「お疲れ様でしたー」
「沙織ちゃんおつかれー」
カフェのバイトが終わったのは、夕方6時過ぎ。
すっかり桜が散ってしまったこの季節には、6時を過ぎてもまだ少し明るい。
私は駅のほうに向かって歩く。
途中、本屋さんに寄ろうと思って道を曲がろうとしたその時、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
「まじかよ…絶対アイツじゃん」
私は一人ため息を吐き、折り畳みの傘を広げて駅まで走った。
*
家の最寄駅で電車を降りると、駅前の道路を渡って海岸沿いを歩く。
さて、アイツはどこにいるのか。
少し小走りで探す。
海水浴場の端のほうに、人影が見えてきた。
シルエットですぐわかる。
アイツだ。
「カイ!」
私が呼びかけると、その人影がこちらを振り向いた。
「遅い」
「あんたさ、そんなに人の邪魔したいわけ?」
「あいつはダメだ」
「なるほど、龍ちゃんがいい人すぎて嫉妬してるんだ」
龍ちゃん、というのは、大学の友達の紹介で知り合った男の子で、さっき行こうとしていた本屋さんの息子だ。
最近は学食で昼ごはんを一緒に食べたり、空きコマに一緒にカフェに行ったりするようになった。
すごく気が合うし、優しくてイケメンだし、付き合えたりしないかなーと淡い期待を抱いているのだが。
カイは、龍ちゃんは絶対にダメだと言ってくる。
「んなわけあるか。ほんとにあいつはやめとけ。痛い目見るぞ」
「そうやって毎回私の邪魔してくるよね。中学のときのユウキくんだって、あんたに邪魔されてるうちにミカちゃんに取られたし。高校のときの松本先輩も転校して行っちゃうし。だから今度こそ後悔したくないの!」
「後悔したくないなら俺の言うこと聞けって。こっちは沙織のためを思って言ってるんだよ」
「それなら、ちゃんと理由を言って。何で龍ちゃんはダメなの?」
「言ったら傷つくだろ」
「別に何聞いても傷つかないけど?私を納得させられるような理由があるなら言ってみなさいよ」
「…あいつ彼女いるぞ」
「…え、いや、今はいないって本人が言ってたし…」
「しかも二人。一人は年上の人妻で遊びって感じだけど、もう一人は本命。来年の春には大学中退して結婚して彼女の地元に行くって張り切ってるぞ」
「そ…そんなの、あんたに言われたからってはいそうですかって信じられないし…」
「じゃあ明日の朝7時頃、あいつの家見に行ってみろ。自分の目で確かめればいい」
カイはそれだけ言うと、海のほうにすっと消えていった。
それと同時に雨は上がり、海はさあっと静けさを取り戻した。
*
カイと出会ったのは、5歳のとき。
その日は一日中、近所の友達と遊んでいた。
鬼ごっこをしていたときに、転んで立ち上がれなくなって、砂浜に一人、置いてかれた。
日が沈みかけていた。
夜の海は暗くて怖い。
しかも、雨が降ってきた。
早く帰りたいけど足が痛くて帰れない。
私はとうとう泣き出してしまった。
その時、どこからともなく彼がやってきて、傷の手当てをしてくれたんだ。
「お兄さん、だあれ?」
「お兄さんはお兄さんだよ」
「名前は?」
「名前はないなぁ」
「名前ないの?」
「君の名前は?」
「さおり!」
「じゃあ、さおりちゃん、俺に名前つけてよ」
「えー!いいのー?!」
その頃にはもう、足の痛みなんか忘れて、すっかり元気にはしゃいでいた。
「うーんっとね。あ!じゃあこれにしよう!カイ!」
そう言って、落ちていた貝殻を拾い上げてみせた。
「カイ、か」
「うん!お兄さんの名前は、カイ!」
「いい名前だね」
これが、私とカイの出会いだった。
*
その後、私はカイに会うために一人で砂浜に行くようになった。
カイは、次の雨の日にやってきた。
そして、自分の正体を教えてくれた。
「俺はね、実は人間じゃないんだ。海に住んでいて、海に雨を降らせて、海を荒れさせてしまう、“あやかし”なんだよ」
「あやかし?」
「うん。あやかし。だからね、俺がここに来るとどうしても雨が降っちゃうんだ」
「そっかぁ」
「それから、俺の姿は沙織にしか見えてないんだ」
「どうして?」
「俺が自分で姿を見せないようにしてるの。ほら、だって俺は雨を降らせる悪い奴だから、みんなに嫌われていじめられちゃうから、ね」
「あたしは好きだよ」
「ん?」
「カイ、優しくて楽しいから好きだよ」
「ありがとう」
でも他の人には嫌われちゃうから、パパやママにも俺のことは言っちゃダメだよ、と言われた。
だから、カイのことは誰にも話してない。
今でも。
*
カイが言っていたとおり、私は朝7時に龍ちゃんの家のそばに行った。
もし、もし仮にカイの話が本当なら、私は今から龍ちゃんの家から女の人が出てくるところを目撃することになるのだろう。
と思っていたら、背後から龍ちゃんらしき人の声が聞こえてきた。
どういうこと…?
