彼女からT氏にメールがきた。
「プールに行きましょう、こないだの駅で待ってるから、十二時ね、水着と帽子忘れちゃダメよ」
T氏は思った、何を以て今日僕が何も用事がないと決めつけるんだろうと。まぁ実際ないのだが。
せっかくのデートの誘いだ、断る理由もない。T氏は「うん」とだけ打って返信した。
あんまり泳ぐの得意じゃないんだけどなぁ、とT氏は思った。何となく憂鬱な気分だったが、彼女の可愛い水着姿が拝めるのだということに考えが及ぶと、T氏はちょっとだけニヤっとした。
T氏は部屋の押入れを物色した。あった、奥のほうに、高校生の頃まで使っていた水泳バッグ。中を見ると、水着はある、帽子もある、ゴーグルは、ない。
水着を履いてみたところ、問題なく履けた。破れも見当たらない。泳いでいる最中に破れないという保証はないが、まぁ大丈夫だろうとT氏は判断した。
T氏は水着と帽子とタオルを詰めた水泳バッグをリュックの中に放り込み、着替えを済ませた後、十一時までゴロゴロしながら時間を潰した。髪がボサボサのままなのは、釣った魚に餌はやらぬというろくでもない思想によるものでは決してなく、水に入ればどうせ頭はペチャンコになるという合理的判断に基づくものであった。
いよいよ時間になり、T氏は「ヨイショ!」と気合いを入れて身体を起こすと、準備していたリュックを拾い上げて背負い、家を出た。そして自転車に跨り、待ち合わせの駅へ向かった。
十二時ほぼちょうどにT氏は到着した。彼女は先に着いており、栄養バーのようなものをかじりながら待っていた。
「お待たせ」
T氏は自転車を降りながら爽やかに言った。だが、彼女はT氏自慢の自転車については特段の感想も述べず
「あなたちゃんと家でご飯食べてきた?」
と言った。
「昼は食べてない。どこかで食事して、それからプールに行こうよ」
とT氏は提案した。が彼女はT氏の提案を断固拒否した。
「何言ってるのよ、プールはお昼時が一番空いているのよ、この時間逃したら子どもなんかがバーっと入ってきて、目一杯泳げないのよ」
そう言うと彼女は、T氏に栄養バーを一本差し出した。
「それ食べたら行くわよ」
T氏は渋々受け取ると、袋を破いてそれを口にした。大豆の匂いがした。腹の減っていたT氏は、当然その一本では満足できなかった。
T氏が食べ終えると、「じゃ行くわよ」と言いながら彼女は歩き始めた。T氏は自転車を押しながら彼女についていった。
二人は高架橋を潜り、駅の裏に出た。そこから五分も歩かないうちに目的地に到着した。
入ってすぐの受付で料金を払い終えるや否や、「時間ないんだからモタモタ着替えてないでさっさと出てきてよね」と彼女は言い残し、早足で更衣室へ向かった。
着替えると言っても、服脱いでパンツ履いて帽子被るだけだから、いくら何でも僕のほうが早いだろうと思ったT氏は、のんびりトイレで用を足した。着替えてシャワーを浴びてプールサイドへ出ると、もう彼女はいた。あらかじめ服の下に着込んでいたんじゃないかとT氏は勘ぐった。
彼女の姿を見たT氏はがっくりした。彼女の着ている水着が、全然可愛くないのである。デートに着てくる水着だから、ビキニだとかそういうのを期待していたのに、何だその、色気のない、真っ青なスポーティな水着は、オリンピックにでも出るのか君は、とT氏は不満に思った。
T氏がしどろもどろに思ったままを彼女に伝えると、彼女は「市民プールでそんな目立つ水着着られる訳ないでしょ」と一蹴した。
彼女の言っていた通り、その時間のプールは空いていた。いたのは、水中でウォーキングしている老夫婦一組と、プール監視員一人だけであった。
「目一杯泳げるわね」と彼女は嬉しそうに言いながら入水した。T氏もそれに続いた。
「まずはお手並み拝見といこうかしら。とりあえず一往復泳いでみて」
