『敵の本陣からじわじわと崩していく』といういささか格好いい任務を、勢い込んで引き受けたはいいものの――。
(いったい私に何が出来るんだろう……?)
あれから何日も、私は悩み続けている。
教室の一番後ろの席で、机に突っ伏したまま、今日も視線だけで教室の中を見回す。
(二年A組、三十八名……全員が全員私を無視しているわけじゃないんだけど……さすがに柏木たちに目をつけられてるってわかってる以上、誰も好き好んで声なんかかけて来ないもんね……)
はああっと、大きなため息を吐かずにはいられない。
(選挙が終わるまでは、佳世ちゃんとも仲良くしないって約束したしな……)
遠くの席で他の女の子たちと談笑している佳世ちゃんの姿を、ぼんやりと眺めた。
(でもいいか……! 私には仲間がいるわけだし……!)
落ちっぱなしのテンションを上げようと、自分の気持ちを奮い立たせた瞬間、その「仲間」の一人の顔が、ぬっと私の目の前に現われた。
すぐ前の席に座っている諒が、突然振り向いたのだ。
あまりにも近い距離で女の子のように可愛らしい顔を見てしまい、私は大慌てした。
「ななな、何なのよ!!」
大声で叫んでしまってからすぐに、周りの反応を気にして声を潜める。
「……教室で私に関わらないでって言ってるでしょ……! あんたと話してると、こっちはまた、女子のいらぬ反感を買うのよ……!」
黙っていれば美少年の諒は、私の文句を最後まで聞かずに途中で遮った。
「いいから! ……お前あの噂を聞いたか?」
怒りに燃えた大きな瞳と厳しい口調からすると、何かがあったんだということはわかる。
でも、例によって噂というものにまったく興味のない私が、そんなこと知ってるはずがない。
(だいたいね……ほとんどクラス全員から無視されてる私に、噂なんて届くはずないじゃない! ……諒も結構抜けてるわね!)
いつも私のことを『お前って本当は馬鹿だろう?』と呆れてばかりいる諒に、たまには逆に言い返してやろうかと、私が口を開きかけた時、先にその諒が囁いた。
「貴人を中傷する噂が流れてる。自分の気に入った女の子を集めて、生徒会をハーレムにしようとしてるって……ちなみにお前もその中に入ってるぞ……」
私は思わず椅子を蹴倒して立ち上がった。
「なんっなのよ、それ!」
私の大声は教室中に響き渡り、クラスの視線が一気に私に集まった。
諒は頭を抱えている。
「やっぱ馬鹿だ、こいつ……」
かなり失礼なことを言っているけど、今はそれどころではなかった。
急いで走り出そうとした私は、諒に襟首を掴まれて、自分の席に引き戻される。
「なにすんのよ!」
ギンと睨みつけると、負けないくらいの強さで睨み返された。
「……どこに行くんだよ?」
あまりに冷静な声に、かえって私の怒りは大きくなっていく。
「どこって……! もちろん貴人のところよ!」
とりあえずは声のトーンを落とし、みんなに注目はされない程度の声で叫んだのに、諒はため息を吐いた。
「今そんなことしたらどうなる? 頼むから少しは考えてくれよ……」
言われてハッとした。
(そっか……今私が貴人のところに行くのは、確かにマズイよね……でも……だったら、どうしたらいいの……?)
