「逆鱗を剥がしたら、その龍は死んじゃうの?」
「死にはしないがな。たとえれば指を引き抜くようなものか。通常は剥がしたりしないものだ」
「もしかして、人間に逆鱗が生えてることもあるの?」
「……逆鱗は龍に生えているものだ。人間の体にはないぞ」
那岐は訝しげに眉をひそめる。西河くんは生まれつき、一枚だけ生えていたと話していた。
「那岐の体には逆鱗があるの?」
「無論だ。ほら」
那岐は襟元を開き、顎を上げてみせた。逞しい喉仏の上の辺りに、逆さまに生えている突起のような鱗がある。その他にも彼の鎖骨の下や、手首から肘にかけて、魚のような鱗がびっしりと生えているのだった。那岐の正体は、やはり龍なのだ。
陽の光に煌めく鱗は体の上部から下方へ流れるように生えているが、顎下の一枚のみ、逆向きに生えている。これが逆鱗なのだろう。私が紛失した西河くんの鱗と、よく似ていた。
那岐の首元を覗き込みながら、私は興奮して捲し立てた。
「そう、これ。すごく似てる。こういう形だったよ、西河くんの鱗も」
吐息が首筋にかかってしまったのか、那岐はくすぐったそうに肩を竦める。切れ上がった眦で、ちらりと私を流し見た。
「触ってみろ」
「……え?」
龍の怒りに触れてしまうので、逆鱗に触ってはいけないのではなかったか。心を許した者にしか触らせないと那岐も話していたはずだけれど。
首を傾げる私に、那岐はなおも促す。
「怒らないから触ってみろ。抜けないか、実際に確かめてみろと言っている」
「そう? それじゃあ……」
おそるおそる那岐の喉元に手を伸ばす。そっと逆鱗に触れてみた。那岐は微動だにせず、瞬きすらしていない。堪えているのだろうか。
「痛くない?」
「全く。肌に触れられるのと変わらない。引き抜いてみていいぞ」
「そんなことできないよ」
指先で逆鱗をするりと撫でてみると、那岐の喉が上下したので手を離す。
やはり鱗は接着したようなものではなく、体から生えているのだとわかった。これを引き抜いたとしたら相当な痛みを覚えるだろう。
「本当に鱗が生えてるんだね。那岐は、龍神なんだね」
襟元を直しながら咳払いをひとつした那岐の頬に、やや赤みが差している。また、ちらりとこちらを流し見ると、すぐに前方に視線を戻した。
「そなたは妙なことに感心するのだな」
私への呼び方が、『おまえ』から『そなた』へ変化している。私の存在が那岐の中で変わったのかもしれない。けれど些細な違いだと思い、私は気に留めなかった。
「現実世界……というか私の常識では、龍神は想像の生き物だったからね。人間よりずっと大きくて、体が長くて、空を飛べるんだよ」
「龍神の本来の姿はそうだ。俺のこの姿は、人に変化したんだ。龍の眷属は長い年月を経ると人型になれる」
「そうなの⁉ じゃあ那岐は、龍になって空を飛べるの?」
那岐は物憂げに長い睫毛を伏せた。
「昔はな。大空を駆け、雨雲を呼び出して地上に雨を落としていた。龍の姿になれば爆発的な力を発揮できる。だが二千年ほど経過した今では、その力も失われかけている。俺は龍への戻り方を忘れてしまった」
私には想像もできない話だった。目の前にいる人間の姿をした那岐が元々は龍で、二千年も生きてきたなんて、普段なら嘘だと笑い飛ばすところだ。
那岐はふと、私に寂しげな瞳を向けて問いかけた。
「信じられないだろう? 人間が龍になれるわけがないと噂する村人もいる。俺のこの鱗は、龍神を装うために貼りつけたものだとな」
那岐が逆鱗を触らせてくれたのは、私に信じてほしかったからなのかもしれない。
彼は孤独なのだ。
私が生まれつきの痣と悪夢を抱えて孤独感を覚えているように、那岐もまた村人から理解されない事情を抱えている。同じ悩みを持つ那岐の苦しさは、私にはよくわかった。
「私は、信じるよ。那岐が本当は龍の姿で、二千才だって、信じる」
突飛なことかもしれない。目の前で変身でもされなければ、信じられないかもしれない。
でも、那岐は私を信じてくれた。ここは夢の世界だと言う私の話も、笑うことなく真剣に聞いてくれた。
私も、信じよう。
那岐の言葉は彼の真実なのだと胸に刻む。
言い切った私を、那岐は驚いた目で見た。
「そうか……。信じるのか。そなたの目は曇りないな」
「那岐も、私の言ったこと信じてくれたから。世界は広いから、二千才の長寿の龍がいても不思議じゃないよね」
誰かひとりに肯定してもらえるだけで、胸に勇気が湧く。
那岐は楽しそうな声で笑い出した。
「ははは……面白いやつだ。俺に長寿だと述べたのは、そなたが初めてだ」
