私はスプーンを持ったまま、西河くんの真剣な双眸を見返した。
 これは単なる遊びのはずなのに、彼の中に多大な理由が存在するような片鱗を見出したから。
「……西河くんは……」
 なんなの?
 なんで、私に構うの?
 私を名前で呼ぶことに、何か意味があるの?
 そのすべての疑問を吟味した結果、私はひとつを選択して口にした。
「正体が龍って、本当なの?」
 唇に弧を描いた西河くんの頬に、えくぼがある。
 彼は、あっさりと肯定した。
「本当だよ。証拠見せてあげる」
「証拠あるの⁉」
「ほら、これ」
 ポケットから取り出した小さな巾着袋を手渡される。手のひらに乗るくらいのそれは茶色のスエードで造られていた。
 指で触れてみると、物が入っている感触がわずかに返ってきた。私はそっと巾着袋の口を指先で解いて、中を覗き込む。
「これは……」
 薄くて細長い、硝子の欠片のようなものがひとつだけ入っている。壊さないよう静かに手のひらに出してみると、その物体は陽の光を受けてきらりと煌めいた。七色に輝くそれは皮膜にも似ている。
「もしかして、龍の鱗?」
「そうだよ。俺の体の一部だね」
「へえ……」
 鯉の鱗が、これに似た色の変化だったことを思い出す。けれど鯉とは比べものにならないほど、この鱗は大きい。私の親指の爪ほどもあるのだ。極上の輝きを纏う鱗は、本当に龍の鱗なのかもしれない。
「これが、西河くんの体にびっしり生えてるの?」
「いやいや、びっしりとか、そんなわけないよ。その一枚だけ、生まれたときからついてたんだ」
 生まれたときから、という言葉に私は思わず目線を上げる。
 私の痣も、生まれたときからあった。
 偶然だろうけれど、奇妙な縁だ。
「そうなんだ」
 あっさりとした返事と共に、巾着袋に入れた鱗を返す。
 これだけでは、龍という証拠にはならない気がした。正確に分析すれば、爪や歯の成分が固まって変化したものだとか、そういった結果が導き出されるのではないだろうか。
 けれど西河くんは、自身が龍だと信じている。
 私の痣や悪夢のような負の方向とは違い、むしろ自信を持てるようなことだから、それでよいと思う。
 ところが西河くんは、テーブルに滑らせた巾着袋を押し返してきた。
「これは、相原さんが持ってて」
「え? だって、西河くんの大事なものなんだよね?」
 龍という証明になるかはともかくとして、生まれたときに一枚だけあったというなら、へその緒と同様に大切なものだ。
 西河くんは、ゆるく首を振る。
「俺が持っていても、あまり意味がなかったんだ」
 どういうことだろう。
 首を傾げる私に、彼は寂しげな微笑を向ける。
「とりあえず、何日か預かってよ」
「……いいけど」
 預かるだけなら、いいけれど。
 西河くんには、この鱗を手元に置きたくない理由があるのかもしれない。
 同じクラスなので、返そうと思えばいつでも返せる。了承した私はカーディガンのポケットに巾着袋を仕舞った。

 その日の夜、ベッドに仰向けになりながら、巾着袋から取り出した鱗を眺める。
 部屋の明かりに透かされた鱗は七色に光り輝いていた。
 これが、龍の鱗……?
 メールの着信音が耳元で鳴ったので、起き上がった私は丁寧に巾着袋に鱗を仕舞う。壊れたら困るので、眺めるのはもうやめにしよう。
 スマホを手にすると、メールの差出人は西河くんだった。件名はない。
『ありがとう』
 その、ひとことだけだった。
 今日は付き合ってくれてありがとうという意味だろうか。それとも。
「龍の鱗を預かってくれて、ありがとう……とか?」
 そんなわけないよね。
 なぜか深い意味を含んでいるような気がする『ありがとう』を、私はずっと眺めていた。
 こちらこそ、ありがとうと返そうとして思い止まり、白紙の画面を見つめ続ける。
 モールス信号と、図書館から借りてきた書籍は、その日は手つかずじまいになってしまった。

 結局昨夜は、西河くんに返信できなかった。
 預かった龍の鱗が入った巾着袋は、いつでも返せるようにスカートのポケットに入れてきた。
 暗号の解読、龍神伝説、それから龍の鱗。彼は次々に、私に難題を与えてくる。
 私は、龍の鱗の入った巾着袋だけでも返そうと思っていた。
 こんな大切なもの、やはり預かれない。
 早めに登校して、西河くんが教室に入るのを待っていたけれど、彼はなかなかやってこなかった。
 もしかして、休みなのだろうか。
「おはよー」
 後ろから沙耶に声をかけられる。
「おはよう、沙耶」
「聞いてよ。他校なんだけど、バスケ部の人でね……」
 バスケ部の試合を見に行ったときの話を延々と聞かされながら、私は目の端で西河くんが来ないか確認する。
 授業時間まで、あと数分しかない。
 今日はもう、登校しないのだろうか。
『ありがとう』というメールに返信しておけばよかった。龍の鱗を返すことは別にして、西河くんと『おはよう』と、なんでもない挨拶を交わしたい。
 なぜか、彼に二度と会えないかもしれないという恐怖感に似た感情が、突然雷雲のように私の心を支配する。
 どくどくと嫌なふうに鼓動が脈打つ。
 喉元が締めつけられるような息苦しさに喘いだ。
そのとき、数学の先生が入室してきて声を張り上げた。
「おい、みんな席に着け」
 授業が始まってしまう。生徒たちは慌てて席に戻った。
「あっ」
 私は小さく声を上げた。
 鞄を携えた西河くんが、何食わぬ顔をして教室に入ってきたから。