考え込む私の背中に向かい、声をかけてくる人物がいる。
「おや? どうしたの……? 愛しの芳村君のところへは行かなくていいの?」
その厭味な声と言い方に、怒りでクラクラしながら、私は声の主――柏木をゆっくりとふり返った。
「まあ、あいつの本命は、B組の藤枝なんだろうけどね……」
柏木はどこまでも、人を挑発するような話し方をする。
周りを固めている取り巻き連中も、まるで私の神経を逆撫でするように、ニヤニヤと意味深に笑っている。
「あら……逆玉を狙って杉原さんって噂もあるわよ……?」
敵意に満ちた声の主に視線を向けてみると、いつも諒のことで私を睨みつけている斎藤さんだった。
(そういえば彼女も、柏木たちの生徒会のメンバーだった……)
そんなふうに考えている私には、まだまだ気持ちに余裕がある。
でも――。
「ま、どっちにしたって、近藤はただの数あわせだよな……!」
そう言って笑った男子――確か名前は工藤! ――を殴ってしまわないように我慢することだけは、心底しんどかった。
「……あれ? 言い返さないの?」
柏木は明らかに私を馬鹿にしている。
「恋する乙女は、すっかりおとなしくなりました……ってこと?」
どうなることかと息をひそめて、ことの成り行きを見守っていた教室中が、その瞬間、大爆笑に包まれた。
あまりの怒りで。
あまりの悔しさで。
目が眩む。
(……でもここで私が怒っちゃいけない……問題を起こしてはいけない……そんなことして、またみんなに迷惑をかけるわけにはいかない……!)
唇をかみ締めて俯いたまま、私がせめてこの場から逃げ出そうかとした瞬間、諒がバーンと机を叩いて立ち上がった。
「……いいかげんにしろよ」
あまりの気迫に、教室中が一瞬シーンとなる。
「お前ら最っ低だな!」
怒りのあまり冴え渡った表情で、私を囲む一人一人の顔を睨む諒から、柏木たちは気まずそうに視線を逸らす。
あんなに腹が立っていたのに、諒が怒鳴った瞬間、私の怒りはどこかへ飛んで行ってしまった。
(綺麗な顔した人が怒ると迫力だな……)
なんてことを、ぼんやりと考えていたりする。
でもみんなが一斉に口を噤む中、ただ一人斎藤さんだけは、目を吊り上げて鬼のような形相で、私を睨んでいた。諒が私を庇ったことがよほど悔しかったのだろう。
私の顔を睨みながら、柏木たちだって怯むほどの大迫力で怒鳴りつける。
「なんなのよあなた! そうやって勝浦君を利用してまで、他の男に取り入ろうっていうの!」
柏木たちもギョッとした顔で彼女を見つめている。
(結局この人の本音はこれなのよね……私が諒と親しくしているから気に入らない……)
私の代わりに諒が怒ってくれたおかげで、私のほうはかえって冷静になれて、いろんなことを考える余裕が生まれ始めていた。
人よりちょっとだけ勉強のできる私の頭が、超高速で回転し始める。
(貴人の言うとおり、ここはひとまず、敵を一人でも取り込んでおくほうが得策よね……)
真っ赤になって怒っている斎藤さんに向かい、私はニッコリと笑いかけた。
「利用なんてとんでもない! 勝浦君は優しいから……仲間を大事に思ってくれているだけなのよ……!」
この作戦のポイントは、三つある。
いつもの喧嘩腰の口調はつつしむこと。
諒を名前では呼ばないこと。
そして、斎藤さんが心底入れあげている諒を、さりげなく褒めちぎること。
――以上三点。
結果は期待どおり。
呆気に取られたままの斎藤さんは、一言も私に反論出来なかった。
柏木たちも、当の本人の諒も「突然何を言い出したんだ、こいつは?」とでも言いたげな顔で、私を見ている。
けれど今は、そんなことは気にしている場合じゃない。
(今は、とりあえず斎藤さんをなんとかするのよ!)
そこで私は、畳みかけるように話を続けた。
「私なんかが生徒会に入るのは、確かにおこがましいことかもしれないけど……勝浦君は適任よね? みんなの前に立って颯爽と活動している姿。斎藤さんだって見てみたいでしょ? そう思うわよね?」
ニッコリと笑いながら問いかけると、まるで暗示にかかったように、彼女は素直にコクンと頷いてしまった。
(よしっ!)