言われるがまま、T氏はプールの壁を蹴り出した。ぎこちないクロールだったが、向こう側の壁まではどうにかもった。だが折り返してすぐ身体が沈み始め、息継ぎが苦しくなってきたため、平泳ぎに切り替えた。これならどうにか浮いていられた。
T氏がやっとの思いで一往復泳ぎ切って、彼女のほうを見ると、彼女はゲラゲラ笑っていた。
「何だよ、ちゃんと最後まで泳ぎ切ったじゃないか」
T氏は不満げに言った。
「だって、ロボットみたいな動きのクロールが始まったと思ったら、急に動きが激しくなって、それに……ウヒヒヒヒー、平泳ぎで浮いてるときのあの間抜けな顔……」
「笑い過ぎだろ、普通に50メートル泳いだだけじゃないか」
「より正確に言うなら、25メートル泳いで、25メートル溺れた、といったところかしら。でも最後まで足をつかなかったのはえらいわね」
彼女はまだ笑っていた。
「けなしてんだか、褒めてんだか。そんなに言うくらいなら、君はたいそうきれいに泳げるんだろうね」
T氏が言うと彼女は
「わかったわ、見本を見せてあげるからちゃんと見てるのよ」
と言い、プールサイドを蹴り出した。素人のT氏ですらそう思うほど、無駄のないスムーズな泳ぎで、あっと言う間に50メートルを泳ぎ切ってしまった。さすが、デートでオリンピックみたいな水着を着るだけのことはあるな、とT氏は思った。
「どう、感想は?」
これくらいは当然よと言いたげな表情で、T氏に言った。
「確かにスムーズな泳ぎだったけれど、どうも面白みがないね。僕みたいに途中で暴れたり沈んだりといった、ひと工夫を交えるべきだね。君の泳ぎは、どこか公務員的な感じがしてつまらない」
T氏はT氏なりの素直な感想を述べた。
「確かにあなたのあのドラスティックな泳ぎは、真似しようと思ってもできるものじゃないわね。ちょうど、歌が上手な人が音痴な人の物真似を試みても、どうしても正しい音程で歌ってしまうみたいに」
彼女は言った。
「つまらない泳ぎ方だったけれど……」
とT氏が言った後、さらに続けて
「最後まで足をつかなかったのはえらいね」
とT氏が先程彼女に言われた言葉をそのまま返すと、彼女は少しだけ悔しそうな顔をした。このとき初めて、T氏は彼女に対して優位に立ったような気がして、ニヤっと笑った。
「あのね、プールでスムーズに、それこそあなたがつまらないと思うくらい無駄のない感じで泳げないと、波のある海では真っすぐに進めないのよ」
それを聞いたT氏は、この女は海に行ってもビキニなんか着ないんだろうなと思い、非常にがっかりした。
気の沈んでいるT氏の横で、彼女は壁を蹴りけのびをした。プールの半分ほどの地点で足をついた。
「あなたもやるのよ。身体をしっかり真っすぐにして伸びないと、ここまで来られないわよ」
T氏は仕方なく壁を蹴った。10メートルも進めなかった。
「うん、やっぱり駄目ね。身体も曲がってるし、下半身も沈んじゃってる。まずは浮くところからのようね」
彼女は言った後、再びT氏に指令を出した。
「次はけのびをした後、その伸びた状態をできるだけ長くキープするのよ。15秒くらいは粘ってほしいわね」
T氏は言われるがままけのびをした。
「15秒間のうちの半分は足が沈んでいたわね。次は足がなるべく沈まないように頑張るのよ。ポイントは、膝の裏やお尻を使うように意識すること」
お尻なんて、うんこするときと自転車に跨がるときくらいしか意識したことないよとT氏は思いながら、再びけのびをした。
「できるようになるまでやるわよ」
T氏は何度も何度もけのびをやらされた。次第に下半身はだいぶ浮くようになった。
「意外と飲み込みが早いわね、感心感心」
「基本的に早食いだからね、僕は」
