あの時の胸の痛みがリアルに蘇ってきて、私は思わず胸を抑えた。
「うっ……」
あれから一週間。
渉から逃げて、試験の結果からも逃げて――。
(あー、私の人生って、このまま逃げるばっかりなのかもしれない……)
投げやりにそんなことを考えて、特別棟の中庭で膝を抱えた瞬間――。
「ねえ、きみ……ひょっとして九月生まれじゃない?」
ふいにどこからか声がした。
「へ?」
思わず間抜けな声が出てしまったのは、それが頭上からだった気がしたから。
目の前にある樹齢何年になるのかしれない大きな木から、声が聞こえた気がした。
「まさかね……」
木がしゃべるはずはない。
ついに幻聴まで聞こえるほどに精神的に参っているのかと、深々とため息を吐く。
「あーあ」
膝の上に顔を伏せてしまおうかとした時、今度はよりはっきりとその木の上から声がした。
「ここだよ、おーい、ここ」
思わず反射的に顔を跳ね上げた。
まさかそんなはずはないだろうと思いながら恐る恐る見上げた木の上、かなり高い位置に人影が見える。
「ひっ!」
思わず悲鳴を上げてしまいそうになったのは、それが校舎の四階くらいの高さだったから。
そして信じられないような相手だったから――。
「今、下りるね」
するすると器用に木を下りてくるその人を、私は呆けたようにぽかんと見上げていた。
どこの学校にも一人はいると思う。
勉強もできて、運動もできて、性格も良くて、その上見た目もかっこいい、女子生徒全員の憧れの王子様。
私としてはあまり面白みもないと思っている我が星颯学園にも、そんな人物がいた。
――芳村貴人。
その名前を聞いただけで、いつも女の子たちの黄色い悲鳴が響く。
あんまり噂話には詳しくない私だけど、『実は、IQが二百らしい』とか、『文科系・体育系問わずいくつもの部活をはしごして、助っ人として大活躍している』とか、『某アイドル事務所からスカウトが来た』とか、芳村君の逸話に関してだったらいくつもの情報を得ている。
これといった特技のない私にはうらやましい話だし、あんまりみんなが騒ぐので、他のクラスの男の子の顔なんてほとんど知らない私も、芳村君の顔だけは知っていた。
(うん、まあ……背も高いし、スタイルもいいし、その上確かに顔までいいわ……)
常日頃そう思って、遠くから見るともなしに見ていた綺麗な顔が、自分のすぐ目の前に現れて、私は口も開けないほどに驚いていた。
「ねえきみ、九月生まれじゃないかな……?」
木の上から問いかけたのと同じ言葉をくり返して、芳村君は眩しいくらいに微笑む。
色素の薄いサラサラの髪とキラキラ輝く瞳があわさって、本当に王子様みたい。
(すごい……)
つられて思わず、いつの間にか私の頬も緩んでいた。
この一週間、必死の作り笑いでどうにか自分を保ってきたのに不思議だ。
なんだか胸のつかえが下りたような気がする。
(ええっと、これって……いわゆる癒し系ってヤツ?)
誰にともなく問いかけながら、改めて芳村君の顔を見る。
(それにしてもほんっとに綺麗な人だぁ……ちょっと整いすぎなくらい。しかも目が綺麗。綺麗すぎる……そんな目で見られたら、自分の荒んだ心が悲しくなる)
圧倒的な美に耐えきれず視線を逸らそうとした時に、芳村君の形のいい唇がもう一度開きかける。
「きみ……」
それを見て、私の人よりちょっと出来がいい頭が超高速で動き、さすがに同じ質問を三回もくり返させるのは申し訳ない、という結論に達した。
「そうよ。私は九月生まれよ」
もう一度尋ねるより早かった私の返事に、芳村君は嬉しそうに笑った。
「やっぱり」
その笑顔がかわいすぎて、思わず胸が高鳴る。
「…………!」
もし彼が女の子だったら、これは『花が開くようだ』と形容していい笑顔かもしれない。
ううん、この際、男でもかまわない。
本当に華やかで魅力的な、見ているこちらが赤面してしまいそうな笑顔だった。
(これは……みんなが騒ぐのも納得だわ……)
心の中でうなずく私の左腕を、芳村君はいきなり掴む。
「よかった。やっと見つけた! 俺と一緒に来て!」
座ったままの私を引きずって、今にも走り出しそうだ。
「へ? 何……?」
呆気にとられる私に事情を説明する気はまったくないらしい。
そのまま私を立たせ、早足で歩き始める。
決して痛いほどではないのに、掴まれた腕をふり解くことができない。
(あ、これって……さっき渉につかまれたのと同じところだ……)
そんなことをぼんやりと考えながら、私はいつの間にか芳村君に手を引かれるまま、走り出していた。
(あの、もうすぐ朝のホームルームの時間なんですけど……)
こんな時でさえ、優等生の自分を完全に捨てることはできないけど、芳村君の手をふり払うことも、なぜだかできない。
『やっと見つけた』
その言葉が胸にひっかかってる。
いったいどういう意味なんだろう。
それは渉にフラれた今となっては、もうこの学校にいる意味もないと思っていた私に、何かの価値を見出してくれたということなんだろうか。
(それって……何?)