心の中でガッツポーズをして、私は更に言葉を続ける。
「ありがとー。斎藤さんも応援してくれるって……良かったね、勝浦君」
きわめつけに、諒を斎藤さんの前へ引っ張り出した。
(いったいなんなんだよ?)とでも言いたげに諒が私の顔を見た瞬間、睨みあった目に、精一杯の眼力をこめる。
(いいから、早く!)
さすが学年トップを争うほどの学力の持ち主だけあって、諒はここで斎藤さんに向かって言って欲しかったセリフを、まちがえたりはしなかった。
「ありがとう斎藤さん。俺、がんばるから……」
いつも無愛想な諒にしては上出来の態度で、ニコッと笑ってまで見せたものだから、斎藤さんは首まで真っ赤になって、おとなしく自分の席に帰ってしまった。
それを見てチッと舌打ちしながら引き上げた柏木を満足の思いで見送っていると、諒に腕を掴まれる。
「ちょっと来い」
せっかくうるさい連中から開放されたのだから、ここで変に目立ってはいけないと、私は静かに諒について行った。
私達二年A組の教室は、校庭に面した第一校舎の一番東にある。
教室への出入りは全て北側の廊下からおこなうのだが、一番端なので、その廊下自体も東向きには行き止まりになっている。
廊下の終わりには、非常時にだけ使う外階段へと出る鉄の重たい扉がある。
普段は鍵がかかっているその扉をこっそりと開け、諒は私を連れ出した。
そこは、二年生になってからの私のお気に入りの場所だった。
息の詰まりそうな教室からこっそりと抜け出しては、よくそこで空を見た。
(まさか、私の他にもここに来る人がいるなんて、思いもしなかったけど……!)
横目でチラッと見てみると、諒は真剣な顔で、遠くに見える鉄橋を眺めている。
諒の視線をたどって、私も鉄橋へと目を移しながら、
(この学校……ほんとに場所だけは、大満足の場所にあるんだよなあ……)
と改めて思った。
星颯学園は市の繁華街からは、自転車で三十分。
近くに駅もなければ、バス停も遠いので、大半の生徒が自転車で通学している。
「不便だ」とか「田舎だ」と嘆く人は多いけど、緑と自然に囲まれたこの立地条件は、私のお気に入りだった。
高いビルもマンションも学校の近くにないので空が良く見える。
『また琴美は、空ばっかり見てる…』
怒ったような、からかうような渉の声が、ふと耳の奥で甦った。
(よくこうして、渉とここに来たな……)
思い出すと、やっぱりまだ胸が苦しかった。
「お前さあ……」
渉とは全然違う声で、口調で、諒は私を呼ぶ。
その瞬間、現実に引き戻された気がした。
「例の噂……どうする?」
改めて尋ねられると、さっき教室では抑えられたはずの怒りが、ふつふつと甦ってくる。
「どうって?」
怒りをぶつけるみたいに諒を睨むと、諒も私に負けないくらい怒った顔をしてみせた。
「いちいち訂正してまわることはできない……でも無視してこれまでどおり活動を続けるには、ちょっと内容が悪質だ」
私は黙ったまま頷いた。
(その通り!)
諒は、また怒りの炎が再燃してきたような大きな瞳を、キッと私に向けた。
「繭香も美千瑠も、噂のせいで学校に来てない」
私は思わず息を呑んだ。
「繭香は噂を聞いて、具合が悪くなったらしい……美千瑠はやっぱり噂のせいで、当分は家から出してもらえないらしい……」
私は悔しさのあまり、唇を噛みしめた。
「……お前は? お前はいいのかよ……?」
諒の質問が何を意味するのかわからなくて、キョトンとする。
すると諒はなんだか言いにくそうに、思いがけない名前を口にした。
「あいつは……? 早坂は?」
諒は私と中学の頃からの腐れ縁なわけだから、当然私と渉がつきあっていたことも知っている。
(そうか……私と渉が別れたこと、諒は知らないんだ……!)