「でもまだ身体が曲がっているわね、矯正してあげるから一旦陸に上がるわよ」
「それは強制かい?」
「面白くないから、それ」
梯子に掴まり陸に上がる途中、「若いもんはいいのう」という呟きを耳にしたT氏は「よかったら代わってあげますけれど」と心の中で呟いた。
「あなたにも次やってもらうから見てて」
彼女は、腕を真上に伸ばした状態で壁に背中をつけた。そして言った。
「手の甲、肩、背中、お尻、ふくらはぎ、かかとをしっかりと壁につける、この姿勢のままけのびをするの。このストリームラインができるようになると、水の抵抗が少なくなって長く進めるようになるのよ」
「ストリームだかストリップだか知らないけれど、僕には無理だよ。猫背だったり天パだったりで身体の曲がっている部分が多すぎるから、真っすぐになんてならないよ」
張り付けになった彼女に向かってT氏は言い返した。
「天パは関係ないでしょ」
「大いにある。髪型如何で絡みつく水の量に差が出る、多分」
「硬そうな髪質だからしっかり水を弾いてくれるわよ。はい、つべこべ言ってないでやる」
T氏は面倒くさそうに腕を真上に上げ、壁に背中をつけた、というよりも寄りかかった。
「はい、指先から足先までピーンと真っすぐに」
「はいはいはいはい」
「はいは二回まで」
「二回までならいいんだね」
「ほら、腰が反ってるわよ、下っ腹引っ込めて」
「お腹触んないでよ、くすぐったい」
「今度は背中が曲がってきたわよ」
「それは元からだから少しは大目に見てよ」
T氏が彼女と壁と張り合っている間に、少しずつ人が増えてきた。自分たちのやり取りをニヤニヤしながら見てくる子どもたちの姿がT氏の視界に入ったとき、彼女が人の少ない時間帯を狙った理由を、T氏はようやく理解した。
「はい、今日はここまで」
彼女が言った。二人が練習を始めてから、既に一時間が経過していた。
「普通こういうことやった後って、最後に今日のおさらい的なことをやるもんなんじゃないの、いや、やんないならやんないで別にいいんだけど」
T氏の素朴な疑問に、彼女はその日一番の笑顔で答えた。
「あら、やる気になってきたようね。いいのよ、続きはまた明日やるから」
「そうか、なら大丈……夫……って明日もやるの⁉」
「当たり前でしょ、明日も休みでしょ」
何が当たり前なんだよと思いながらもノーと言えなかったT氏は、明日休日出勤の連絡がこないかな、と僅かながら願った。
翌日、二人は前日と同じ時間帯に同じプールにいた。
ストリームラインを保った状態でけのびを十回ほどやった後は、ひたすらキックの練習であった。
T氏の気分は最悪であった。前日の反省を活かし、その日は家を出る前にしっかりと食事をとったT氏であったが、それが仇となった。T氏は悔恨の念に駆られていた、うどん三玉はさすがに茹で過ぎであったと。
「ほら、下半身が沈んできたわよ、しっかりお腹に力を入れる!」
T氏の状態など知る由もない彼女のコーチングは容赦ない。
今腹に力を入れたらうどんが逆流しそうだ、これが本当の力うどん……なんて余計なことを考えていたら、T氏の気分はさらに悪くなった。
とにかく今は無心になるんだと、T氏は心の中で唱え続けた、無心になって、坦々とキックを打ち続けるんだ、そう、坦々と……担々麺……ウェェー……。
顔を歪めながら、T氏は必死にビート板にしがみついた、今頼れるのは君しかいないんだといわんばかりに。
だか残念なことに、ビート板もT氏の味方ではなかった。T氏がしがみついていた白いビート板が、次第に白いまな板に見え始め、昼前に切った大量のねぎがT氏の頭の中を支配した。もはや我慢の限界であったT氏は、泳ぐのを中断した。
「ちょっと一回上がる」
「あら、もう疲れたの?」
「まな板……ビート板の色が気に入らない」
「誰がまな板よ!」