訳がわからず、私はとっさに近くの家の影に隠れた。
私が今来た道のほうから、龍ちゃんと女の人が手を繋いで歩いてくるのが見える。
つまり、女の人の家から朝帰りってわけか。
実家じゃやることもやれないだろうしな。
って何考えてんだ私。
「え?ほんと?よかった〜いい部屋見つかって」
「どうする?子ども二人くらい欲しい?」
「え〜三人くらいいたほうが楽しいよ〜」
ああ。
聞きたくなくても聞こえてくる会話の内容がえぐい。
そうか。これプラス人妻か。
なんだか妙に納得してしまった。
いつも私が見ていた龍ちゃんと違いすぎて。
今の龍ちゃんなら二股くらい余裕な気がする。
二人は別れ際に名残惜しそうにキスして、龍ちゃんは家の中へ、彼女はもと来た道を帰っていった。
彼女が完全に見えなくなってから、私も駅の方へ戻ることにした。
*
《沙織ちゃん今どこ?》
《今日13時にいつものカフェって約束じゃなかったっけ?》
《沙織ちゃん大丈夫?何かあった?》
龍ちゃんから立て続けに来るメッセージ。
今日は午前しか授業がなかった私は、自分の部屋のベッドの上で、ぼーっとメッセージを見ている。
龍ちゃん、本気で心配してくれてるのかな。
返事くらいするべきなのかな。
でも、今朝のあれが脳裏にちらついて、普通に返事なんてできそうもない。
メッセージを閉じて、スマホを適当に放り投げたとき、お母さんが部屋に入ってきた。
「沙織、お昼食べてないんじゃない?具合悪いの?」
「んー、ちょっとねー」
「あら、雨降ってきたわね。あやかしの仕業かしら」
洗濯物入れなきゃ、と言って、バタバタとお母さんが出ていった。
私の部屋の窓からは、海がよく見える。
海の荒れ方を見れば、この雨がカイが降らせた雨なのかどうか、すぐわかる。
カイが来るときは、海の向こうから徐々に、局地的な通り雨を伴ってくる。
いつもは比較的穏やかな海が、狂ったように波しぶきを上げながら揺れる。
人々はこれを『あやかしの仕業』という。
あやかしの正体は知らないくせに。
今日の雨も、いわゆる『あやかしの仕業』。
つまり、カイが浜辺に上がってきてる。
カイは私を呼んでいる。
「でもなぁ…」
なんかムカつく。
馬鹿みたいに龍ちゃんを信じてた私を嘲笑ってるんだろう。
ほれみろ俺の言ったとおりだったろ、っていう声が今にも聞こえてきそう。
「今日は会いたくない…」
私は枕に顔をうずめた。
それから夜が更けるまでの数時間もの間、雨は降り続けていた。
*
「沙織ちゃん、最近元気ないね」
店長から声を掛けられて、私ははっとした。
「す、すみません、ちゃんと仕事します」
「いや、そんな頑張らなくていいよ。ただ心配だっただけだから」
あれから1週間が過ぎた。
龍ちゃんとは会ってない。
連絡も取ってない。
でも向こうからも連絡してこないということは、突然連絡を絶たれる理由に心当たりがあるということなんだろう。
それか、連絡を絶たれても別に気にならない、その程度の存在だったのか。
「おーい、沙織ちゃん?」
「あ、いや、大丈夫です、あ、いらっしゃいませ〜」
くそっ、これ以上考えても無駄だ。仕事仕事。
今いらっしゃった女性のテーブルに水を運ぶ。
買い物帰りという感じの荷物を抱えた女性は、慌てて店に入ってきたようで、はぁ、とため息をついた。
「いやぁ、急に降ってきちゃって」
窓の外を見ると、青空から大粒の雨が降っている。
「本当だ、降ってきましたね」
「きっとあやかしの仕業だろうからすぐ止むだろうし、少しここで雨宿りしてこうかしら」
「ごゆっくりどうぞ。ご注文お決まりになられましたらお呼びください」
私はメニューを置いて、厨房の中へ戻った。