あれは、自分にとってはまるで世界の終わりのような出来事だったのに、結局他の人にとってはその程度のことなんだと、改めて気づくとなんだかおかしかった。
「それなら……もう終わったんだ。ちょっと前に。……中間考査の初日ってのは、我ながらついてなかったと思うけど……おかげで成績はガタ落ちしちゃったし……」
私はせいいっぱい笑顔を作りながらそう言ったけれど、諒はちっとも笑わなかった。
「そうか」
短く言って、私に背を向けた。
口で言うほど、平気な顔をできていないことは、自分でもわかっていた。
(諒はわざと後ろを向いてくれたんだ……)
そう思うと、自然と涙が浮かんで来る。
(私は全然平気じゃない。まだ、全然平気じゃないんだよな……)
改めてそんなことを思った。
(ただ……貴人が忘れさせてくれただけ……『HEAVEN』の仲間に入れてくれて、楽しい毎日を与えてくれて、少しの間忘れさせてくれただけ……)
考えがその結論にたたどり着いた瞬間、言うべき言葉は、自然と私の口から出てきた。
「私もしばらく『HEAVEN準備室』には行かない……貴人にも近づかない……」
(やっと見つけた居場所だと思ったけど、今は行けない。これ以上、貴人を不利な立場にしてはいけない)
冷静にそう思うことが出来た。
諒は「そうか」と短く言って、制服の上着を脱いだ。
最近ではもうかなり暑くなってきたのに、まだ着てるんだと私が常々違和感を抱いて見ていた諒の上着が、次の瞬間、バサリと私の頭上にかけられる。
「…………!」
一瞬驚いたが、その意味を私はすぐに悟った。
(そっか……諒だって私と同じかなりの意地っ張りだから……人に涙を見られるのが嫌な私の気持ちをわかってくれたのかもしれない……それで、やり方は多少強引だけど、こうして上着を被せてしまうことで、私の気持ちを優先してくれたのかもしれない……!)
そう思うと、もう零れる涙をこらえることはできなかった。
諒の上着を頭から被ったまましゃがみこんで、私は声を殺して泣き続けた。
諒は私に背を向けて、何も言わず立ったまま、私が泣き疲れるまでそこに一緒にいてくれた。
(いったい私に何が出来るんだろう……?)
あれから何日も、私は悩み続けている。
教室の一番後ろの席で、机に突っ伏したまま、今日も視線だけで教室の中を見回す。
(二年A組、三十八名……全員が全員私を無視しているわけじゃないんだけど……さすがに柏木たちに目をつけられてるってわかってる以上、誰も好き好んで声なんかかけて来ないもんね……)
はああっと、大きなため息を吐かずにはいられない。
(選挙が終わるまでは、佳世ちゃんとも仲良くしないって約束したしな……)
遠くの席で他の女の子たちと談笑している佳世ちゃんの姿を、ぼんやりと眺めた。
(でもいいか……! 私には仲間がいるわけだし……!)
落ちっぱなしのテンションを上げようと、自分の気持ちを奮い立たせた瞬間、その「仲間」の一人の顔が、ぬっと私の目の前に現われた。
すぐ前の席に座っている諒が、突然振り向いたのだ。
あまりにも近い距離で女の子のように可愛らしい顔を見てしまい、私は大慌てした。
「ななな、何なのよ!!」
大声で叫んでしまってからすぐに、周りの反応を気にして声を潜める。
「……教室で私に関わらないでって言ってるでしょ……! あんたと話してると、こっちはまた、女子のいらぬ反感を買うのよ……!」
黙っていれば美少年の諒は、私の文句を最後まで聞かずに途中で遮った。
「いいから! ……お前あの噂を聞いたか?」
怒りに燃えた大きな瞳と厳しい口調からすると、何かがあったんだということはわかる。
でも、例によって噂というものにまったく興味のない私が、そんなこと知ってるはずがない。
(だいたいね……ほとんどクラス全員から無視されてる私に、噂なんて届くはずないじゃない! ……諒も結構抜けてるわね!)