陸に上がるとT氏は、プールサイドの壁際に設置されている金属製のラックに立てかけてあるビート板を物色し始めた。
「赤は紅しょうがだし、黄はおろししょうが、後残るは青か……ブルーチーズ……食べたことないから大丈夫だろう、今の僕のブルーな気持ちにもフィットしそうだ、うん、これにしよう」
前日と同じ時間まで泳ぎ続けるとしたら、後三十分はある。気分が悪いながらも、最低限T氏はその時間まで泳ぎ切るつもりであった。付き合い始めた初期の段階で、張り合いのない奴だと思われるのは何としても避けたかったからである。幸いにも、一度プールから上がったことで、T氏の気分は少しはマシになったようだ。
青のビート板を抱えたT氏は、再びプールへと戻った。
「あら、私と同じ色のにしたの」
彼女は少し嬉しそうに言った。
「うん、ちょっと気分を変えたかった」
T氏はつくり笑いで答えた。
「時間ないからそろそろ再開するわよ」
再開してからは、T氏の気分はそれほど悪くなることはなかった。ただ一度、下半身が沈み始めたとき彼女に脚と腹をぐいっと持ち上げられたため、T氏は一瞬ヒヤリとした。それ以降T氏は、一切彼女に触れられまいと、何としても下半身を沈めないよう尽力した。そのことが結果的に、T氏のキック上達に寄与したのであった。
人が徐々に増えてきたので、二人はプールから上がることにした。前日よりも少し早い時間だったので、T氏は「助かった」と心の底から思った。
帰り際彼女は、T氏の上達が早いことを嬉しそうに何度も褒めた。褒められていい気になったことで、この二日間何のためにこんなに一生懸命水泳の練習をさせられていたのかという疑問は、T氏の頭の中から完全に消え去ってしまった。また時々練習に誘うわねと彼女が言うと、T氏は笑顔でイエスと答えた。次からは消化のことを考えて、コシのないうどんを二玉までにしようと、反省も忘れないT氏であった。
「プールに行きましょう、こないだの駅で待ってるから、十二時ね、水着と帽子忘れちゃダメよ」
T氏は思った、何を以て今日僕が何も用事がないと決めつけるんだろうと。まぁ実際ないのだが。
せっかくのデートの誘いだ、断る理由もない。T氏は「うん」とだけ打って返信した。
あんまり泳ぐの得意じゃないんだけどなぁ、とT氏は思った。何となく憂鬱な気分だったが、彼女の可愛い水着姿が拝めるのだということに考えが及ぶと、T氏はちょっとだけニヤっとした。
T氏は部屋の押入れを物色した。あった、奥のほうに、高校生の頃まで使っていた水泳バッグ。中を見ると、水着はある、帽子もある、ゴーグルは、ない。
水着を履いてみたところ、問題なく履けた。破れも見当たらない。泳いでいる最中に破れないという保証はないが、まぁ大丈夫だろうとT氏は判断した。
T氏は水着と帽子とタオルを詰めた水泳バッグをリュックの中に放り込み、着替えを済ませた後、十一時までゴロゴロしながら時間を潰した。髪がボサボサのままなのは、釣った魚に餌はやらぬというろくでもない思想によるものでは決してなく、水に入ればどうせ頭はペチャンコになるという合理的判断に基づくものであった。
いよいよ時間になり、T氏は「ヨイショ!」と気合いを入れて身体を起こすと、準備していたリュックを拾い上げて背負い、家を出た。そして自転車に跨り、待ち合わせの駅へ向かった。
十二時ほぼちょうどにT氏は到着した。彼女は先に着いており、栄養バーのようなものをかじりながら待っていた。
「お待たせ」
T氏は自転車を降りながら爽やかに言った。だが、彼女はT氏自慢の自転車については特段の感想も述べず
「あなたちゃんと家でご飯食べてきた?」
と言った。
「昼は食べてない。どこかで食事して、それからプールに行こうよ」
とT氏は提案した。が彼女はT氏の提案を断固拒否した。
