「黙れ! おまえのような穢れた生贄が龍神様の花嫁になるなどと、決して許さぬ!」
激昂したサヤは蔵の中に踏み込むと、私の手から奪うように香り袋を攫った。
「あっ……」
突き飛ばされた勢いで尻餅をついてしまう。身を翻したサヤは蔵を出て、走り去っていく。見張っていた門番がすぐに扉を閉めた。
あとには、静寂が広がる。
私は尻餅をついた体勢のまま、茫然としていた。
サヤは那岐に好意を抱いている。それなのに、生贄の私が逆鱗を持っていることが許せなかったのだろう。
サヤは本当に逆鱗を那岐に返してくれるのだろうか。
彼のことが好きなら、サヤだって那岐を救いたいはずだ。逆鱗が神通力の源だとしたら、那岐に渡してすぐに雨を降らせてくれるだろう。
けれど、彼女の態度には不審を覚えた。
那岐を助けたいというより、逆鱗を自分のものにしたいという執着のほうが勝っている気がしたのだ。
私は首を振った。疑念を抱いてはいけない。サヤの良心を信じるしかない。
白鳩が飛び去っていった格子窓を見上げた。
格子窓は高いところにあり、手を伸ばしてもとても届かない。
「ス」と書かれた、一文字だけの手紙。
たとえ那岐が見てくれても、意味がわからないだろう。血文字なので不気味に思われるかもしれない。でも、どうしても伝えたかった。
どうか、那岐に届きますように。
そしてもう一度だけ、鳩さんが来てくれますように。
あと一文字だけ、手紙に託したい。
「逆鱗も、手紙も、きっと那岐のところに届くよね。鳩さんもまた来てくれるよね」
私は明るい声を出して、希望を胸に抱いた。
それから数度の昼と夜が過ぎた。
五平は日に一度だけ膳を運んでくれる。その度に彼に状況を伺うが、事態が好転する気配は見られなかった。
相変わらず那岐は樫の木に縛りつけられ、食事も水も与えられずに衰弱しているという。それを聞かされた私の胸は千切れそうに痛む。
そのような環境で雨を降らせることなどできるはずがない。五平は異議を唱えたくても、茂蔵の暴行を恐れて訴えかけることができないようだ。村長もまた静観の姿勢を崩していないという。
「サヤ様は、那岐の逆鱗を届けてくれたんじゃないんですか?」
あの日以来、サヤは蔵にやってこない。無事に逆鱗を那岐に返せたのかは不明だ。五平は首を捻った。
「わからんのう……。サヤ様は龍神の社に行こうとしていない。茂蔵が見張っていて、危ないからじゃろう」
「そうですか……」
まだ返せていないようだ。鳩も訪れていないので、那岐に手紙を届けられたのかわからない。そのことを五平に訊ねるわけにもいかなかった。
今日の五平はなぜか落ち着きがなく、しきりに背後を気にしているようだった。私の顔を直視しようとせず、視線をさまよわせている。
「五平さん……? どうかしましたか?」
その瞬間、目を見開いて私の姿を眼に焼きつけた五平は、がばりと額ずいた。
「すまなんだ! 許してくだされ!」
「……え?」
体を起こした五平は逃げるように蔵から走り去った。
扉が閉められる刹那、複数の男たちが蔵の外にいる姿を目撃する。彼らは薪や藁束のようなものを抱えていた。
なんだろう。
何が行われるのだろう。
不安を覚えた私は、膳に置かれた練り菓子を敷いた和紙を咄嗟に手にした。
あと一文字。
噛み痕の残る指先は未だじくじくと痛んでいたが、また歯で噛み千切る。
「うぅ……」
痛みに耐えながら、和紙に血の滴る指先を滑らせる。白い紙に、真紅の血でどうにか文字を綴った。
余計な血がついて汚れないよう、左手に乗せた和紙を乾くまで掲げる。右手の人差し指を血止めのため唇に咥えれば、鈍い鉄錆の味が口中に広がった。
格子窓から、外にいる複数の男たちの声が漏れてくる。「そっちだ」「もういい」など、短く作業の指示を出しているようだった。がさり、がさりと木が擦れるような音がする。
男たちが手にしていた、薪や藁の音だろう。蔵の外に積んでおくのだろうか。
物音は蔵を一周すると、やがて止んだ。
男たちはどこかへ行ってしまったようで、何の気配もしなくなった。
