「じゃあ……俺はここで待ってるから……!」
繭香の家の前に着いた途端、貴人はそう言って、私の手を離した。
「えっ? いつになるかわからないよ?」
焦る私に、貴人は
「それでも待ってる」
と笑う。
私は頷いて、貴人に背を向けた。
その視線を頼もしく背中に感じながら、
「ありがとう、貴人」
と小さく呟いた。
聞こえるはずないくらい、小さな小さな声だったのに、貴人は
「どういたしまして」
と返事をくれる。
(貴人が居てくれてよかった! 本当に良かった!)
今度は声には出さず、心の中だけで、一人呟いた。
いつものように、チャイムを押した後、勝手に玄関の扉を開けて二階へ上がってきた私を、繭香は驚きの顔で向かえた。
「こ、琴美!? なんだ? ……どうして? 学校は?」
聞かれて初めて私は、自分が学校をサボってしまったことに気がついた。
しかも、貴人まで巻きこんで――。
だけど(まあ、いいか)なんて思えてしまう自分がいる。
それよりも大切なこことが世の中にはあるんだと、断言できる自分がいる。
授業よりも大切なものなんて――二ヶ月前の私が聞いたら、「有り得ない!」と叫びそうなものだ。
だけど今の私は違う。
「それは確かに存在する」と胸を張って答えられる自分が嬉しい。
「繭香……ねえ、私わかったよ……」
ここまで全力で走ってきて、まだ少し整っていない息を大きく深呼吸して整えながら、私は繭香に告げた。
繭香はいかにも訝しげな表情で、私のことをじっと見ている。
「いつも空を見上げていた理由」
呟いた私の顔を、繭香はハッとしたように見直した。
「辛いことがあって、悲しいことがあって、泣いてしまいそうな時、私は空を見ていた。俯くと涙が零れてしまいそうだから見上げてた……繭香は? 繭香は違う……?」
繭香はひどく真剣な表情で、私の言葉を受け止めた。
そしてそのまま無言で考えこむ。
しばらくしてようやく、重い口を開いた。
「違わない……私も悲しい時、空を見上げる。琴美の言う通り……それは泣かないためなのかもしれない……」
繭香の肯定に力を得て、私は力強く頷いた。
「繭香……私ね……いつも泣かなかった……誰の前でも、弱い自分を曝け出すのは嫌だから。強くなりたいから。でも……!」
話しながらだんだん涙が浮かんできた。
あんなに泣いたのに、涙というのはどうやら本当に、なくならないものらしい。
「思いっきり泣くのは、気持ちに区切りをつけるのに、きっと大切なことだったんだよ……」
零れ落ちる涙を、私はもう拭おうともしなかった。
涙で滲んでよく見えない繭香の顔を、しっかり見据えようと努力しながら、私は話し続ける。
「どんなに悲しかったのか。どんなに辛かったのか。誰かにちゃんと聞いてもらって、思いっ切り泣いて……そうすることって、そこからもう一度立ち上がるのに、とっても大切なことだったんだよ……私、初めて知った……!」
繭香がベッドから下りて、まるでうららのようにギュッと私を抱きしめた。
いや。
私の肩に額を当てるようにして、しがみついた。
「うん……うん……」
声にならない声で返事しながら、何度も頷く。
私は泣きながら、繭香の小さな体を抱きしめた。
「繭香……もし話してもいいと思うんだったら、私に話してみて……繭香が苦しんでること、辛いこと……誰かに聞いてもらうだけで、ずいぶん楽になるから……一人で悩んだりしなくていいんだから!」
繭香は消え入りそうなほど小さな声で
「ありがとう。琴美……」
ただそれだけを涙声で呟いた。
それから私たちは、たくさんの話をした。
繭香の病気のこと。
未来への不安。
お互いに対する思い。
自分に対する憤り。
お互いが不安に思っていること、辛いと思っていることを全て曝け出してみたら、ずいぶんと重なる部分が多いんだと気がついた。
もちろん、繭香には繭香にしかわからない悩みがあるし、私には私にしかわからない痛みがある。
でもそれを聞いてくれる誰かがいて、いっしょに泣ける誰かがいるというのは、こんなに救われることなんだと、私たちは初めて知った。
「人前で泣いたのなんて初めてだ……!」
ひとしきり感情のままに話しあった後、ちょっと不満そうに繭香が言った。
(私だってそうだよ!)