好奇心がむくむくと頭をもたげる。
そんな感情も、一週間前からすっかり抜け落ちていたはずなのに不思議だ。
芳村君に掴まれた腕を見る。
(それに……)
もう二度と立ち上がれないんじゃないかと思っていたあの場所から、簡単に私を連れ出してしまったことも含め、彼本人への興味も大きい。
数々の逸話が事実なのかは別として、なんだか有無を言わせず人を動かす不思議な力がある気がする。
(変な人……)
もう少し彼と話をしてみたい思いもあって、私は手を引かれるまま走り続けた。
「うっ……」
あれから一週間。
渉から逃げて、試験の結果からも逃げて――。
(あー、私の人生って、このまま逃げるばっかりなのかもしれない……)
投げやりにそんなことを考えて、特別棟の中庭で膝を抱えた瞬間――。
「ねえ、きみ……ひょっとして九月生まれじゃない?」
ふいにどこからか声がした。
「へ?」
思わず間抜けな声が出てしまったのは、それが頭上からだった気がしたから。
目の前にある樹齢何年になるのかしれない大きな木から、声が聞こえた気がした。
「まさかね……」
木がしゃべるはずはない。
ついに幻聴まで聞こえるほどに精神的に参っているのかと、深々とため息を吐く。
「あーあ」
膝の上に顔を伏せてしまおうかとした時、今度はよりはっきりとその木の上から声がした。
「ここだよ、おーい、ここ」
思わず反射的に顔を跳ね上げた。
まさかそんなはずはないだろうと思いながら恐る恐る見上げた木の上、かなり高い位置に人影が見える。
「ひっ!」
思わず悲鳴を上げてしまいそうになったのは、それが校舎の四階くらいの高さだったから。
そして信じられないような相手だったから――。
「今、下りるね」
するすると器用に木を下りてくるその人を、私は呆けたようにぽかんと見上げていた。
どこの学校にも一人はいると思う。
勉強もできて、運動もできて、性格も良くて、その上見た目もかっこいい、女子生徒全員の憧れの王子様。
私としてはあまり面白みもないと思っている我が星颯学園にも、そんな人物がいた。
――芳村貴人。
その名前を聞いただけで、いつも女の子たちの黄色い悲鳴が響く。
あんまり噂話には詳しくない私だけど、『実は、IQが二百らしい』とか、『文科系・体育系問わずいくつもの部活をはしごして、助っ人として大活躍している』とか、『某アイドル事務所からスカウトが来た』とか、芳村君の逸話に関してだったらいくつもの情報を得ている。
これといった特技のない私にはうらやましい話だし、あんまりみんなが騒ぐので、他のクラスの男の子の顔なんてほとんど知らない私も、芳村君の顔だけは知っていた。
(うん、まあ……背も高いし、スタイルもいいし、その上確かに顔までいいわ……)
常日頃そう思って、遠くから見るともなしに見ていた綺麗な顔が、自分のすぐ目の前に現れて、私は口も開けないほどに驚いていた。
「ねえきみ、九月生まれじゃないかな……?」
木の上から問いかけたのと同じ言葉をくり返して、芳村君は眩しいくらいに微笑む。
色素の薄いサラサラの髪とキラキラ輝く瞳があわさって、本当に王子様みたい。
(すごい……)
つられて思わず、いつの間にか私の頬も緩んでいた。
この一週間、必死の作り笑いでどうにか自分を保ってきたのに不思議だ。
なんだか胸のつかえが下りたような気がする。
(ええっと、これって……いわゆる癒し系ってヤツ?)
誰にともなく問いかけながら、改めて芳村君の顔を見る。
(それにしてもほんっとに綺麗な人だぁ……ちょっと整いすぎなくらい。しかも目が綺麗。綺麗すぎる……そんな目で見られたら、自分の荒んだ心が悲しくなる)
圧倒的な美に耐えきれず視線を逸らそうとした時に、芳村君の形のいい唇がもう一度開きかける。
「きみ……」
それを見て、私の人よりちょっと出来がいい頭が超高速で動き、さすがに同じ質問を三回もくり返させるのは申し訳ない、という結論に達した。
「そうよ。私は九月生まれよ」
もう一度尋ねるより早かった私の返事に、芳村君は嬉しそうに笑った。
「やっぱり」
その笑顔がかわいすぎて、思わず胸が高鳴る。
「…………!」
もし彼が女の子だったら、これは『花が開くようだ』と形容していい笑顔かもしれない。
ううん、この際、男でもかまわない。
本当に華やかで魅力的な、見ているこちらが赤面してしまいそうな笑顔だった。
(これは……みんなが騒ぐのも納得だわ……)
心の中でうなずく私の左腕を、芳村君はいきなり掴む。
「よかった。やっと見つけた! 俺と一緒に来て!」
座ったままの私を引きずって、今にも走り出しそうだ。
「へ? 何……?」
呆気にとられる私に事情を説明する気はまったくないらしい。
そのまま私を立たせ、早足で歩き始める。
決して痛いほどではないのに、掴まれた腕をふり解くことができない。
(あ、これって……さっき渉につかまれたのと同じところだ……)
そんなことをぼんやりと考えながら、私はいつの間にか芳村君に手を引かれるまま、走り出していた。
(あの、もうすぐ朝のホームルームの時間なんですけど……)
こんな時でさえ、優等生の自分を完全に捨てることはできないけど、芳村君の手をふり払うことも、なぜだかできない。
『やっと見つけた』
その言葉が胸にひっかかってる。
いったいどういう意味なんだろう。
それは渉にフラれた今となっては、もうこの学校にいる意味もないと思っていた私に、何かの価値を見出してくれたということなんだろうか。
(それって……何?)
好奇心がむくむくと頭をもたげる。
そんな感情も、一週間前からすっかり抜け落ちていたはずなのに不思議だ。
芳村君に掴まれた腕を見る。
(それに……)
もう二度と立ち上がれないんじゃないかと思っていたあの場所から、簡単に私を連れ出してしまったことも含め、彼本人への興味も大きい。
数々の逸話が事実なのかは別として、なんだか有無を言わせず人を動かす不思議な力がある気がする。
(変な人……)
もう少し彼と話をしてみたい思いもあって、私は手を引かれるまま走り続けた。