うららが連れて行ってくれたのは、更衣室に一番近い女子トイレだった。
 隣同士の個室に入って、私たちはごそごそとその場で着替え始める。
 
(そうか。トイレで着替えるって手があったか!)
 私は感心すると同時に、ふと心配になった。
 
「ねえ……ひょっとしてうららも、生徒会選挙のことで締め出しされたの?」
 
 壁の向こうから、短い返答が聞こえた。
「違う。私はずっとここで着替えてる」
 
 私はビックリして、思わず叫んだ。
「ずっとって! ……いつから?」
 
「ずっとはずっと……ここに来た最初から……」
 
 うららの声も口調も、実に淡々としたものだったけど、私はなんだか胸が痛くなった。
 
(知らなかった……だってうららってば、いつも『HEAVEN準備室』では智史君の隣に座って、幸せそうに寝てばっかりなんだもん……こんな嫌な目にずっとあってたなんて……そんな!)
 
 私が今日初めて感じた寂しさや辛さを、うららはずっと感じていたんだろうか。
 そして耐えていたんだろうか。
 そう思うと――。
 
「そっか……うらら、がんばったね……」
 やっぱり、思ったことをそのまま口に出さずには、いられなかった。
 
 うららは何も答えなかったけれど、先に着替え終わってトイレの前で待っていた私に、トイレから出てくるなり、息もできないくらい強く抱きついてきた。
 小さく震えるその体に気がついて、私は智史君がいつもそうしているように、うららの頭を優しく撫でてやった。
 


 結局、授業開始の寸前までうららは私にしがみつき続け、二人で体育館まで全力疾走することになったんだけど、私はなんだかちょっぴり嬉しかった。
 
 これまで智史君にしか向けられなかったうららの意志のある眼差しが、この日初めて、私にも向けてもらえた――。
 
(明日も、明後日もその次も! 体育の授業の時には、うららと一緒にトイレで着替えよう。生徒会選挙が終わったら、佳世ちゃんも誘ってみよう……!)
 
 そんなふうに思えばクラスメートの悪口も、意地悪されたことも、たいしたことないように思えた。


 
 放課後。
『HEAVEN準備室』に行って自分の席についた私に、後ろからうららが抱きついてきた。
 
「琴美」
 いつも彼女が寝ている窓辺の席を見ると、その隣にまだ智史君の姿がない。
 
(なんだか智史君だけに懐いていた猫に、気に入られたような気分だな……)
 
 決して嫌ではないうららの体温を、心地よく抱きしめ返しながらそんな事を思っていると、続いて部屋に入って来た可憐さんが、妙に色っぽい声で、私たちを指差しながら、あまりと言えばあまりの表現をした。
 
「あーん。琴美ちゃんとうららがいちゃいちゃしてるー」
「い、いちゃいちゃって……!」
 
 どもる私に艶やかな笑顔を向けながら、私と麗の間に無理やり入ってくる。
「可憐も入れてー」
 
 私を取られまいと抵抗するうららと、面白がって私をうららからひき剥がそうとする可憐さんにひっ張りだこになって、私は悲鳴を上げた。
 
「助けて、夏姫! 美千瑠ちゃん!」
 美千瑠ちゃんはクスクス笑って見ているだけ。
 
 夏姫はと言えば、全然違うことに感心している。
「そう言えば……女ばっかりなんて珍しいな……」
 
 かくなる上はしょうがない。
「繭香!なんとかして!」
 
 私の叫びに、繭香は涼しい顔で言い放った。
「うるさいから、いいかげんにしてやれ」
 
 途端に、可憐さんもうららも私を掴んでいた手を同時に離し、私は思わず床に座りこむ。
(もうっ! みんな繭香の言うことだけは聞くんだから! ……私もだけど……)
 
 悠然と私を見下ろしている繭香に、私は笑って手を上げた。
「ありがとう、繭香」
 
 繭香は、強い光を放つその眼を、ほんの少しだけ優しくしてうなずいた。
「ああ」
 
 ようやくホッと一息ついた私は、美千瑠ちゃんの淹れてくれたお茶に手を伸ばす。
 そうしながら部屋の中を見回して、さっき夏姫が言っていた通とおり、確かにそこには女の子しかいないことを確認した。
 
(珍しいなー。でもたまにはこういうのも……うん。悪くないよね)
 
 思い思いに時間を過ごしながら、それでも同じ目標に向かっている仲間たちを見ていると、まるで中学生の頃に戻ったみたいで、なんだか嬉しくなった。
 
 中学受験した子は別として、よっぽどの事情がない限り、住んでいる地域によって通う中学校は決まっていた。
 小学校やそれ以前からの知りあいも多いし、同じクラスの中にも、実にいろんなタイプの友達がいた。
 
 成績も性格も趣味も特技も様々な友人たち。
 でも、だからこそ楽しかった。
 
 中二の終わりに渉とつきあうようになるまでは、私はいつも女の子たちの中心にいて、ワイワイ騒いでばかりだった。
 友達だって多かった。
 決してみんなから仲間外れにされて、無視されるような子ではなかった。
 
 思い出もいっぱいの楽しい三年間。
 今でも私の心の中で、中学生活は色鮮やかに輝いている。
 
 でもその仲間たちとも成績というボーダーでわけられ、バラバラになって、一人ぼっちで入学したこの星颯学園は、色で例えるならまるでモノトーンの世界だった。
 
 同じような学力に、同じような性格のクラスメートたち。
 一年生の時からずっと一組にいるから、余計にそう思うのかもしれないけど、確かに繭香の言うとおり、私は毎日がつまらなくてたまらなかった。
 その気持ちは、特に口に出さなくても私から滲み出して、周りの人たちには気づかれてしまっていたのかもしれない。
 
 渉と会える放課後のひと時のためだけに、ただ淡々とくり返される毎日――。
 
(確かに……特に同じクラスの人たちには、私ってずいぶん嫌な女に見えただろうな……そして渉は……そんな私が負担だったのかもしれない……)
 
 今みんなから無視される立場になって、やっとほんの少し気づいて反省したことだけど、少し前までの私には、そんなこともわからなかった。
 
(だから、疲れさせちゃったのかな?)
 思わず膝に置いた両手をぎゅっと握り締めた。
 何度後悔したって、もう渉とはやり直せない。
 
(もう、あの時間は戻らない……)
 まだ考えるだけで、心はキリキリと痛む。
 いったいいつになったらこの痛みから開放されるのか、私には見当もつかなかった。
 
(でも……)
 私はそっと視線をめぐらして、夏姫のよく日に焼けた顔と、可憐さんの手入れの行き届いた綺麗な指先を眺めた。
 美千瑠ちゃんの流れるような長い髪と、私を真っ直ぐに見つめる繭香の黒い瞳。
 それら全てが鮮やかな色を放って、今、私の白黒の世界を極彩色に染め上げている。
 
(ここにいるとなんだか、忘れかけていた私らしい私を思い出せるんだよね……そして、少しの間だけでも、この胸の痛みを忘れさせてくれるんだよね……!)
 そのことが今はとても嬉しかった。
 
「琴美……」
 寝言で私の名を呼ぶうららは、私の肩に頭を乗っけて、すっかり安心したように寝入ってしまっている。
 その温かさも、今は嬉しかった。