「何言ってるのよ、プールはお昼時が一番空いているのよ、この時間逃したら子どもなんかがバーっと入ってきて、目一杯泳げないのよ」
そう言うと彼女は、T氏に栄養バーを一本差し出した。
「それ食べたら行くわよ」
T氏は渋々受け取ると、袋を破いてそれを口にした。大豆の匂いがした。腹の減っていたT氏は、当然その一本では満足できなかった。
T氏が食べ終えると、「じゃ行くわよ」と言いながら彼女は歩き始めた。T氏は自転車を押しながら彼女についていった。
二人は高架橋を潜り、駅の裏に出た。そこから五分も歩かないうちに目的地に到着した。
入ってすぐの受付で料金を払い終えるや否や、「時間ないんだからモタモタ着替えてないでさっさと出てきてよね」と彼女は言い残し、早足で更衣室へ向かった。
着替えると言っても、服脱いでパンツ履いて帽子被るだけだから、いくら何でも僕のほうが早いだろうと思ったT氏は、のんびりトイレで用を足した。着替えてシャワーを浴びてプールサイドへ出ると、もう彼女はいた。あらかじめ服の下に着込んでいたんじゃないかとT氏は勘ぐった。
彼女の姿を見たT氏はがっくりした。彼女の着ている水着が、全然可愛くないのである。デートに着てくる水着だから、ビキニだとかそういうのを期待していたのに、何だその、色気のない、真っ青なスポーティな水着は、オリンピックにでも出るのか君は、とT氏は不満に思った。
T氏がしどろもどろに思ったままを彼女に伝えると、彼女は「市民プールでそんな目立つ水着着られる訳ないでしょ」と一蹴した。
彼女の言っていた通り、その時間のプールは空いていた。いたのは、水中でウォーキングしている老夫婦一組と、プール監視員一人だけであった。
「目一杯泳げるわね」と彼女は嬉しそうに言いながら入水した。T氏もそれに続いた。
「まずはお手並み拝見といこうかしら。とりあえず一往復泳いでみて」
言われるがまま、T氏はプールの壁を蹴り出した。ぎこちないクロールだったが、向こう側の壁まではどうにかもった。だが折り返してすぐ身体が沈み始め、息継ぎが苦しくなってきたため、平泳ぎに切り替えた。これならどうにか浮いていられた。
T氏がやっとの思いで一往復泳ぎ切って、彼女のほうを見ると、彼女はゲラゲラ笑っていた。
「何だよ、ちゃんと最後まで泳ぎ切ったじゃないか」
T氏は不満げに言った。
「だって、ロボットみたいな動きのクロールが始まったと思ったら、急に動きが激しくなって、それに……ウヒヒヒヒー、平泳ぎで浮いてるときのあの間抜けな顔……」
「笑い過ぎだろ、普通に50メートル泳いだだけじゃないか」
「より正確に言うなら、25メートル泳いで、25メートル溺れた、といったところかしら。でも最後まで足をつかなかったのはえらいわね」
彼女はまだ笑っていた。
「けなしてんだか、褒めてんだか。そんなに言うくらいなら、君はたいそうきれいに泳げるんだろうね」
T氏が言うと彼女は
「わかったわ、見本を見せてあげるからちゃんと見てるのよ」
と言い、プールサイドを蹴り出した。素人のT氏ですらそう思うほど、無駄のないスムーズな泳ぎで、あっと言う間に50メートルを泳ぎ切ってしまった。さすが、デートでオリンピックみたいな水着を着るだけのことはあるな、とT氏は思った。
「どう、感想は?」
これくらいは当然よと言いたげな表情で、T氏に言った。
「確かにスムーズな泳ぎだったけれど、どうも面白みがないね。僕みたいに途中で暴れたり沈んだりといった、ひと工夫を交えるべきだね。君の泳ぎは、どこか公務員的な感じがしてつまらない」
T氏はT氏なりの素直な感想を述べた。
「確かにあなたのあのドラスティックな泳ぎは、真似しようと思ってもできるものじゃないわね。ちょうど、歌が上手な人が音痴な人の物真似を試みても、どうしても正しい音程で歌ってしまうみたいに」
