熟睡であった。いつまでも寝ていられそうだった。寝返りを打った。枕元の時計が視界に入った。九時過ぎだった。飛び起きた。
 起き上がると、T氏はすぐさま上司にメールを打った。
「あの……今目が覚めたんですけど……」
 一時間ほど経過し、これは首かなとT氏が思い始めた頃、メールが返ってきた。
「今日は十二時頃から割ってもらえれば大丈夫」
 どうやら首は免れたようだ。
 ケータイを閉じたT氏は、のんびりと着替え始めた。
 週末に慣れない水泳をしたせいで、想像以上に身体が疲れていたのだろうとT氏は思った。同時に、これから先、彼女に慣れないことをさせられる度に、今日のように寝坊するのではと不安に駆られた。
 だったら先手を打てばいいのだ。T氏は彼女に誘われる前に、T氏のほうからT氏の得意とすることで、彼女を誘ってしまおうと考えた。
 サイクリング。毎日自宅と職場を往復10㎞以上自転車で通勤しているのだ、いくら何でも僕のほうに分があるだろうとT氏は思った。
 早速彼女にメールを送った。
「今週末サイクリングどう? 土曜日。いつもの駅集合で」
 すぐに返ってきた。
「いいわよ、朝九時ね、寝坊しないでよ」
 僕は肝心なときには寝坊しないんだぞと思いながら、T氏は家を出た。
 職場には十一時過ぎに着いた。十二時まではすることがないと言われたので、T氏は時間潰しにひたすら妄想にふけることにした。
 登り坂で苦戦する彼女に、坂はこうやって登るんだよとアドバイスする自分の姿や、風よけとなりながら彼女をグイグイリードする自分に対して、尊敬の眼差しを向ける彼女の姿を妄想し始めたT氏は、終始ニヤニヤしていた。

「何だこの格好は……」
 T氏は開口一番こう呟いた。
「どう、似合ってるでしょ」
 白い自転車のフレームを跨いだまま、彼女は自信ありげに言った。
「まるで仮面ライダーみたいだな、ヘルメットまで被って……」
「ピンクの仮面ライダーなんて見たことないわ、いるのかもしれないけれど、私は知らない」
「仮面ライダーじゃないなら、なんたらレンジャーピンク、といったところか。んで何でこんなへんてこな格好してるの?」
「へんてこだなんて失礼ね、サイクルジャージっていうのよ。あなたが着ているジャージみたいにダボダボしてないでピシッとしてるでしょ、だから風の抵抗を受けにくいのよ」
「こないだからやけに抵抗にこだわるね、水の抵抗がどうとか。そんなに自分に抵抗してくる勢力が気に入らないのかい?」
「つべこべ言ってないで、あなたもこれ、被るのよ」
 T氏は原付用のヘルメットを渡された。
「こんなの被って自転車乗ってる人なんていないよぉ」
「これしかないんだからしょうがないでしょ」
「僕、被んないで行くよ」
「駄目、絶対に被って。転んで頭打ったりなんかしたら大変でしょ」
「そんな大げさな……」
「被ってって言ってるでしょ! 私は本格的でないと嫌なの!」
 T氏は渋々ヘルメットを被った。自転車、ジャージ、リュック、ヘルメット、全て黒であった。Tくんレンジャーオールブラック誕生の瞬間であった。
「で、どこに行こうか?」
「島に行くわよ、港に向かう道の途中に赤い橋があるでしょ、あの橋渡って行くの」
「え、峠超えなきゃなんないじゃん」
「そうよ、行きは大したことないから大丈夫、さあ、行くわよ」
 行ったら行ったっきり帰らないつもりかよと思いながら、T氏は彼女の後をついていった。
 二人は山々に挟まれた峠までの道を、緩やかに登りながら進んでいった。穏やかな秋風が、見頃を迎えた紅葉を上品に揺らす。若くして散った赤や黄の葉っぱたちは、二人のタイヤに踏みつけられても、うんともすんとも音を立てず、また、ある者は風に舞い、ある者は虫に喰われ、やがて散り散りになる運命に抗うことなくただ身をまかす。そういうさまを見て勝手にもののあはれを感じる人間たちは詩や小説を書き、やがて切羽詰まった一部の者がT氏のような主人公を生み出す。自転車のシャーという乾いた音が、何とも虚しい。