大声で同意しようとした時、私はハッと、ほんのついさっき貴人の胸で思いっきり泣いた自分を思い出した。
嘘のつけない私は思わず、
「うっ……!」
と言葉に詰まる。
繭香はすかさず、その、人の心を見通すような大きな瞳を私に向けた。
「何だ? まだ何か、言い足りないことがあるんじゃないのか?」
問い詰めるように私を見つめる。
(ひえええっ! こ、これだけは言えない!)
慌てて目を逸らす私に、繭香はますます詰め寄る。
「何だ? 言ってみろ? 楽になるぞ?」
食い下がる繭香に私は両手を合わせて、深々と頭を下げた。
「お願い! そればっかりは許してっ!」
「いいから! 私に話してみろ!」
それでも無理にと私に迫る繭香は、完全にこの件を面白がっていた。
(いつか……自分でもこの気持ちが何なのかハッキリとわかったら、繭香に一番に話す……だから、今は勘弁して!)
心の中で私は叫び続けていた。
しばらして、手を繋ぎながら家から出てきた私たちを見て、貴人は満面の笑みになった。
「良かった! 二人ともスッキリしたみたいだね」
貴人の言葉に、私と繭香は各々頷いた。
「私も今から学校に行く。すぐに準備して来るから待っていろ」
繭香がそう言い残して家に入って行くと、貴人は改めて私に深々と頭を下げた。
「ありがとう。琴美」
私はビックリして飛び上がった。
「そんな! 私のほうこそ、貴人に感謝しないといけないことだらけなのに……!」
慌てる私に、貴人は見惚れるほどにニッコリと笑う。
「そんなことはないよ……俺じゃダメだった……きっといつまで粘っても、繭香の本音は引き出せなかった。繭香は俺には絶対弱みを見せない。でも琴美ならと思った。繭香が自分に似ていると言った琴美なら、繭香の本音に近づけると思った。だから琴美に任せたんだけど……どう? 俺の選択は正しかったかな?」
私はやっぱり、せいいっぱいの感謝をこめて、貴人に頭を下げた。
「うん。正しかったよ……ありがとう、貴人……!」
貴人の声が、意味深にクスリと笑うのが聞こえた。
「そんなに感謝されたら、実は自分の下心もあったって、言えなくなっちゃうな……」
下を向いている私には貴人の顔が見えないから、どこまでが冗談なのか見当がつかない。
けれどそんな言葉も、今は素直に嬉しいと思える自分が嬉しかった。
「待たせたな」
玄関のドアが開く音がして、制服姿の繭香が現れた。
私よりほんの少し小さいだけのその姿を、まるで母親のような気分で見つめる。
ふと顔を上げると、隣に父親のような顔をした貴人が立っていて、思わず私は笑ってしまった。
「何を笑っているのかは、聞かなくてもわかる気がするが……実際、今一番笑える顔をしているのは琴美だからな!」
繭香は私に向かって、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
(そうだった! 思いっきり二回も泣いちゃったんだった!)
私は慌てて、両手で自分の顔を覆った。
指の隙間から貴人の顔を見上げると、
「琴美はいつでも可愛いよ……」
と笑われる。
(それはフォローよね! どう考えても……優しい貴人のフォローよね!)
そう理解した私はクルリと回れ右をして、二人に背を向けた。
「私……やっぱり一度家に帰る」
途端に、繭香に腕を掴まれた。
「私を着替えさせておいて何を言う! 学校に行くぞ!」
その声が、顔が、面白がっているとしか思えない。
「いいや、やっぱり」
「いいからいいから」
とお互いの手を引き合う私たちを見て、遂に貴人が肩を揺すって大笑いを始めた。
(こうなっちゃった貴人はどうしようもない!)
私と繭香は顔を見あわせた。
「じゃあ行こうか」
覚悟を決めた私は、さっさと学校に向かって歩き出す。
私は隣を歩く繭香に近づいて、そっと彼女と手を繋いだ。
「さすがにこれは気持ち悪くないか……?」
大きな瞳を眇める繭香に、私は胸を張る。
「そんなことないよ! だって私達は同志だもん……手を繋ぐと二倍にも三倍にも勇気が大きくなるんだよ?」
私の言葉に、繭香がフッと笑みを零す。
「二倍、三倍か……それはいいな!」
繭香のほうから、私の手を強く握り返してくれる。
その温かさが、嬉しかった。
「おーい……二人とも、待ってくれよー……!」
やっと笑いが収まったらしい貴人も一緒に、私たちは並んで歩いて学校へ帰った。
これからはどんなことにも顔を上げていられるような、そんなありがたい気分だった。
繭香の家の前に着いた途端、貴人はそう言って、私の手を離した。
「えっ? いつになるかわからないよ?」
焦る私に、貴人は
「それでも待ってる」
と笑う。
私は頷いて、貴人に背を向けた。
その視線を頼もしく背中に感じながら、
「ありがとう、貴人」
と小さく呟いた。
聞こえるはずないくらい、小さな小さな声だったのに、貴人は
「どういたしまして」
と返事をくれる。
(貴人が居てくれてよかった! 本当に良かった!)
