彼は私を川縁から促そうとして、つと足元に目を向ける。
「草履が流されたようだな。ひとまず屋敷に戻って着替えろ。このままでは風邪を引く」
 自らの足元に目をやると、濡れた足は裸足だった。靴下と上履きを履いていたはずなのに。
 那岐は大きな足に草履を履いている。彼の足元も、着物の裾まで水に濡れていた。
 草履だとか屋敷だとか、古風な単語に違和感を覚える。
 首を捻っていると、屈んだ那岐はこちらに大きな背を向けた。両の手のひらを後ろに広げて構えている。
「え……なに?」
「おぶされ」
「え? おんぶしろってこと?」
「ほかにどのように見えるんだ。おまえは米俵のように担がれたいのか?」
 不遜な物言いに反発心が芽生えたが、那岐はきっと好意でおんぶしてくれるのだと思うので素直に従うことにする。
 両腕を肩に乗せて、広い背に覆い被さる。逞しい腕が、私の腿の辺りを抱えた。
 私をおんぶして立ち上がった那岐は黙々と歩んで川を離れ、細い道を登っていく。
 男のひとにおんぶするなんて初めてのことで、知らず私の鼓動は昂ぶってしまう。
 肩に掴まった手のひらから、背中に合わさった胸から、抱えられた腿から、すべてで男の強靱な体を感じてしまい、私は緊張を悟られまいと細い息を吐いた。
「おまえの名は?」
 ふいに那岐が訊ねてきた。
 その質問に、私の喉はさも当然のことを答えるかのように、するりと言葉を流す。
「ニエ」
 生贄の、ニエ。
 なぜそんな名前が自分の口から出たのか、わからなかった。私の名前は、そんなのじゃないのに。
「ニエか。だがそれは、生贄だからという理由で村長がつけた名だろう。本当の名は教えてはくれないのか?」
「……よくわからない」
 なぜだろう。私の本当の名が、思い浮かんでこない。
 あんなに嫌っていたはずの名前だけれど、わからない。
 私は唐突に気がついた。
 ああ、そうか。
 これは、夢なんだ。
 だから着物を着ていたり、西河くんに瓜二つの男性に出会ったりしているんだ。
 現実で体験したことが夢の中で再現されて、不可思議な世界が構築されている。
 夢にしてはあまりにもリアルな感触だけれど、要するに現実の繰り返しなので、やはりどこかで経験した川の水や人肌の感触が生かされているのだろう。
 肌を通して染み込んでいく那岐の感触もまた、夢の中の産物なのだ。
 夢なら、遠慮しないで訊ねてみよう。
「那岐って、珍しい名前だよね。どういう意味があるの?」
「ナーガが変化して、いつしか那岐と呼ばれるようになった。とはいえ、俺を真名で呼ぶ者はいないがな」
「ふうん……。ナーガは龍のことだよね?」
「そうだ。印度で生まれたナーガは中国から海をわたり、日本にやってきた。この国では稲作が主だから、水の加護を求める。雨雲を操るナーガは龍神として土地の人間に祀られたんだ」
 これって……部活動のテーマで調べている龍神伝説に関わることではないだろうか。
 しかも今の会話の流れからすると、那岐は人間ではなく、龍神だと主張しているかのように聞こえた。
 那岐は独白のように呟く。
「あの頃は仲間も大勢いた。強大な力も備わっていた。思えばもう……遠いことだ」
 肩を震わせる私のかすかな振動が伝わり、那岐は首を巡らせた。
「何を笑う?」
「那岐って、龍神みたいだね」
 唖然とした那岐は、私に釣られるように喉奥で笑い出した。
「おまえは、おかしなことを言う」
 川沿いの土手を登れば、壮大な景色が広がる。小さな盆地が扇状に広がり、田畑と藁葺き屋根の家屋がぽつりぽつりと点在している。牛を引いて歩く人の姿が小さく見えた。平地を囲む山々は緩やかな稜線を描いている。その向こうには、一際高くそびえる山の尾根が見えた。
 どこかで見たような地形だ……。
 那岐におんぶされたまま、やや左に蛇行した砂利道を下っていく。電信柱が見当たらないので、電線もない。空はこんなに広かったのだろうかと驚いた。電気が通っていないなんて、相当な山奥のようだ。夢の世界だけど。
 土手からの道を下ると、板塀に囲まれた大きな屋敷に行き当たった。数寄屋造りの重厚な門をくぐった那岐は、道なりにある母屋へ向かう。庭の中に離れの棟もある、とても広い屋敷だ。
「村長、いるか」
 がらりと引き戸を開けた那岐は、土間から奥へ向かって声を上げる。ややあって、着物に羽織を纏った初老の男性が駆けつけてきた。彼が村長らしい。
「これはこれは龍神様。わざわざご足労いただきまして、恐悦至極に存じます」
 上がり框で額ずく村長はとても腰が低い。
『龍神様』という呼び名に、私は驚いた。那岐の背中から下ろされて、彼の精悍な顔を見上げる。
「那岐……まさか、本当に龍神なの⁉」
「こらっ。生贄風情が龍神様の真名を呼び捨てにするとは、なんたる不敬。鞭打つぞ!」
 村長の怒鳴り声に首を竦めると、遮るように那岐の腕が伸ばされて私を庇う。
「俺が許したのだ。この娘に懲罰を与えることは禁ずる」
「心得ました。龍神様の仰せのとおりにいたします」
 すぐさま村長は手をついて頭を下げた。どうやら村長より那岐のほうが遙かに身分が高いらしいが、それにしても村長のへりくだった態度はわざとらしさが透けて見える。
「川に落ちたのだ。着替えさせてやれ」
 那岐の指示に、村長は控えていた妙齢の女性に目で合図した。縦縞の着物に前掛けをつけた女性は、ひとつ礼をすると私を促す。
「さあ、むこうへ……」
 そのとき、屋敷の奥から軽妙な足音と共に、聞き覚えのある声が響いてきた。
「龍神様が来ているの? わたしに会いに来てくださったのかしら」
 鈴を転がすような楽しげな声は、沙耶のものだ。
 玄関に現れた沙耶は一目見て上等とわかる桃色の着物を纏い、綺麗に髪を結い上げていた。瞳をきらきらと輝かせて、まっすぐに那岐を見る。
 けれど那岐は、沙耶の存在など気にも留めずに冷然と踵を返した。
「ではな」
 敷居を跨いだ那岐は振り向くことなく、門へ向かっていった。鮮やかな鉄紺の羽織の背中が遠ざかっていく。
 沙耶はあからさまに落胆した顔を見せた。それから彼女は、私にきつい眼差しを浴びせる。那岐に見せた華やいだ表情とはまるで別人だった。
「え……沙耶? どうかしたの?」
 彼女は何も言わずに身を翻して、屋敷の奥へ引っ込んでしまった。
 沙耶が私に対して、あのような冷淡な態度を取ったことは一度もない。これが夢なら、現実での経験が反映されているはずだ。もしかして私が沙耶に、冷淡に扱ってほしいと望んでいるとでもいうのだろうか。そんなはずないのに。
 縦縞の着物の女性は、茫然と佇んでいる私を叱りつけた。