彼女は言った。
「つまらない泳ぎ方だったけれど……」
とT氏が言った後、さらに続けて
「最後まで足をつかなかったのはえらいね」
とT氏が先程彼女に言われた言葉をそのまま返すと、彼女は少しだけ悔しそうな顔をした。このとき初めて、T氏は彼女に対して優位に立ったような気がして、ニヤっと笑った。
「あのね、プールでスムーズに、それこそあなたがつまらないと思うくらい無駄のない感じで泳げないと、波のある海では真っすぐに進めないのよ」
それを聞いたT氏は、この女は海に行ってもビキニなんか着ないんだろうなと思い、非常にがっかりした。
気の沈んでいるT氏の横で、彼女は壁を蹴りけのびをした。プールの半分ほどの地点で足をついた。
「あなたもやるのよ。身体をしっかり真っすぐにして伸びないと、ここまで来られないわよ」
T氏は仕方なく壁を蹴った。10メートルも進めなかった。
「うん、やっぱり駄目ね。身体も曲がってるし、下半身も沈んじゃってる。まずは浮くところからのようね」
彼女は言った後、再びT氏に指令を出した。
「次はけのびをした後、その伸びた状態をできるだけ長くキープするのよ。15秒くらいは粘ってほしいわね」
T氏は言われるがままけのびをした。
「15秒間のうちの半分は足が沈んでいたわね。次は足がなるべく沈まないように頑張るのよ。ポイントは、膝の裏やお尻を使うように意識すること」
お尻なんて、うんこするときと自転車に跨がるときくらいしか意識したことないよとT氏は思いながら、再びけのびをした。
「できるようになるまでやるわよ」
T氏は何度も何度もけのびをやらされた。次第に下半身はだいぶ浮くようになった。
「意外と飲み込みが早いわね、感心感心」
「基本的に早食いだからね、僕は」
「でもまだ身体が曲がっているわね、矯正してあげるから一旦陸に上がるわよ」
「それは強制かい?」
「面白くないから、それ」
梯子に掴まり陸に上がる途中、「若いもんはいいのう」という呟きを耳にしたT氏は「よかったら代わってあげますけれど」と心の中で呟いた。
「あなたにも次やってもらうから見てて」
彼女は、腕を真上に伸ばした状態で壁に背中をつけた。そして言った。
「手の甲、肩、背中、お尻、ふくらはぎ、かかとをしっかりと壁につける、この姿勢のままけのびをするの。このストリームラインができるようになると、水の抵抗が少なくなって長く進めるようになるのよ」
「ストリームだかストリップだか知らないけれど、僕には無理だよ。猫背だったり天パだったりで身体の曲がっている部分が多すぎるから、真っすぐになんてならないよ」
張り付けになった彼女に向かってT氏は言い返した。
「天パは関係ないでしょ」
「大いにある。髪型如何で絡みつく水の量に差が出る、多分」
「硬そうな髪質だからしっかり水を弾いてくれるわよ。はい、つべこべ言ってないでやる」
T氏は面倒くさそうに腕を真上に上げ、壁に背中をつけた、というよりも寄りかかった。
「はい、指先から足先までピーンと真っすぐに」
「はいはいはいはい」
「はいは二回まで」
「二回までならいいんだね」
「ほら、腰が反ってるわよ、下っ腹引っ込めて」
「お腹触んないでよ、くすぐったい」
「今度は背中が曲がってきたわよ」
「それは元からだから少しは大目に見てよ」
T氏が彼女と壁と張り合っている間に、少しずつ人が増えてきた。自分たちのやり取りをニヤニヤしながら見てくる子どもたちの姿がT氏の視界に入ったとき、彼女が人の少ない時間帯を狙った理由を、T氏はようやく理解した。
「はい、今日はここまで」
彼女が言った。二人が練習を始めてから、既に一時間が経過していた。