 彼女の身のこなしは非常に軽やかであった。この程度の坂では登っているうちに入らないわよ、といわんばかりに。T氏は出発前あれこれと妄想していたことが馬鹿らしくなった。よく見ると自転車も、T氏のよりもいくらか高そうであった。
 信号で止まる度に、彼女は左足首を外側に捻るようにして足をペダルから外し、右足はペダルの上にかけたまま、左足のみを地面に接地させた。それを見たT氏が彼女に尋ねた。
「シューズも自転車専用の物なのかい?」
「そうよ、足がペダルに固定されることで無駄なく効率良く走れるのよ」
「ふーん……」
 彼女は何から何まで本格的であった、T氏のほうから誘ったにもかかわらず……。もし誘ったのがドライブデートとかだったら、全身F1レーサーみたいな格好をした彼女の横で、僕は原付用のヘルメットを被って助手席に座っていたのだろうかと、T氏は思った。
 峠に差しかかり、そこから一気に下った。風を切り裂いていく感覚が、T氏には心地良かった。二人はどんどんスピードを上げていった。二人の行く手を阻むものは、もはや何もなかった、下っている間は。重力はやはり偉大である。
 下った先に、丁字路が現れた。坂を下り切った二人を待ち受けていたのは、陽の光に照らされた、青く澄み渡った海であった。
「海が綺麗ね」
「うん、ほんとに」
 二人は丁字路を右折し、海を左手に見ながら進んでいった。冬を前にして低くなりかけた陽射しが、スポットライトのように二人に向かって煌々と降り注いだ。
 彼女の結った黒い後ろ髪が光を集め、潮風に揺られながら再びそれを解き放つ。T氏は見惚れていた。あまりの美しさに、我を忘れていたT氏には、二人を次々と追い越していく車の音も、ほとんど聞こえていなかった。
 橋が近づいてきた。高い位置にある赤い橋は、陽の光を受けて、より鮮やかな赤を醸し出していた。まるで自らの美貌を惜しげもなく誇示する高飛車な女のように、T氏には感じられた。再び前を走る彼女に視線を戻す。何の工夫もなく無造作に一箇所で束ねられた後ろ髪がひらりと舞う。とりとめのない美しさが、T氏には愛おしかった。
 高台に架かる橋へ向かい、坂を登る。少しT氏は脚が疲れた感じがした。彼女は悠々と登っていった。
 大きく口を開いた橋が、二人を待ち構えていた。道路脇にある看板には、全長1000メートルと書かれていた。二人は橋の左端にある、自転車通行帯を渡り始めた。
 ついさっきまで走っていた海岸沿いの道路が左手に見えた。海には何艘かの船が浮かんでいた。高い橋の上から見下ろした世界は、T氏の目に映るありとあらゆるものが、まるで模型のように小さかった。T氏がイッツ・ア・スモール・ワールドの感慨に浸っている間も、彼女はペースを落とすことなく前をひた走る。置いていかれないようにT氏は、大海原でようやく宿主にありついた一匹のコバンザメのごとく、ピタリと彼女に追従した。
 橋を渡り終え、二人はついに島に到達した。
「疲れた、そろそろ休憩しない?」
 T氏が後方から彼女に呼びかけた。
「下って少し行った所に道の駅があるの、そこでお昼にしましょう」
 彼女の言う「少し」が、T氏にはずいぶん長く感じられた。とっくに通り過ぎたんじゃないのと思っていると、ようやくそれらしき施設がT氏の視界に入った。どうやら着いたようだ。
 建物の入口付近で売られている干した魚の匂いが、T氏の食欲を刺激した。
 建物に入るとすぐに、水槽の魚たちが二人を迎え入れた。三六〇°どこからでも見られる設計になっていて、魚たちがグルグル周っていた。この魚たちは自分たちが生きている世界が、こんなに小さな水槽の中だと認識しているのだろうかと、T氏は考え始めた。が、すぐに腹が鳴ったので、考えるのを止めた。とりあえず飯だ。
 T氏は、魚の観察に夢中になって水槽の周りをグルグルしている彼女を捕まえて、腹が減ったと訴えた。
 二人は入口から見て右奥にある、海の見えるレストランに入った。そして当然のように、海の見える窓際のテーブルに二人向かい合って座った。
