扉を開けて教室に入った途端、みんな一斉に私をふり返ったような気がした。
一時間目が始まる前のひと時。
ざわついてはいるけれども、それぞれが自分の席に着いているA組では、空いている窓際の二つの席が妙に目立っていた。
私と諒は黙って自分たちの席に着いた。
「ホームルームで担任から柏木たちに注意があったらしい。だからしばらくは、もう何も言ってこないと思う」
周囲の人に状況を確認してくれた諒の言葉に促され、私は廊下側の前方の席に座る柏木の背中に目を向けた。
わざわざ半身ふり返って私を見ていた視線を、柏木はわざと逸らしてみせる。
(そんなことでは私は傷つかないんだから!)
唇を噛みしめて俯く私の席の周りを、その時、何人かの人物が取り囲んだ。
「近藤さん、大変だったわね……」
顔を上げてみると、何人かの女の子を従えた斎藤さんだった。
「さすがにあれはやりすぎよねえ」
「女の子として許せないわよねえ」
彼女たちの声を、私はまるで他人のことのように、ぼんやりと聞いていた。
彼女らは私の前に座る諒をチラチラと気にしながら、しきりに私を持ち上げるようなセリフをくり返す。
「私たちは近藤さんの味方だからね」
(この間まで、率先して私を無視してたメンバーのような気がするんだけど……?)
心の中ではそんなことに思い当っていたが、それは実際どうでも良かったので、水に流すことにした。
「どうもありがとう」
お礼を言った私の態度は、いたく彼女たちのお気に召したようだった。
「だいたい勉強しか取り柄のない男って、卑怯っていうか、姑息っていうか……ねえ?」
「そこまでやるかって感じ?」
「そうそう」
水を得た魚のようにに、彼女たちは活き活きと話しだす。
その誰もが、私の前のあまり大きくはない背中を、意識しているように見える。
「その点、人の痛みがわかる人って素敵よね……」
「そうそう、優しさが大切よね」
明らかに諒に向けられている賞賛の声に、私は思わず、
「ねえ勝浦君。彼女たちみんな、私の味方だって……」
諒の肩を叩いて、こちらをふり向かせてあげた。
「ああ?」
とてつもなく嫌な顔でふり向いて、私を睨む諒に、それでも女の子たちから、
「キャッ」
と小さな悲鳴があがる。
(ふうっ……後は任せた……)
ため息をつきながら諒に軽く手を振って、私は立ち上がった。
「ごめん……私ちょっとトイレに行ってくるね。なんなら私の席に座ってても構わないから……」
言って私が背を向けるや否や、彼女たちはたった一つの椅子の取りあいを始める。
「ちょっと! 私のよ!」
「いいえ私よ!」
「おい!」
咎めるように呼びかける諒の声に、私は後ろ手に手を振った。
(がんばって! そして私たちの支持者を少しでも増やしておいて!)
諒の怒りに燃える顔が見えるような気がした。
言ったついでに本当にトイレに行って、水道で手を洗っていた。
すると――。
「琴美ちゃん」
急に後ろから呼びかけられて、心臓が止まりそうになった。
佳世ちゃんがいつの間にか私の後ろに立っていた。
『何?』と笑ってふり返るだけの元気を、みんなにわけてもらったと思っていたのに。
自分はもう大丈夫と思っていたのに、体が動かない。
返事をすることもできない。
佳世ちゃんは、そんな私の背中に向かって、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
『こっちこそゴメン』と笑って返すつもりだったのに、声が出てこない。
「ごめんなさい」
もう一度くり返す佳世ちゃんの声は、今にも消えてなくなってしまいそうだった。
大好きな佳世ちゃんを私が泣かせている。
そのことがこんなに辛くて苦しいのに、どうして私は平気な顔ができないんだろう。
どうしていつものように、『私は大丈夫だよ』と笑えないんだろう。
自分で自分がわからなかった。
どうしようもなかった。
だから私は思わずその場から逃げ出した。
(佳世ちゃんが傷ついたかもしれない! 私が怒ってるって思ったかもしれない!)
心の中では大きく後悔しているのに、走り出した私の足は、止まってはくれない。
(もう平気だと思ってた……平気なはずだった……でも、佳世ちゃんの顔が見れない。どうすればいいのかわからない……)
私はいつもの自分の逃げ場所へ急いだ。
非常扉の向こうの階段に駆けこんで、膝に手をついて、大きく息をくり返す。
バーンと大きな音を立てて扉が閉まるのを背後に聞きながら、崩れ落ちるように座りこんだ。
(どうしたらいいんだろう? どうすれば、また笑えるようになるんだろう?)