いつも私のことを『お前って本当は馬鹿だろう?』と呆れてばかりいる諒に、たまには逆に言い返してやろうかと、私が口を開きかけた時、先にその諒が囁いた。
「貴人を中傷する噂が流れてる。自分の気に入った女の子を集めて、生徒会をハーレムにしようとしてるって……ちなみにお前もその中に入ってるぞ……」
私は思わず椅子を蹴倒して立ち上がった。
「なんっなのよ、それ!」
私の大声は教室中に響き渡り、クラスの視線が一気に私に集まった。
諒は頭を抱えている。
「やっぱ馬鹿だ、こいつ……」
かなり失礼なことを言っているけど、今はそれどころではなかった。
急いで走り出そうとした私は、諒に襟首を掴まれて、自分の席に引き戻される。
「なにすんのよ!」
ギンと睨みつけると、負けないくらいの強さで睨み返された。
「……どこに行くんだよ?」
あまりに冷静な声に、かえって私の怒りは大きくなっていく。
「どこって……! もちろん貴人のところよ!」
とりあえずは声のトーンを落とし、みんなに注目はされない程度の声で叫んだのに、諒はため息を吐いた。
「今そんなことしたらどうなる? 頼むから少しは考えてくれよ……」
言われてハッとした。
(そっか……今私が貴人のところに行くのは、確かにマズイよね……でも……だったら、どうしたらいいの……?)
考え込む私の背中に向かい、声をかけてくる人物がいる。
「おや? どうしたの……? 愛しの芳村君のところへは行かなくていいの?」
その厭味な声と言い方に、怒りでクラクラしながら、私は声の主――柏木をゆっくりとふり返った。
「まあ、あいつの本命は、B組の藤枝なんだろうけどね……」
柏木はどこまでも、人を挑発するような話し方をする。
周りを固めている取り巻き連中も、まるで私の神経を逆撫でするように、ニヤニヤと意味深に笑っている。
「あら……逆玉を狙って杉原さんって噂もあるわよ……?」
敵意に満ちた声の主に視線を向けてみると、いつも諒のことで私を睨みつけている斎藤さんだった。
(そういえば彼女も、柏木たちの生徒会のメンバーだった……)
そんなふうに考えている私には、まだまだ気持ちに余裕がある。
でも――。
「ま、どっちにしたって、近藤はただの数あわせだよな……!」
そう言って笑った男子――確か名前は工藤! ――を殴ってしまわないように我慢することだけは、心底しんどかった。
「……あれ? 言い返さないの?」
柏木は明らかに私を馬鹿にしている。
「恋する乙女は、すっかりおとなしくなりました……ってこと?」
どうなることかと息をひそめて、ことの成り行きを見守っていた教室中が、その瞬間、大爆笑に包まれた。
あまりの怒りで。
あまりの悔しさで。
目が眩む。
(……でもここで私が怒っちゃいけない……問題を起こしてはいけない……そんなことして、またみんなに迷惑をかけるわけにはいかない……!)