不気味な静寂が広がる蔵の中で、ぽつりと佇んだ私は左手に乗せた血文字に目を落とす。
留めの部分で溜まった血は凝固したようだ。慌てたので文字が歪んでしまったけれど、読めるだろうか。
和紙を畳もうとしたとき、パチパチと火花が弾けるような音が耳を突いた。
無機質なその音は次第に大きくなる。続いて鼻を突く、焦げ臭い匂い。
「え、なに?」
格子窓の向こうには漆黒の煙が上がっていた。
外に置かれた薪と藁が燃えているのだ。
息を呑んだ私は和紙を握りしめて、出口の扉へ駆けた。頑丈な扉は外から錠が掛けられたままで、押しても引いてもびくともしない。外に門番がいるはずだ。
「火事です! ここを開けてください!」
だが返答はない。
私は必死になって外に呼びかけた。扉に体当たりを食らわせて脱出を試みる。
何度も扉にぶつけた肩が痛い。こじ開けようと手をかけると、いつのまにか扉は焼き鏝のごとく熱されていた。
「あつ……っ」
反射的に手を引けば、びりと指先が激しく痛んだ。
噛み千切った人差し指から、どろりと血が流れ出る。火傷で皮膚が剥がれてしまったらしい。見ればぶつけた肩の着物も焦げかけている。
息が、苦しい。喉が焼けつくような痛みを訴える。その瞬間、蔵の中がぶわりと暴力的な熱気に包まれた。
格子窓から黒煙が這い寄り、辺りは瞬く間に漆黒に塗り潰された。蔵全体が火葬場の棺のように、焼け爛れようとしている。
このまま蔵の中にいては、焼け死んでしまう。
私の足元から、ぞくりと悪寒が走り、背筋から脳天を一気に貫いた。
私は、殺されるんだ。
龍神へ捧げる生贄として。
村に雨を降らせるために。
那岐の嘆きを呼び起こさせるために。
先程の男たちは、私を焼き殺すために準備をしていた。五平はそのことを知っていたから、あのような態度を取ったのだ。
ぐわりと襲い来る熱風に、体の至るところがねじ曲げられる。皮膚も手足も顔の筋肉も、磨り潰されるような鋭い衝撃に歪んでいく。
死の恐怖に直面した私の喉から、狂気的な叫びが迸る。
「うああああぁああっ、たすけて、あああぁあああ……」
激昂したサヤは蔵の中に踏み込むと、私の手から奪うように香り袋を攫った。
「あっ……」
突き飛ばされた勢いで尻餅をついてしまう。身を翻したサヤは蔵を出て、走り去っていく。見張っていた門番がすぐに扉を閉めた。
あとには、静寂が広がる。
私は尻餅をついた体勢のまま、茫然としていた。
サヤは那岐に好意を抱いている。それなのに、生贄の私が逆鱗を持っていることが許せなかったのだろう。
サヤは本当に逆鱗を那岐に返してくれるのだろうか。
彼のことが好きなら、サヤだって那岐を救いたいはずだ。逆鱗が神通力の源だとしたら、那岐に渡してすぐに雨を降らせてくれるだろう。
けれど、彼女の態度には不審を覚えた。
那岐を助けたいというより、逆鱗を自分のものにしたいという執着のほうが勝っている気がしたのだ。
私は首を振った。疑念を抱いてはいけない。サヤの良心を信じるしかない。
白鳩が飛び去っていった格子窓を見上げた。
格子窓は高いところにあり、手を伸ばしてもとても届かない。
「ス」と書かれた、一文字だけの手紙。
たとえ那岐が見てくれても、意味がわからないだろう。血文字なので不気味に思われるかもしれない。でも、どうしても伝えたかった。
どうか、那岐に届きますように。
そしてもう一度だけ、鳩さんが来てくれますように。
あと一文字だけ、手紙に託したい。
「逆鱗も、手紙も、きっと那岐のところに届くよね。鳩さんもまた来てくれるよね」
私は明るい声を出して、希望を胸に抱いた。
それから数度の昼と夜が過ぎた。
五平は日に一度だけ膳を運んでくれる。その度に彼に状況を伺うが、事態が好転する気配は見られなかった。
相変わらず那岐は樫の木に縛りつけられ、食事も水も与えられずに衰弱しているという。それを聞かされた私の胸は千切れそうに痛む。
そのような環境で雨を降らせることなどできるはずがない。五平は異議を唱えたくても、茂蔵の暴行を恐れて訴えかけることができないようだ。村長もまた静観の姿勢を崩していないという。
