「……まことか」
私は頷く。
心からの願いだった。
けれど、この誓いは成就することなく散ってしまう。
ふたりが結ばれない運命だということを、私は胸の奥でどことなく感じていた。
龍神と生贄。その壁はたとえ愛情をもってしても越えられないものであると、薄々気づいている。なぜなら龍神も生贄も、この土地の人々が造り出した存在だからだ。価値観を覆すのは容易ではないと那岐が語っていたように、村人が長年をかけて造り出した龍神そして生贄の役割を変えるのは難しいだろう。夫婦になると言えば、村人の反対に遭うことはわかりきっていた。村人たちが那岐と私に求めている役割は夫婦ではない。
いつか、那岐は神様をやめられるかもしれない。
けれど現実的に考えれば、すぐにということが困難なのはわかっていた。茂蔵が今すぐに雨を降らせろと要求したのと同じことだ。相手にも事情があり、現在の状況を鑑みなければならない。
それに……これは夢なのだ。
その証拠に、那岐は私の本当の名前を呼ばない。
私は、ニエじゃない。
本当の名が、私にもわからない。
夢の世界で、私が非常に覚束ない存在であると表しているかのようだった。
私は、この世界にいるべき住人ではない。ここを去るまでに何かできることがあるとしたら、那岐と村人との和解を勧めて、それを見届けることだった。
だから、那岐への想いを口にできなかった。
言ってしまえば、後戻りができなくなるような気がしたから。
でも、今だけは。
いつか夫婦の契りを交わすという約束をして、夢を見ていたい。
「いずれ、ニエを俺の花嫁にする。いいな?」
「うん……嬉しい……那岐」
数多の灯籠が闇夜を揺らす。一夜のみの刹那の輝きの中で、私は瞳を揺らした。
夜更けになり、綸子の寝巻に着替えた私は蛟の案内で寝室に足を踏み入れた。
透かし彫りの行灯から漏れる灯火が、ぼんやりと室内を浮かび上がらせている。
その灯火のもとに、敷かれた二組の布団がぴたりと寄せられていた。片方の布団の上に、胡座を掻いた那岐が座っている。敷居を跨いだところで、それを見た私の足が止まった。
これはまるで、初夜のようだ。
急に緊張が漲り、ぎくしゃくと手足を動かしながら空いているほうの布団の前に屈む。
那岐は私の挙動を、ゆったりと眼に映していた。
彼の目線を意識してしまって、鼓動が跳ね上がる。
「お、おやすみなさい」
とりあえず挨拶をして、ふわりとした掛け布団を捲り、体を滑り込ませる。
「ああ、おやすみ」
那岐もそう言うと、隣の布団に入った。
夫婦の契りを交わしたいと那岐は望んでくれたけれど、まさか今夜、体を重ねるということだろうか。
私はまだ、返事すらできていないというのに。
どうすればいいのだろう。
ごくりと息を呑み、天井を見つめた。
隣にいる那岐が立てた衣擦れの音に、びくりと肩を跳ねさせる。
「……ニエ」
「は、はいっ」
目を向けると、上体を起こした那岐はこちらを覗き込むようにして肘をついている。
くすりと笑んだ呼気が、私の頬をそっと撫でた。
「そのように怯えずともよい。無理やり奪ったりはしない。大切にしたいからな」
「……怯えてなんかいないけど……」
私が緊張しているのは、那岐にはお見通しらしい。
怯えているわけではなかった。未知の体験をするのは怖いけれど、そこにはかすかな期待も含んでいた。
「ニエが心を決めたとき、そなたを俺のものにする。俺は、いつまでも待ち続ける。だからゆっくり心の準備をすればいい」
那岐の配慮はありがたく、そして残酷な現実を認識させる。
私は、どうして本当の名を思い出せないんだろう。
ニエと名を呼ばれるたびに、私の心はひどく軋む。
それは那岐の想いを向けられるべき相手が、本当は私ではないということを証明しているかのようだった。
この世界は、私の少ない経験や薄い知識で構築されている幻なんかではない。
人々は懸命に生きていて、那岐も確かに存在する。
そして私という者だけが、おぼろなのだ。
私自身が夢という儚いものなのかもしれない。
夢から醒めたい。でも、醒めたらそこに、那岐はいない。
那岐のものになると、今ここで決断できればどんなにいいだろうか。