「普通こういうことやった後って、最後に今日のおさらい的なことをやるもんなんじゃないの、いや、やんないならやんないで別にいいんだけど」
T氏の素朴な疑問に、彼女はその日一番の笑顔で答えた。
「あら、やる気になってきたようね。いいのよ、続きはまた明日やるから」
「そうか、なら大丈……夫……って明日もやるの⁉」
「当たり前でしょ、明日も休みでしょ」
何が当たり前なんだよと思いながらもノーと言えなかったT氏は、明日休日出勤の連絡がこないかな、と僅かながら願った。
翌日、二人は前日と同じ時間帯に同じプールにいた。
ストリームラインを保った状態でけのびを十回ほどやった後は、ひたすらキックの練習であった。
T氏の気分は最悪であった。前日の反省を活かし、その日は家を出る前にしっかりと食事をとったT氏であったが、それが仇となった。T氏は悔恨の念に駆られていた、うどん三玉はさすがに茹で過ぎであったと。
「ほら、下半身が沈んできたわよ、しっかりお腹に力を入れる!」
T氏の状態など知る由もない彼女のコーチングは容赦ない。
今腹に力を入れたらうどんが逆流しそうだ、これが本当の力うどん……なんて余計なことを考えていたら、T氏の気分はさらに悪くなった。
とにかく今は無心になるんだと、T氏は心の中で唱え続けた、無心になって、坦々とキックを打ち続けるんだ、そう、坦々と……担々麺……ウェェー……。
顔を歪めながら、T氏は必死にビート板にしがみついた、今頼れるのは君しかいないんだといわんばかりに。
だか残念なことに、ビート板もT氏の味方ではなかった。T氏がしがみついていた白いビート板が、次第に白いまな板に見え始め、昼前に切った大量のねぎがT氏の頭の中を支配した。もはや我慢の限界であったT氏は、泳ぐのを中断した。
「ちょっと一回上がる」
「あら、もう疲れたの?」
「まな板……ビート板の色が気に入らない」
「誰がまな板よ!」
陸に上がるとT氏は、プールサイドの壁際に設置されている金属製のラックに立てかけてあるビート板を物色し始めた。
「赤は紅しょうがだし、黄はおろししょうが、後残るは青か……ブルーチーズ……食べたことないから大丈夫だろう、今の僕のブルーな気持ちにもフィットしそうだ、うん、これにしよう」
前日と同じ時間まで泳ぎ続けるとしたら、後三十分はある。気分が悪いながらも、最低限T氏はその時間まで泳ぎ切るつもりであった。付き合い始めた初期の段階で、張り合いのない奴だと思われるのは何としても避けたかったからである。幸いにも、一度プールから上がったことで、T氏の気分は少しはマシになったようだ。
青のビート板を抱えたT氏は、再びプールへと戻った。
「あら、私と同じ色のにしたの」
彼女は少し嬉しそうに言った。
「うん、ちょっと気分を変えたかった」
T氏はつくり笑いで答えた。
「時間ないからそろそろ再開するわよ」
再開してからは、T氏の気分はそれほど悪くなることはなかった。ただ一度、下半身が沈み始めたとき彼女に脚と腹をぐいっと持ち上げられたため、T氏は一瞬ヒヤリとした。それ以降T氏は、一切彼女に触れられまいと、何としても下半身を沈めないよう尽力した。そのことが結果的に、T氏のキック上達に寄与したのであった。
人が徐々に増えてきたので、二人はプールから上がることにした。前日よりも少し早い時間だったので、T氏は「助かった」と心の底から思った。
帰り際彼女は、T氏の上達が早いことを嬉しそうに何度も褒めた。褒められていい気になったことで、この二日間何のためにこんなに一生懸命水泳の練習をさせられていたのかという疑問は、T氏の頭の中から完全に消え去ってしまった。また時々練習に誘うわねと彼女が言うと、T氏は笑顔でイエスと答えた。次からは消化のことを考えて、コシのないうどんを二玉までにしようと、反省も忘れないT氏であった。