 T氏はメニューを見て、僕は天丼にすると言いかけたが、卵のことを思い出したので止めた。危うく彼女に嫌われるところだった。空腹でも、咄嗟の判断力は残っていたようだ。
 結局、二人仲良くカレーを注文した。T氏はシーフードカレー、彼女は野菜カレーであった。いずれも、この島で採れた食材をふんだんに使っていると、メニュー表に書いてあった。
 彼女はT氏を見てクスクス笑い始めた。
「何がそんなに可笑しいんだい?」
 T氏は言った。
「あなたの髪型、毛先のほうだけクルンってなってて面白い」
 彼女は初めて遭遇した生き物を興味津々に見るような目で答えた。T氏の髪型は、ヘルメットを被り続けたせいで頭頂部から下って途中まではペシャンコなのに、毛先へ近づくにつれてうねり始め、所々逆立っていた。汗を大量にかいてやつれた顔とうねった髪が相まって、まるで干からびたカタツムリのようであった。
「君の髪はどんなときも真っすぐでいいね」
 T氏が柄にもないことを言った。
「何の特徴もなくてつまんないわよ」
 彼女は髪をかきあげながら答えた。
「自転車に乗っているときの君の後ろ髪、綺麗でずっと見惚れていたよ」
「あら、お世辞も上手になってきたわね」
 お世辞じゃないんだけどな、とT氏は心の中で呟いた。
 ウェイトレスがカレーを運んできた。彼女が「どうも」と言うと、ウェイトレスはニコッと微笑んだ。
 ここに到るまでの道中、散々海を見てきた二人であったが、海を見ながらの食事はやはり格別であった。プリッとした小エビやホロッと崩れる白身魚が、ルーの海の中で混じり合う。素揚げされたかぼちゃや人参が色鮮やかにそそり立ち、白いまっさらなご飯がさらにそれらを引き立てる。二人の間で、島で採れた各々の食材たちがごく自然に、ものの見事に調和していた。
「とても美味しい、見た目もきれいで」
 彼女が微笑みながら言った。
「うん、美味しい、空腹は最大の調味料とはよく言ったものだね」
 カタツムリが調和を乱した。
「失礼ね、空腹でなくたって美味しいわよ!」
 彼女が再び整えた。カタツムリは小さくなった。
 食事を終えると、二人は外に出た。汗を含んだT氏の衣服を通過した穏やかなはずの秋の風が、突如不快感を示したかのごとく、T氏の身体から体温を奪った。T氏が身を震わせている間に彼女は既にヘルメットを被り、自転車のフレームを跨いでいた。それを見てT氏もすぐさま、戦闘態勢を整えた。
 二人は再び走り出した。先程同様、彼女が前、T氏が後ろ、という隊列であった。「今度は僕が前を引っ張るよ」と宣言する男らしさは、T氏にはない。
 似たような景色が続いた。右側には海、左側には山があり、山麓には時折、古い民家や畑が見えた。
 少し向かい風が強くなってきた。遮る物がほとんどない海沿いの道で、二人はもろに風を受けた。彼女は上半身を前に倒すようにして、身体を折りたたんだ。T氏も真似した。
 途中、道が二手に別れていた。一つはこのまま海沿いを行く道、もう一つは内陸部へと向かう道であった。彼女は後者の道を選んだ。いくらか風はマシになるかなと、T氏は期待した。
 ほんの少し登ることになった代わりに、風の影響はだいぶ受けなくなった。ずっと昔からこの島に君臨する山の木々が、自らの身を挺して海風を受け止めてはその身をうねるように靡かせ、ざわめき合いながら、若い二人の行進を見守っていた。
 緩やかに登ったり下ったりを繰り返した後、商店街へ入った。古き良き時代の名残が感じられると言えば聞こえはいいが、風化して茶色く錆びたトタン屋根や消えかかった店の看板の文字は、時の流れの残酷さを如実に物語っていた。まだ昼過ぎだというのにだらしなく降ろされたシャッターは、夜になった途端威勢よく昇っていきそうな雰囲気は微塵もない。この島も人口流出の煽りを少なからず受けているようだ。仮にこの島に移住すれば、僕なんかでも貴重な若い労働力として重宝されるのだろうかとT氏は考えた。養鶏場さえあれば移住してやってもいいかな、とT氏は思った。