今度は声には出さず、心の中だけで、一人呟いた。
いつものように、チャイムを押した後、勝手に玄関の扉を開けて二階へ上がってきた私を、繭香は驚きの顔で向かえた。
「こ、琴美!? なんだ? ……どうして? 学校は?」
聞かれて初めて私は、自分が学校をサボってしまったことに気がついた。
しかも、貴人まで巻きこんで――。
だけど(まあ、いいか)なんて思えてしまう自分がいる。
それよりも大切なこことが世の中にはあるんだと、断言できる自分がいる。
授業よりも大切なものなんて――二ヶ月前の私が聞いたら、「有り得ない!」と叫びそうなものだ。
だけど今の私は違う。
「それは確かに存在する」と胸を張って答えられる自分が嬉しい。
「繭香……ねえ、私わかったよ……」
ここまで全力で走ってきて、まだ少し整っていない息を大きく深呼吸して整えながら、私は繭香に告げた。
繭香はいかにも訝しげな表情で、私のことをじっと見ている。
「いつも空を見上げていた理由」
呟いた私の顔を、繭香はハッとしたように見直した。
「辛いことがあって、悲しいことがあって、泣いてしまいそうな時、私は空を見ていた。俯くと涙が零れてしまいそうだから見上げてた……繭香は? 繭香は違う……?」
繭香はひどく真剣な表情で、私の言葉を受け止めた。
そしてそのまま無言で考えこむ。
しばらくしてようやく、重い口を開いた。
「違わない……私も悲しい時、空を見上げる。琴美の言う通り……それは泣かないためなのかもしれない……」
繭香の肯定に力を得て、私は力強く頷いた。
「繭香……私ね……いつも泣かなかった……誰の前でも、弱い自分を曝け出すのは嫌だから。強くなりたいから。でも……!」
話しながらだんだん涙が浮かんできた。
あんなに泣いたのに、涙というのはどうやら本当に、なくならないものらしい。
「思いっきり泣くのは、気持ちに区切りをつけるのに、きっと大切なことだったんだよ……」
零れ落ちる涙を、私はもう拭おうともしなかった。
涙で滲んでよく見えない繭香の顔を、しっかり見据えようと努力しながら、私は話し続ける。
「どんなに悲しかったのか。どんなに辛かったのか。誰かにちゃんと聞いてもらって、思いっ切り泣いて……そうすることって、そこからもう一度立ち上がるのに、とっても大切なことだったんだよ……私、初めて知った……!」
繭香がベッドから下りて、まるでうららのようにギュッと私を抱きしめた。
いや。
私の肩に額を当てるようにして、しがみついた。
「うん……うん……」
声にならない声で返事しながら、何度も頷く。
私は泣きながら、繭香の小さな体を抱きしめた。
「繭香……もし話してもいいと思うんだったら、私に話してみて……繭香が苦しんでること、辛いこと……誰かに聞いてもらうだけで、ずいぶん楽になるから……一人で悩んだりしなくていいんだから!」
繭香は消え入りそうなほど小さな声で
「ありがとう。琴美……」
ただそれだけを涙声で呟いた。
それから私たちは、たくさんの話をした。
繭香の病気のこと。
未来への不安。
お互いに対する思い。
自分に対する憤り。
お互いが不安に思っていること、辛いと思っていることを全て曝け出してみたら、ずいぶんと重なる部分が多いんだと気がついた。
もちろん、繭香には繭香にしかわからない悩みがあるし、私には私にしかわからない痛みがある。
でもそれを聞いてくれる誰かがいて、いっしょに泣ける誰かがいるというのは、こんなに救われることなんだと、私たちは初めて知った。
「人前で泣いたのなんて初めてだ……!」
ひとしきり感情のままに話しあった後、ちょっと不満そうに繭香が言った。
(私だってそうだよ!)