きっと那岐は喜んで受け入れてくれるだろう。
今夜だけでも夫婦の契りを結んで、幸福に浸れる。
けれど龍神が生贄を花嫁にしたら、村での那岐の立場が悪化してしまうことは容易に想像できた。
那岐に、不利益なことがあってはならない。龍神の那岐の立場を、私が崩落させるなんてことをしてはいけない。
それらのすべてが想いを告げることを躊躇させる。
口にしてしまえば、離れられなくなってしまう。那岐に迷惑がかかってしまう。
私は涙を堪えて唇を噛みしめた。
ふと、眦に冷たい指先が触れる。驚いて横を向けば、那岐は真摯な表情を浮かべて、仔細も漏らすまいとするかのように私の顔を見つめていた。
「心配事があるなら、話してほしい。ひとりで抱えるな、ニエ」
泣きたい気持ちを堪えているのを、悟られてしまった。
那岐はいつも、曇りのない双眸をまっすぐに注いでくれる。私がどのような想いでいるのか知ろうとして、心を砕いてくれる。
好きだから、私のことを見ていてくれるんだ……。
その気持ちだけで、充分だった。
たとえ結ばれなくても、那岐に好きになってもらえたことは、生涯忘れないだろう。
「いろいろ考えちゃって……。私、那岐の役に何も立ててないなとか」
「そなたは俺の傍にいてくれるだけでいいのだ。役立つかどうかは関係ない」
「でもさ、雨を降らせる方法を、一緒に考えて解決できればいいなと思うの」
那岐は少しの間、沈黙した。
「案ずるな。俺の腹には力が蓄積されている。気候にもよるのだが、調整が難しいのだ。村人に約束したとおり必ず雨は降らせる。これまでも調子の優れないことはあったが、じきに充分な量の雨を降らせることができたのだ」
雨雲を呼ぶには那岐の体調と気候が繊細に絡むらしい。力を持たない人間にはわからない感覚的な領域なのだろう。
「那岐はいつ、この村にやってきたの?」
「いつだったか……。五百年ほど前かな」
「そんなに?」
人間にとっては何世代にもわたる年月だ。
那岐は私の傍に頭を寄せると、思い出すように天井を見上げる。
私は頷く。
心からの願いだった。
けれど、この誓いは成就することなく散ってしまう。
ふたりが結ばれない運命だということを、私は胸の奥でどことなく感じていた。
龍神と生贄。その壁はたとえ愛情をもってしても越えられないものであると、薄々気づいている。なぜなら龍神も生贄も、この土地の人々が造り出した存在だからだ。価値観を覆すのは容易ではないと那岐が語っていたように、村人が長年をかけて造り出した龍神そして生贄の役割を変えるのは難しいだろう。夫婦になると言えば、村人の反対に遭うことはわかりきっていた。村人たちが那岐と私に求めている役割は夫婦ではない。
いつか、那岐は神様をやめられるかもしれない。
けれど現実的に考えれば、すぐにということが困難なのはわかっていた。茂蔵が今すぐに雨を降らせろと要求したのと同じことだ。相手にも事情があり、現在の状況を鑑みなければならない。
それに……これは夢なのだ。
その証拠に、那岐は私の本当の名前を呼ばない。
私は、ニエじゃない。
本当の名が、私にもわからない。
夢の世界で、私が非常に覚束ない存在であると表しているかのようだった。
私は、この世界にいるべき住人ではない。ここを去るまでに何かできることがあるとしたら、那岐と村人との和解を勧めて、それを見届けることだった。
だから、那岐への想いを口にできなかった。
言ってしまえば、後戻りができなくなるような気がしたから。
でも、今だけは。
いつか夫婦の契りを交わすという約束をして、夢を見ていたい。
「いずれ、ニエを俺の花嫁にする。いいな?」
「うん……嬉しい……那岐」
数多の灯籠が闇夜を揺らす。一夜のみの刹那の輝きの中で、私は瞳を揺らした。
夜更けになり、綸子の寝巻に着替えた私は蛟の案内で寝室に足を踏み入れた。
透かし彫りの行灯から漏れる灯火が、ぼんやりと室内を浮かび上がらせている。
その灯火のもとに、敷かれた二組の布団がぴたりと寄せられていた。片方の布団の上に、胡座を掻いた那岐が座っている。敷居を跨いだところで、それを見た私の足が止まった。