唇をかみ締めて俯いたまま、私がせめてこの場から逃げ出そうかとした瞬間、諒がバーンと机を叩いて立ち上がった。
「……いいかげんにしろよ」
あまりの気迫に、教室中が一瞬シーンとなる。
「お前ら最っ低だな!」
怒りのあまり冴え渡った表情で、私を囲む一人一人の顔を睨む諒から、柏木たちは気まずそうに視線を逸らす。
あんなに腹が立っていたのに、諒が怒鳴った瞬間、私の怒りはどこかへ飛んで行ってしまった。
(綺麗な顔した人が怒ると迫力だな……)
なんてことを、ぼんやりと考えていたりする。
でもみんなが一斉に口を噤む中、ただ一人斎藤さんだけは、目を吊り上げて鬼のような形相で、私を睨んでいた。諒が私を庇ったことがよほど悔しかったのだろう。
私の顔を睨みながら、柏木たちだって怯むほどの大迫力で怒鳴りつける。
「なんなのよあなた! そうやって勝浦君を利用してまで、他の男に取り入ろうっていうの!」
柏木たちもギョッとした顔で彼女を見つめている。
(結局この人の本音はこれなのよね……私が諒と親しくしているから気に入らない……)
私の代わりに諒が怒ってくれたおかげで、私のほうはかえって冷静になれて、いろんなことを考える余裕が生まれ始めていた。
人よりちょっとだけ勉強のできる私の頭が、超高速で回転し始める。
(貴人の言うとおり、ここはひとまず、敵を一人でも取り込んでおくほうが得策よね……)
真っ赤になって怒っている斎藤さんに向かい、私はニッコリと笑いかけた。
「利用なんてとんでもない! 勝浦君は優しいから……仲間を大事に思ってくれているだけなのよ……!」
この作戦のポイントは、三つある。
いつもの喧嘩腰の口調はつつしむこと。
諒を名前では呼ばないこと。
そして、斎藤さんが心底入れあげている諒を、さりげなく褒めちぎること。
――以上三点。
結果は期待どおり。
呆気に取られたままの斎藤さんは、一言も私に反論出来なかった。
柏木たちも、当の本人の諒も「突然何を言い出したんだ、こいつは?」とでも言いたげな顔で、私を見ている。
けれど今は、そんなことは気にしている場合じゃない。
(今は、とりあえず斎藤さんをなんとかするのよ!)
そこで私は、畳みかけるように話を続けた。
「私なんかが生徒会に入るのは、確かにおこがましいことかもしれないけど……勝浦君は適任よね? みんなの前に立って颯爽と活動している姿。斎藤さんだって見てみたいでしょ? そう思うわよね?」
ニッコリと笑いながら問いかけると、まるで暗示にかかったように、彼女は素直にコクンと頷いてしまった。
(よしっ!)
心の中でガッツポーズをして、私は更に言葉を続ける。
「ありがとー。斎藤さんも応援してくれるって……良かったね、勝浦君」
きわめつけに、諒を斎藤さんの前へ引っ張り出した。
(いったいなんなんだよ?)とでも言いたげに諒が私の顔を見た瞬間、睨みあった目に、精一杯の眼力をこめる。
(いいから、早く!)
さすが学年トップを争うほどの学力の持ち主だけあって、諒はここで斎藤さんに向かって言って欲しかったセリフを、まちがえたりはしなかった。
「ありがとう斎藤さん。俺、がんばるから……」
いつも無愛想な諒にしては上出来の態度で、ニコッと笑ってまで見せたものだから、斎藤さんは首まで真っ赤になって、おとなしく自分の席に帰ってしまった。
それを見てチッと舌打ちしながら引き上げた柏木を満足の思いで見送っていると、諒に腕を掴まれる。
「ちょっと来い」
せっかくうるさい連中から開放されたのだから、ここで変に目立ってはいけないと、私は静かに諒について行った。
私達二年A組の教室は、校庭に面した第一校舎の一番東にある。
教室への出入りは全て北側の廊下からおこなうのだが、一番端なので、その廊下自体も東向きには行き止まりになっている。
廊下の終わりには、非常時にだけ使う外階段へと出る鉄の重たい扉がある。
普段は鍵がかかっているその扉をこっそりと開け、諒は私を連れ出した。
そこは、二年生になってからの私のお気に入りの場所だった。
息の詰まりそうな教室からこっそりと抜け出しては、よくそこで空を見た。
(まさか、私の他にもここに来る人がいるなんて、思いもしなかったけど……!)