鉄の階段の踊り場に突っ伏すようにして、拳を叩きつけた時、ギィッと非常扉の開く音がした。
「感情を押し殺したってダメだ」
心に染み入るような優しい声が、私の頭上から降ってくる。
「無かったことにしようとしたってダメだよ。悲しい時にはちゃんと悲しまないと、思いを終えることはできないよ……そこから新しい何かは生まれてはこないよ……?」
一言一言、私に言い聞かすように話してくれる人が誰なのか、顔を上げないでも私にはわかる。
いつだって彼が、私に手をさし伸べてくれた。
いつだって彼が、私を立ち上がらせてくれたんだから――。
「貴人……!」
私はまた顔を上げることができた。
初めて会った時のように、貴人は極上の笑顔で私に手をさし出していた。
私は、その手をもう一度つかもうと、必死で自分の手を伸ばす。
貴人の後ろに見える空が、とっても青かった。
(空……?)
一瞬私の頭を繭香の顔が過ぎった。
自分の部屋のベッドの上に座って、空を見上げていた繭香の横顔。
『どうして空を見ていたのか』――私に投げかけられた繭香の質問。
繭香は、『空を見上げずには、いられない時が自分にもある』と言った。
繭香を理解するのに、繭香を動かすのに、その答えがどうしても必要なのに。
いくら考えても、思いつかなかったその答えが、今ならわかりそうな気がした。
どうして私は、いつも空を見ていたのか――。
(たとえば空を飛ぶように、今の状況から逃げ出したいから? 自由が欲しいから?)
私はゆっくりと思考を巡らす。
(そんなことじゃない……そんな複雑なことじゃない……きっと……もっと単純なことだ……)
私がいつも空を見上げていたのは、それは――。
「俯いたら涙が零れそうだから……?」
声に出して、自分自身に問いかけた。
(そうだ……! いつだって泣きたくなった時に、私は空を見上げていた……空を見上げて、涙が零れそうになるのを我慢していたんだ!)
これまで我慢したたくさんの胸の痛みが、青い空に重なるように浮かんでは消えていった。
「我慢じゃ前には進めない……全てを思い出にはできないんだよ……」
貴人が私を真剣に見つめていた。
さし出そうとして途中で止めていた私の手を、貴人のほうから取ってくれる。
「俺は……琴美はいつも泣きそうな顔をしていると思ってた……」
膝をついて私と目の高さを合わせてくれる。
それから、一言一言確かめるように話してくれる。
「繭香は『つまらなそうな顔』って言ってたけど……俺には空を見ている琴美は『泣き出したいのを我慢している顔』に見えた……違う?」
私はしっかりと頷いた。
「違わない……」
(確かにそうだ……! 下を向いたら涙が零れそうだったから、私はいつも空を見上げていたんだ!)
今やっと、大切なことがわかった気がした。
「だから気になった。いつまでも傷ついたままなんじゃないかって心配だった……」
貴人の優しい声が心に染みる。
「貴人……ありがとう……」
私は長い呪縛から開放されたように、深く息を吐いた。
フッと全身の力が抜けたような気がした。
(そうだね……無理をするのはもうやめよう……)
やっとその思いを、素直に自分自身で受け止めることができた。
実際、もう限界だった。
自分の心の中にいっぱいにためこんだ感情が、自分でもうコントロールできなくなっている。
(このままでは笑えない……きっと誰かを傷つけずにはいられない……)
だから私は、心のままに俯いた。
もうずっと長いこと、心の奥に押しこんでいたいろんな感情が、一気にドッと沸いてきて、あっという間に涙が、次から次へと私の頬を流れ落ちた。
「貴人……私悲しかった。なくすはずないと信じてたものをなくして……ほんとに悲しかった……」
「うん」
突然泣き始めた私に驚きもせず、貴人は腕を伸ばして私を抱きしめてくれた。
私はそのまま貴人の胸に体を預けて、子どものように泣きじゃくった。
「大好きな佳世ちゃんが……いつのまにか渉の近くにいてショックだった……」
「うん」
貴人は優しく私の頭を撫でる。
「全然好きじゃないって思ってたクラスメートだったけど……無視されたらやっぱり辛かった……」
「うん」
貴人は腕に力をこめて、息もできないくらいに強く私を抱きしめてくれる。
「大丈夫って思いながらも……やっぱり辛かったんだよ!」
しばらくの間、私は大声を上げて思いっきり泣き続けた。
自分でも(こんなに涙って出るものなんだ!)と感心するくらい泣き続けた。
貴人はその間中、ずっと私を抱きしめていてくれた。
感情に任せてしばらくの間は、そのことをなんとも思わなかったんだけど、泣くだけ泣いて、我に返って、少しずつ冷静になってきたら、
(どうしよう)
と急に焦りがこみ上げてきた。
ついつい勢いで、貴人の優しさに甘えてしまったけれど、
(私、なんてことしちゃったの!)