大声で同意しようとした時、私はハッと、ほんのついさっき貴人の胸で思いっきり泣いた自分を思い出した。
嘘のつけない私は思わず、
「うっ……!」
と言葉に詰まる。
繭香はすかさず、その、人の心を見通すような大きな瞳を私に向けた。
「何だ? まだ何か、言い足りないことがあるんじゃないのか?」
問い詰めるように私を見つめる。
(ひえええっ! こ、これだけは言えない!)
慌てて目を逸らす私に、繭香はますます詰め寄る。
「何だ? 言ってみろ? 楽になるぞ?」
食い下がる繭香に私は両手を合わせて、深々と頭を下げた。
「お願い! そればっかりは許してっ!」
「いいから! 私に話してみろ!」
それでも無理にと私に迫る繭香は、完全にこの件を面白がっていた。
(いつか……自分でもこの気持ちが何なのかハッキリとわかったら、繭香に一番に話す……だから、今は勘弁して!)
心の中で私は叫び続けていた。
しばらして、手を繋ぎながら家から出てきた私たちを見て、貴人は満面の笑みになった。
「良かった! 二人ともスッキリしたみたいだね」
貴人の言葉に、私と繭香は各々頷いた。
「私も今から学校に行く。すぐに準備して来るから待っていろ」
繭香がそう言い残して家に入って行くと、貴人は改めて私に深々と頭を下げた。
「ありがとう。琴美」
私はビックリして飛び上がった。
「そんな! 私のほうこそ、貴人に感謝しないといけないことだらけなのに……!」
慌てる私に、貴人は見惚れるほどにニッコリと笑う。
「そんなことはないよ……俺じゃダメだった……きっといつまで粘っても、繭香の本音は引き出せなかった。繭香は俺には絶対弱みを見せない。でも琴美ならと思った。繭香が自分に似ていると言った琴美なら、繭香の本音に近づけると思った。だから琴美に任せたんだけど……どう? 俺の選択は正しかったかな?」
私はやっぱり、せいいっぱいの感謝をこめて、貴人に頭を下げた。
「うん。正しかったよ……ありがとう、貴人……!」
貴人の声が、意味深にクスリと笑うのが聞こえた。
「そんなに感謝されたら、実は自分の下心もあったって、言えなくなっちゃうな……」
下を向いている私には貴人の顔が見えないから、どこまでが冗談なのか見当がつかない。
けれどそんな言葉も、今は素直に嬉しいと思える自分が嬉しかった。
「待たせたな」
玄関のドアが開く音がして、制服姿の繭香が現れた。
私よりほんの少し小さいだけのその姿を、まるで母親のような気分で見つめる。
ふと顔を上げると、隣に父親のような顔をした貴人が立っていて、思わず私は笑ってしまった。
「何を笑っているのかは、聞かなくてもわかる気がするが……実際、今一番笑える顔をしているのは琴美だからな!」
繭香は私に向かって、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
(そうだった! 思いっきり二回も泣いちゃったんだった!)
私は慌てて、両手で自分の顔を覆った。
指の隙間から貴人の顔を見上げると、
「琴美はいつでも可愛いよ……」
と笑われる。
(それはフォローよね! どう考えても……優しい貴人のフォローよね!)
そう理解した私はクルリと回れ右をして、二人に背を向けた。
「私……やっぱり一度家に帰る」
途端に、繭香に腕を掴まれた。
「私を着替えさせておいて何を言う! 学校に行くぞ!」
その声が、顔が、面白がっているとしか思えない。
「いいや、やっぱり」
「いいからいいから」
とお互いの手を引き合う私たちを見て、遂に貴人が肩を揺すって大笑いを始めた。
(こうなっちゃった貴人はどうしようもない!)
私と繭香は顔を見あわせた。
「じゃあ行こうか」
覚悟を決めた私は、さっさと学校に向かって歩き出す。
私は隣を歩く繭香に近づいて、そっと彼女と手を繋いだ。
「さすがにこれは気持ち悪くないか……?」
大きな瞳を眇める繭香に、私は胸を張る。
「そんなことないよ! だって私達は同志だもん……手を繋ぐと二倍にも三倍にも勇気が大きくなるんだよ?」
私の言葉に、繭香がフッと笑みを零す。
「二倍、三倍か……それはいいな!」
繭香のほうから、私の手を強く握り返してくれる。
その温かさが、嬉しかった。
「おーい……二人とも、待ってくれよー……!」
やっと笑いが収まったらしい貴人も一緒に、私たちは並んで歩いて学校へ帰った。
これからはどんなことにも顔を上げていられるような、そんなありがたい気分だった。