 商店街を過ぎてしばらく走ると、再び海にぶつかった。左に折れると、今度は右側に海を見た。海はいつ見ても海であった。
 追い風が長く続いた。平坦な道なのに、まるで下っているようにT氏には感じられた。朝の出発から既に五時間が経過していたが、T氏は未だ絶好調であった。
 橋を再び見たのは、午後三時過ぎであった。まだ日の沈む時刻ではないものの、雲が増えてきたせいで辺りは少しどんよりとしていた。
 疲労も相まって、帰りの橋がT氏には異様に長く感じられた。先程までの絶好調が嘘のように(追い風に押されていただけで実際嘘だったのかもしれない)、T氏の脚は急に重くなった。目の前では彼女の髪が激しく吹き荒れているが、見惚れている余裕はなかった。坦々と前を行く彼女に引き離されないようについていくので、T氏は精一杯であった。
 ようやく橋を渡り終えた。二人は小休止すべく、高台から下ってすぐの所にあるコンビニに寄った。
 T氏はまずトイレに向かった。用を足し終えトイレから出ると、雑誌コーナーの女性のグラビアの表紙を二秒ほど凝視し、生気を取り戻した。その後、おにぎりやコーラ、チョコレート菓子を手に取り、レジで購入した。
 店を出ると、三角錐の容器とレジ袋を片手に、彼女が枝豆を頬張っていた。こないだのプールの時の大豆バーといい、この女豆ばっか食ってんな、とT氏は思った。
 小雨がパラつき出した。
「帰り着くまでもってくれるといいけど……」
 空になった容器を手元でクルクル回しながら彼女が呟く。
「僕の体力が」
 チョコレートの小袋を破りながらT氏がとぼける。
「雨よ! 雨! あなたは最悪置いていけばいいけど、ずぶ濡れは勘弁」
「置いていくなんてひどいなぁ、僕らは二人で一つじゃないか、君がさっきまで食べていた枝豆のように」
「豆が三つ入ってる鞘はどうなのよ」
「三つ目とは何だ! 間男か! けしからん! そんな奴噛み砕いて粉々にしてしまえ!」
「さっき粉々にしておいたわよ」
 空がピカッと光った、と同時に、雷鳴が轟いた。
 ビクッとしたT氏は、粉々にし切れなかったチョコレートを喉に詰まらせた。咄嗟にコーラを流し込んだ。ますますむせた。
「天が間男なら、あなたは到底敵わないわね」
 笑いながら彼女は言った。
 雨脚が強くなってきた。
 彼女は手に持っている空の容器と殻入れにしたレジ袋をゴミ箱に捨てると、再び店の中へと入っていった。
 ついに大雨となった。こんな土砂降りの中どうやって帰るんだよ、とT氏が途方に暮れているうちに、彼女が店から出てきた。
「お店の人に聞いたら、ここから少し行った所に安く素泊まりできるホテルがあるらしいの、この大雨と雷では帰れないから、今日はそこに泊まりましょう」
 疲れ切っていたT氏は、彼女の提案に大いに賛成した。そして、はるか上空にいる間男に向かって心の中で、ありがとうございますと拝んだ。
 二人は夜食やら何やら宿泊に必要な物を購入すべく、再び店の中に入った。各々必要な物を購入すると、それら全てを、T氏のリュックの中に詰め込んで店を出た。自転車に乗ると、当初帰るはずだった向きとは反対の方角へと走り出した。
 上方に橋を見た。雨に濡らされた赤い橋は、妙な色気を醸し出していた。こんな冷たい風雨に晒されて、誰にも守ってもらえない私って、なんてかわいそうなのかしらと、見る者の同情を誘っているかのようであった。
 程なくしてホテルに着いた。自転車を停め、ずぶ濡れのままロビーへと入った。入るや否や受付へと向かった。
「部屋ありますか、素泊まりで、二人!」
 彼女が勢いよく言った。
「は、はい……一部屋空きがあります、一人三千円となりますがよろしいですか?」
 受付の女性が、彼女の勢いに若干引きながらも素早く答えた。
「はい、お願いします!」
「こちら部屋の鍵になります、二〇五号室です。右奥のエレベーターで二階に上がってください」
「ありがとうございます!」
 実に無駄のないやり取りであった。T氏が途中余計な一言を挟まなかったことも、無駄のなさに拍車をかけた……あぁ、この一文が無駄であった、残念……まぁ字数稼ぎだ。
