「私が廊下でキヨノさんに頼んで……」
 始めに額ずいた姿勢から動いていないキヨノは、私の前に手を出して遮る。黙っているようにという合図だ。口を噤んだ私は深く頭を下げた。
「申し訳ございません。龍神様のことについてサヤ様にお話しをしなければと、わたしめがいらぬ気を遣ってしまったのでございます。老婆心ゆえのことで、どうかお許しくださいませ」
「もうよい! 早くそれをわたしの目の前から消せ」
 キヨノは丁寧に襖を閉めると、ようやく立ち上がる。私も俯いたままキヨノのあとに従い、裏口へ向かった。途中、ほかの女中とすれ違うと、私の姿を目にした彼女たちは眉根を寄せた。
 母屋へ上がり込んではいけなかったのだ。私の浅慮で、キヨノに迷惑をかけてしまった。
 裏の戸口に着くと、私はキヨノに向き合い、頭を下げた。
「すいませんでした。キヨノさんに迷惑をかけてしまいました」
 キヨノは懐に手を差し入れると、私の手のひらを取り、小さな包みを握らせた。
「おまえさんは可哀想な子だが、己のさだめを受け入れないといけないよ。さあ、お戻り」
 奥から村長の呼ぶ声がする。キヨノは素早く私を戸口の向こうに押し出すと、引き戸を閉めた。
 重い足取りで小屋までの道を歩いた私は、手のひらを開く。
 包みを開くと、白い粉のようなものが塗された練り菓子がひと粒。
 お腹が空いていた私は口に放り込んだ。仄かな甘みに、唾液があとからあとから滲み出る。キヨノの優しさが胸に染み込むようだった。
 己のさだめを受け入れる。
 キヨノから言われた言葉の意味を、舌で練り菓子を転がしながらずっと考えていた。 

 ここには電気も水道もない。人々は鍬を振るって畑を耕し、井戸端で洗濯物を洗っている。電話や車なども皆無なので、ほかの土地との交流はなく、村の人たちはここが世界のすべてといった感覚で暮らしを営んでいるようだ。
「どうやって、夢から醒めればいいのかな……」
 私は、ぽつりと呟いた。
 キヨノと別れた私は小屋へ戻らずに、辺りを散策する。
 夢から醒めないので学校へ行けない。家へも帰れない。何もやることがない。
「あっ……龍の鱗……」
 そういえば、始めに川に落ちたときに巾着袋をなくしていた。
 もしかしたら、龍の鱗があれば目を醒ますことができるのではないだろうか。
 昨日、那岐と出会った川のほうへ足を向ける。
 屋敷の裏木戸を抜けて土手への蛇行した道を登れば、川のせせらぎが聞こえてくる。
 萌黄色の葉の向こうに、誰かが川で屈んでいる姿が目に入る。私は急勾配の斜面を駆け下りていった。
「那岐!」
 逞しい肩と艶やかな髪が眩しく目に映る。
 名を呼ぶ声に顔を上げた那岐は、膝で水を掻き分けて川辺へやってきた。
「紛失したという巾着袋だが、見つからないな。もう流されてしまったのかもしれない」
「え……。わざわざ捜してくれたの?」
 平然として頷いた那岐は川縁に上がる。彼の着物の裾はからげていて、逞しい脛から腿にかけて曝されていた。
「龍の鱗だと、おまえが言ったことが気になってな。まさか、おまえの持ち物なのか?」
「ううん。私のじゃないんだよね。西河くんっていう、那岐とそっくりな男の子が持ち主だよ」
「俺とそっくりだと? その男はどこにいる」
「ええと……現実の世界」
「なんだと? どういうことだ」
 私は那岐に、ここは夢の世界であると話すべきか躊躇した。
 そんなことを説明されても、とても信じられないだろう。
 迷う私の返答を、彼は真摯な双眸をして待っている。
「あの……何を言っても笑わない?」
「なぜ笑うことになるのかわからないが、おまえが笑ってほしくないのなら、笑わないと約束しよう」
 那岐はとても真面目な顔をして、まっすぐに私を見ている。
 この人に対して、誤魔化したりしてはいけない。
 そう直感した私は正直に打ち明けることにした。
「実は、ここは私の見ている夢の世界なの。だから夢から醒めれば現実の世界に戻れて、そこに同じクラスの西河くんがいるの。サヤと瓜二つの親友の沙耶もね」
「……ほう」
 那岐の反応は薄かった。
 自分の話した台詞を反芻してみても、現実感のない説明だったと思う。きっと妄想としか受け止められないだろう。
 ここは夢の世界だという、確かな証拠が必要だ。
 ふと左手に目を落とした私はそこに証拠を見出して、確信を持った。
 私は揚々として、那岐に左の手のひらを広げて見せる。
「ほら、これが証拠だよ。生まれつきあった痣が消えてるの!」
 左手に刻まれた痣は、綺麗になくなっていた。
 ずっとコンプレックスだった烙印のような痣がない手のひらは、こんなにも美しいものなのだと、私は感動すら覚える。 
 対して無感動の那岐は私の手を取り、丁寧に検分した。
「ここに痣があったのか?」
「そうだよ。那岐も……あ……」
 那岐は、私の手のひらを初めて見たのだ。
 だから痣があったことを知らない。
 何もない手のひらは私にとっては誇らしいものなのだけれど、私以外の人には、ごくふつうの手のひらでしかなかった。これでは証拠にならない。
 那岐の節くれ立った指が手のひらに触れるたび、そのことに思い至った私は次第に落ち込んだ。
 顔を上げた那岐は、きっぱりと言い切る。
「信じる」
 否定されるかと思ったのに、容易く那岐が認めてくれたので、私は瞠目した。
「えっ……信じてくれるの? ほんとに?」
「おまえの瞳は真実を語っている。夢とか現実の世界という理屈は俺には理解できないが、そういったことも有り得るんだろう。世界は広いからな。俺の知る常識とは全く異なる価値観や常識が存在する」
「そっか……ありがと」
 那岐は私の言うことを、信じてくれるのだ。
 彼に認められたというそれだけで、胸に安堵が広がる。
「龍の鱗が見つかれば、きっと現実の世界に帰れると思うんだよね」
「ふむ。その龍の鱗を見ないと何とも言えないのだが、具体的にどんな鱗だ」
「七色に光ってたよ。大きさはこのくらいかな。薄くて細長いの」
 指先で親指の爪ほどの大きさを象る。
 那岐は形の良い眉をひそめた。
「まさか、逆鱗か?」
「逆鱗って、触ると龍が怒るっていう鱗のこと?」
「そうだ。一体につき、一枚しか生えていない。龍にとって逆鱗は心臓と同義だ。心を許した者にしか触らせないのだ」
 あの鱗は逆鱗だったらしい。そんなに貴重なものを、どうして西河くんは私に預けたのだろう。