これはまるで、初夜のようだ。
急に緊張が漲り、ぎくしゃくと手足を動かしながら空いているほうの布団の前に屈む。
那岐は私の挙動を、ゆったりと眼に映していた。
彼の目線を意識してしまって、鼓動が跳ね上がる。
「お、おやすみなさい」
とりあえず挨拶をして、ふわりとした掛け布団を捲り、体を滑り込ませる。
「ああ、おやすみ」
那岐もそう言うと、隣の布団に入った。
夫婦の契りを交わしたいと那岐は望んでくれたけれど、まさか今夜、体を重ねるということだろうか。
私はまだ、返事すらできていないというのに。
どうすればいいのだろう。
ごくりと息を呑み、天井を見つめた。
隣にいる那岐が立てた衣擦れの音に、びくりと肩を跳ねさせる。
「……ニエ」
「は、はいっ」
目を向けると、上体を起こした那岐はこちらを覗き込むようにして肘をついている。
くすりと笑んだ呼気が、私の頬をそっと撫でた。
「そのように怯えずともよい。無理やり奪ったりはしない。大切にしたいからな」
「……怯えてなんかいないけど……」
私が緊張しているのは、那岐にはお見通しらしい。
怯えているわけではなかった。未知の体験をするのは怖いけれど、そこにはかすかな期待も含んでいた。
「ニエが心を決めたとき、そなたを俺のものにする。俺は、いつまでも待ち続ける。だからゆっくり心の準備をすればいい」
那岐の配慮はありがたく、そして残酷な現実を認識させる。
私は、どうして本当の名を思い出せないんだろう。
ニエと名を呼ばれるたびに、私の心はひどく軋む。
それは那岐の想いを向けられるべき相手が、本当は私ではないということを証明しているかのようだった。
この世界は、私の少ない経験や薄い知識で構築されている幻なんかではない。
人々は懸命に生きていて、那岐も確かに存在する。
そして私という者だけが、おぼろなのだ。
私自身が夢という儚いものなのかもしれない。
夢から醒めたい。でも、醒めたらそこに、那岐はいない。
那岐のものになると、今ここで決断できればどんなにいいだろうか。
きっと那岐は喜んで受け入れてくれるだろう。
今夜だけでも夫婦の契りを結んで、幸福に浸れる。
けれど龍神が生贄を花嫁にしたら、村での那岐の立場が悪化してしまうことは容易に想像できた。
那岐に、不利益なことがあってはならない。龍神の那岐の立場を、私が崩落させるなんてことをしてはいけない。
それらのすべてが想いを告げることを躊躇させる。
口にしてしまえば、離れられなくなってしまう。那岐に迷惑がかかってしまう。
私は涙を堪えて唇を噛みしめた。
ふと、眦に冷たい指先が触れる。驚いて横を向けば、那岐は真摯な表情を浮かべて、仔細も漏らすまいとするかのように私の顔を見つめていた。
「心配事があるなら、話してほしい。ひとりで抱えるな、ニエ」
泣きたい気持ちを堪えているのを、悟られてしまった。
那岐はいつも、曇りのない双眸をまっすぐに注いでくれる。私がどのような想いでいるのか知ろうとして、心を砕いてくれる。
好きだから、私のことを見ていてくれるんだ……。
その気持ちだけで、充分だった。
たとえ結ばれなくても、那岐に好きになってもらえたことは、生涯忘れないだろう。
「いろいろ考えちゃって……。私、那岐の役に何も立ててないなとか」
「そなたは俺の傍にいてくれるだけでいいのだ。役立つかどうかは関係ない」
「でもさ、雨を降らせる方法を、一緒に考えて解決できればいいなと思うの」
那岐は少しの間、沈黙した。
「案ずるな。俺の腹には力が蓄積されている。気候にもよるのだが、調整が難しいのだ。村人に約束したとおり必ず雨は降らせる。これまでも調子の優れないことはあったが、じきに充分な量の雨を降らせることができたのだ」
雨雲を呼ぶには那岐の体調と気候が繊細に絡むらしい。力を持たない人間にはわからない感覚的な領域なのだろう。
「那岐はいつ、この村にやってきたの?」
「いつだったか……。五百年ほど前かな」
「そんなに?」
人間にとっては何世代にもわたる年月だ。
那岐は私の傍に頭を寄せると、思い出すように天井を見上げる。