 二階へと上がった二人は、身体を震わせながら部屋へとなだれ込んだ。
 彼女が先にシャワーを浴びた。身体を洗い流し、タオルで濡れた身体を拭き、コンビニで買った下着を身に着けた後、彼女は重要な問題に気がついた。着替えがない……。
 仕方がないので下着姿のまま、彼女はシャワールームから出た。T氏が驚いたのは言うまでもない。
 彼女と交代したT氏もシャワーを浴び、浴び終えると、下半身にバスタオルを巻いたまま出てきた。T氏は下着すら用意していなかった。
「…………」
「…………」
 二人はベッドに並んで腰かけたまま、一言も喋らない。実に気まずい……。
 彼女がおもむろにT氏のリュックをひったくった。T氏のほうを一瞥すると、部屋の奥にある窓際のテーブルを指差し、リュックを持ったままそこに移動した。
 T氏も立ち上がった。バスタオルが落ちないように慎重に歩くT氏に向かって、彼女は「コップ」と言い、テレビの左横辺りを指した。お盆の上に裏返しで置いてあった透明なコップ二つを右手で鷲掴みにし、バスタオルの結び目を左手で押さえながらT氏は、中途半端な所で一時停止で止められた盆踊りの踊り子がそのままブラウン管から出てきたような体勢のまま、蟹歩きで移動した。
 かろうじてテーブルの前まで辿り着いたT氏は、「取って!」と必死の形相で言った。
「どっちを?」
 彼女は上と下を交互に見ながらいたずらっぽく笑った。
「バス……コップに決まってるだろ!」
 T氏は眉間に皺を寄せた。
 彼女はピクピク震えるT氏の右手からコップを掴み、「取ったわよ」と言い、自分とT氏の前にそれぞれ置いた。
 安堵したT氏はそのままの体勢を維持したまま膝だけ曲げて、椅子に座った。もういいってのに。
 彼女はT氏のリュックから、コンビニで買った赤ワインのボトルを取り出すと、蓋についているビニールを破り、キャップを開け、二つのコップに注いだ。道理でリュックが重かった訳だ、とT氏は今更ながら納得した。
「あなたも飲むわよね」
「言う前にもう注いじゃってるじゃないか」
「固いこと言わないの」
 そう言うと彼女はグラスを持ち上げ、半分ほどグイッと飲んだ。
「ほら、何ボサっとしてるのよ」
 彼女に煽られたT氏も一口含んだ。初めて飲んだが、コンビニのワインって結構美味いんだなぁとT氏は目を丸くした。
 つまみが欲しくなったT氏は、リュックから自分が買ったコンビニの袋を取り出した。自称地域ナンバーワンと謳っている味噌味のカップラーメン、小腹が空いたとき用の菓子パン、明日の朝食のおにぎり……ワインのつまみになりそうなものは何一つとしてなかった。
「あなたろくなもの買ってないわね」
 彼女は呆れた。
「ワイン飲むってわかってたら違うもの買ってたっての」
 T氏は反論した。
「下着を買わなかったのもそういう理由なのね」
「も、もちろんそうだ」
「しょうがないわね、今回は私のを分けてあげる」
「君の下着を?」
「違うわよ!」
 彼女は自分が買ったつまみを取り出した、一口サイズのベーコンとビーフジャーキー。
 彼女が空いたグラスをT氏に向けた。
「早く」
「ん」
 なみなみ注いだ。
「人と向かい合って飲むのって久しぶり」
 言うと彼女はまた一口飲んだ。
「僕はほぼ初めてみたいなもんだよ」
 T氏がベーコンに手を伸ばす。
「あら、お酒は好きじゃなかったかしら?」
「飲み会が嫌いなんだ」
「それは悪かったわね」
「ごめん、訂正する。大人数の飲み会が嫌いなんだ」
「大人数でなきゃ問題ないのね」
「うん」
「ならあなたも飲みなさい」
 彼女はT氏のグラスに注いだ。
 チビチビ飲むT氏とは対照的に、彼女はまるで吸血鬼が生き血を吸うかのごとく、ハイペースでグラスを空にした。次第に彼女の頬が、くすんだりんごのように紅く染まっていく。すっかり酔いが回った彼女が俯くと、剥き出しの肩にかかった長い髪が、ほんの少しだけ顕わになった控えめな乳房に触れた。一瞬見入ったT氏であったが、彼女が顔を上げる前に目線を外し、何事もなかったかのようにビーフジャーキーに手を伸ばした。