「サヤ様は、那岐の逆鱗を届けてくれたんじゃないんですか?」
あの日以来、サヤは蔵にやってこない。無事に逆鱗を那岐に返せたのかは不明だ。五平は首を捻った。
「わからんのう……。サヤ様は龍神の社に行こうとしていない。茂蔵が見張っていて、危ないからじゃろう」
「そうですか……」
まだ返せていないようだ。鳩も訪れていないので、那岐に手紙を届けられたのかわからない。そのことを五平に訊ねるわけにもいかなかった。
今日の五平はなぜか落ち着きがなく、しきりに背後を気にしているようだった。私の顔を直視しようとせず、視線をさまよわせている。
「五平さん……? どうかしましたか?」
その瞬間、目を見開いて私の姿を眼に焼きつけた五平は、がばりと額ずいた。
「すまなんだ! 許してくだされ!」
「……え?」
体を起こした五平は逃げるように蔵から走り去った。
扉が閉められる刹那、複数の男たちが蔵の外にいる姿を目撃する。彼らは薪や藁束のようなものを抱えていた。
なんだろう。
何が行われるのだろう。
不安を覚えた私は、膳に置かれた練り菓子を敷いた和紙を咄嗟に手にした。
あと一文字。
噛み痕の残る指先は未だじくじくと痛んでいたが、また歯で噛み千切る。
「うぅ……」
痛みに耐えながら、和紙に血の滴る指先を滑らせる。白い紙に、真紅の血でどうにか文字を綴った。
余計な血がついて汚れないよう、左手に乗せた和紙を乾くまで掲げる。右手の人差し指を血止めのため唇に咥えれば、鈍い鉄錆の味が口中に広がった。
格子窓から、外にいる複数の男たちの声が漏れてくる。「そっちだ」「もういい」など、短く作業の指示を出しているようだった。がさり、がさりと木が擦れるような音がする。
男たちが手にしていた、薪や藁の音だろう。蔵の外に積んでおくのだろうか。
物音は蔵を一周すると、やがて止んだ。
男たちはどこかへ行ってしまったようで、何の気配もしなくなった。
不気味な静寂が広がる蔵の中で、ぽつりと佇んだ私は左手に乗せた血文字に目を落とす。
留めの部分で溜まった血は凝固したようだ。慌てたので文字が歪んでしまったけれど、読めるだろうか。
和紙を畳もうとしたとき、パチパチと火花が弾けるような音が耳を突いた。
無機質なその音は次第に大きくなる。続いて鼻を突く、焦げ臭い匂い。
「え、なに?」
格子窓の向こうには漆黒の煙が上がっていた。
外に置かれた薪と藁が燃えているのだ。
息を呑んだ私は和紙を握りしめて、出口の扉へ駆けた。頑丈な扉は外から錠が掛けられたままで、押しても引いてもびくともしない。外に門番がいるはずだ。
「火事です! ここを開けてください!」
だが返答はない。
私は必死になって外に呼びかけた。扉に体当たりを食らわせて脱出を試みる。
何度も扉にぶつけた肩が痛い。こじ開けようと手をかけると、いつのまにか扉は焼き鏝のごとく熱されていた。
「あつ……っ」
反射的に手を引けば、びりと指先が激しく痛んだ。
噛み千切った人差し指から、どろりと血が流れ出る。火傷で皮膚が剥がれてしまったらしい。見ればぶつけた肩の着物も焦げかけている。
息が、苦しい。喉が焼けつくような痛みを訴える。その瞬間、蔵の中がぶわりと暴力的な熱気に包まれた。
格子窓から黒煙が這い寄り、辺りは瞬く間に漆黒に塗り潰された。蔵全体が火葬場の棺のように、焼け爛れようとしている。
このまま蔵の中にいては、焼け死んでしまう。
私の足元から、ぞくりと悪寒が走り、背筋から脳天を一気に貫いた。
私は、殺されるんだ。
龍神へ捧げる生贄として。
村に雨を降らせるために。
那岐の嘆きを呼び起こさせるために。
先程の男たちは、私を焼き殺すために準備をしていた。五平はそのことを知っていたから、あのような態度を取ったのだ。
ぐわりと襲い来る熱風に、体の至るところがねじ曲げられる。皮膚も手足も顔の筋肉も、磨り潰されるような鋭い衝撃に歪んでいく。
死の恐怖に直面した私の喉から、狂気的な叫びが迸る。
「うああああぁああっ、たすけて、あああぁあああ……」