あやかしの仕業、か。
でも、私がバイト中の時間に浜に上がってくるなんて、今までなかった。
いつもは、私が家か浜辺にいるときに狙って上がってくる。
カイの住んでいる海の向こうのほうからだと、この街で誰がどこにいるのか、よく見えるらしい。
こんな時間に浜に上がってくるなんて、何かあったんだろうか。
気になるけど、バイトはあと1時間ある。
「うううん…どうしよう…」
「沙織ちゃん本当に大丈夫?」
唸ってる私を見かねた店長が声を掛けてきた。
「大丈夫です!」
「今日はもう帰って休んだら?なんか様子がおかしいって常連さん達も心配してるよ?」
常連さん達がいつも座っている奥のテーブルをちらっと見ると、無理するなよ、と優しく声を掛けられた。
「…すみません、帰らせてもらいます」
「そうしな。また明日、元気な顔見せてね」
「はい。お先に失礼します」
*
雨の中、急いで海岸に向かうと、ぼーっと立っているカイの姿が見えた。
消え入りそうな、孤独な背中。
見ようによっては10代後半から30代くらいに見える、年齢不詳でどこにでもいそうな普通の顔立ちと髪型。
なのに、不意に見せる寂しげな横顔のあまりの美しさに、ドキッとさせられたりもする。
私が近づいていくと、少し不機嫌そうに唇を尖らせた。
「遅い」
「それ最近の口癖?毎回言ってる」
「だって毎回遅いから」
「どうかしたの?こんな時間に上がってくるなんて珍しいじゃん」
「ちょっと頼みがある」
「何?あんたが私に頼みとか怖いんだけど」
「助けてやってほしいんだ」
カイはそう言って後ろをちらっと見た。
その視線の方向を見ると、小さな男の子が立っていた。
「…隠し子?」
「んなわけあるか。迷子なんだって」
「君、名前は?」
小さな男の子は、カイの後ろからちょっとだけ顔を出して答えた。
「…けんた」
「何才?」
「…ごさい」
「今日は、誰とここに来たの?」
「…まま」
そこで、ふと思った。
「カイがけんたくんのお母さん探してあげればいいじゃん。何で私に頼むの?」
「俺砂浜より外出れないし、見えるのもこの街の中だけだし」
「ん?ちょっと待って」
私はけんたくんをその場に座らせて、少し離れたところにカイを連れ出した。
「けんたくんのお母さん、この街の外に出てるってこと?けんたくんを置いて?」
「そういうこと」
「…これ、けんたくんのお母さんを探して帰らせても大丈夫なのかな?だってまた何されるかわからないしどこに置いてかれるかわからないってことでしょ?」
「それは…お前が考えてどうにかしてくれ」
「いやいやいや、何それ、無理じゃね?」
「俺は帰る。これ以上雨降らせ続けたらあの子が風邪引く」
「いや、ちょっと待ってって…」
カイは、私の返事も聞かずにすっと海のほうへ消えていった。
「どうしよう…どこに相談すればいいの…」
とりあえず警察か、と思って110番通報しようとしたそのとき、背後からどさっという不穏な音がした。
音のした方を振り返ると、顔色が真っ青になったけんたくんが倒れていた。
*
ドラマでしか見たことのないような、救命センターの大きなドアが開いて、ベッドに寝ているけんたくんが病室へと運ばれていった。
「あ、あの、大丈夫なんですか…?」
「低体温症ですね。詳しいお話はそちらで」
そう言って、診察室に通された。
「あなたは…お母様ですか?」
「いえ、迷子になってるところをたまたま見かけた通りすがりの者です」
「そうでしたか。ずいぶん長い時間雨に当たっていたようで、低体温症になっていたのですが、今はもう体温は回復していますので、すぐに目が覚めると思いますよ」
「ほんとですか!よかった…」