と慌てずにはいられない。
(相手は貴人だよ? まちがいなく学園一の人気者で、我が校のアイドルとも言える貴人だよ?)
自分が貴人をどう思っているのかは、自分でもわからないと本人に言ったばかりなのに――。
(どんな顔してこれから顔をあわせればいいのよ!)
そう心の中で叫びながら見上げた貴人の顔は、不思議なくらい私の良く知っている顔だった。
ようやく顔を上げた私に
「何?」
と眩しいほどに笑いかける。
その笑顔に元気をもらった。
(大丈夫だ……私と貴人の関係は何も変わっていない……!)
それは貴人の優しさかもしれない。
私はそれに甘えているだけかもしれないけれど――。
「ごめん貴人……これもなかったことにしてくれる……?」
両手をあわせる私に、貴人は眉を片方上げて、
「了解!」
と笑ってくれた。
私たちはお互いを抱きしめていた腕をそっと離して、顔を見あわせて笑った。
笑いながら、私は彼に問いかける。
「実は……図々しいついでに……もう一つお願いがあるんだけど……?」
貴人はいつもの、『何でもどうぞ』というような顔で私を見ている。
「私を繭香のところに連れて行ってくれる?」
私のお願いに、貴人は悪戯っ子のように笑った。
「今から?」
いつもと変わらないその態度が嬉しかった。
今この瞬間から、私たちはまたいつもの関係に戻れる。
そんな確信がある。
だから――。
「そう、今から!」
さっきまであんなに大泣きしていたのに、私はもう心から笑うことができた。
貴人は見惚れるほどに艶やかに、笑い返してくれる。
「OK!」
そして貴人は、私の手を引いてそのまま非常階段を駆け下りた。
初めて貴人に手を引かれて走ったあの日のように、私は必死で彼の走りについていった。
ずいぶんひさしぶりに、本当に無理じゃなくごまかしじゃなく、晴れ晴れとした気分だった。
今ならきっと、もうずっと長いこと私を待っていてくれた繭香を、きっと喜ばせられるような答えが、できるような気がした。
一時間目が始まる前のひと時。
ざわついてはいるけれども、それぞれが自分の席に着いているA組では、空いている窓際の二つの席が妙に目立っていた。
私と諒は黙って自分たちの席に着いた。
「ホームルームで担任から柏木たちに注意があったらしい。だからしばらくは、もう何も言ってこないと思う」
周囲の人に状況を確認してくれた諒の言葉に促され、私は廊下側の前方の席に座る柏木の背中に目を向けた。
わざわざ半身ふり返って私を見ていた視線を、柏木はわざと逸らしてみせる。
(そんなことでは私は傷つかないんだから!)
唇を噛みしめて俯く私の席の周りを、その時、何人かの人物が取り囲んだ。
「近藤さん、大変だったわね……」
顔を上げてみると、何人かの女の子を従えた斎藤さんだった。
「さすがにあれはやりすぎよねえ」
「女の子として許せないわよねえ」
彼女たちの声を、私はまるで他人のことのように、ぼんやりと聞いていた。
彼女らは私の前に座る諒をチラチラと気にしながら、しきりに私を持ち上げるようなセリフをくり返す。
「私たちは近藤さんの味方だからね」
(この間まで、率先して私を無視してたメンバーのような気がするんだけど……?)
心の中ではそんなことに思い当っていたが、それは実際どうでも良かったので、水に流すことにした。
「どうもありがとう」
お礼を言った私の態度は、いたく彼女たちのお気に召したようだった。
「だいたい勉強しか取り柄のない男って、卑怯っていうか、姑息っていうか……ねえ?」
「そこまでやるかって感じ?」
「そうそう」
水を得た魚のようにに、彼女たちは活き活きと話しだす。
その誰もが、私の前のあまり大きくはない背中を、意識しているように見える。
「その点、人の痛みがわかる人って素敵よね……」
「そうそう、優しさが大切よね」
明らかに諒に向けられている賞賛の声に、私は思わず、
「ねえ勝浦君。彼女たちみんな、私の味方だって……」
諒の肩を叩いて、こちらをふり向かせてあげた。
「ああ?」
とてつもなく嫌な顔でふり向いて、私を睨む諒に、それでも女の子たちから、
「キャッ」
と小さな悲鳴があがる。
(ふうっ……後は任せた……)
ため息をつきながら諒に軽く手を振って、私は立ち上がった。
「ごめん……私ちょっとトイレに行ってくるね。なんなら私の席に座ってても構わないから……」
言って私が背を向けるや否や、彼女たちはたった一つの椅子の取りあいを始める。
「ちょっと! 私のよ!」
「いいえ私よ!」
「おい!」
咎めるように呼びかける諒の声に、私は後ろ手に手を振った。
(がんばって! そして私たちの支持者を少しでも増やしておいて!)
