「勝手じゃないよ。そう思ってくれて、嬉しい」
 ああ……この人はそんなにも、私を想っていてくれるんだ。
 私もまた、那岐と同じ想いだった。
 夢から醒めないことに落胆し、那岐に対して申し訳ないと思ったけれど、それでも那岐と共にいられる時間があるということに、ほっと胸を撫で下ろした。
 まだ、この手を離さなくてもいい。
 道を下れば、村の田畑が広がる。その向こうには、龍神の社が見えていた。
 私は、ふいに嫌な予感に囚われた。
 社にそびえる大木の樫が不穏にざわめいている。
 そのとき脳裏に、龍神の社の前に描かれた、一本の太線が浮かび上がる。
 それは、龍神を否定しているような。
 どこで見た図形だったろう。
「……うん?」
 社に近づくと、異変に気づいた那岐は顔を上げた。
 雨乞いの儀式が行われる広場に、大勢の村人が詰めかけているようだった。今日は儀式の日ではないのに、どうしたのだろう。
 口論しているような怒鳴り声も聞こえる。辺りに殺気立った気配が充満していた。
「何かあったのかな?」
「そなたはここで待っていろ」
「私も行くよ。だって……」
 話し終わらないうちに、広場から周囲を窺いに来た村人が、那岐と私の姿を発見して声を上げた。
「いたぞ! こっちだ!」
 すぐさま鍬や鉾を掲げた村人たちが集まり、私たちを取り囲む。
 みんなは目を吊り上げて、各々が手にした武器を威嚇するように那岐に向けた。
「これは何の真似だ」
 私を背に庇った那岐が落ち着いた声で問いかけると、鎌を構えた茂蔵が前へ進み出る。
「龍神はもう不要だと、村で取り決めた。最後に一度だけ挽回の機会をやる。大量の雨を降らせれば、貴様の命は助けてやってもいい」
 突然の宣言に瞠目する。上目線の茂蔵の物言いは、まるで罪を犯した者へ対するようだった。
 那岐は驚いた顔をして、茂蔵と取り囲んだ村人のひとりひとりを見やる。
「そのような取り決めは初耳だ。村長の了解は得たのか」
 集まった村人は、那岐を批判していた茂蔵に与する者ばかりだった。那岐を擁護してくれた老人や、村長の姿はそこにはない。村の取り決めと口にした茂蔵の主張は怪しいものだ。
 だが茂蔵は自信ありげに口端を引き上げる。
「村長に助けを求めても無駄だ。村の年寄りどもは黙らせたからな。役立たずのこいつを連れて行け!」
 瞬く間に屈強な男たちの手により、那岐の体は縄で縛り上げられる。多人数の男たちに武器を構えられては、為す術もなかった。
 私も那岐から引き剥がされて、無理やり縄をかけられる。
「やめて、やめて! 那岐!」
「ニエは関係ない。咎は俺にある。ニエを離せ!」
 村人たちは意に介さず、縛った那岐と私を龍神の社まで引き摺っていった。広場にある樫の巨木に那岐を力づくで押しつけ、鋼の鎖を幾重にも巻きつける。
 鎖まで用意していた周到さに、これは計画されていたものなのだと思い知らされた。茂蔵たちは那岐を捕らえるつもりで捜していたのだ。
 どうして、こんなことに。
 鎖で樫の木に拘束された那岐を、私は愕然として瞳に映した。私の腕は後ろ手に回されて縛られ、肩に食い込むほどの力で村人に押さえつけられている。
「お願い、茂蔵さん! 那岐を解放してください!」
 これは雨を降らせるための、茂蔵の芝居ではないか。
 私はそれを期待した。
 きっと、そうだ。
 村人たちだって、本当は那岐がいなければ困るはずなのだ。今までだって、那岐は村のために雨を恵んでいたのだから。五百年、そうしてきたのだから。
 茂蔵は冷酷な目で、私を見た。まるで路傍の邪魔な虫を見るような目つきだった。
「案外、その生贄を殺せば雨が降るんじゃないか? 龍神の嘆きで大雨が降るという伝承があるからな。恋仲の娘が死ねば嘆きくらいするだろう」
 集まった村人たちは一斉に冷たい視線を私に向ける。
 無機質な殺意に、ぞっと背筋が冷えた。
 罪もない虫が踏み潰されるとき、人間はこのような目をするのだと、初めて知らされる。
 これは芝居ではないのだ。
 彼らも遊びなどではないのだから。雨が降るか否かに、彼らの生活も命もかかっているのだから。
 那岐は底冷えのする声を絞り出した。
「ニエを殺せば、おまえたちを殺す」
 男たちはごくりと息を呑んで押し黙る。那岐の漆黒の瞳が、ぎらりと黄金色に輝いた。
 人外を色濃く意識させる悋気に、村人たちは気圧される。茂蔵は自らを奮い立たせるように怒鳴り声を上げた。
「貴様が雨を降らせないからだ! 龍神のせいで、村は迷惑を被っている。今後貴様らがどうなるかは天気次第だ。雨を降らせないのなら命で償ってもらう」
 ひどすぎる。
 那岐と私の命で償わせるだなんて、勝手すぎる言い分だ。
 けれど村人たちは、茂蔵の言うとおりだと深く納得していた。
 那岐は冷静に反論する。
「おまえたちは俺を不要だ、迷惑だと言いながらも、俺の力に縋っているではないか。大雨が降れば今度は龍神様のおかげだと、手のひらを返すのか?」
「龍神を崇めたのは年寄りどもだ。これからの時代は違う。俺たちのやり方でやらせてもらう」
「それは、俺を拘束して雨を降らせるやり方か。いくら俺でも縛りつけられたままでは雨雲を呼べないぞ」
「龍神なら簡単に雨雲を呼べるはずだ! 出し惜しみしやがって!」
 怒りをぶちまけた茂蔵は話し合いを放棄した。
 鎌の柄で、那岐の肩を激しく突く。那岐の喉から苦しそうな呻き声が漏れた。
 胸を引き絞らせた私は悲鳴のような叫びを迸らせる。 
「やめて、お願い! 那岐を傷つけるのなら、私が生贄になります!」
「よせ! 雨は必ず降らせると約束している。ニエには手を出すな」
 村人たちの顔に、満足げな笑みが浮かぶ。
 主導権を握った者が見せる優越だった。那岐と私の命は、彼らに委ねられたのだ。
「だったら今すぐに雨を降らせるんだな。その生贄を手はずどおりにしろ」
 茂蔵の指示で、私は広場から連れ出された。
 那岐は縛られたままだ。居残った茂蔵に、那岐を解放する様子は見られない。雨が降るまであのまま監視するつもりかもしれない。
「那岐……!」
「ニエ、忘れるな、必ず……!」
 那岐の叫ぶ声が次第に遠ざかる。社で餌をやっていた鳩たちが、樫の木の枝葉を揺らして一斉に飛び立った。
 いやだ。こんな形で那岐と別れてしまうなんて。
 私の頬を涙が流れた。
 どうか、那岐が怪我をしませんように。龍神としての尊厳をこれ以上傷つけられませんように。そればかりを祈り続けた。