い、沙耶は親切に私を気遣ってくれた。
幼い頃からいつも見てきた悪夢。
狭い箱の中で焼き殺される悪夢。
あれは、そういうことだったんだ……。
夢の中で、私は生贄のニエだった。村の生贄として殺される娘の記憶だったのだ。
保健室の先生に私を託すと、沙耶は教室に戻っていった。私の熱を測って様子を見た保健師に、ベッドで休むよう促される。平熱なので、軽い疲労という診断だった。
ベッドに横になり、純白の仕切り布をぼんやりと見上げる。
本当に、夢だったのだろうか。
低いけれど透き通った那岐の声音。手をつないだときに伝わる低い体温。心を震わせる、彼の言葉のひとつひとつ。
那岐への溢れる恋情とそして、己の胸を占める後悔。
那岐に伝えられなかった最後の一文字。
焼け爛れて骨になった手に握られた和紙の欠片。
ふと、左手を開いて見てみる。