横目でチラッと見てみると、諒は真剣な顔で、遠くに見える鉄橋を眺めている。
諒の視線をたどって、私も鉄橋へと目を移しながら、
(この学校……ほんとに場所だけは、大満足の場所にあるんだよなあ……)
と改めて思った。
星颯学園は市の繁華街からは、自転車で三十分。
近くに駅もなければ、バス停も遠いので、大半の生徒が自転車で通学している。
「不便だ」とか「田舎だ」と嘆く人は多いけど、緑と自然に囲まれたこの立地条件は、私のお気に入りだった。
高いビルもマンションも学校の近くにないので空が良く見える。
『また琴美は、空ばっかり見てる…』
怒ったような、からかうような渉の声が、ふと耳の奥で甦った。
(よくこうして、渉とここに来たな……)
思い出すと、やっぱりまだ胸が苦しかった。
「お前さあ……」
渉とは全然違う声で、口調で、諒は私を呼ぶ。
その瞬間、現実に引き戻された気がした。
「例の噂……どうする?」
改めて尋ねられると、さっき教室では抑えられたはずの怒りが、ふつふつと甦ってくる。
「どうって?」
怒りをぶつけるみたいに諒を睨むと、諒も私に負けないくらい怒った顔をしてみせた。
「いちいち訂正してまわることはできない……でも無視してこれまでどおり活動を続けるには、ちょっと内容が悪質だ」
私は黙ったまま頷いた。
(その通り!)
諒は、また怒りの炎が再燃してきたような大きな瞳を、キッと私に向けた。
「繭香も美千瑠も、噂のせいで学校に来てない」
私は思わず息を呑んだ。
「繭香は噂を聞いて、具合が悪くなったらしい……美千瑠はやっぱり噂のせいで、当分は家から出してもらえないらしい……」
私は悔しさのあまり、唇を噛みしめた。
「……お前は? お前はいいのかよ……?」
諒の質問が何を意味するのかわからなくて、キョトンとする。
すると諒はなんだか言いにくそうに、思いがけない名前を口にした。
「あいつは……? 早坂は?」
諒は私と中学の頃からの腐れ縁なわけだから、当然私と渉がつきあっていたことも知っている。
(そうか……私と渉が別れたこと、諒は知らないんだ……!)
あれは、自分にとってはまるで世界の終わりのような出来事だったのに、結局他の人にとってはその程度のことなんだと、改めて気づくとなんだかおかしかった。
「それなら……もう終わったんだ。ちょっと前に。……中間考査の初日ってのは、我ながらついてなかったと思うけど……おかげで成績はガタ落ちしちゃったし……」
私はせいいっぱい笑顔を作りながらそう言ったけれど、諒はちっとも笑わなかった。
「そうか」
短く言って、私に背を向けた。
口で言うほど、平気な顔をできていないことは、自分でもわかっていた。
(諒はわざと後ろを向いてくれたんだ……)
そう思うと、自然と涙が浮かんで来る。
(私は全然平気じゃない。まだ、全然平気じゃないんだよな……)
改めてそんなことを思った。
(ただ……貴人が忘れさせてくれただけ……『HEAVEN』の仲間に入れてくれて、楽しい毎日を与えてくれて、少しの間忘れさせてくれただけ……)
考えがその結論にたたどり着いた瞬間、言うべき言葉は、自然と私の口から出てきた。
「私もしばらく『HEAVEN準備室』には行かない……貴人にも近づかない……」
(やっと見つけた居場所だと思ったけど、今は行けない。これ以上、貴人を不利な立場にしてはいけない)
冷静にそう思うことが出来た。
諒は「そうか」と短く言って、制服の上着を脱いだ。
最近ではもうかなり暑くなってきたのに、まだ着てるんだと私が常々違和感を抱いて見ていた諒の上着が、次の瞬間、バサリと私の頭上にかけられる。
「…………!」
一瞬驚いたが、その意味を私はすぐに悟った。
(そっか……諒だって私と同じかなりの意地っ張りだから……人に涙を見られるのが嫌な私の気持ちをわかってくれたのかもしれない……それで、やり方は多少強引だけど、こうして上着を被せてしまうことで、私の気持ちを優先してくれたのかもしれない……!)
そう思うと、もう零れる涙をこらえることはできなかった。
諒の上着を頭から被ったまましゃがみこんで、私は声を殺して泣き続けた。
諒は私に背を向けて、何も言わず立ったまま、私が泣き疲れるまでそこに一緒にいてくれた。