諒の怒りに燃える顔が見えるような気がした。
言ったついでに本当にトイレに行って、水道で手を洗っていた。
すると――。
「琴美ちゃん」
急に後ろから呼びかけられて、心臓が止まりそうになった。
佳世ちゃんがいつの間にか私の後ろに立っていた。
『何?』と笑ってふり返るだけの元気を、みんなにわけてもらったと思っていたのに。
自分はもう大丈夫と思っていたのに、体が動かない。
返事をすることもできない。
佳世ちゃんは、そんな私の背中に向かって、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
『こっちこそゴメン』と笑って返すつもりだったのに、声が出てこない。
「ごめんなさい」
もう一度くり返す佳世ちゃんの声は、今にも消えてなくなってしまいそうだった。
大好きな佳世ちゃんを私が泣かせている。
そのことがこんなに辛くて苦しいのに、どうして私は平気な顔ができないんだろう。
どうしていつものように、『私は大丈夫だよ』と笑えないんだろう。
自分で自分がわからなかった。
どうしようもなかった。
だから私は思わずその場から逃げ出した。
(佳世ちゃんが傷ついたかもしれない! 私が怒ってるって思ったかもしれない!)
心の中では大きく後悔しているのに、走り出した私の足は、止まってはくれない。
(もう平気だと思ってた……平気なはずだった……でも、佳世ちゃんの顔が見れない。どうすればいいのかわからない……)
私はいつもの自分の逃げ場所へ急いだ。
非常扉の向こうの階段に駆けこんで、膝に手をついて、大きく息をくり返す。
バーンと大きな音を立てて扉が閉まるのを背後に聞きながら、崩れ落ちるように座りこんだ。
(どうしたらいいんだろう? どうすれば、また笑えるようになるんだろう?)
鉄の階段の踊り場に突っ伏すようにして、拳を叩きつけた時、ギィッと非常扉の開く音がした。
「感情を押し殺したってダメだ」
心に染み入るような優しい声が、私の頭上から降ってくる。
「無かったことにしようとしたってダメだよ。悲しい時にはちゃんと悲しまないと、思いを終えることはできないよ……そこから新しい何かは生まれてはこないよ……?」
一言一言、私に言い聞かすように話してくれる人が誰なのか、顔を上げないでも私にはわかる。
いつだって彼が、私に手をさし伸べてくれた。
いつだって彼が、私を立ち上がらせてくれたんだから――。
「貴人……!」
私はまた顔を上げることができた。
初めて会った時のように、貴人は極上の笑顔で私に手をさし出していた。
私は、その手をもう一度つかもうと、必死で自分の手を伸ばす。
貴人の後ろに見える空が、とっても青かった。
(空……?)
一瞬私の頭を繭香の顔が過ぎった。
自分の部屋のベッドの上に座って、空を見上げていた繭香の横顔。
『どうして空を見ていたのか』――私に投げかけられた繭香の質問。
繭香は、『空を見上げずには、いられない時が自分にもある』と言った。
繭香を理解するのに、繭香を動かすのに、その答えがどうしても必要なのに。
いくら考えても、思いつかなかったその答えが、今ならわかりそうな気がした。
どうして私は、いつも空を見ていたのか――。
(たとえば空を飛ぶように、今の状況から逃げ出したいから? 自由が欲しいから?)
私はゆっくりと思考を巡らす。
(そんなことじゃない……そんな複雑なことじゃない……きっと……もっと単純なことだ……)
私がいつも空を見上げていたのは、それは――。
「俯いたら涙が零れそうだから……?」
声に出して、自分自身に問いかけた。
(そうだ……! いつだって泣きたくなった時に、私は空を見上げていた……空を見上げて、涙が零れそうになるのを我慢していたんだ!)