「だって、二千才はすごいでしょ」
那岐は二千年前に印度で生まれ、遙かな年月を生きてきたことになる。生まれて十七年の私には途方もない話だ。
彼の冷酷にも見える切れ上がった眦は、笑うと優しげに緩んでいた。そんな那岐の表情を、私は好ましいと思えた。
ようやく笑いを収めた那岐は、ほうと息をつく。
「久しぶりだ……。笑ったのは、いつぶりなのか、もう思い出せないくらいだ」
「そんなに毎日がつまらないの?」
「そうだな。喜びも哀しみも、感情というものが湧かなかった。こんなにも心が揺さぶられたのは久方ぶりだよ。礼を言う」
白い歯を輝かせて眩しい笑顔を見せた那岐は、とても美しかった。私の胸は、ほっこりと温まる。えくぼができる那岐の笑顔を、そっと胸の奥の宝箱に仕舞った。
「私のほうこそ、ありがとう。今まで不安で仕方なかったけど、那岐のおかげでどうにかなるって思えたよ。なくした龍の鱗も、捜せばきっと見つかるよね」
見知らぬ土地、生贄という虐げられた身分、別人となった友人。
どれもが私の心を傷つけ、不安の色に染め上げていったけれど、那岐と言葉を交わして、彼の笑顔を見たら瞬く間に浄化されていくようだった。
那岐は微笑を浮かべながら私を見つめていた。
「俺も協力しよう。もし俺以外にも龍が存在するとなれば、見過ごせないからな。川に流された鱗が見つかれば、何かわかるかもしれない」
「捜すのを手伝ってくれるの?」
「ああ、もちろんだ。もっと下流にあるかもしれないな」
私たちは連れ立って川沿いを下っていった。水面から覗いた大きな石の周辺に巾着袋が引っかかっていないか、注意深く調べる。目的のものはなかなか見つからなかった。
このとき私は、重要なことに気がついていなかった。
盲点と言うべきそれを那岐に伝えていないので、那岐も気づくことはない。
日が暮れるまで川を捜索したけれど、巾着袋を発見することはなかった。
その日から、私は那岐と川辺で待ち合わせをして、巾着袋を捜すことが日課となった。
幾日捜しても龍の鱗が入った巾着袋は見つからなかったけれど、那岐が一緒に捜してくれて、ぽつりぽつりとお互いのことを話せるので、気を紛らわせることができた。ひとりだったらきっと早々に諦めて、落ち込んでいたかもしれない。
「死にはしないがな。たとえれば指を引き抜くようなものか。通常は剥がしたりしないものだ」
「もしかして、人間に逆鱗が生えてることもあるの?」
「……逆鱗は龍に生えているものだ。人間の体にはないぞ」
那岐は訝しげに眉をひそめる。西河くんは生まれつき、一枚だけ生えていたと話していた。
「那岐の体には逆鱗があるの?」
「無論だ。ほら」
那岐は襟元を開き、顎を上げてみせた。逞しい喉仏の上の辺りに、逆さまに生えている突起のような鱗がある。その他にも彼の鎖骨の下や、手首から肘にかけて、魚のような鱗がびっしりと生えているのだった。那岐の正体は、やはり龍なのだ。
陽の光に煌めく鱗は体の上部から下方へ流れるように生えているが、顎下の一枚のみ、逆向きに生えている。これが逆鱗なのだろう。私が紛失した西河くんの鱗と、よく似ていた。
那岐の首元を覗き込みながら、私は興奮して捲し立てた。
「そう、これ。すごく似てる。こういう形だったよ、西河くんの鱗も」
吐息が首筋にかかってしまったのか、那岐はくすぐったそうに肩を竦める。切れ上がった眦で、ちらりと私を流し見た。
「触ってみろ」
「……え?」
龍の怒りに触れてしまうので、逆鱗に触ってはいけないのではなかったか。心を許した者にしか触らせないと那岐も話していたはずだけれど。
首を傾げる私に、那岐はなおも促す。
「怒らないから触ってみろ。抜けないか、実際に確かめてみろと言っている」
「そう? それじゃあ……」
おそるおそる那岐の喉元に手を伸ばす。そっと逆鱗に触れてみた。那岐は微動だにせず、瞬きすらしていない。堪えているのだろうか。
「痛くない?」
「全く。肌に触れられるのと変わらない。引き抜いてみていいぞ」
「そんなことできないよ」
指先で逆鱗をするりと撫でてみると、那岐の喉が上下したので手を離す。
やはり鱗は接着したようなものではなく、体から生えているのだとわかった。これを引き抜いたとしたら相当な痛みを覚えるだろう。
「本当に鱗が生えてるんだね。那岐は、龍神なんだね」
襟元を直しながら咳払いをひとつした那岐の頬に、やや赤みが差している。また、ちらりとこちらを流し見ると、すぐに前方に視線を戻した。
「そなたは妙なことに感心するのだな」