 彼女が顔を上げて言った。
「ねぇ、私、酔っちゃったみたい」
「うん」
「ベッドまで連れてってよ」
 T氏は面食らった。頭をフル回転させた挙げ句
「そ、その前に、は、歯を磨いたほうがいいんじゃないかな……」
 と弱々しく言った。
「この意気地なし」
 そう言い放つと彼女はスッと立ち上がり、洗面台へと歩いていった。
 一人になったT氏は、ほんの少しだけ残ったワインをボトルに直接口をつけて一気に飲み干した。窓に打ちつける雨と遠くから聞こえる歯磨きの音に挟まれながら、T氏はテーブルの上の後始末をした。

 翌朝、二人はほぼ同時に目を覚ました。どちらからともなくベッドから身体を起こすと、前日に買ったコンビニ飯を食した。おにぎりとともに食された残り物のベーコンとビーフジャーキーは、本来主役であるはずの昆布や梅を、脇役へと追いやった。
 食べ終わると二人は、ハンガーにかけてあった生乾きのジャージに袖を通した。T氏が一言「帰ろうか」と言うと、「うん、そうね」と彼女が返した。何とも静かなやり取りであった。
 ロビーで精算を済ませ、外に出た。雨はすっかり上がっていた。二人は自転車に乗って出発した。
 橋の下を通過した。朝の爽やかな陽射しを浴びた赤い橋は、高飛車な女の姿に戻っていた。
 ひたすら海岸沿いを走った。景色を楽しむ余裕は、T氏にはなかった。昨日の疲れが抜けきっていなかった。
 海岸沿いを走破した後は、峠までひたすら登り坂であった。T氏の脚は、鉛のように重かった。登り始めてすぐ、彼女に離されていった。T氏は大声で「上で待ってて!」と叫んだ。彼女はチラっと後ろを振り返り、「えー、どうしようかな」と言い、いたずらっぽく笑った。
 踏んでも踏んでも一向に進まない。彼女の背中は徐々に小さくなり、ついには見えなくなった。T氏は心細く感じた。
 突如傾斜が大きくなった。斜度十パーセントを示す標識が目に入ると、「ふざけんな、軽減税率適用しろ!」とT氏は心の中で叫んだ。
 ふくらはぎが攣った。それでもなお、T氏はペダルを踏み続けた。一度自転車から降りてしまうと、再び走り出す気力は湧いてこないだろうとT氏は思った。
 ようやく頂上が見え始めた。だが、彼女の姿は一向に見えてこない。前日の「最悪あなたは置いていけばいい」という発言がT氏の頭をよぎった。まさか、本当に置いて行かれたのか? T氏は不安になった。すっかり冗談だと思っていたのに……。
 T氏はあれこれ考え始めた。昨日の夜がまずかったのか、いや、彼女はそれなりに楽しそうに飲んでいたではないか、でも起き抜けの彼女はあまり機嫌が良くなかった、やはり何か勢いで良からぬことを言ってしまったのか……。
 不安を拭い切れないまま、気がつけばT氏は坂の頂上にいた。そこからさらに五メートルほど下った先に、彼女がいた。
 T氏の姿を確認すると、彼女はニヤニヤしながら
「先に行ったかと思った?」
 とT氏に尋ねた。
「君のことだから、普通には待っていないと思っていたよ」
 T氏は答えた。涙目であった。
「何泣いてんのよ、弱虫ね」
 彼女は憐れむように言った。
「汗が目に入って痛いんだよ」
 T氏は強がった。
「ここから先は置いて行かないからちゃんとついてくるのよ。水分補給したら行くわよ」
 彼女は優しく言った。
 二人は再び走り始めた。
 坂を無事登り切った達成感と、彼女に置いてけぼりにされなかった安堵感に包まれたT氏の胸中は、ずいぶんと穏やかであった。彼女と離れたくない、このままずっと、彼女の後ろを走っていたい、そう思いながら純粋に、T氏は彼女の背中を追い続けた。
 出発地点の駅に着いたのは、正午過ぎであった。二日間に渡る長いサイクリングが、無事終了した。
「また連絡するわね」
 そう言うと彼女は、自分の帰路へと走り去っていった。T氏は彼女の姿が見えなくなるまで、ぼんやりと立ちすくんでいた。