これまで我慢したたくさんの胸の痛みが、青い空に重なるように浮かんでは消えていった。
「我慢じゃ前には進めない……全てを思い出にはできないんだよ……」
貴人が私を真剣に見つめていた。
さし出そうとして途中で止めていた私の手を、貴人のほうから取ってくれる。
「俺は……琴美はいつも泣きそうな顔をしていると思ってた……」
膝をついて私と目の高さを合わせてくれる。
それから、一言一言確かめるように話してくれる。
「繭香は『つまらなそうな顔』って言ってたけど……俺には空を見ている琴美は『泣き出したいのを我慢している顔』に見えた……違う?」
私はしっかりと頷いた。
「違わない……」
(確かにそうだ……! 下を向いたら涙が零れそうだったから、私はいつも空を見上げていたんだ!)
今やっと、大切なことがわかった気がした。
「だから気になった。いつまでも傷ついたままなんじゃないかって心配だった……」
貴人の優しい声が心に染みる。
「貴人……ありがとう……」
私は長い呪縛から開放されたように、深く息を吐いた。
フッと全身の力が抜けたような気がした。
(そうだね……無理をするのはもうやめよう……)
やっとその思いを、素直に自分自身で受け止めることができた。
実際、もう限界だった。
自分の心の中にいっぱいにためこんだ感情が、自分でもうコントロールできなくなっている。
(このままでは笑えない……きっと誰かを傷つけずにはいられない……)
だから私は、心のままに俯いた。
もうずっと長いこと、心の奥に押しこんでいたいろんな感情が、一気にドッと沸いてきて、あっという間に涙が、次から次へと私の頬を流れ落ちた。
「貴人……私悲しかった。なくすはずないと信じてたものをなくして……ほんとに悲しかった……」
「うん」
突然泣き始めた私に驚きもせず、貴人は腕を伸ばして私を抱きしめてくれた。
私はそのまま貴人の胸に体を預けて、子どものように泣きじゃくった。
「大好きな佳世ちゃんが……いつのまにか渉の近くにいてショックだった……」
「うん」
貴人は優しく私の頭を撫でる。
「全然好きじゃないって思ってたクラスメートだったけど……無視されたらやっぱり辛かった……」
「うん」
貴人は腕に力をこめて、息もできないくらいに強く私を抱きしめてくれる。
「大丈夫って思いながらも……やっぱり辛かったんだよ!」
しばらくの間、私は大声を上げて思いっきり泣き続けた。
自分でも(こんなに涙って出るものなんだ!)と感心するくらい泣き続けた。
貴人はその間中、ずっと私を抱きしめていてくれた。
感情に任せてしばらくの間は、そのことをなんとも思わなかったんだけど、泣くだけ泣いて、我に返って、少しずつ冷静になってきたら、
(どうしよう)
と急に焦りがこみ上げてきた。
ついつい勢いで、貴人の優しさに甘えてしまったけれど、
(私、なんてことしちゃったの!)
と慌てずにはいられない。
(相手は貴人だよ? まちがいなく学園一の人気者で、我が校のアイドルとも言える貴人だよ?)
自分が貴人をどう思っているのかは、自分でもわからないと本人に言ったばかりなのに――。
(どんな顔してこれから顔をあわせればいいのよ!)
そう心の中で叫びながら見上げた貴人の顔は、不思議なくらい私の良く知っている顔だった。
ようやく顔を上げた私に
「何?」
と眩しいほどに笑いかける。
その笑顔に元気をもらった。
(大丈夫だ……私と貴人の関係は何も変わっていない……!)
それは貴人の優しさかもしれない。
私はそれに甘えているだけかもしれないけれど――。
「ごめん貴人……これもなかったことにしてくれる……?」
両手をあわせる私に、貴人は眉を片方上げて、
「了解!」
と笑ってくれた。
私たちはお互いを抱きしめていた腕をそっと離して、顔を見あわせて笑った。
笑いながら、私は彼に問いかける。
「実は……図々しいついでに……もう一つお願いがあるんだけど……?」
貴人はいつもの、『何でもどうぞ』というような顔で私を見ている。
「私を繭香のところに連れて行ってくれる?」
私のお願いに、貴人は悪戯っ子のように笑った。
「今から?」
いつもと変わらないその態度が嬉しかった。
今この瞬間から、私たちはまたいつもの関係に戻れる。
そんな確信がある。
だから――。
「そう、今から!」
さっきまであんなに大泣きしていたのに、私はもう心から笑うことができた。
貴人は見惚れるほどに艶やかに、笑い返してくれる。
「OK!」
そして貴人は、私の手を引いてそのまま非常階段を駆け下りた。
初めて貴人に手を引かれて走ったあの日のように、私は必死で彼の走りについていった。
ずいぶんひさしぶりに、本当に無理じゃなくごまかしじゃなく、晴れ晴れとした気分だった。
今ならきっと、もうずっと長いこと私を待っていてくれた繭香を、きっと喜ばせられるような答えが、できるような気がした。