私への呼び方が、『おまえ』から『そなた』へ変化している。私の存在が那岐の中で変わったのかもしれない。けれど些細な違いだと思い、私は気に留めなかった。
「現実世界……というか私の常識では、龍神は想像の生き物だったからね。人間よりずっと大きくて、体が長くて、空を飛べるんだよ」
「龍神の本来の姿はそうだ。俺のこの姿は、人に変化したんだ。龍の眷属は長い年月を経ると人型になれる」
「そうなの⁉ じゃあ那岐は、龍になって空を飛べるの?」
那岐は物憂げに長い睫毛を伏せた。
「昔はな。大空を駆け、雨雲を呼び出して地上に雨を落としていた。龍の姿になれば爆発的な力を発揮できる。だが二千年ほど経過した今では、その力も失われかけている。俺は龍への戻り方を忘れてしまった」
私には想像もできない話だった。目の前にいる人間の姿をした那岐が元々は龍で、二千年も生きてきたなんて、普段なら嘘だと笑い飛ばすところだ。
那岐はふと、私に寂しげな瞳を向けて問いかけた。
「信じられないだろう? 人間が龍になれるわけがないと噂する村人もいる。俺のこの鱗は、龍神を装うために貼りつけたものだとな」
那岐が逆鱗を触らせてくれたのは、私に信じてほしかったからなのかもしれない。
彼は孤独なのだ。
私が生まれつきの痣と悪夢を抱えて孤独感を覚えているように、那岐もまた村人から理解されない事情を抱えている。同じ悩みを持つ那岐の苦しさは、私にはよくわかった。
「私は、信じるよ。那岐が本当は龍の姿で、二千才だって、信じる」
突飛なことかもしれない。目の前で変身でもされなければ、信じられないかもしれない。
でも、那岐は私を信じてくれた。ここは夢の世界だと言う私の話も、笑うことなく真剣に聞いてくれた。
私も、信じよう。
那岐の言葉は彼の真実なのだと胸に刻む。
言い切った私を、那岐は驚いた目で見た。
「そうか……。信じるのか。そなたの目は曇りないな」
「那岐も、私の言ったこと信じてくれたから。世界は広いから、二千才の長寿の龍がいても不思議じゃないよね」
誰かひとりに肯定してもらえるだけで、胸に勇気が湧く。
那岐は楽しそうな声で笑い出した。
「ははは……面白いやつだ。俺に長寿だと述べたのは、そなたが初めてだ」
「だって、二千才はすごいでしょ」
那岐は二千年前に印度で生まれ、遙かな年月を生きてきたことになる。生まれて十七年の私には途方もない話だ。
彼の冷酷にも見える切れ上がった眦は、笑うと優しげに緩んでいた。そんな那岐の表情を、私は好ましいと思えた。
ようやく笑いを収めた那岐は、ほうと息をつく。
「久しぶりだ……。笑ったのは、いつぶりなのか、もう思い出せないくらいだ」
「そんなに毎日がつまらないの?」
「そうだな。喜びも哀しみも、感情というものが湧かなかった。こんなにも心が揺さぶられたのは久方ぶりだよ。礼を言う」
白い歯を輝かせて眩しい笑顔を見せた那岐は、とても美しかった。私の胸は、ほっこりと温まる。えくぼができる那岐の笑顔を、そっと胸の奥の宝箱に仕舞った。
「私のほうこそ、ありがとう。今まで不安で仕方なかったけど、那岐のおかげでどうにかなるって思えたよ。なくした龍の鱗も、捜せばきっと見つかるよね」
見知らぬ土地、生贄という虐げられた身分、別人となった友人。
どれもが私の心を傷つけ、不安の色に染め上げていったけれど、那岐と言葉を交わして、彼の笑顔を見たら瞬く間に浄化されていくようだった。
那岐は微笑を浮かべながら私を見つめていた。
「俺も協力しよう。もし俺以外にも龍が存在するとなれば、見過ごせないからな。川に流された鱗が見つかれば、何かわかるかもしれない」
「捜すのを手伝ってくれるの?」
「ああ、もちろんだ。もっと下流にあるかもしれないな」
私たちは連れ立って川沿いを下っていった。水面から覗いた大きな石の周辺に巾着袋が引っかかっていないか、注意深く調べる。目的のものはなかなか見つからなかった。
このとき私は、重要なことに気がついていなかった。
盲点と言うべきそれを那岐に伝えていないので、那岐も気づくことはない。
日が暮れるまで川を捜索したけれど、巾着袋を発見することはなかった。
その日から、私は那岐と川辺で待ち合わせをして、巾着袋を捜すことが日課となった。
幾日捜しても龍の鱗が入った巾着袋は見つからなかったけれど、那岐が一緒に捜してくれて、ぽつりぽつりとお互いのことを話せるので、気を紛らわせることができた。ひとりだったらきっと早々に諦めて、落ち込んでいたかもしれない。



